離人症の読書『遁走状態』
あらゆる読書は毒書である。だがこれは、中毒性と離人感を加速させる、より危うい一冊になる。読んでいるうち、現実から滑り落ちる。小説世界だけでなく、"読んでいる私"も含めて乖離する違和感と、異様な恐怖を請合う。
登場人物が、異常な体験をする話なら山ほど読んできた。信用できない語り手にも沢山つきあってきた。しかし、語り手の異化がこちらに伝染して、"読んでいる私"の「いま」「ここ」が剥がれ落ちるのは珍しい。読中感の具体的な症状として、自分が自分という感じがしなくなる。見ているもの、聞いているものから意味が得られず、自分という存在がよそよそしくなる。
全部で19編あるどの短篇も、すばらしく厭な話ばかりだ。そこでは、登場人物は何かを失われる。それは光だったり言語だったり、記憶や人格そのものだったりする。そのどれもが、"一貫性のある私"を成り立たせなくさせるため、人が世界を感知して「意味あるものにする」機構が壊れた場合、いったいその人に何が起きるのか、つぶさに体感することができる。
この壊れた感覚、カフカに似ている。『遁走状態』や『アルフォンス・カイラーズ』での不条理なやりとりは、カフカの寓話を思い出させる。さらに主人公が、条理と不条理の境界を越えてしまうことで、現実を非現実にしていたものは、当人の認識にすぎなかったのではないかという疑いを呼び起こさせる。翻訳者の柴田元幸は、ポーを引き合いにしているが、それは超現実が侵食する異化の恐怖だろう。だが、本書の恐怖は、世界の異様さは結局のところ、自分の認識の仕方に拠っていることに(読み手だけが)気づいてしまうところにある。
一行目から、「何かがおかしい」と引き込まれ、不安定でグロテスクな状況に巻き込まれた人物の視点で追っていくうちに、現実を確固たるものにしているはずの境界―――私とあなた、生と死、記憶と現実など―――が曖昧にされてゆく。そんな場合、登場人物を「信頼できない語り手」とみなすことで、読み手である"わたし"を護ろうとする。だが、すぐに分かる。どんどんズレてゆく世界は、それはそれで一貫している。悪夢のように「おかしい」が、その夢の中では、限りなく明晰で合理的だ。
しかも、登場人物が再帰的にふるまうため、展開がループしはじめる。この、悪夢にらせん状に呑み込まれてゆく読中感覚は、コルタサルの短篇に似ている。『温室で』の追うもの/追われるものの逆転や同化は、主人公と情景がメビウスの環のようにつながるコルタサル『続いている公園』を思い出す。
ひょっとすると、信頼できないのは話者ではなく、物語世界でもなく、"私"自身なのかもしれない。世界が壊れているのではなく、登場人物が狂っているのではなく、世界を認識する方法がズレはじめており、現実とうまく折り合わなくなっている。この「世界」は、小説世界だけでなく、読み手の現実世界も含まれる。文字である、身体がある、"私"であることは分かっても、何が書いてあるのか、自由に動かせるのか、そもそも"ある"のかすら、確信がもてなくなる。死そのものよりもおぞましい、生ける屍状態なのだ。
本書は、アブソリュート・エゴ・レビュー「遁走状態」で背中を押された(ego_danceさん、ありがとうございます)。表題作『遁走状態』に対する、この感想は完全同意。
もう凄まじいの一言だ。読みながら心臓がバクバクいい、息が苦しくなってくるほどのスリル。読書でこれほどの圧迫感を味わうのは一体いつ以来だろうか。
この離人感覚、読み終わった後もずっと引く。とびきりの毒書をどうぞ。
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