死ぬのはなんでもない。恐ろしいのは、生きていないということだ『レ・ミゼラブル』
![]() | ![]() | ![]() |
![]() | ![]() |
世界で一番短い手紙は、作品の売れ行きを心配した作家が送った「?」と、出版社の返事「!」だという。その作品が『レ・ミゼラブル』なのは、エスプリが効いてる。膨大な紙数を費やした大長編の評判が、ただの一文字で伝わってくるから。
ちくま文庫で全5巻、確かに長い。長いだけでなく、スタイルも手を変え品を替えてくる。随筆や論説、脚本のような体裁や詩や歌にまで様々だ。淡々とした書き口だったのが、ときに抒情的に翻り、さらに叙事詩的になり、なんでもやりたいことやってやれという熱情に満ち満ちている。
この情熱が、伝染する。ヴィクトール・ユゴーの輻射熱が、ヒリヒリするほど伝わってきて、一種はずみのようなものをつけて、一気に、滑空するように読める。子どものころ『ああ無情』でストーリーは知っていたものの、これほど作家自身が饒舌な作品とは知らなかった。ジャン・ヴァルジャンとコゼットの軸で物語は貫かれているものの、その背景や歴史を作家自らが語るパートが長大なのだ。
でも大丈夫。どこかの長期連載のように、薄めすぎて中身のなくなった“人気作品”ではなく、物語パートは特濃だから。つまり、これは大きく二つに分けられると思えばいい。一つは、登場人物を突き飛ばすがごとく話が転がる物語の章、そしてもう一つは、語り手が腰を落ち着けて風景や背景を延々とおしゃべりするエッセイの章である。
物語のパートの面白さは保証する。スリリングで、ドラマティックで、ハラハラドキドキで、ページをめくる手ももどかしく思えるだろう。魅力的なキャラクターに好きなだけ感情移入すればいい。サブキャラの方がハマれる。片想いを遂げられなかったら、せめて死地を一緒にしようと画策するツンデレ・エポニーヌや、極貧の浮浪児・ガヴローシュの最期に涙する。世界で一番面白い小説『モンテ・クリスト伯』と比較されるのも頷ける。
そして、ユゴーのおしゃべりが始まったら「解説」だと思って付き合えばいい。丸々一巻使ってナポレオンの戦跡をめぐる旅行記まで盛り込んで、フランス礼讃を綿々と語り続けるので、面倒だったら飛ばしても可(読んだから言える、本編にほとんど絡まない)。物語パートは、いわゆるドラマの「いいところ」で終わっている。そのため、この後どうなるんだーと悶々としながらユゴーの冗漫にうんざりするよりも、あっさりバッサリするほうが吉。ただし、キャラの間に糊のように立ち回る悪漢・テナルディエ(こいつ好き)がさり気なく混ぜ込んであるので、彼の名前が出てくるところを拾っておくことをお薦めする。
登場人物は、ことごとく葛藤を抱えている。良心か正義か、恋か親か、金か命か、革命か生活か、突撃か自死か―――キャラクターの性格や運命までもが、「あれかこれか」に集約されており、非常に分かりやすい。過去の罪を購おうとしながら、それが現在の破滅を招くことを恐れるジャン・ヴァルジャン。純な恋に堕ちた先が妊娠であり出産であり生活苦であり借金苦に陥るフォンチーヌ。法の番人としての役割を果たすのならば、恩人を牢獄に送り込むことになるジャヴェール。分裂する自己に苦悩する姿が生々しく、ともすると滑稽なくらいだ。
なぜなら、「あれかこれか」の二択しかないから。なぜ「待つ」ことができないのか。独り抱え込むのではなく、どうして「相談」することができないのか。そもそも、"not to be"(やらない)という第三の選択肢がなぜ見えないのか。ロマン主義に彩られ人間賛歌を謳いあげた本作の中に、どうしようもないほど凝り固まったユゴーの人間不信を読み取ることができる。
その象徴的な例はバリケードへの突撃だろう。1832年6月5日、パリ蜂起で打ち立てられたバリケードに、官軍は何度も突撃を繰り返す。市街戦で補給線を断っているのだから、一日包囲するだけで衰弱し、二日囲むだけで壊滅するだろう。しかし、現場の指揮官の判断で、若い命どうしが幾度もぶつかりあい、至近距離で撃ち合い、血が河のように流れる。蜂起側の弾薬が尽きるのを誘っているくらいだから、食糧が尽きることになぜ気づかないのか。描写が陰惨であればあるほど、その愚かしさが際立ち、苛立ってくる。
登場人物のことごとくが、このジレンマに押し潰される。そして無謀で発作的な自己犠牲の下に、魂を燃やし尽くす。それはドラマチックであるにはあるが、作られた悲惨である。あれかこれか、さもなくば死か。人生はそんなに単純なものか。物語として受け入れられるために図った運命のカリカチュアライズは、「たたかう」「ぼうぎょ」の他に「にげる」コマンドを知っている人にとっては苛々しいものになる。
心を入れ替え、更生したジャン・ヴァルジャンは、その後ずっと聖人が如く振舞っていたかというと、そうではない。精神的危機に襲われるたびに、鉄の意志で自分を押さえ込み、「正しい人」であろうとする姿を何度も見ることになる。頑ななまでに「にげる」を拒絶する。その方が楽であり丸く収まることも分かっていながらだ。彼の独白を垣間見せてくれるため、性根は変わっていないことが分かる。それでも自分を鍛えなおし、そこから立ち上がっていく姿に撃たれる。解説にこうある。
ひとは誰しも、正しい人"である"のではなく、正しい人"たろう"とする限りにおいて、ただそのときにのみ、そうした存在に"なる"ことができるにすぎない
「正しさ」とは性質ではなく、状態なのだ。「生きる」も一緒。彼にとっては、「正しい人」でない限り、生きていないにも等しいのだろう。「死ぬのはなんでもない。恐ろしいのは、生きていないということだ」はジャン・ヴァルジャンの今際の言葉であり、『レ・ミゼラブル』の本質を言い当てている。彼の不幸とこのドラマは、「正しさ」がただ一つしかないと信じてしまったことにあるのだ。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
最近のコメント