科学は滅びぬ、何度でも蘇るさ『科学の解釈学』
哲学による「科学主義」批判。科学の正当性を「信じて」いたわたしにとって、蒙を啓かれる名著なり。一方で、哲学の脆弱性も再確認する。「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」は、ここでも、見事に当てはまる。
本書の目的は、科学を御神体として崇め奉る俗悪に、アンチテーゼを提出すること。科学を否定するのでも「反科学」を掲げるのでもない。「究極の真理」として聖化された科学知識を頂点とする知のヒエラルキーを解体することであり、そうした位階秩序を支えている「客観性の神話」を非神話化することだという。トマス・クーンを代表とするパラダイム論による攻撃の試みは、おおむね成功している。
そもそも「科学的客観性」なるものは存在せず、科学者が「観察」するものは、先入観によって歪められているという。「先入観」が言い過ぎなら、科学者たちを律する「何をいかに探求すべきか」という行動規範や価値信念になる。教育や下積みや学会により形作られるマインドセットだ。
そして、観察とは、事実をあるがままに活写することではなく、このマインドセットに合わせて事象を選択し、解釈し、構成する行為なのだという。「見る」そのものに、対象を「として見る(seeing as)」という行為が不可分に織り込まれており、観察とは理論を背負って「見る」ことにほかならないと喝破する。理論は観察を基に形成されるはずなのに、逆に観察は理論を前提し、理論によって制約されているという循環関係に陥っており、その検証は同語反復に似た陳腐なものになるという。
さらに、「科学的」だと大事にされている方法論的プロセスや、数量的・要素論的自然観に、疑いの目を向ける。科学革命やアインシュタインを引きながら、「科学的」なるものから普遍性を切り落とす。それは、歴史的・社会的制約をもった価値理念を前提にした、イデオロギーなのだ。相互の価値理念に共通の座標軸も持たず、従って、「普遍的真理」や「究極の真理」なぞ、存在どころか語ることすらできない。トマス・クーンやオーマン・クワインといった科学哲学の巨匠の肩の上から、科学教をメッタ刺しにする。
面白いことに、著者が科学の客観性を揺さぶろうとすればするほど、その前提に異議が出れば出るほど、強い既視感が生まれてくる。論拠を支える前提の正しさを疑う姿勢、論理の欠陥を突く方法、隠れた前提をあぶりだし、名前を付けて攻撃する戦略……これら全て、哲学で学んだ反論の技術である。「これ進研ゼミでやった」というやつ。
なんのことはない、哲学が何千年とやりつづけた、知的プロレスリングを新興の「科学」に適用しているだけ。パラダイムと名付けて喜んでいる概念は、そのまま哲学や人文系で無批判に使われている○○派とか△△主義の別名だ。しかも、それぞれの派閥や主義の「正しさ」の基準になるようなものは、議論の「もっともらしさ」、あるいは流行でしかない(数字で示してみろ)。千年かけた哲学のうち、「普遍的」で「絶対的」なドクトリンはどれか教えて欲しい。哲学的論争のトドメの台詞は「○○はもう古い」である。著者は、科学の歴史をたかだか百年に過ぎないと腐す。だが、その百年で千年を超える哲学を呑み込もうとしているのが現実だ。
いかに科学を相対化させ、真理の相対主義でドローに持ち込もうとする論理も、「で?」(So What?)と聞かれたら瓦解する。その見解から何が導かれるか?どんな有意味の議論になるのか?どのような問題を解決できるのか?現状を「こうとも言える」と再定義しただけではないか。
「哲学とは、理性で書かれた詩である」と言ったのは開高健。あれは詩であり、論理と思ってはいけないんだそうな。感性と理性の周波数が一致したとき、それはみごとなボキャブラリーの殿堂になり、宮殿になり、大伽藍になるが、いったんその感性から外れてしまうと、いっさいは屁理屈のかたまりにすぎなくなる。文字通り、「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」的な相対化は、科学のみならず哲学自身への壮大なブーメランとなっている。
パラダイムを貫く普遍的真理が「現時点で」見つからないからといって、それが無い理由にはならぬ。近代西洋一地方の一見識が広まった「科学的客観性」も、それが何に取って代わろうとも、物理学のテーマが「物の理」である限り、ブレることはない。方法論や接近手段がどうなってても「科学」と呼ばれることは変わりはない。
科学批判の論文で、「科学」をあらためて知る。科学は自分を乗り越え、時には否定すらできる。長年エーテルを「信じて」いたからといって科学を疑うのであれば、それが「無い」ことを科学自身が証明したことを思い出すべし。光が波なのか粒子なのか分からないのは、いま現在の話。たかだか百年しか経ってないのだから、もう少し長い目で見てやれよ、と言いたくなる。
科学といえど、人が営む行為。その人が棲む時代と文化の制約により、「正しさ」が揺らぐことはあったし、躓くことも迷うこともあるだろう。だが、どれだけ批判されようと、何度でも科学は蘇るさ、科学の力こそ人類の夢だからだ。躓いても、迷っても、明日があるから。
| 固定リンク
コメント