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科学が神話を生み出すとき『<科学ブーム>の構造』

科学ブームの構造 数字は嘘をつかない、嘘つきが数字を使う。この"数字"を、"科学"にしても成り立つ。本書は、その仕組みを明らかにする。

 むかしパトロン、いま予算。科学にはカネがかかる。研究費の必要性に説得力を持たせるため、しばしばレトリックが用いられ、時には大言壮語になる。そして、科学がカネになる下地と下心があるとき、科学はある種の神話を生み出す。人は見たいものを見て、信じたいものを信じる。その行動を正当化するための物語こそが、科学っぽい語り口をした神話なのだ。

 そして、ひとたびイノベーションと認められ、政策化されると、神話はブームになる。科学的な検証はなされないまま、今度は信心が神話に説得力を持たせ、ブームは維持されてゆく。本書では、科学が神話を生み出し、神話がブームに変化する構造を解き明かす。

 その事例として1950-60年代の殺虫剤DDTと、1990-ゼロ年代のナノテクノロジーを題材に、メディア、行政、専門家、そして業界の人々が、どのように荷担し、喧伝し、利権を生み出していったかを多角的に浮き彫りにする。巨額の科学政策費が、結局どう使われていったのか、その神話の科学的な妥当性はあったのか、終息後、収穫は得られたのかなど、ブームの「査定」を行う。

 思わず唸ったのは、レイチェル・カーソン『沈黙の春』の再検証。「奇蹟の殺虫剤」DDTブームに対し、残留物の危険性を訴えることで、テクノロジーへの大衆イメージを逆転させたことまでは周知の通り。だが本書では、『沈黙の春』出版の25年後に検証された『サイレント・スプリング再訪』を引いて、化合物=悪とする考えに疑問を呈する。カーソンの主旨はおおむね正しかったものの、彼女が予測した未来には間違いもあった。人間だけではなく、自然も発がん性のある物質を生み出してるというのだ。

 本来、こうしたチェックはマスコミがするはずなのだが、本書では、逆にブームの煽り役、プロパガンダーとしての日経新聞が統計的に炙り出される。「奇蹟の」「魔法の」接頭語がついたバズワードを振り回し、科学がカネになるときも近いと勘違いさせる報道は、今振り返ると中二病そのものやね(後追いの朝日新聞は環境問題や利権を警告するスタンスなのがもっと笑える)。奇蹟も魔法もあるのはアニメの話、せめて「○○とは何だったのか」的に過去の報道を反省してほしいもの。マスコミと神話の相補関係を暴く件が、本書の最も面白いところ。

 さらに、アメリカのナノテクの展開と、追随する日本を比較した考察が興味深い。「国会図書館のすべての情報を角砂糖大のメモリに収める」クリントン大統領の演説は覚えているだろうか。ネタ元は、リチャード・ファインマンの講話「原子で世界を構築する(Shaping the World Atom by Atom)」で、さらにそのアイディアは、ロバート・ハインライン『ウォルドー』から拝借したものだという。米国では、ナノテクは実生活から離れ、社会的文脈でいかに利用するかの「物語」に終始していたという指摘は(後付けながら)納得できた。

 いっぽう日本では、ナノテクは材料とセットで語られる。投資効果に対する厳しい要請の下で、比較的成果の出やすいのが素材分野だからだ。しかし、ナノテクの定義が曖昧だったため、イメージだけが無闇に膨らむ反面、当事者意識の少ない科学者コミュニティは沈黙を続けていた。科学的根拠がはっきりしないまま、「ナノホワイト」や「ナノブロック」などマーケティング手段として利用されたのは記憶に新しい。

 ファインマン神話を利用して、科学を物語化した米国と、現場と乖離した商品の形で、ひたすらイメージを消費していったのが日本が対照的だ。科学に対する漠然とした期待がカネになる構造の背後に、神話が存在する。科学ブームを生み出す神話とは、科学を「信じたい」という大衆と、科学を「カネにしたい」とする産軍複合体と、科学を「国力にしたい」とする政府の動機を具体化する物語なのだ。

 かつて錬金術は科学を生んだが、いまは科学が錬金術を求めているのかもしれない。科学はカネがかかるのだから。

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涙もろい犬好きのためのミステリ『ウォッチャーズ』

 わんこ愛に満ちたSFミステリなのだが、クーンツが描くとドラマティックになる。ン十年と積読してたのを、次回のオフ会のテーマ「猫と犬」に合わせて読み干す。

ウォッチャーズ上ウォッチャーズ下

 孤独な男が森で出会ったラブラドール・レトリヴァーは、ひとなつっこい一方で「犬」らしくない知性を持っていた―――これが入り口。ふつうの犬より表情が豊かで、知的で、もののわかった感じがする。注意の持続時間が犬らしくなく、相手を長くじっと見つめ返してくる。『遊星からの物体X』で"乗っ取られた犬"を知っている人にはホラーな一瞬だが、大丈夫。もっと"ありうる未来"の犬だから。

 この犬を軸に、トラウマを持つ男と女の快復と愛の物語と、生物兵器をめぐる陰謀と殺戮の報復譚と、邪悪で醜悪な知性との対決が絡み合う。さすがページ・ターナーの魔術師、読書の快楽のツボを押さえ込んでいる。謎が謎を呼ぶ伏線、逃亡と追跡のカットバック構成、得体の知れない「なにか」が迫ってくる恐怖と緊張あふれる描写、バラバラだったエピソードが一点に収束していく興奮と、たたみかけるように風呂敷が閉じられ絞られていく高揚感を、いっぺんに味わう。

 わんこの愛らしさや、わんこが仲立ちとなるラブストーリーの初々しさに、甘酸っぱく胸が一杯になるかもしれない。だが、むしろ脇役の追う側のプレッシャーやいじましさに胸が痛くなる。主役の感情をなぞって喜ぶよりも、仇役の立場や胃の痛みを想像して、一緒にキリキリ焦燥するマゾ的読み方も愉しい。

 いわゆる国家当局の手先として追跡する、有能で冷酷な中年男が出てくる。だが、そういう彼自身も、過去の強迫観念に囚われ、自分を滅ぼそうとしていることに気づく。また、"犬"を抹殺しようと追いかける"奴"の存在も哀れを誘う。ゆく先々で惨殺した死体の眼を抉り出す理由に触れたとき、凶悪きわまりない存在であるにもかかわれず、思わずぐッと涙をこらえる。

 そして、彼であれ"奴"であれ、自分の人生を取り戻そうとした選択は、ありきたりのハリウッド流の脚本に、思いもかけない結果をもたらしてくれる(これがまた、心憎い展開なんだ)。この、圧倒的な肯定感がすばらしい。ともすると苦悩の闇に沈み込もうとするのを、互いに見つめあい、認めあい、「そこにいるね/ここにいるよ」と呼びかけあう。タイトルの『ウォッチャーズ』には、相手を丸ごと承認する存在という意味が込められているのかも。

 スゴ本オフ「猫と犬」では、猫や犬がテーマ/モチーフ/イメージする好きな本を好きなだけ紹介できる。既に猫派によって圧倒されているようだが、これを機に犬本、猫本を思い返してみるか……猫本専門店「にゃんこ堂」を漁ってみるか。

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セックスと殺人と生きる意味『野蛮な進化心理学』

野蛮な進化心理学 ぎょっとするタイトルだが、進化生物学と認知科学の最新の知見から、至極まっとうな「人とは何か」が書いてある。

 同テーマを大上段に正面から斬り込んだ[人類を定義する一冊『人類はどこから来てどこへ行くのか』]とは対照的に、卑近で下世話なエピソード満載の「あるある集」として爆笑しながら読む。進化心理学が野蛮だというよりも、一見、野蛮だと思われるふるまいも、実は深いところで合理性を持ち、人類の複雑な活動をうまく説明することができるよ、というメッセージが伝わってくる。

 たとえば、わたしが初めて上京したときの第一感「都会は美人ばかり」を、著者自身の体験と実験でもって解説する。母数が多いから絶対数も多いのはあたりまえなのだが、頭で分かっても「美人率も高い」と感じてしまうのは男の性(さが)。群衆を眺めるとき、どうしても魅力的な女に注目してしまう男の業("ごう"と書いてバイアスと読む)だというのだ。

 あるいは、人々がセックスに対して保守的な考えをもつのは、宗教的な教えに従った結果だと言われているが、因果関係は逆だという。つまり、もともと保守的な考えを持っているからこそ、宗教にどっぷり関わる可能性を示唆する。これは追跡調査が必要だが、「人は、自分が採用している繁殖戦略の有利不利に応じて、宗教への関与の度合いを増幅させている」なんて、それだけでスリリングな一冊になりそうだ。

 性や暴力、偏見における意思決定のルールは、単純で利己的なものがいくつかあり、バイアスによって歪められている主張する(この件は[カーネマン『ファスト&スロー』]を思い出す)。だが、単純だからといって硬直したものではなく、状況に合わせて柔軟に変化する。それはあたかも、「わたし」を運転する一人の人格がいるというよりも、

 チームに貢献する"わたし"
 野心家な"わたし"
 臆病な"わたし"
 よき夫としての"わたし"
 よき親としての"わたし"
 ……

など、さまざまな"わたし"(下位自己:subself)が、人生の脅威を好機に応じて、代わる代わる運転台に上るようなものだという(心のモジュール性と呼ぶ)。そして、単純なルールの動的な相互作用から、複雑な社会活動―――創造性や芸術性、宗教、経済、政治に結びついているというのだ。

 そして、[ピンカー『心の仕組み』]やチョムスキーなどから、「心とは何か」というテーマで追いかけている中で、もっともピッタリくる喩えが得られたのはありがたい。これだ。

心とは空白の石版ではなく、はじめから描かれている輪郭線と、経験によって埋められるのを待つ空白部分を持った「ぬりえ帳」である
 つまり、心は、生まれたときは完全な空白で、社会や文化によって後から自由に書き込まれるものではない。遺伝的・先天的なものにより、ある程度の輪郭が決まっており、社会や文化により色が塗られていくという。「石版」というと、あたかも一枚のものしかないようにイメージするが、「ぬりえ帳」なら何ページもある。複数の"わたし"のモジュール性にも合致している。

 ただし、訳者・山形浩生氏がクギ刺す通り、鵜呑みにするのはやめておこう。キャンパスでの調査でもって一般論に断言するのは危ういし、信念が研究を染めまくる例は、経済学者の誤謬でさんざん悩まされてきたから。

 なんでもかんでも遺伝で語る危険性と、「男女は完全に平等だ」と咆哮するイデオロギーの暴力性に翻弄された方に、知的なミステリとしてお薦めの一冊。

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人生の一冊『生きがいについて』批判


 第2次世界大戦中、生還した戦闘機の研究において、意見の対立が生じた。被弾した箇所を補強すべしと主張する軍部と、そこを補強しても効果ないとする統計学者の対立である。

 もちろんこれは、典型的な選択バイアスの話だ。得られたデータは帰還できた(=被弾しても生還した)戦闘機に基づくものだから、被弾箇所は致命的な部位ではなかった。従って、ケアするべきは被弾しなかった場所から逆推理することになる。これは、「苦情窓口に寄せられた要望」や「鬱からのサバイブ」、そして「逆境を克服した生きがい」も同様である。諦念や絶望により、伝わらなかった事例は、予め除かれている。

 神谷美恵子の『生きがいについて』は、生きるはりあい、生きる意味、人生のやりがいというキーワードとともに、古今東西の哲学者や聖者、賢人の言葉をひもとき、著者自身が勤務するハンセン病療養所の例と照らしながら、「生きがいとは何か」について考察する。

 人は生きがいを、

  1. 何から得て
  2. どのように認識し
  3. 奪われるときに何が起き
  4. 喪失者の世界はどんなものであり
  5. それでも自殺をふみとどまるものが何であり
  6. 新たな生きがいの発見でどんな変化が起きるのか

 これらを順に深堀りする。ヤスパースやフランクルの実存哲学の肌あいを感じるが、平易な語り口で水のようにすうっと読み手に入ってくる。ここで語られる「生きがい」とは、いわば最大公約数的な幸福のようなもの。ある程度生きてきた人であれば、一度は考えた「なぜ生きる」について、同じ省察が得られるだろうし、かつて苦悩や絶望を体験した人であれば、その深度に応じた強い肯定を受けるに違いない。

 ずいぶん昔、わたしの母から「これは生涯の一冊となる」と強く薦められ、わけもわからず読んだものだ。反抗期まっさかりだったので、説教くささに辟易したのが第一印象。「病気になったからこそ、生きがいに気づき、心ゆたかになった」だって?では、心が豊かでない人は、大病に罹ってないからなの?社会からの疎外感や劣等感を克服していない人は、「ほんとうに生きる」に相当しないって?天邪鬼なわたしは、感動が論理を殺している点を批判したものだ。エッセイにロジックを強要するのは幼稚だが、本書を安易に誉めそやす連中こそ警戒すべきと考えた。

 それから何十年と生きて、酸いも苦いも飲み下したあと、それでもいえるのは、生きがいを自覚的に生きているか否か、というところ。「人生に、意味はないけど甲斐はある」区別がついているか、という点だ。

 そもそも「人生は生きるに値するか」や「人生の意味とは」という前提からしてずれている。「値する」や「意味」という言葉に付随するのは、「価値」という概念だ。この問いから発すると、人間の存在意義は、その利用価値に左右されるのかといった功利的な見方になる。すると、いかなる価値基準であれ、有用でないと判断された存在は、「生きるに値しない」となってしまう。身体的なところから始まり、能力や意志の多寡によって、「生きる価値」は決まるのか?否だろう。

 そして、人生に「意味」を求めようとすると、生きがいを有用性というモノサシで測ることになる。このモノサシ、意識するしないにかかわらず、他人や社会の中で経済性や文化的価値という名で比較され、コンプレックスを生み出す負のループに入り込む。本書が一旦はまり込んでいる誤謬は、「生きがい」を「生きる価値」にしていることが原因だ。他人と比較されうる「価値」ではなく、一人称の有りがたみ、「甲斐」はそれだけで当人にとって幸せになれるものなのに、両者を一緒くたにしてしまっているのだ。もちろん著者は、分かってやってる。誰しも陥る功利主義の罠を、あえて踏んでみせているのだろう。その上で、こう結論づけるのだ。

人間の存在意義は、その利用価値や有用性によるものではない。野に咲く花のように、ただ「無償に」存在しているひとも、大きな立場からみたら存在理由があるにちがいない。自分の眼に自分の存在の意味が感じられないひと、他人の眼にもみとめられないようなひとでも、私たちと同じ生をうけた同胞なのである。もし彼らの存在意義が問題になるなら、まず自分の、そして人類全体の存在意義が問われなくてはならない。

 もう一つ、本書が陥っている罠が、選択バイアスだ。生きがいの例として、使命感や責任感、充実感や創造性、「生かされている」実感など、プラスの感情を掲げる一方で、負の感情は二次的なものにすぎないと下す。すなわち、破壊的な熱情、憎悪、怒り、復讐、嫉妬は、生きるはりあいにはなるものの、「生きがい」のテーマからは外される。建設的な生きがいへの欲求が阻まれたために、その反応として出てきた、いわば阻害された欲求への裏返しの形であるというのだ。

 これは、著者が勤務する療養所の調査結果の半分以上を切り捨てたことから生じている。その人たちは、孤独、不安、抑うつ、ニヒリズム、すてばち、絶望、攻撃性を表していた。絶望や不安、不信の中で、死を望む毎日。健康者に対する怒りや憎悪の念が「生かしている」、すなわち生きがいとなっているのだ。本書は、これを「のこされた問題」として扱い、答えのない問いだとしている。そして、答えのないことを自覚しつつ、この虚無を克服するすべを探求し続けなくてはならないと述べる。

 鬱と虚無の中に落ち込み、ほんとうに戻ってこれない所にいるのであれば、そもそも全てのコミュニケーションを―――自分の命も含めて―――シャットアウトしているだろう。だが、何らかの応答をしようとしているのであれば、その反応をこそ、その人の生きるよすがと見なすべきだろう。たとえそれが、憎悪そのものであったとしても。古今東西の復讐譚を振り返らずとも、憎しみや恨みの念は、確かに人を生かす(たとえ人でなくなったとしても)。「生きがい」を、生き延びようとする意志への燃料とするならば、そうした暗黒面にも目を向けなければならない。これを"二次的"として省みず、建設的な「生きがい」だけに焦点をあてるのであれば、帰還した戦闘機の被弾箇所ばかりを補強することになる。

 本書は、「生きがいとは何か」について、真摯に、愚直に、先人たちの跡を辿っている。誰しも一度は考えたことを、誰もそこまで深くできないほど掘り下げ、真っ向から取り組んだ名著だ。いずれ被弾したときのための人生の保険本として、あるいは真っ暗になった世界に灯す小さな明かりとして、伴侶となる一冊だ。ただし、普遍性を求めるあまり、切り捨てられた不在の人たちに目を向けるなら、その中に自分自身の姿を見出し、あらたな生きがいを見つけるよすがとなるかもしれない。

 本書は確かに名著だが、(わたしも含め)誉める連中に気をつけろ。そして、自分の眼で確かめて欲しい。

 

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音楽を遊ぶlittleBitsとGO-DJ、音楽を語るスゴ本オフ

 音を遊ぶと音楽になる。

 電子ブロックの音楽版ともいうべきlittleBitsで遊んだ。レゴのようなブロック型のパーツを組み合わせ、ツマミやキーを調節する。すると、音が連なりテンポが加わり、音楽に成長する。音の発信源となるオシレーターや信号を入力するキーボード、音を加工するフィルターやディレイなどのモジュールが用意されており、つなぐ順番は自由自在。

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 秀逸なのは、パーツの結合部が磁石になっており、誤ったつなげ方をしようとすると、反発する仕掛けになっているところ。このデザインは素晴らしい。さらに、つなげる順番のアフォーダンスが優れている。最初は電源、その右側からオシレーターをつなげ、さらにその右にフィルターといったように、発生した音が右へ右へつながるにつれて加工されている過程が「見える」ところ。

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 次は、Monster GO-DJを遊ぶ。バッテリーで動くポケットサイズのDJシステムだそうな。液晶で再現されたターンテーブル、物理スイッチのミキサーやエフェクター一切合財がペンケースサイズに詰まっている。プロの方をお呼びして、実際にプレイしてもらうのだが、このサイズで完全に成立していることが凄い。

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 夕方からはスゴ本オフ、テーマは「音楽」で。バッキバキのロックバンドを、日本娘の超甘のシュガーコーティングしたBABYMETALを熱く語ったり、クラシックで空耳アワーをYoutubeで再現して爆笑したり、はたまたSFと音楽の美しい融合論を聞いたり、なんでもアリのオフでしたな。わたしは錯視・錯聴による認知の本質について→[知覚を生み出す脳の戦略『音のイリュージョン』]

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 twitterまとめは、[BABYMETAL愛から音楽とSFの美しい融合『銀の三角』、空耳アワークラシックから本当は恐ろしい子守歌まで、スゴ本オフ「音楽」まとめ]をどうぞ。紹介された本・音楽・映像は以下の通り。


  • Emancipation/Prince
  • go Home!/U2
  • ギミチョコ!!/BABYMETAL
  • 空耳アワーPart1『レクイエム 主、イエスキリスト』モーツァルト
  • 空耳アワーPart2『オペラ フィガロの結婚 第3幕』、『レクイエム「9.聖なるかな」』、『オペラ 魔笛 第3幕』モーツァルト
  • 空耳アワー番外編『オペラ ラ・ボエーム 2幕フィナーレムゼッタのワルツ『私が街を歩けば』プッチーニ
  • 空耳アワーPart3『オペラ ノルマ からアリア 清らかな女神』ベッリーニ
  • 空耳アワーPart4『カルミナブラーナ 8.今こそ愉悦の季節』オルフ
  • 空耳アワーPart5『オペラ 魔笛から夜の女王のアリア 復讐の炎は地獄のように我が心に燃え』モーツァルト
  • 『EXIT(エグジット)』藤田貴美(白泉社)
  • 『失くした1/2―尾崎豊にアンサー・コール』CBS・ソニー出版
  • 『永遠の森 博物館惑星』菅浩江(ハヤカワ文庫JA)
  • 『伝説のイエロー・ブルース』大木トオル(講談社文庫)
  • 『うたってよ子守唄』西舘好子(小学館文庫)
  • 『ユーザーイリュージョン―意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ(紀伊國屋書店)
  • 『黒人リズム感の秘密』七類誠一郎(郁朋社)
  • 『ポクの音楽武者修行』小沢征爾(新潮文庫)
  • 『ピアニストという蛮族がいる』中村紘子(文春文庫)
  • 『銀の三角』萩尾望都(白泉社)
  • 『チャーリー・パーカーの技法』濱瀬元彦(岩波書店)
  • 『音のイリュージョン』柏野牧夫(岩波科学ライブラリー)

 この音遊び、もう一度やりますぞ。シンセサイザーのKORGとRovioによるコラボイベントで、LittleBits Synth Kitを遊び倒せる。自分だけのオリジナルアングリーバードソングを創ろう。8/31、麹町、参加費無料で、「KORG x Rovio アングリーバード 音遊びワークショップ !!」をチェックしてほしい。

 そして、次回のスゴ本オフは「猫と犬」、9/27(土)渋谷某所でやります。[facebook:犬と猫のスゴ本オフ]からどうぞ。なんとな~くだけど、スゴ本オフのメンバーは猫派が多いような気が……

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劇薬小説『左巻キ式ラストリゾート』

左巻キ式ラストリゾート 読む暴力。セックス&バイオレンス描写の破壊力のみならず、そのコンテンツを嗜む人を狙い撃つ悪意という名の善意が残酷すぎる。歴戦のエロゲーマーにトドメを刺すのが、これだ。

 記憶喪失の主人公が目覚めたのは、12人の少女が生活する学校。お約束のハーレム世界、閉鎖空間、そいつをぶち壊すサイコパス。女を蕩かす催淫剤、連続陵辱スプラッタ、純愛、そしておもらし。文字通り読み手(=プレイヤー)を引き込み、問いを突きつけ、自分がやっている行為を無理やり見せ付けてくれる。読み手を、物語の消費者とさせてくれない危険な小説(注意:読者は安全圏でない)

 物語の役割は、現実のシミュレートだ。どんなに珍奇でありえない世界であろうとも、そこで展開される対話や行動は、読み手とつながっている。人が一切登場せず、たとえ非生物であったとしても、物語を受け取る人は、そこに自分を見ようとする。好悪や否定も含め、現実と比較しようとする。なぜなら、それこそが理解する即ち「読む」ことそのものだから。読むことを通じて、人は自分の欲望を充たしたり引っ込めたりする。リアルとは違って、真の意味でFREE PLAYなのだ。

 グロスで来るエログロに冷静な主人公は、それを読む"わたし"の異常性をあぶりだす。つまりこうだ。バラバラにされた肢体を前に、魚の腐った生臭い血潮の中、「正直に言うと、つまらない映画がやっと山場を迎えた時のような、ほんの少しの期待と喜び……そんなものを感じている」。まともじゃない。この感覚そのものが異常なのだが、正直に言うと、この手のジャンルを飲み食いする"わたし"自身、彼のように感じているのではないか。

 お約束の設定からめちゃくちゃに暴走する物語なのに、主人公と犯人の両方に"わたし"をシンクロさせる手腕は素晴らしい。劇物好きであればあるほど、危うい。この小説が危険なのは、"わたし"を物語世界に没入させるべく仕掛けるのではなく、「いま」「ここ」こそが、抜き差しならぬ暴力とエロスに満ちた世界であることを、わたし自身の感情を通じて証明しているところ。エログロに「退屈」を覚えているわたしこそがエログロなのだ。現実をシミュレートした物語を消費している"わたし"自身を、この物語がシミュレートしてくる。これは怖いデ。

 もとはゲームのノベライズという。これまで沢山のエロゲを消費してきた人が、最後にするゲームとなるのは、これだ。これをクリアする(=読み終える)ということは、「リアルという名のゲーム」と対峙する以外の全ての選択肢が消えてしまうのだから。

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『レトリックと人生』はスゴ本

N/A

 今年一番どころか、人生ベスト10に入る一冊。

 「人は、どのように世界を理解しているのか」について、納得のゆく結論が得られる。"理解"を理解することができ、メタ的な知見が手に入る。知覚とは、経験のフィードバックループで構築されたパターンを通じて世界を追認識する行為だと考えていた。だが、まさか"理解"そのものも同じ仕様であるとは思わなかった。ヴィトゲンシュタインからピンカーまで、これまで読んできた名著のみならず、わたし自身の体験と照応し、腑に落ちる。本書を読むことそのものが、驚きと興奮に満ちた知的冒険となった。

 その仕様こそが、レトリック(原題ではメタファー/隠喩)だ。人は、メタファーを通じて世界を理解している、というのが本書の主旨になる。メタファーは、単なる言葉の綾ではなく、認知や思考が基づいている概念体系の本質を成している、"理解"の器官なのだ。

 たとえば、「時間」という概念。24時間とか一世紀といった目盛りはあるものの、便宜上つけたものにすぎない。変化を認識するための基礎的な概念にもかかわらず、哲学や自然科学、文化や時代によって定義が異なっている。時間そのものを明確にできないが、時間が「どのようなもの」かは共有できている。それは「Time Is Money(時は金なり)」のメタファーで理解しているから。

  • You're wasting my time. 君はぼくの時間を浪費している
  • This gadget will save your hours. この機械で何時間も節約できる
  • How do you spend your time these days? 最近何に時間を使っている?
  • You're running out of time. 時間がなくなってきたよ

 時間とは、金のように「価値がある」もので、何らかの活動に割り当てて「使う」ものでもある。大切なものをムダに「浪費する」こともできる一方で、工夫により「節約」したりもできる。時間にまつわる様々な述語を見ていくことで、「どのようなもの」かが浮かび上がってくる。人は、時間をいうものを、他の事柄(=メタファー)を通じて理解しているというのだ。

 あるいは、「気分」という概念につけられる方向性。漠然とした心身の状態を、「気分上々」とか「気分が落ち込む」と表現する。「Happy Is Up; Sad Is Down(楽しいは上、悲しいは下)」の事例を見ていると、「上」と「下」に感情が付けられていることが分かる。健やかに成長することは、地上から上の方向に向かって伸びることであり、老いや病いに侵され、死に向かうことは地面(地下)に向かってうなだれ倒れることである。

  • Get Up Hurry! (早く起きろ)
  • He Fell Asleep. (彼は眠りに落ちた)

 他にも、内外(in/out)、前後(front/back)や着離(on/off)といった空間の方向性の関係が解説される。これは、人の肉体そのものが方向性を持ち、物理的環境の中で機能しているという事実から生じているという。人は地面に足をつけて「立ち」、前と後ろといった「向き」があり、前に向かって「進む」。世界の"理解"の仕方が、物理的な空間体験との相互作用から生じているというのだ。

 面白い思考実験がある。「Up」という概念を単独で理解しようとしてもできない例として、球形の地球外生物を持ち出してくる。重力場の外にいる球形の生物がいるとしよう。この生物は、自分たちの経験に基づく知識しか持たない。そうした生物にとって、「Up」は何を意味するだろうか。その答えは、球形生物が行う生理的活動や文化によって決まっていく。メタファーから成る概念は、現実に構造を与えているというのだ。これはフレーム問題を解く鍵となる。コンピュータが肉体(=知覚と経験のフィードバックループ)を持たない限り、AIは人のような理解に到達することはない。どんなに脳科学が進んだとしても、せいぜい「脳がどのように活動しているか」が分かるだけだろう。

 このアイディアを進め、メタファーが現実に構造を与えているだけでなく、新しい現実を創出するという。つまり、(その文化にとっての)新しいメタファーが概念体系に入り込み、知覚様式や行動基盤を変化させる。良い悪いは別として、「あたりまえ」がアップデートされるのだ。たとえば、世界が西欧化したのは、「時は金なり」というメタファーを自国の文化に取り入れたことによって生じたという。既にこのメタファーの中にいるわたしが、その外側に立つことは極めて難しいが、あえて歴史を振り返るなら、時ではなく「機(=時機、タイミング)」を見ることに価値がある時代があったと考える。

 さらに、文化や時代のみならず、メタファーは概念そのものを書き換える。時間を意義あるものとしてとらえ、時間に基づいて労働を数量化するところから、「労働時間」(Labor Time)に対照となる「余暇時間」(Leisure Time)という概念が出てくる。「なにも活動しない=無意義」とする社会では、余暇活動も生産的に計画的に使われるようになる。労働と時間を「資源」とするメタファーが、労働時間外=余暇の概念を上書きする。余暇は"vacation"の空っぽの時間を効率よく使う活動になってしまったのだ。語源と使われ方に着目すると、メタファーの影響力が透ける。かつて「学校/school」は「スコレー/閑暇」だったが、学校での活動は暇つぶしではない。「教育の効率化」が普通になったいま、次は「子育ての効率化」があたりまえになるのだろうか。

 知覚と経験のフィードバックで構成される全体像を、本書では「経験のゲシュタルト」(expriental gestalt)と呼ぶ。これは、肉体や知覚、感情、物理的環境や相互作用を通じて、「世界とはこういうもの」を常に更新してゆく。世界とは様々な相があり、部分で構成され、段階を持ち、因果関係により説明される。押せば動くし、食べれば無くなる。特定の文化や言語圏における一貫した経験は、そのまま世界を理解する仕様となる。これがメタファーだ。原題は、"Metaphors We Live By"(メタファーによって、生きている)というのは、メタファーが無い、ナマの、物自体の世界は、理解することも生きることも適わない。

 これまで、「人は、どのように世界を理解しているのか」について、シントピカル読書を続けてきた。哲学(ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』)、認知科学(ピンカー『心の仕組み』)、経済学(カーネマン『ファスト&スロー』)、科学哲学(チャルマーズ『科学論の展開』)などから攻めてきた。これに、積読山のチョムスキー『統辞構造論』、レイコフ『数学の認知科学』)を追加する予定だ。

 そこから得られたアイディアを加速し、補強し、知的興奮を沸き立たせてくれるのが、レイコフ&ジョンソン『レトリックと人生』。チョムスキーとの相性は悪いが、どんな反応・融合をするかは楽しみだ。

 "理解の仕様"について、理解を可能にする一冊。

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ホラー映画から学ぶ『恐怖の作法』

恐怖の作法

 本当に怖いものとは何か?ホラー映画の技術を通じて知る、恐怖の本質。後半は、観客や読者を怖がらせるための、恐怖のデザイン・パターン論。

 ホラー映画という確立されたジャンルにおいて、本当に怖いものは稀だ。ゾンビや殺人鬼が出てきても、恐怖(fear)というより驚愕(surprise)の印象が強い。わたし自身、そういうオバケ屋敷的なエグさや嫌悪感は大好物。

 しかし、著者によると、それは「本当に怖いもの=ファンデメンタルな恐怖」ではないという。著者はJホラーの小中千昭。脚本や演出における手の内を惜しみなく晒しながら、「本当の怖さ」とは何かを伝える。恐怖は確かに伝染するが、その伝染の作法は、「驚愕」とは限らないのだ。

 本当に怖いとき、人はどうなるか?映画『リング』の観客が顕著だったという。著者は、映画のスクリーンではなく、「映画を見る人たち」をこっそり観察したのだ。

観客の姿勢は、徐々に腰を前方にずり下げ、頭を極力スクリーンから離そうとする姿勢に、無意識のうちに移行していった

 本当に怖いものと対峙したとき、人は悲鳴をあげたりダッシュで逃げたりしない。見たものを信じられないまま顔を背けながらも視線は釘付けになる。見たくないから手で顔を覆うが、完全に視界を塞ぐと危ない。だから指の間からそっと覗く―――大人になって一作だけ、そんな風に見た映画がある。『女優霊』だ。「いい大人が、夜中にトイレにいけなくなる」評判通りで、夢に何度も出てきた。

 その『女優霊』や『リング』を手がけた高橋洋との対談が収録されている。わたしがなぜあんなに怖かったのかを知る。それは、「リアルではなく、リアリティ」だ。リアルにとっての恐怖とは、「死」そのものだ。この常識に囚われて現実にすり寄るような画では、怖いかどうかなんてジャッジしていないという。

 例えば、『リング』における呪いのビデオで揉めたエピソードが明かされる。ビデオを見た人が死ぬところを、主人公に見せなければダメだという意見が出たそうな。確かに原作にはそういう描写がある。死ぬのを見ることが、主人公にとって一番怖いことだという常識である。確かに、現実はそうだろう。

 だが、そんな現実をフィクションで見せたところで、せいぜい人がウグウグ悶えているだけではないかと斬る。それより、死ぬ場面は伏せておき、主人公には死に顔だけ見せ、どんな死に方だったんだろうと観客にも想像させる。その方が「怖い」と。恐怖とは、プロセスなんだね。

 著者は、「恐怖とは段取りである」という。観客が恐怖というエモーションを抱くまで、段階的な情報を提示していく必要がある。そのプロセスこそが恐怖であって、「バーン!!」とかいう擬音語が似合うシーン(映画用語でショッカー)は、「怖さ」というより「驚き」に過ぎぬという。ショッカーは、「その映画で最も怖かったシーン」として恐怖のアリバイになる。だが、最も怖かったのは、そこへのプロセスなのだ。

 映画やテレビドラマに限らず、2chの連鎖系怪談による「恐怖の伝播」の手法が興味深い。まとめ「シャレにならないほど怖い話」を中心に、匿名前提の、不特定多数が書き込む掲示板だからこそ存在し得た現代怪談群を分析している。

 要するにこれだ、「これから語ることは全て自己責任の上で読んで下さい。その結果、何が起ころうとも当方は関知しません」で始まり、オチは「これを読んでしまったからには、あなたも例外ではありません。実はこういう事情があって、その呪いを減ずるために書き込みをしたのです。犬に噛まれたと思って、別の人に広めてください。あなたへの呪いを減らすために(マウス反転)」で終わるやつ。著作権を鑑みてあらすじ形式になっているけれど、耐性ない人はこの概要だけでも恐くなってくる。リアリティの伝播からくる恐怖だろう。

 「ことりばこ」「くねくね」など、懐かしいものがある一方、調べきれてなかったものを見つける。「牛の首」だ。最も恐ろしい怪談として引き合いに出されるのだが、その内容は恐ろしすぎてとても書けない、つまり実際には存在しないものとして、断定を避けながらも「本体の物語は存在しない」と述べている。ちがうぞ、「牛の首」は、「鮫島」のようなネタではない。

くだんのはは

 本体は、これ。小松左京の傑作だと断言する。本作も、リアルではなくリアリティが追求されている。現実の話ではない、それは頭で分かっている。でも、読んでしまうと、いかにも「ありそうな話」として受け止めてしまい、知った自分が呪わしくなる。

 ホラーの愉しみかたを通じて、恐怖の本質に触れる一冊。

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