子に伝えたい写真の力『TEN YEARS OF PICTURE POWER』
写真、しかも物理的な一枚のもつ力は、「ほら、ここに写っている」だ。
新聞を止め、TVの報道番組を止め、「ニュース」は複数のネットソースから当たるようになっているにもかかわらず、紙のNewsweek日本版を購読している理由は、ここにある。指で、「ここに写っている」と、子に示せるから。物理的に、誰かに、「これ」と渡すところが重要なのだ。
もちろん、写っていることが真実の全てだと無邪気に信じることはない。だが、その一枚で伝えたいことは、まず無批判に受け止める。そして、そのための写真的文法や演出やメタファーをいったん了承した上で、あらためて吟味する。他のチャンネルに当たるし、考えを話し合って妥当性を確かめもする。嘘も糞も流れ去ってしまうTVや、記者の偏見垂れ流しのままの新聞では、こうはゆかぬ。この目の前の一枚を指差し、メッセージを掴み、その妥当性を判断し、その根拠を伝える。このフルセットこそが、子に身につけてほしいリテラシーになる。
"Days Japan"は格好の教材だけど、イデオロギーに染まりきっており、センセーショナルを追求するあまり、極端に残虐な画像を載せようとする。わが子がもう少し大きくなって、嘘と演出と極論の分別が付くようになったら、渡すことにしよう。代わりに、比較的穏健(?)なNewsweekの報道写真特集である[Picture Power]を見せてきた。『TEN YEARS OF PICTURE POWER』は、その10年分の集大成だ。当時の世界情勢と共に振り返る「写真の力」は、一冊のモノであるメディアとして、フォトジャーナリズムの役割を果たしてくれる。
たとえば、戦場カメラマンが最期に見た光景や、長距離列車や密航船による亡命の実情(大部分が死ぬ)、文字通りレンズに"刻まれた"地獄絵図や、フィクションそこのけの麻薬戦争の非道、そして、新月の闇が明かす被災地の現実が、一枚の写真で示される。子と一緒になって、「その写真で、何を伝えたいのか(メッセージ)」「なぜその写真なのか?(モチーフや構図)」そして、「それは真実なのか?なぜそういえるのか?(演出と判断)」を語りあう。
メッセージや構図については、人生の先輩として教えることができるが、そこからどう判断するかは別だ。意見を異にすることもあった。子の場合、写真の脇に添えられたキャプションに引きずられがちだ。
たとえば、'We Were Just Going Home'というタイトルの一枚。2005.11、イラク北部タフアファルで撮影されたもの。両親の血に染まり泣き叫ぶ少女に、スポットライトのように光が当たり、米兵の銃身がさえぎるように写りこむ(両親の遺体は撮影者の右後ろにあると思われる)。民間人の家族を乗せた車をテロリストと誤認し、銃撃したのだ。
日本語の見出しで「イラク人家族を襲った悲劇の銃弾」とあるが、これは"悲劇"というには陳腐すぎる。混乱と恐怖と暴力が、"そのまま"の形で見える。見るものの感情を奪うほどの強烈さは、強いて言葉にするならば、'We Were Just Going Home'ぐらいしか出てこない。米国は、この暴力を実行できるくらい"豊か"で、この暴力を報道できるくらい"自由"なのだ。善悪を抜きにして、淡々と語り合う。
おかげで、「正義の反対は悪」「平和の反対は戦争」と言わないくらい賢明になった。記事からイデオロギーを読み取って、事実と解釈を分けるようになるまで、あと少し。

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