パラシュートジョークを知っているだろうか。
弊社のパラシュートは安全保障つきです。故障したパラシュートをご送付いただければ、無償で新品とお取替えいたします。ですが、今まで一度たりとも苦情をいただいておりません
自然放置療法とか、ナントカが効くとか聞くたび、このジョークを思い出す。気の迷いをなくす鰯のアタマなら可愛いが、それに命を託してしまうほど愚かになってはいけない。わたしの理性や論理の"正しさ"は、気分や体調で簡単に覆る。大病をして精神的にも参ったとき、どれくらい愚かになれるか。予防として読む。
病気になり、気が滅入っているとき、病気の理由を周囲にぶつけたくなる。矛先が家族や医者に向くとき、医学以外にすがりたくなる。病院の治療だけで大丈夫か、他にできることはないか、藁を探してインターネットを掘削する。患者の不安につけこんで、食い物にするのは「ニセ医学」だ。
ニセ医学とは、医学のフリをしたデマのこと。「がんの特効薬」「白い食物はNG」「日本人は薬漬け」「医者は自分に抗がん剤を使わない」など、巷に蔓延るニセ医学を、徹底的に追求する。カルトとして両断すればいいレベルの噂話に、ソースの論文まで遡って検証する姿勢に頭が下がる。ニセ医学を信じたばっかりに、無駄にしたお金や健康や命(!)の事例を紹介するとともに、どのような詭弁を弄してカルト化しているかを解きほぐす。
たとえば、医者へのアンケートの件。もしがんになったとき、「あなた自身に抗がん剤を打つか」と医師に質問したら、多くの医師が「断固No」と回答したというアンケートから、抗がん剤は猛毒であるという主張がある。これに対し、がんの種類や病期を特定していないため、捏造か、事実を正確に伝えていないと反論する。対象が「早期胃がん」であれば、外科的切除で治療するため、抗がん剤は打たないと回答するだろうし、「ステージIVの悪性リンパ種」だったなら、ほとんどの医師は「抗がん剤を自分に打つ」と回答するという。前提を隠して誘導するレトリックは、典型的な詭弁術だが、本書では非常に分かりやすくネタを明かしてくれる。
あるいは、自然分娩こそが「正しい」産み方であるという至上主義。現代医学の介入によって産めた(生まれた)人は、「産むべきじゃない人」であり「いらん遺伝子」であり、「助かっちゃいかん命」であり、「悪い種」であるという主張がある。病院で出産すると「本当の母親」になれないという考えは、いくらなんでも極端だろうと思うが、本書によるとあるようだ。これに対して、統計で反論する。かつて命がけだった出産が、現代医学によって劇的に改善しているデータを示す。出産に限らず、この「自然」という言葉がくせものだね。
「自然」は良いも悪いもないにもかかわらず、化学物質や人工物が混ざっていない、「ピュアな」「純朴な」というプラスのイメージを喚起させるレトリックであることに気づくべき。イメージは気分を左右させ、気分は判断を歪める。エボラウィルスは「自然」だが、ワクチンは人工物であることを忘れないように。
また、ちょっと考えればごく当たり前のことなのに、不安や恐怖によって思考が歪む様子を示してくれる。たまたま上手くいった例だけを拡大し、比較検証を行わないのであれば、効果の証拠にならない。「使った」のちに「治った」から「効いた」のだとみなす論法は、「3た論法」と呼ばれ、サンヤツでよく見かける。リテラシーが残念な人向けなのだが、わたし自身がそうならないとも限らない。
自分が気をつけていても、家族が「ニセ医学」にはまる場合がある。親子愛や夫婦愛としては素晴らしいのだが、間違ったことを力強く実行した、哀しい事例だ。がんが悪化する妻に対し、厳格な食事療法を強いる夫。「努力が足りないから治らない」というのは無茶なロジックだろうが、冷静さを見失ってしまった結果なのだろう。食が健康に及ぼす影響は大切だが、食事療法の限界も知っておくべき。反対に、良かれと思ってやった健康法が悲惨な結果を招いた事例もある。自衛のためにチェックしておこう。
本書を読んでいるうちに、二人の女性を思い出す。どちらもすぐれた著作家で、どちらもがんになった。一人は米原真理。書評集『打ちのめされるようなすごい本』を読む限り、不安の矛先を、標準医療に向けてしまったことが分かる。後半はがん関連の本が並び、「私が10人いれば、すべての療法を試してみるのに」「万が一、私に体力気力が戻ったなら」といった語句に、あせりのようなものが浮かぶうちに、ブツっと途切れるように終わる。
もう一人は、スーザン・ソンタグ。『隠喩としての病い』では、結核、らい病、チフス……病をとりまくテクストを読み解きながら、そこにひそむ権力とイデオロギーの装置を解体する。病気は(運命や生活態度に対する)罰であるという先入観を排し、言葉の暴力から解放する。人体におきる「出来事としての病い」はひとまず医学にまかせるとして、"それ"は呪いでも罰でもない、そこに「意味」などないのだというメッセージを貫く。対照的な二人の女性は、わたしががんになったとき、どう向き合うかについて、非常に示唆的だ。
『「ニセ医学」に騙されないために』には、ダメモトで代替医療を試してみようという意見にも、きちんと反論する。なぜか臨床研究も論文もない「画期的な治療」が、自分に効くと信じられるのだろうか(答:信じたいから)。そして、試すのであれば、まずは効果のある可能性の高い他の治療法を試すべきだという。
たとえ完治がむずかしいとしても、「駄目で元々」ではないという。やれることはいくらでもあると提案する。延命医療は価値がないのか?症状を緩和する治療はどうか?病状が安定しているうち、家族と旅行に行くのはどうか。親友と食事をとすることは意味のないことだろうか。やりのこした仕事を完成させるのは?これらは、未来のわたしが自問することになる。それに背を向けて、代替医療を試すのは、使えるはずのお金や時間を犠牲にすることだという。間違ったパラシュートに命を賭けてしまった人は、還ってこない。怪しげな特効薬や治療法が駆逐されないのは、「このパラシュート開かなかったぞ」と苦情を言う人がいないからだ。文字通り、「死人に口なし」である。
身をもってパラシュートを検証することのないように、そんな愚者として死なないための、予防薬として。
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