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鬼のアンソロジー『鬼譚』

鬼譚

 夢枕獏が選んだ、「鬼」の作品集。

 今昔物語集から手塚治虫まで、鬼にまつわる傑作をジャンルオーバーで蒐集している。読前読後で、「鬼」に対する観念が、広がり膨らみ覆る。地獄で活躍するモンスターとしての鬼のイメージよりも、むしろ普通人の中にひっそりとたたずんでおり、何かの拍子で具現化し、その人を飲み込んでしまう感情や運命として考えると面白い。人は、"魔が差す"のではなく、"鬼に成る"のだ。

 たとえば、人を喰らう鬼婆伝説をSFに仕立てた手塚治虫『安達ヶ原』が良い。安達ヶ原の物語は有名だが、これをロケットと人工冬眠の未来世界に適用し、さらにもうひと捻りする展開はさすが。鬼の中に人を見て、自分の中に鬼を見る思いがする。

 倉橋由美子『夕顔』は、源氏物語を踏まえているものの、現代ミステリとも上質の怪談とも読めてしまう。痴情のもつれが女を鬼にすることは、どの時代も一緒なのかもしれぬ。だが、白い花弁を人の顔に見立て、夕闇に浮かび上がる白い顔を想起させるイメージは怖いぞ。

 イチオシは、筒井康隆『死にかた』。ひたすら・とことん・エログロ・ナンセンス。そしてこれは、筒井の最高傑作である(筒井短編で一つだけ選べと言われたら、迷わずコレを推す)。あらすじなんてあって無いようなもの。ふっとオフィスに入ってきた鬼がもたらす、徹底的な撲殺・圧殺・殴殺・轢殺。屠人の描写が微に入り細を穿つ名文で、音読すると一層愉しめる仕掛けになっている。

 『鬼の誕生』は、鬼というキーワードで日本史を横断した評論。もとは幽霊を意味した中国産の「鬼」に対し、「おに」という言葉とイメージが与えられるのに、ずいぶん紆余曲折があったという。今昔物語では「鬼」を「もの」と読んでおり、明瞭な形を伴わない、原始的な不安や畏怖感を表していた。今でこそ「もののけ」や「ものすごい」に使われている「もの」は、遡ると鬼のイメージを担っていたんだね。

 一番怖かったのは、やはり山岸涼子『夜叉御前』。[決してひとりでは読まないでください『わたしの人形は良い人形』]は、夜オシッコにいけなくなる怖さだったが、『夜叉御前』はひたすら後味の悪い、"思い出し怖がり"ができる厭話。人によるとトラウマンガ(トラウマになる漫画)になるのでご注意を。人の内に、鬼は確かに棲んでいることがよく分かる。

 収録作は以下の通り。人の中に鬼を視て、自分の内の鬼に気づくアンソロジー。

  • 『赤いろうそくと人魚』小川未明
  • 『安達ヶ原』手塚治虫
  • 『夜叉御前』山岸涼子
  • 『吉備津の釜』上田秋成
  • 『僧の死にて後、舌残りて山に在りて法花を誦すること 第三十一』今昔物語集
  • 『鬼、油瓶の形と現じて人を殺すこと 第十九』今昔物語集
  • 『近江国安義橋なる鬼、人を喰ふこと 第十三』今昔物語集
  • 『日蔵上人吉野山にて鬼にあふこと』宇治拾遺物語
  • 『鬼の誕生』馬場あき子
  • 『魔境・京都』小松和彦・内藤正敏
  • 『檜垣 闇法師』夢枕獏
  • 『死にかた』筒井康隆
  • 『夕顔』倉橋由美子
  • 『鬼の歌よみ』田辺聖子

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バカは死ななきゃ治らない『「ニセ医学」に騙されないために』

 パラシュートジョークを知っているだろうか。

弊社のパラシュートは安全保障つきです。故障したパラシュートをご送付いただければ、無償で新品とお取替えいたします。ですが、今まで一度たりとも苦情をいただいておりません

「ニセ医学」に騙されないために 自然放置療法とか、ナントカが効くとか聞くたび、このジョークを思い出す。気の迷いをなくす鰯のアタマなら可愛いが、それに命を託してしまうほど愚かになってはいけない。わたしの理性や論理の"正しさ"は、気分や体調で簡単に覆る。大病をして精神的にも参ったとき、どれくらい愚かになれるか。予防として読む。

 病気になり、気が滅入っているとき、病気の理由を周囲にぶつけたくなる。矛先が家族や医者に向くとき、医学以外にすがりたくなる。病院の治療だけで大丈夫か、他にできることはないか、藁を探してインターネットを掘削する。患者の不安につけこんで、食い物にするのは「ニセ医学」だ。

 ニセ医学とは、医学のフリをしたデマのこと。「がんの特効薬」「白い食物はNG」「日本人は薬漬け」「医者は自分に抗がん剤を使わない」など、巷に蔓延るニセ医学を、徹底的に追求する。カルトとして両断すればいいレベルの噂話に、ソースの論文まで遡って検証する姿勢に頭が下がる。ニセ医学を信じたばっかりに、無駄にしたお金や健康や命(!)の事例を紹介するとともに、どのような詭弁を弄してカルト化しているかを解きほぐす。

 たとえば、医者へのアンケートの件。もしがんになったとき、「あなた自身に抗がん剤を打つか」と医師に質問したら、多くの医師が「断固No」と回答したというアンケートから、抗がん剤は猛毒であるという主張がある。これに対し、がんの種類や病期を特定していないため、捏造か、事実を正確に伝えていないと反論する。対象が「早期胃がん」であれば、外科的切除で治療するため、抗がん剤は打たないと回答するだろうし、「ステージIVの悪性リンパ種」だったなら、ほとんどの医師は「抗がん剤を自分に打つ」と回答するという。前提を隠して誘導するレトリックは、典型的な詭弁術だが、本書では非常に分かりやすくネタを明かしてくれる。

 あるいは、自然分娩こそが「正しい」産み方であるという至上主義。現代医学の介入によって産めた(生まれた)人は、「産むべきじゃない人」であり「いらん遺伝子」であり、「助かっちゃいかん命」であり、「悪い種」であるという主張がある。病院で出産すると「本当の母親」になれないという考えは、いくらなんでも極端だろうと思うが、本書によるとあるようだ。これに対して、統計で反論する。かつて命がけだった出産が、現代医学によって劇的に改善しているデータを示す。出産に限らず、この「自然」という言葉がくせものだね。

 「自然」は良いも悪いもないにもかかわらず、化学物質や人工物が混ざっていない、「ピュアな」「純朴な」というプラスのイメージを喚起させるレトリックであることに気づくべき。イメージは気分を左右させ、気分は判断を歪める。エボラウィルスは「自然」だが、ワクチンは人工物であることを忘れないように。

 また、ちょっと考えればごく当たり前のことなのに、不安や恐怖によって思考が歪む様子を示してくれる。たまたま上手くいった例だけを拡大し、比較検証を行わないのであれば、効果の証拠にならない。「使った」のちに「治った」から「効いた」のだとみなす論法は、「3た論法」と呼ばれ、サンヤツでよく見かける。リテラシーが残念な人向けなのだが、わたし自身がそうならないとも限らない。

 自分が気をつけていても、家族が「ニセ医学」にはまる場合がある。親子愛や夫婦愛としては素晴らしいのだが、間違ったことを力強く実行した、哀しい事例だ。がんが悪化する妻に対し、厳格な食事療法を強いる夫。「努力が足りないから治らない」というのは無茶なロジックだろうが、冷静さを見失ってしまった結果なのだろう。食が健康に及ぼす影響は大切だが、食事療法の限界も知っておくべき。反対に、良かれと思ってやった健康法が悲惨な結果を招いた事例もある。自衛のためにチェックしておこう。

 本書を読んでいるうちに、二人の女性を思い出す。どちらもすぐれた著作家で、どちらもがんになった。一人は米原真理。書評集『打ちのめされるようなすごい本』を読む限り、不安の矛先を、標準医療に向けてしまったことが分かる。後半はがん関連の本が並び、「私が10人いれば、すべての療法を試してみるのに」「万が一、私に体力気力が戻ったなら」といった語句に、あせりのようなものが浮かぶうちに、ブツっと途切れるように終わる。

隠喩としての病い もう一人は、スーザン・ソンタグ。『隠喩としての病い』では、結核、らい病、チフス……病をとりまくテクストを読み解きながら、そこにひそむ権力とイデオロギーの装置を解体する。病気は(運命や生活態度に対する)罰であるという先入観を排し、言葉の暴力から解放する。人体におきる「出来事としての病い」はひとまず医学にまかせるとして、"それ"は呪いでも罰でもない、そこに「意味」などないのだというメッセージを貫く。対照的な二人の女性は、わたしががんになったとき、どう向き合うかについて、非常に示唆的だ。

 『「ニセ医学」に騙されないために』には、ダメモトで代替医療を試してみようという意見にも、きちんと反論する。なぜか臨床研究も論文もない「画期的な治療」が、自分に効くと信じられるのだろうか(答:信じたいから)。そして、試すのであれば、まずは効果のある可能性の高い他の治療法を試すべきだという。

 たとえ完治がむずかしいとしても、「駄目で元々」ではないという。やれることはいくらでもあると提案する。延命医療は価値がないのか?症状を緩和する治療はどうか?病状が安定しているうち、家族と旅行に行くのはどうか。親友と食事をとすることは意味のないことだろうか。やりのこした仕事を完成させるのは?これらは、未来のわたしが自問することになる。それに背を向けて、代替医療を試すのは、使えるはずのお金や時間を犠牲にすることだという。間違ったパラシュートに命を賭けてしまった人は、還ってこない。怪しげな特効薬や治療法が駆逐されないのは、「このパラシュート開かなかったぞ」と苦情を言う人がいないからだ。文字通り、「死人に口なし」である。

 身をもってパラシュートを検証することのないように、そんな愚者として死なないための、予防薬として。

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知的冒険の名著『白と黒のとびら』

白と黒のとびら 魔法使いの弟子という、ライトノベルな入り口から、情報科学・数学・認知科学にわたる理論―――オートマトンと形式言語をめぐる冒険を堪能する。

 見た目はファンタジー、中身はガッツリ計算理論をしながら、「計算とは何か?」、すなわち計算の本質に迫る。それは、与えられた前提とルールを組み合わせて解を導くこと。これは、人もコンピュータもできる。計算の量だとか、速さなどは、圧倒的にコンピュータの勝ちなのだが、「人にはできて、コンピュータにはできない計算問題」はあるのだろうか。この秘密は、計算式そのものではなく、計算を解釈する箇所に潜んでいると予想している。人を計算する機械と見なしたとき、問題を解釈する言語をどのように「計算」しているのか?

 このテーマについて、もっと具体的に「謎の提示→対決→解決」を繰り返す形で示してくれる。しかも、専門用語を本編から追いやって、魔法使いの冒険譚として読ませてくれる。○と●だけで構成される古代言語を読み解き、遺跡を探索する件は、そのまま形式言語とオートマトンのレトリックだ。計算理論を「お勉強」するのではなく、パズルゲームのように愉しめる。主人公の少年が壁を乗り越え、仲間と出会い、成長していくあたりはビルドゥングスロマンとして応援したくなる。間違えたら即死、しかもタイムリミット付きの展開では、映画『キューブ』の脱出ゲームの焦燥感を思い出す。

 不合理だけど、その中では一貫したルールを発見し、閉じた世界から脱出するという設定は、とてもジャンプ的だ。ひたすら楽しんでもいいのだが、それぞれの章を支える学術概念が分かると、もっと深みにハマれる。有限オートマトンからチューリングマシンまで、末尾に簡潔にまとめられている。

 事象から「意味」を引き剥がし、数学的に抽象化されたふるまいのモデル化を行うのは、人の仕事なんだね。そして、モデル化された「式」を簡単にしたり、解へ導くのは、人でも機械でもできる(むしろ機械の方が得意分野)。

 プロ棋士を負かすAIや、東大入試に挑むコンピュータを見ていると、人智を超えるのも時間の問題じゃないかと思っていた。だが、問題を定義したりモデリングするのは、やはり人―――というか「主体」になる。

 これは類書が見当たらない、珍しい本だ。数学と物語が絡み合った作品として挙げるなら『数学ガール』だが、本書はもっと緊密に撚り合わされている。試し読みは、[東京大学出版会:白と黒のとびら]から辿れる。まず第一章をご堪能あれ。

 これもyuripopから教わった本、ありがとうゆりぽ。

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最近の老人はキレやすい『高齢初犯』

高齢初犯 最初に結論を。高齢者の犯罪が増えている。おとなしい若者の代わりに、キレやすくなっているのは老人である。「年寄り笑うないつか行く道」は一般論で、"ある世代"は例外になる。

 むろん、高齢化社会だから、老人犯罪が増えるのはあたりまえ。しかし、犯罪件数ではなく、人口比から見ても上昇が著しい。平成25年版犯罪白書[4.1高齢者犯罪の動向]によると、高齢者の検挙人員の人口比は、他の年齢層と比べて上昇が著しく、平成5年の約3倍となっている。つまり、罪を犯しやすい世代が、最近の老人なのだ。

 6年前、[なぜ最近の老人はキレやすいのか?]というテーマで調べてまとめたのだが、しょせん素人仕事、きちんとした数字に裏打ちされた結果が得られなかった。だが、「キレる老人」は、私の個人的な印象ではなかった。「キレる老人」を統計化したのが平成25年版の犯罪白書であり、様々なインタビューでまとめたのが『高齢初犯』になる。

 本書は、2013年12月に放送されたドキュメンタリー番組を新書化したもの。近所の女性を日本刀で斬殺した元警視庁幹部の86歳、バブルで羽振りがよかった生活が忘れられず、窃盗で現行犯逮捕された65歳、「夫の欲しいもののために代金を支払うなんて馬鹿らしい」と万引きを繰返す66歳、警察から警告を受けても、「俺の方が警察より偉いんだ」とキレる高齢者ストーカー、様々な事例を見ることができる。

 その原因として、お約束の「孤独な老人」というキーワードを持ってくる。退職や離婚により、名刺や居場所がなくなった高齢者と、無縁社会という構図だ。手垢まみれのエクスキューズだが、真逆の話を持ってくるところが面白い。それは、騙されてカッとなり、殺人未遂を犯した62歳男性の事例なのだが、彼には家族もいて、お金にも困っていなかった。孤独だったわけでも、社会から孤立していたわけでもなかったのだ。

 もちろん、一つの要因に帰する乱暴は避けるべきだろう。だが、本書で紹介されている平成25年「万引白書」によると、そこ共通する意識が浮かんでくる。それは、「捕まるとは思わなかった」だ。確かに悪いことをした、反省もしている。だが、とがめられたら、謝ってその場で払えば良いと思っていた───そんな特徴が、最近の老人に増えている。即ち、万引きが犯罪だという意識が低い結果が、データにも出ているという。本書には、遵法意識の薄い人が、「ついカッとなって」「頭が真っ白になって」罪を犯す構図が、繰り返し出てくる。

 本書では、老人がキレやすくなったのではなく、高齢者を取り巻く「環境」が変わったからだと主張する。その理由は、次の通り。高齢者の犯罪が増え始めたのは、1998年くらいから最近に至るまでであり、この年齢層の人たちが30代や40代だったころの犯罪率が高くてもおかしくない。しかし、この年代だけが突出して高くなかったため、元々犯罪を起こしやすい性格の人が、1998年以降に高齢者となったわけではないという。

 著者がどの資料を見ているのかは分からないが、的外れだと考える。即ち、環境云々は後付けのリクツであり、キレやすい世代が老人となったのが、真の原因だ。[反社会学講座 : キレやすいのは誰だ]によると、グランプリは昭和35年の17歳、つまり昭和18年生まれで、2014年現在71歳の方々になる。いわゆる、「三丁目の夕日」に若者だった「ヤング島耕作」あたりが、最もキレる世代なのだ。この世代が、日本の社会を通り抜けてきたのではないだろうか。かつての「暴れる若者」が、いま「暴走老人」となっているのだ。

 反論はいくらでもできる。6年前のエントリへは、以下の反論が挙げられていた。

  • 検挙率は警察の「がんばり度」だから、認知件数でないと
  • 犯罪の定義自体が時代背景で変わるよ
  • 犯罪って逮捕する側も影響するよ
  • 再犯も考えないと
  • 犯罪者の構成比の増加は、人口の増加よりも、低所得者層が生き残っている率が高いから、でも説明出来てしまうので、年齢で単純に分けられないかも
  • 犯罪は、キレるだけが原因ではないから、件数増=キレやすいは乱暴だね
 当時の分析は統計的に正しいものではなかったが、高齢者犯罪が社会問題化する予見は、結果的に正しいものだった。ついでに、この先の予想も書いておこう。

 高齢者の犯罪、というよりも、ルールにルーズな世代が、日本社会から退出する───文字通りの死は未だとしても、暴力をふるったり暴言を吐いたりして世間を騒がせるという意味で───は、もう少し先になる。「暴走老人」は、この世代が体力的に続かなくなる7~8年後に急速に沈静化するだろう(カプセル化された家庭内で爆発する暴力事件は、大いにありうるが)。

 一方、暴走老人は、より少ない体力で、より大きな暴力を実行できる、自動車事故の形で世間の注目を浴びることになる。認知能力が低下しているにもかかわらず、強引に運転を続け、老人が老人を轢く老老事故が増加することが、この世代の最後の問題になる[事故る人と事故らない人のあいだ『交通事故学』]

 その後はどうなる?もちろん高齢者の犯罪や悲惨な事故は無くならない。しかし、ある年をピークに減少に転ずるだろう。センセーショナルでないからマスコミはスルーするが、それは2022年からだと予想する。

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「お父さんとお母さん」でないと「正しい」子どもが育たないのか『オハナホロホロ』

オハナホロホロ はじめホノボノ、なかドロドロ、ジワジワ泣けて、「正しい家族」とは何かを考えさせられる。早めに答えをいっておくと、その「正しさ」は自分で決めることなのだが、そこに気づく紆余曲折を人生と呼ぶのだろう。

 ハワイ語で「オハナ」は家族、「ホロホロ」は散歩という意味だが、表紙とは裏腹に人間関係は複雑濃厚だ。うつくしい女のあられもない感情や、イケメン理想男子をカッコ悪く描くミスマッチが面白い。序盤ではピンとこなかった会話の伏線をすくい取りつつ核心を曝す展開は上手い。

 一口にまとめると、LGBTが家族ごっこをするならばという話になる。いや待て、わたし自身が結婚した当初を思い返すと、あれは大人のままごとであり、夫妻レッテルをまとった家族ごっこに過ぎない。どの辺から「ごっこ」が現実臭を帯びたかというと、子どもができてから。齢だけ食った子どもだったわたしを「大人」にしたのは、我が子のおかげ。

 同様に、LGBTを成熟させるのは、子どもだ。母になりきれない彼女、形見の面影を愛する彼、「好きだった」という過去を現実にする男、同情と友情と愛情と欲情のぐちゃどろを、ほのぼのタッチの下に上手に表現する。それぞれに想いを寄せる人たちを、大人にするのは、"ゆうた"になる。

 これは、"ゆうた"の成長譚であると同時に、彼を囲む"齢だけ取った男女"のビルドゥングスロマンなのだ。家族愛+隣人愛+同性愛をぶち込んだ歪んだ暖かさは、脆くて強い。わたしの家族とは異なるが、暖かさは同じだ。冷蔵庫を開けたら、いつでも新鮮な卵と牛乳があって、雨の午後はフレンチトーストが焼けるのが、暖かい家なのだ。

 「読み終えたら、大切な人と手をつなぎたくなる」という惹句は本当。お薦めしてくれてありがとう、yuripop。

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ホセ・ドノソ『別荘』はスゴ本

別荘 気づいたら朝になってた、久しぶりの完徹小説。

 眠れないまま読み始め、読み耽るうち眠れなくなり、朝を越えて昼も過ぎて読み続ける。物語に憑かれたアタマが使いものにならず、目眩と耳鳴りがすごい(休日で良かった)。キャラの特異性でなく、展開の妙だけでなく、物騙りそのもののダイナミズムに鷲掴まれる。捩れた意識が酔ったように感じられる(シラフなのに)。この経験は珍しい。わずかに似ているとしたら、マルケス『百年の孤独』、セルバンテス『ドン・キホーテ』。

 もちろん、小説というフィクションを読んでいる自覚はあるのだが、収縮自在の時空間と、虚構を越境してくる侵食感に、「そもそも私が読んでいるこれは現実なのだろうか」とまで疑いだす。劇薬小説『夜のみだらな鳥』が極彩色の悪夢なら、『別荘』はアップデートされる悪夢である。

 この一冊かけて、ある別荘の「一日」が語られる。大人たちは日帰りのピクニックに出かけ、子どもたちは取り残される。あたりは人食い原住民の集落と、異様な繁殖力を持つ植物に囲まれ、文明からは隔絶されている。子どもの数は33人。食糧をめぐる争いと、欲望と陰謀にまみれた企みと、別荘が象徴する富を取り戻すための闘いが繰り広げられる。孤立した環境で子どもだけのサバイバルというと、ゴールディング『蝿の王』が出てくるが、大人への純粋な憎しみの様はむしろ、スティーヴン・キング『トウモロコシ畑の子供たち』を髣髴とさせる。

 不思議なことに、「一日」のはずの時間が、ところどころ歪んでいる。妊娠出産するまでのありえない時間が「一日」の間に経過していたり、争いがあり、破壊があり、再生がなされるまでが「数時間」だったり、そもそも時間が経過する概念が消し飛ばされたり。ありがちな小説時間「全体」の早送り・巻き戻しだけでなく、ある場所・ある期間だけが妙に伸びたりつづめられたりしている。

 最初は、別荘の内外で伸縮しているのかと思いきや、どうやら作者の騙りにより自在に曲げられているようだ。ホセ・ドノソは、語りたいものを騙り尽くすまでは、現実的な時間経過なんてどうでもいいと考えているらしい。一貫した「つじつま」よりも登場人物の記憶よりも、騙りそのものに任せなければならないという意志を感じる。

 しかも、時間だけでない。5歳の子どもが死について哲学者のように語らせたり、瓜二つの双子といいながら、片方は美しく、もう片方は醜いと矛盾したことを言い出す。小説にリアリティを求めたり、ファンタジーの中でのもっともらしさを欲しがるなら、『別荘』は極めて不親切な傑作である。作者は、リアリスティックな世界を小説の中で実現するのではなく、これを読んだ人に作用させる「リアル」の方に興味があるようだ。

 そう、ドノソは現実に背を向ける。物語の中にちょくちょく登場しては、「これはフィクションだ」と宣言する。読み手と小説の間に距離感を保ち、これが作り話に過ぎないことを念押しする。フィクションを現実らしく装わせるための仕掛けは偽善であり、唾棄すべきとまで言い切る。この「本当らしくなさ」は物語の隅々にまで行き渡っている。批評家によると、本作は1973年チリのクーデターの暗喩らしい。あくまで嘘だとしらを切る態度は、本作に滲み出る政治性を物語化しているように見える。

 その結果、登場人物の振る舞いが、どんどん神話的になってくる。息子を生贄にする件なんて聖書からキャラクターをフィルタリングして、物語性だけを忠実にコピーしたように見える。ポリフォーニックな書きっぷりなのに、「(物語に)言わされている」ように思えてくる。個人よりも、物語が生き生きと脈打ち始める。

この物語を読む際に起こる融合───私が言いたいのは、読者の想像力と作者の想像力を一つにする瞬間のことだ───は、本物の、現実を装うところからではなく、現実の「装い」が常に「装いとして」受け入れられるところから生じるはずである
 現実の装いとしてのフィクション受け入れると、虚構との距離感が分からなくなる。今まで小説のリアリティは、「小説世界がどれだけ現実らしいか」こそがスケーラーだった。しかし、小説が現実らしさをかなぐり捨て、「フィクションを読む現実」を突付けてくることで、今度は物語が現実を侵食しはじめる。

 これは、『ドン・キホーテ』と一緒。セルバンテスは、憂い顔の騎士の偽者を登場させ、『ドン・キホーテ』の海賊版を作中作として出現させることで、メタ化した物語が物語を喰いはじめるよう仕向ける。小説は小説として受け止められるけれど、「私が読んでいるのは現実なのだろうか?」という自問がついてまわる。もちろん私が読んでいるのはフィクションの一つなのだが、そういう意味ではなく、フィクションを読んでるという現実味が揺らぐのだ。吐き気が、船酔いのような「ドノソ酔い」を堪能する。

 現実の劣化コピーとしての騙りではなく、小説を読む現実のリアリティが騙られる、不気味で不条理なグロテスク・リアリズム。アップデートされる悪夢をご堪能あれ。

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やめられない止まらない絶品ミステリ『時限紙幣』

 極上のクライムノベル&今年のベストミステリ。

時限紙幣 スピード、パワー、ヒリヒリ感、どれも一級の犯罪小説。ページめくる手が止まらないどころか、疾走するようにイッキに読む。非情で、優秀で、あくまで己に忠実な「私」は、今まで読んで/観てきた悪党小説の主人公を彷彿とさせる(一番近いイメージは、リチャード・スタークの悪党パーカー)。読めば読むほど、アドレナリン出まくる、ヤバい読書と相成った。

 『時限紙幣』は、文字通り時限爆弾つきの120万ドルの札束だ。GPSが付いていて、誤った場所に動かしたり、電池が切れたり、時間切れになると、爆発する。これを48時間以内に奪還するのが「私」の仕事だ。「ゴーストマン」と呼ばれ、名前、特徴、指紋、過去、あらゆるアイデンティティを消し去ることで、誰にでもなれる。抑揚と描写を削ぎ落としたキレッキレの一人称は、彼の仕事ぶりをそのまま表している。ときに裏社会のディテールや、犯罪の薀蓄を語るが、簡潔かつ的を射ているので、それが伏線であるかなんて気づかず駆け抜けてしまうほど。

 面白いところは、二つの現場を行き来している構成だ。5年前、失敗に終わったクアラルンプールの銀行強盗のプロセスと、現在進行形である時限紙幣を追いかける「私」―――危険で、緊張に満ちている過去と現在が、カットバックのごとく互い違いに進められてゆく。過去の失敗を現在のしぐさにつなげたり(主人公は学習する)、「鞄を持ち上げて顔をほころばせる」など、引きのタイミングで動作をシンクロさせることで、志村後ろ効果が遺憾なく発揮されている。たとえこれに気づかなくても、無意識のうち、緊張感のボルテージが否応なしに昂ぶってくる仕掛けになってる。極めて映画的、ハリウッド的なり。

 不思議なのは、なぜ「私」が現金やゴールドにこだわるのか、という点。銃を持ち、物理的に押し入って、撃たれる危険を冒してまで、札束や金塊に手を伸ばす。ナンバリングや刻印がされており、ロンダリングや換金が難しいのに、わざわざ物理的な銭金に固執するのはなぜか。クラッキングなら、二桁違うマネーが手に入るのに―――これだけ用心深い「ゴーストマン」が、どうして強奪に手を染めるのか?ラストで理由が語られるのだが、彼の陥っている状況との相乗効果で、カタルシスが凄まじい。その悪党っぷりがいい。こいつの狂気が素晴らしく正気でイイ。

 しかし、息もつかせず読みきった後、冷静に考えるとツッコミ所もある。マウス反転の白文字で記述するので、読了された方は一緒に考察していただけると嬉しい。

  1. 時限紙幣のセロファン : 麻薬取引で使うことで、相手に「爆弾」を押し付け、連邦政府のお尋ね者にするというアイディアはいいね!だが、取引現場で本物か確かめるために、セロファンを破るよね?セロファン破ったら爆発するはずなのに?
  2. 重い金塊をどうやって"盗む"か : 予め借りておいた貸金庫に、金塊を"移動"させ、ほとぼりが冷めたら堂々と持ち出す―――このシナリオが変だ。貸金庫の鍵は物理的な鍵だけでなく、電子的に解除する必要があるのでは?つまり、物理キーで開けられるようにするため、貸金庫をアクティベートさせる支配人を眠らせた時点でアウトでは?
  3. 5年前の「私」の失敗 : 名前がバレちゃったから、あとは芋づる式で同時に入国した面子が割れちゃった……が、そもそも全員同じフライトで到着したり移動するのが、プロらしくない。誰かが捕まったり殺されることも考えて、接触は最小限にするのでは?
  4. GPS付き携帯で撮影したら : 「時限紙幣」を携帯で撮り、取引現場で見せるシーンがある。ここで「私」の身柄を取り押さえて、携帯を奪ってしまえば、Exifから位置情報を割り出せるんじゃね?「私」もウルフも馬鹿じゃね?と思ったが、モーテルでGPS機能をOFFにしていたね(p.274)。でも、その旨をウルフに伝えておかないと、「Exifが取れる!」と思われて撃たれるぞ

 ともあれ、精密に描こうとする心意気に、緻密に読んだアラ探しにすぎぬ。英国推理作家協会賞をはじめ、英米ミステリ賞を総なめした、抜群の悪党小説なり。本作は「このミステリがすごい」の一位だろう。でなければ、その順位を基に選者を判定したり、一位になった作品を評価すればいい。(それぐらいの試金石)。

 明日の予定がない夜に、夢中になって読み耽るべし。

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