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人生が捗るトルストイ『戦争と平和』

 忘れっぽいので書いておく。わたしは死ぬし、あなたも死ぬ。なぜなら生きてるから。わたしの命は時である。時は、微分すると今になり、積分すると人生になるから

 では、この死ぬまでの時は、何のためにあるのか? それは、幸せになるため。人生は、それを使って幸せになるためにある。小説の最高傑作として掲げられるトルストイ『戦争と平和』には、この究極のライフハック「幸せになる方法」が書いてある。

 いきなり答えを書く。「なぜ生きるのか」に衝き動かされ、自分探しに翻弄された主人公ピエールがたどり着いた結論だ。たえず探し求めていた「人生の目的」から解き放たれ、自分が完全に自由であることに気づく場面で、エピローグの直前にある。

ことばではなく、理屈ではなく、直接の感覚で、もうずっと前にばあやから聞かされていたことを悟ったのだ。それは、神さまはほらこれですよ、ここですよ、どこにでもいますよ、ということだった。

 これは、キリスト教の大文字で書く「神」に限らず、"ものごとをそうあらしめているもの"として捉えても成り立つ。個人から人類、世界の隅々に至るまで、因果の外から「いま」と「ここ」をそうさせている存在―――万物理論から神に至るまで―――を悟り、一体になること。限りなく自由でいながら、完全に自分に従っていること。人を、何かの評価により判断するのではなく、そのままに接して善きものを見出すこと。そして、信仰や思想、家庭など、自分の愛するものを守り慈しみ一体となること。これが答えだ。

 ただし、これだけでは伝わらない。「神は遍在する」なんて切り取った言葉では伝わらないのと一緒。読者は彼と一緒に莫大な遺産を譲り受け、乱痴気狂宴三昧に耽りし、情欲に呑まれ愛のない結婚をし、博愛に目覚め秘密結社に没頭し、激戦区を生き残り、ナポレオン暗殺を試み、幾多の苦難と出会いと別れを経た後で、ここにたどりつく。そのとき、ピエールと同じ感覚で噛み締めることができる。

 この答えを「いかに生きるか」で実行したのが、もう一人の主人公アンドレイ。優秀で、名誉欲が強く、軍人としてロシアの危機を救うことでナポレオンに成り代わろうとするのだが、そこは人生、波も山もある。彼のぶつかる壁と挫折、そしてそこからの這い上がりは、「いかに生きるか」とは、それがどのような状況であれ、選び取ることができることを伝えてくれる。これは、大きな失敗と大切な人の死により、人生に幻滅した状況で自問するシーンからの引用。アンドレイも、人生を変えるような出会いにより、幸福になる方法に気づく。

幸福になるためには、幸福の可能性を信じなければならない、とピエールが言ったのは、正しかったんだ。そして、おれは今それを信じている。死者を葬るのは、死者に任せておこう。生きているあいだは、生きて、幸福にならなければならない

 そして、アンドレイと出会うことで、「生きることそのもの」を実践したのが、ナターシャだ。明るく自由で天真爛漫な美少女に、波乱万丈の運命が襲いかかる。そして、生きることは苦悩であり喜びであり愛であることを、まさにその身をもって示してくれる。トルストイが全身全霊を込めて作り上げた理想のヒロインとして紹介されているが、「これが女の生きる道」とばかりに大化けし、運命に開き直る態度が清清しい。清純ビッチとは彼女のこと、大嫌いで大好きだ。

 総登場人物が500人を超えるといわれているが、メインキャラクターはこの三名。ピエール、アンドレイ、ナターシャだけ押さえればよろしい。ただし、他をただの脇役とみると嬉しい悲鳴を上げるだろう。トルストイ凄ぇ! と驚くのは、準主役から脇役から端役まで、ことごとく生々しく書き分けているところ。純朴から邪悪まで、ちょっとした科白や動作で「そんな奴いるいる」と思わせてくれる。

 さらに、脇役たちは全員、この「なぜ生きるのか」「いかに生きるのか」について無頓着なところが面白い。金持ちでも貧乏人でも、庶民でも美人でも、それぞれがそれぞれの初期パラメータの中で、生きることに汲々とする。求める“幸せ”に相当するものが名誉だろうと財産だろうと、人生は選べること、世界(の認識の仕方)は選べることに気づかない。そこへ戦争の災厄が津波のようにのしかかり、直接間接関係なく、それぞれの人生を、世界を一変してしまう。日常は破壊され、すぐそこに死がある。それでも生きねばならない。主役脇役関係なく、人は変化する。だが、人生を変えようとしないものは、人生によって変えられてしまう。このコントラストが、主役/脇役で鮮やかすぎる。

 たとえば、ナターシャの兄のニコライ。決して人生を変えようとはしない彼の軌跡はとても対照的だ。彼の人生との折り合いの付け方は、一つの理想と見てもいい。あるいは、ピエールと結婚する絶世の美女エレンが、この上もなくゲスくていい。(すべては仄めかしに描かれるが)ミステリ的に視るならば、この艶女、宮廷便所として近親相姦や堕胎を繰り返し、倫理や善悪を超越したところで、やはり「人生によって変えられた」運命を辿るように読める。激変する環境に適応するべく、自分を変えてしまう。そうした人々の一方で、生きる目的を突き詰めたピエールとアンドレイは、いかようにも生きようとする。時空を超えてニーチェの言葉「なぜ生きるか知っている者は、どのように生きることにも耐える」が脳内再生される。

 非常に興味深いのは、男の下劣さはまるで生き様のように性格の一属性として書くくせに、女の下劣さは恥ずべき罪のようにあばきたてるところ。『アンナ・カレーニナ』や『クロイツェル・ソナタ』にも共通するのだが、これほどまでに、女を愚かしく美しく表すのは、何か恨みでもあるの? と問いたくなる。「女というものはいくら研究を続けても、常に完全に新しい存在である」と告白しているが、何歳でここに到達できたか知りたいところ。

 岩波文庫で全六巻という大長編、面白さは無類かつ至上。3回乗り過ごし、2晩徹夜し、1回会社を休むほどの、夢中小説であり徹夜小説でありスゴ本なり。深読み・裏読みを誘う伏線が張られていたり、限りなくスプラッタ&ホラーな瞬間もある。先を知りたくなさに、次ページをめくるのをためらう時もあった。誰だよ、崇高なブンガクに奉っているのは。これには、小説を読むあらゆる喜びと興奮が、たっぷり詰まっている。カメラワークは演劇を意識しているのか、遠景(舞台装置)→近景(人物描写)→アクション/会話のフォーマットを守りつつ、必要に応じて接写、内面描写へとどんどん潜り込んでくる。キレイで可愛らしい所作の裏側に、エグくて下劣な心情が潜んでいることを、情け容赦なく描きたてる。

 戦争シーンは苛烈だ。躍動と混乱がせめぎあい、テンションが極限まで引き絞られた直後、砲弾が直撃し人が肉塊になる様を、突き放したような冷静さで描く。淡々と記される、飛び散る血潮や流れる内臓に、思わずページから目を反らす。暴力装置としての戦争は、人知の埒外で進行する。モスクワ繚乱の最中、煽られた群衆の狂暴さが、ひとりの男に集中する瞬間、本を置いて逃げ出したくなる。やり始めたことをやりとげようとする群衆は、どこまでも残虐になれる。そう、命令されれば、名分があれば、人は、どこまでも人でなくなることができる。

 物語構造の妙も楽しめる。ニコライ一家総出でオオカミ狩りに行くシーンがあるのだが、その一連のエピソードの後に、今度はニコライが出征し、フランス兵を“狩り”だす戦闘シーンを重ねる。どちらもニコライは狩人としてふるまうのだが、その獲物となるオオカミ/フランス兵の運命が対照的だ。あるいは、宮廷内の陰謀戦が精妙で正確で効果的であるほど、それらが足を引っ張る戦場での混乱や行き違いやあからさまな命令違反が対比される。人は、愚かなことを、この上もなく真面目に実行する存在だが、戦争はこれを拡大してみせる。

 そう、人類は幸せになるため、平和を求めて戦争をする。隣人愛を大切にする数百万のキリスト教徒が、なぜこれほどまで苛烈に、真剣に、互いに殺し合ったのか? 本書のあちこちでトルストイは顔を出し、物語を外れて歴史談義を始める。いわゆる歴史学者が言う、ナポレオンがどうしたとか、民意がそうだったといった後付けの思弁を、ことごとくこじつけだと斬り捨てる。これが本書を冗長にしているという人もいるが、飛ばしてしまうと、なぜこんな大長編を書いたのか読み落としてしまう。

 トルストイは、人類の運動としての歴史を、そこに生きる人々の自由意思の総和であると見なす。誰も戦争など望んではいない。にもかかわらず、人類の幸福、自由のためという正当化で、互いに殺しあうことになるのは、自由意思を必然に変えているものがあるというのだ。昔の人は神や運命と呼んでいたものを、歴史学は権力者や思想、勅令や啓蒙書で説明しようと試みても、この矛盾「人類は平和を求めて戦争をする」を解決できない。仮に説明できるとするならば、その時代の人々の一人一人の内側に立ち、どのような意思がどうやって相互作用を及ぼし、周囲の状況から制限された情報の微細に至るまで徹底的に裏付けをする必要がある(バタフライ効果を想定したコメントもある)。いわば、神の如き全知を必要とする≒人ではあずかり知らぬ運命がある、と言えるのだ。

 トルストイはこれをやった。『戦争と平和』の作者として、神として遠景(舞台装置)→近景(人物描写)→アクション/会話のフォーマットを踏襲しつつ、接写、内面描写へと徹底的に裏付ける。「ナポレオンがモスクワ入りした」と書くのではなく、その日に彼が見たもの、聞いたもの、感じたことを紙上に再現する。同様に、「ナポレオンは冬将軍に負けた」と書くのではなく、放棄された大都市で掠奪と殺人を繰返す将兵の一人一人の行動を追跡することで、放棄された金目の物を追って、兵卒たちがモスクワに呑み込まれ・解体されてゆく経緯を明らかにする。

 もちろん全ては無理だ。限られた紙数というリソースで、人類の運動を再現しようというのだ。読み手は、「その時」「その場」を全知として立ち会うことで、数の上で優るロシア軍が敗退することになる瞬間を理解し、迫り来る冬に浮き足立ち、ナポレオン軍が自身を獲物だと自覚した恐怖を感じとる。そうした意思の総和の上に戦闘行為があり、戦争が遂行されている。この著作は、ある年代のある地域の人類の総和を再現させる試みなのだ。

 トルストイは、「『戦争と平和』という本について数言」という小論の中で、「これは長編小説ではない」と断言する。ましてや叙事詩でも、歴史的な編年記でもない述べる。散文芸術作品の既成概念を外れた、「著者が表現しようと思い、現に表現されている形式で、表現することのできたものにほかならない」という。今の言葉で代弁するなら、『戦争と平和』とは「人はなぜ平和を求めて戦争をするのか」に答えるシミュレーターなのだ。

 この饒舌を冗漫だと斬るのは勿体ない。ピエールが視た細部に宿る神を見逃すことは、緻密かつ繚乱に紡がれる数々の人生“群”を捨ててしまうことになるから(そのなかにきっと、わたしの人生があり、あなたの人生がある)。『アンナ・カレーニナ』が結婚が捗らせる傑作なら、『戦争と平和』は人生を捗らせる傑作なり。

 絵にも描けないおもしろさ、たっぷりと、ご堪能あれ。

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コメント

長編小説に相応しく長文解説有り難うございます。「戦争と平和」というタイトルに期待するのは「戦争はどのようにして造られるのか?」という私の内なる問に対する答えが、或いはヒントがありそうな気がしたからですがどうやらそうした期待には応えてくれそうには無いことが分かりました。しかし、そうは言っても「人は何故生きるか」という問にも関心がありますので、そうした切り口では一層興味が増したと言えます。何れにしても大変参考になる文章でした。感謝申し上げます。

投稿: 金野奉晴(こんのともはる) | 2018.05.07 16:53

>>金野奉晴(こんのともはる)さん

コメントありがとうございます。
「人はなぜ生きるか」へのトルストイとしての応答は、『アンナ・カレーニナ』に出てくるもう一人の主人公リョーヴィンの生き様に現れていると思います。

「アンナ・カレーニナ」読むと結婚が捗るぞ
https://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2012/07/post-f40b.html

投稿: Dain | 2018.05.10 21:50

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