科学が神話を生み出すとき『<科学ブーム>の構造』
数字は嘘をつかない、嘘つきが数字を使う。この"数字"を、"科学"にしても成り立つ。本書は、その仕組みを明らかにする。
むかしパトロン、いま予算。科学にはカネがかかる。研究費の必要性に説得力を持たせるため、しばしばレトリックが用いられ、時には大言壮語になる。そして、科学がカネになる下地と下心があるとき、科学はある種の神話を生み出す。人は見たいものを見て、信じたいものを信じる。その行動を正当化するための物語こそが、科学っぽい語り口をした神話なのだ。
そして、ひとたびイノベーションと認められ、政策化されると、神話はブームになる。科学的な検証はなされないまま、今度は信心が神話に説得力を持たせ、ブームは維持されてゆく。本書では、科学が神話を生み出し、神話がブームに変化する構造を解き明かす。
その事例として1950-60年代の殺虫剤DDTと、1990-ゼロ年代のナノテクノロジーを題材に、メディア、行政、専門家、そして業界の人々が、どのように荷担し、喧伝し、利権を生み出していったかを多角的に浮き彫りにする。巨額の科学政策費が、結局どう使われていったのか、その神話の科学的な妥当性はあったのか、終息後、収穫は得られたのかなど、ブームの「査定」を行う。
思わず唸ったのは、レイチェル・カーソン『沈黙の春』の再検証。「奇蹟の殺虫剤」DDTブームに対し、残留物の危険性を訴えることで、テクノロジーへの大衆イメージを逆転させたことまでは周知の通り。だが本書では、『沈黙の春』出版の25年後に検証された『サイレント・スプリング再訪』を引いて、化合物=悪とする考えに疑問を呈する。カーソンの主旨はおおむね正しかったものの、彼女が予測した未来には間違いもあった。人間だけではなく、自然も発がん性のある物質を生み出してるというのだ。
本来、こうしたチェックはマスコミがするはずなのだが、本書では、逆にブームの煽り役、プロパガンダーとしての日経新聞が統計的に炙り出される。「奇蹟の」「魔法の」接頭語がついたバズワードを振り回し、科学がカネになるときも近いと勘違いさせる報道は、今振り返ると中二病そのものやね(後追いの朝日新聞は環境問題や利権を警告するスタンスなのがもっと笑える)。奇蹟も魔法もあるのはアニメの話、せめて「○○とは何だったのか」的に過去の報道を反省してほしいもの。マスコミと神話の相補関係を暴く件が、本書の最も面白いところ。
さらに、アメリカのナノテクの展開と、追随する日本を比較した考察が興味深い。「国会図書館のすべての情報を角砂糖大のメモリに収める」クリントン大統領の演説は覚えているだろうか。ネタ元は、リチャード・ファインマンの講話「原子で世界を構築する(Shaping the World Atom by Atom)」で、さらにそのアイディアは、ロバート・ハインライン『ウォルドー』から拝借したものだという。米国では、ナノテクは実生活から離れ、社会的文脈でいかに利用するかの「物語」に終始していたという指摘は(後付けながら)納得できた。
いっぽう日本では、ナノテクは材料とセットで語られる。投資効果に対する厳しい要請の下で、比較的成果の出やすいのが素材分野だからだ。しかし、ナノテクの定義が曖昧だったため、イメージだけが無闇に膨らむ反面、当事者意識の少ない科学者コミュニティは沈黙を続けていた。科学的根拠がはっきりしないまま、「ナノホワイト」や「ナノブロック」などマーケティング手段として利用されたのは記憶に新しい。
ファインマン神話を利用して、科学を物語化した米国と、現場と乖離した商品の形で、ひたすらイメージを消費していったのが日本が対照的だ。科学に対する漠然とした期待がカネになる構造の背後に、神話が存在する。科学ブームを生み出す神話とは、科学を「信じたい」という大衆と、科学を「カネにしたい」とする産軍複合体と、科学を「国力にしたい」とする政府の動機を具体化する物語なのだ。
かつて錬金術は科学を生んだが、いまは科学が錬金術を求めているのかもしれない。科学はカネがかかるのだから。
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