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古典は、頭を鍛え、社会を学ぶ、最強の格闘場だ『闘うための哲学書』

闘うための哲学書 手に汗握る、言葉による殴り合い。

 哲学書をダシに、理想主義と現実主義が、足を留めて殴りあう。丁々発止が凄まじく、知的興奮は否が応でも漲ってくる。哲学とは対話を通じて考え抜く、動的な行為である。静的な書物とは、薪であり、燃料であり、知的な土俵なのである。なかでも古典は、時代のフィルターを経て結晶化されている。現代の価値観から裁定するのではなく、現代の問題に引き付けて、どこまで説明原理が可能かを模索することにより、古典は、最高の爆薬になる。

 ブックガイドとしても優秀だ。二人の現役哲学者が、プラトンから和辻哲郎まで、22人22冊の哲学書を引用し、「いま」「ここ」の問題に実践的に適用する。非常に面白いのは、理想主義の小川仁志と、現実主義の萱野稔人とで読みが異なってくるところ。アクチュアルに読む、とはどういうことか、実例をもって示してくれる。

 たとえば、カント『永遠平和のために』を俎上に乗せ、「平和のための戦争」の是非を闘わせる。世界国家では、マイナー言語では意思決定プロセスに参加できないとする主張と、公用語で解決すればいいとする反論、それは主権国家を単位とした国際関係が前提だから成り立つ議論でありフレームが違うとする再反論。そして、世界国家を樹立するために強制力を執行するのは、平和を謳って平和を踏みにじる、どこぞの派遣国家(誤字ではない)の話にまで飛び火する。

 そこに至るまで、ホッブズ『リヴァイアサン』で国家による暴力の独占が解説され、ロックとルソーで死刑を肯定するロジックが語られてきたため、「国家というのは内戦の停止状態なんだ」という言葉にハッとさせられる。返す刀で追い詰め、捻じ伏せ、撫で斬り裂く。容赦なし。対面対話だからネットのように書き逃げられぬ。丁寧な会話で、血しぶき飛んでるのが分かる。

 そして、政治においては、目的より手段への感受性を重視する現実主義側に軍配を上げたくなる。警察など物理的な強制力で決定を貫徹するのは国家だけであり、手段に対する感受性がなければ、善意の名のもとに地獄への道が舗装されてしまう。「目的さえよければ手段は何でも許されるというところが理想主義のいちばんの問題点です」というトドメは、読んでて気の毒になってくるほど。

 さらに、アーレント『イェルサレムのアイヒマン』では、矛先が日本人そのものに向いてくるからヒヤヒヤする。ナチス政権でユダヤ人虐殺の実務を担っていたのは、悪魔の権化ではなく、凡庸な官吏にすぎないことを、「陳腐な悪」と喝破したことを紹介する。そして、「世の中にはすごく悪い奴がいて、そいつが悪いことをしたと思いたい人々」から苦情が殺到したエピソードを引いて、これは日本にも当てはまるという。

 つまりこうだ。先の戦争において、暴走した軍部に国民は巻き込まれただけだ、という論法を攻める。日本が国際連盟を脱退したとき、真珠湾攻撃をしたとき、熱烈に支持したのは国民だった。にもかかわらず、自分たちは犠牲者なんだという自己免罪を追及する。悪の凡庸さは、悪の普遍性につながる。

 これは、序盤で紹介されるアリストテレス『ニコマコス倫理学』の「人間はポリス的動物である」と対照的だ。そこでは、ポリスの中でしか「善く生きる」ことは可能でない以上、何が「善」なのかということまで政治共同体が決めていいことになる。「善」はポリスごとに違ってくる可能性は、善の特殊性につながる。だからこそ、小川の指摘「民主制のない中で善というものが決められるとしたら、それは非常に危険なんじゃないかなと感じるのです」が警告のように感じられる。「正義」と「善」は、多数決で決まる。ここに、「常識」も入れたいが、フーコーを読んでから。

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最高の入門書を一冊で『そうだったのか現代思想』

 きっかけは、このツイートに遡る。

 メンヘラに限らないし、2000年は盛りすぎだ。だが言ってることは合っている。ええトシこいたオッサンなのに、中学生からの悩み「私とは誰か(何か)?」がまだ悩み終わっていないのは、圧倒的に足りないから。存在論と認識論から始まって、認知科学や科学哲学、数学から仏教まで、道草が愉しすぎて終わる気がしない。わたしの時間が終わるまで、知りたいことを知り尽くしたい。

そうだったのか現代思想 その手引きとなる一冊がこれだ。網羅性はないし単純化バイアスが掛かっているが、現代思想のエッセンスを凝縮し、ひたすら噛み砕くのが良い。要所要所で出てくる概念図がこれまた分かりやすく、院生や教師のタネ本というのは本当だろう。正確・公平を期するなら、[Wikipedia:現代思想]だが、楽に楽しく読みたいなら本書を推す(社会人向け講義がもとなので、話し言葉ですいすい飲める)。今までバラバラに読みかじり・聞きかじってきた概念が、つながりを持って理解することができる。

 現代思想の水源をニーチェに求め、ヨーロッパが持っていた自信の喪失から始まった運動だと定義する。「哲学=真理」というちゃぶ台を破壊したニーチェから、構造を発見したレヴィ=ストロース、デリダの脱構築、知と主体を変換したフーコーまで、絶対的な知の破壊から、相対主義を超えたところまで、一気に駆け抜ける。

 古代・近代哲学を乗り越えるための現代思想という姿勢だから、ソクラテスやデカルト、ヘーゲルへの後方射撃がどんどん出てくる。自分で乗り越えた悩みもあれば、いま格闘している命題のアンチョコも見つかる。[「疑う自分は疑えない」というプログラムだったら?]程度なら簡単にできるデカルト批判だが、その言葉を規定する社会(文化)も包んで相対化する思考は、未だに乗り越えられぬ。言葉の外には出られないもの。

 いたく興味を惹いたのが、科学哲学にも触れてくるここ。

近代科学というのは複雑な考えかただと思っていらっしゃる方もいるかもしれませんが、じつは単純な考えかたなんです。よぶんなことをいっさい度外視してかんがえる。19世紀というのは、近代科学でわかることだけが正しいとかんがえられてきたんです。でもじつは、近代科学でわかるというのは、あらかじめわかりにくいものを度外視して、近代科学のやりかたで、わかるものだけをわかるとかんがえたやりかたなんですね。

 世界をなるべくシンプルな式で示そうという試みは、いま最終コーナーを曲がっている。部分に分けて考えるやり方は限界で、部分の和は全体にならない(ゆらぎやパラメーター過多で計測できない)。世界はそんなに簡単ではなく、シンプルな式に還元できる対象だけをピックアップして、理解、分解、再構築してきた営みにすぎないのではないか……と考える。分かるものだけを分ける、これが今までの「科学」の本質なのじゃないかと。

 そして、安くて速いコンピュータの利用により、分けられないもの、シンプルに還元できないものを丸ごと扱えるようになったのがここ数十年になる。統計をバリバリ使う複雑系からのアプローチが、部分の和が全体になると信じる「科学」を侵食している―――そんな構造が見えてくる。

 何をもって善とするかを分析すると、それぞれの時代・地域の倫理が見えるように、何をもって知とするか構造化できるなら、それぞれの時代・世界の科学(人文科学と自然科学)が分かるのではと考える。例えば、時代ごとに数学の概念を定義づけるなら、その時代ごとにどこまで抽象的に考えられたかを可視化できる。さらに、数学を使って考え付くことの全てを可視化できるなら、そこには、人が思考できる限界が現れる―――これは現在進行中の悩みなのだが、本書に道しるべがあった。

 すなわち、フーコーがやったことだという。ある時代の学問というものは、その時代全体の知の構造の中で発想している。ルネサンス、古典主義、近代のそれぞれで「知の規則」があり、どんな学問(=世界のとらえかた)も、この規則の中で出てきたと述べる。フーコーは、この規則のことを、時代全体の総合知という意味で「エピステーメ」と呼んだといい、『言葉と物』を読めと誘ってくる。これで、死ぬまでに読むべき本がまた追加された。

 もちろん、ネットで読んだフリはできる。Wikipediaには、知りたいことがまとめてある。だが、わたしは知りたいだけじゃない、分かりたいのだ。分かるための、よい道しるべとして。知ってるフリもできるけど、その先を分かりたい人のブックガイドとしても優秀な一冊。

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無知ほど完全な幸福はない『続・百年の愚行』

 『百年の愚行』は、人類が20世紀に犯してきた愚行を、100枚の写真で見える化したもの。奇形化した魚、エイズの子、鮮やかなガス室、貧困の究極形、人類が成してきた悪行とツケ100年分は、絶句するほかない。

百年の愚行続・百年の愚行

 その続編が出た。これは、人類の狂気を見える化したもの。まだ21世紀のはじめなのに、911と311に挟まれてはみ出てきた、おぞましい恥部が写っている。戦争、弾圧、差別、暴力、貧困、環境破壊と核という切り口で、映像として残る人間の愚かさを、思う存分飲み下し、腹下せ(精神的な下痢になる)。どんなに言葉を尽くしても、圧倒的な狂気の前に、声を失うだろう。

 最初の『百年の愚行』と比較すると、センセーショナルなどぎつさが、抑え気味になっている。新疆ウイグル自治区での弾圧は、もっと血みどろor火まみれな映像があるが、煽らないよう避けられている。代わりに、「シンジャンのパレスチナ化」という寄稿で、当局の迫害は「飲鴆止渇(毒酒を飲んで渇きをいやす)」であり、近い将来に支払われる代償が高くつくことを警告する。

 同様に、ルワンダの虐殺、北アフリカ移民船の海難事故も、ずばり死体、これぞ破壊された死体といった映像を見たことがあるが、やはり注意深く配慮されている。代わりに、(本書を読むと想定される)マジョリティには、被害者の心情なんて理解できるはずがなく、逆に、加害者の心理の方が想像できるなどと、挑発的に煽りたてる。たしかに、こんな蛮行は、見るものを「善意の第三者」にさせてはくれない。怒りの持って行き場も失うだろう。

 本書で炙り出されるのは、徹底した他者への想像力の欠如だ。自らの記憶の破壊も含めてもいい。相手に名前があり、家族がいて、人生があることを知らない/想像できないから、平気で殺すことができる。空間的に離れた場所や、時間的に遠い未来の世代を想像できないから、平然と奪うことができる。自らが殺し、奪い、焼いていることを“知らない”ままでいられるのは、幸福だ。だが本書は、強制的に見せつける。直視をためらう瞬間も、目を背けたくなる場面も、記憶から暴きたて、思い出させてくれる。この狂気が、よく見えるように。

 愚行の世紀は、まだまだ続く。人類は忘れっぽい。近い将来かならず出会う、不都合な真実の原因は、ここに写っている。そのとき、これを思い出せ。一度目は悲劇、二度目は喜劇、そして三度目は終劇とならないように。

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文の芸とはこういうもの『悪の引用句辞典』

悪の引用句辞典 名言で時事問題を斬ったエッセイ。

 タイトルからビアスを想起したが、寸言より引用量があり、ブックガイドの亜種として楽しめる。著者・鹿島茂のブンガク薀蓄が聞けると思いきや、むしろ(意図的に)離れ、社会批評したい対象から作品・警句を逆引きしたかのような選び方をしているのが凄い。

 しかも、引き出しの多さ、ストックの量がすばらしい。このテにありがちな種本は(ほとんど)使ってないはず。有名な本の有名でない引用は、本人が自分の裁量で切り出した証左になる。そして、有名な引用を意外な時事ネタにつなげる想像力は、創造力といっていい。筋金入りの書痴だからできる芸や。

 たとえば、ポール・モラン『シャネル 人生を語る』。なぜモードの革命家という人生を選んだのか?という問いに対し、ココ・シャネルの答えを持ってくる。

自分の好きなものをつくるためではなかった。何よりもまず、自分が嫌なものを流行おくれにするためだった。わたしは自分の才能を爆弾に使ったのだ。わたしには本質的な批評家精神があり、批評眼がある。「わたしには確かな嫌悪感がある」とジュール・ルナールが言っていたあれね。
(太字化はわたし)

 これを、大学の独立行政法人化に絡める。若者という「顧客」の好みに迎合するマーケットとしての大学に異を唱える。若者という「おこちゃま」の好きなものばかりを提供していったら、大量のオタクや腐女子を生み出すだけで、学生も大学も不幸になるだけだからだという。「最近の若者は~」臭が鼻につくけれど、言ってることの半分は頷ける。

 つまり、「好きなもの」は不安定だが、「嫌いなもの」を軸にした選択は確かだという。イメージに左右されがちな「好き」よりも、フィジカルな反応をもとにした「嫌い」の方が安定している。そして、結婚相手を選ぶときは、好きなものが一致する人よりも、嫌いなものが一致する人を選べと勧める。こと結婚については、わたしの経験から言っても同意する。

 文化や世相をシニカルに眺め、エスプリたっぷりのコメントは文の芸そのものだが、こと話題が政治・経済になると鋭くも深くもない床屋談義になる。なぜなら、ネット論説やtweetを読むように、エビデンスやロジックを検証しようとすると、皆無だからだ。

 たとえば、クラウゼヴィッツ『戦争論』を日本の政局にあてはまて、代議士の劣化が起こっていると断ずる。失言で大臣がコロコロ変わるのは、将たる資質のないものが将となっているからだという。この欠陥は構造的であり、小選挙区制の採用と派閥の消滅が原因だという。小選挙区制により、勝ち組の政党であれば、お粗末な候補でも当選できるようになり、派閥の消滅により、指導者の育成ができなくなったと分析する。

 たしかに、小選挙区制が衆院選で採用されているのと、派閥が「グループ化」したのは事実だが、裏付けるためには、小選挙区制になる1996年以前や比例代表で選ばれた議員と比較せねばならぬ。「昔は失言でコロコロ変わらなかった」「比例代表の議員は資質あり」というのであれば頷けるが、そんなに優秀でしたかしら。

 ところどころ主語が大きくなるのと、微笑ましいツッコミどころが散見されるが、ロジックもエビデンスもないのに、どんどん読ませる芸は素晴らしい。さらに、地雷のように埋め込まれた箴言も見習うべき。サミュエル・ジョンソンの「愛国心とは悪党の最後の隠れ蓑」はいつでもどこでも使える寸鉄だし、「善は変数だが、悪は常数」という名句は、twitterで見た「常識と正義は多数決で決まる」を思い出す。

 微笑みながら、ツッコミながら、そしてときには唸りながら、文の芸を楽しめる一冊。

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人と文のインタフェース『文体の科学』

文体の科学 言葉のスタイルに思考を読み取る。記されたものを、人と文のインタフェースとしての「文体」と捉えなおし、聖書からtwitterまで、さまざまな「文体」を吟味する、面白い試み。

 目の付け所がシャープなのは、文体を「配置」だと言い切っているところ。文字や語、かたまりとしての文章が、媒体にどのようなスタイルで配置されているかを、まるごと掴まえてみる。普通、文体論といえば漱石の文体というような文学寄りの話になるが、ここでは「対話」「科学」「法律」など、意識して領域を越えている。さらには、媒体の物質的な側面からも考察する。本であれiPhoneであれ、文はかならず何らかの媒体を通じて入ってくる。つまり、文が象られるインタフェースもひっくるめた文体論なのだ。

 そのため、なじみの本から面白い考察が出てくる。手垢がつくほど料理されてきた『吾輩は猫である』を、「距離」で捉えなおす。つまりこうだ、新潮文庫の9ポイント活字で『猫』を読むと、358,020文字になり、これを一列に並べると、1.131kmに至る。本というパッケージは片手で掴めるが、『猫』を最初から最後まで読み尽くすとき、物理的にこれだけの距離を「移動」したことになる。読書は精神の旅だというが、物理的にも同じ喩えが当てはまりそうだ。

 そして、身体に引きつけて文を眺めることで、新たな気づきをもたらしてくれる。「科学」の事例として、植物図鑑の説明文を引き、人の立場から書かれていることを示す。たとえば「逆毛」とは、植物の生長方向に向かって逆方向に生えるから「逆毛」という。これが成り立つのは、地面に対して垂直上の方向に立っている存在から見た場合になる。そこには重力があり、それに抗う意識がある前提が隠されているというのだ。わざわざ断ってはいないものの、人という種が見たモノであるという暗黙裏がある。科学の文章は、主観を交えずに記す客観性が重要視されているが、そこには主観ならぬ種観があるという。

 ここから面白い分け方ができる。論文や小説や条文という分類ではなく、書き手や特定の人物の主観を「隠す」文体と「隠さない」文体だ。前者は、非人称のモノローグから客観や不偏を装ったものになり、論文や一部の小説・詩歌があてはまる。後者は小説一般と対話文になる。この観点から客観を装ったイデオローグの芸文と言える新聞記事を斬ると、愉しい分析ができるだろう。文体の詭弁性を知るのにもってこいの教材だが、そこまでの深堀りは本書でしていない。

 そう、斬り口がユニークなので、俎上に載せる文体がもっと欲しくなる。たとえば、最も数多くの人々の心を動かした文がある。ベストセラーでも聖書でもない。読んだ者の感情を揺さぶり、怒りや哀しみ、ともすると感動を与えた、Windowsのエラーメッセージについて考えると面白いだろう(昔の人なら、「コマンドまたはファイル名が違います」だね)。

 あるいは、同じ出来事を99通りの文体で描き分けたレーモン・クノー『文体練習』を挙げるなら、「爆発音がした」まとめ[村上春樹ジェネレーター]で言語遊戯したい。プログラミング言語の文体について触れるのなら、難読化について分析して欲しかった。コードの目的を隠蔽するため、故意にコードやロジックを難解に曖昧にする変換技術は、「文体は人のためのものか?」という興味深い問題を示している。さらには、「手紙」や「注釈」といったテーマで斬っても遊べるだろう。

 もう一つ。タイトルから、形態素解析して文の特徴を数値化した小論かと勝手に想像したが、そんな考察は無い。もとの連載時の題名『文体百般』のほうがしっくりくる。次回があるなら、正座して期待する。

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妻の『The Last of Us』の解釈が秀逸すぎる

 この記事では盛大にネタバレしてるのでご注意を。

 未プレイの方には、断言する、ハードごと買う価値がある。ここでは、わたしがプレイしている横で見ていた妻の観点が、あまりにも目鱗だったのでまとめた。

 基本、わたしする人、妻みてる人。敵の動線を予測したり、見落としたアイテムを指摘するのが彼女の役目。アクションが好きなわたしと、ギミックやパズルが好きな彼女との役割分担だ。完全に没入して号泣しているわたしと対照的に、冷静に観る彼女からは沢山の気づきと驚きをくれた。「 Bill と Joel でビリー・ジョエル、歌手になりたかったんでしょ」なんて小ネタを教えてくれたのも妻だ。

 そんな妻が、ラストのあの意味深なシーン(エリーの"okey")を観て、こう言った。「タイトルには、二重の意味が隠されているね」

 つまりこうだ。『The Last of Us』は、二つの解釈の仕方がある。一つは、死地をくぐり抜けてきたパートナーとしての「わたしたちの終わり」という意味。「抗体を持った人が沢山見つかった」というジョエルの嘘を見破ったエリーが、二人の絆の終わりを自覚したというのだ。死んだ娘に重ねようとしはじめたジョエルと、かけがえのないパートナーとして見ていたエリーの、「ラスト」。「二人の、決別としての"The Last"と読み取れる。もうジョエルを信頼できない、と悟ったから」だという。

 もう一つは、「人類の終わりとしてのわたしたち」という意味。エリーがジョエルに「誓って」と告げるシーンの直前、こっそり腕の傷を見つめていたことを指摘する。そして、「あの傷痕は、大きくなっている」というのだ。そもそも、抗体を持った人からワクチンを作るために、何も殺す必要はないはず。生体の一部───たとえば血液を採取すればいいはずなのに、彼女の中から「何か」を取り出そうとしていた。

 その「何か」とは、(血液抗体ではなく)一種の寄生菌だとマーリーンは告げる。普通の人が感染すると、数時間で急激に拡大し、脳を乗っ取られてしまう(『寄生獣』のように)。そしてランナーやクリッカーになると、もう同化してしまって取り出すことができなくなる。しかしエリーの場合は、そのスピードが非常にゆっくりしているため、未同化の状態で取り出し、特効薬を作ることができる。もちろん、そのためにはエリーの命を奪うことになるが。ファイアフライたちがあれほど急いだのも、エリーが凶暴化するのではなく、エリーの中のものが同化して役に立たなくなるのを恐れたため。抗体は期限つきであり、それが尽きる"The Last"が、エリーがエリーでいられる時間だという。

 こう考えると、サムとヘンリーのエピソードが効いてくる。サムの「奴らって、意識はあるのかな?」の台詞だ。記憶はまだ残っているのに、そうしたくないのに、肉親や友人を襲ってしまうのではないか?そう考えるサムに、ヘンリーは「魂は天国に行っているのだから」と慰める。そして翌朝、“奴ら”になったサムがエリーを襲う。彼女を助けようとすると、「俺の弟だぞ!」とヘンリーは叫んで───SUMMER編のクライマックスだ。ヘンリーは撃てたが、その撃鉄は、あまりにも重すぎた。そういえば、ビルがこう言ってた「この世の中は、大切なものをもってる奴から死んでいくんだ」。ジョエルが生きのびてきたのは、「大切なもの」を既に喪っていたからだと言える。

 だが、もし、エリーがそうなったら、撃てるか?そして、もし撃ったなら、ジョエルはヘンリーと同じ運命をたどるのか?エリーが噛まれたとき、一緒に噛まれた親友が言ったことも重なってくる。「待ってればいいじゃない? どうせ、最後はみんなおかしくなっちゃうんだからって。あたしはまだ待ってるの」。そして、待っている時間の尽きるときこそが、二人の旅の終わりになる。

 これは、ファイアフライの大義と、変態ロリコン野郎の双方にも効いてくる。人を殺して、ワクチンを得る人と、人を殺して、食肉を得る人と、変わりはしない。どちらも、こういった。「これしか、ほかに方法がない」と。むしろ、変態ロリコン野郎の方が直裁的だ。「殺すから、生きられる。俺は、正直なだけだ。お前も、正直になれよ」と。両者が人類のなれの果てなのであれば、どちらにも与せず、お互いを大切な存在として最期を迎える、"The Last"となる。人類なんか、クソ喰らえってね───というのが、妻の解釈。

 え、あの水力発電所は?弟のトミーは?と驚いて彼女に問う。「もちろん、全滅してる。でなければ、エリーが発症して全滅させる(もちろんジョエルは撃てない)。これだけ溜めてきたのだから、エリーのソウルジェムは、きっと真ッ黒のはず」

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