読んで読んで読まれて読んで読んで読みつぶれて眠るまで読んで『狂喜の読み屋』
筒井、円城、町田康、ピンチョン、ソンタグ、サリンジャー、片っ端から徹底的に、ひたすらに誠実に面白い本を紹介しつづける。本読みの微熱がじんわり伝わってきて嬉しい。
実は、わたしもお世話になっている。どちらも最大限の賛辞「文学の持つ恐ろしいまでの力を再認させてくれた」で紹介されたため、読んで呑まれた傑作なり。文学は「可能性」などというあやふやなオブラートではなく、読者を緊張させる圧力であり、皮を裂いて進入してくる刃物であることが、よく分かる(二つ目は劇薬なので扱い注意)。
ホロコースト劇薬小説『ペインテッド・バード』(成年向け姉妹サイト)
「読み屋」とは、忙しい編集者に代わって、新刊の洋書を読みレポートにする仕事。売れそうであれば権利をとってプロの翻訳家に任せることになる。一冊一万から二万で、一冊に一ヶ月はザラだったというから、月収一万円になる。時給換算で百円を切るというから、どうやって食べてたのだろうか。この代読屋時代の苦労話が、泣けると同時に身に染みる。
それまでは、いわゆる優等生的に、さっと翻訳本を読んでパッと要点を掴み、借りてきた文句で分かった気にさせる読書だったそうな。いわゆる文芸書の書評家によく見かける、自分の枠にむりやりはめ込む読み方だね。それが、裸のままで原書と格闘し、よく分からないまま数百時間かけて一冊を読むうちに、経験のないことが起こり始めたという。
句読点の打ち方や言葉の選び方、音の響きなどを通じて、書き手の息遣いや思考の癖までもが僕に乗り移ってきたのである。それは、話す言葉も違う、会ったことがない、理解もできない人と一ヶ月間同居するのに似ていた。いや、それ以上に親密かもしれない。言葉は思考そのものだから、他人の思考が僕の脳内に無理やり入り込み、僕の身体を使って暮らし始めるのだ。
分かる。わたしの場合は一冊の洋書ではなく、開高健全集を通じて体験したこと。似たようなことを、片岡義男がペーパーバックの山を前にして言ってた事を思いだす。小林秀雄も同様に、全集を隅々まで読むことで「小暗い処で、顔は定かにわからぬが、手はしっかりと握ったという具合な解り方をして了う」と述べている。眼前の文を通して、奥の人を"分かる"感覚、読書好きなら「文は人なり」を身体感覚で知っているだろう。あの微熱というか、本読みの呪いみたいなもの。
本書には、そんな呪いが延々と展開されている。円城塔『バナナ剥きには最適の日』では、友人はスマホの文字列でしかない読者と宇宙船の"彼"の違いなんてないと言い切り、戌井昭人『すっぽん心中』にて、リアルな尻とバーチャルな尻について熱く語る。金原ひとみ『憂鬱たち』では、視線やピアスやペニスに貫かれることは苦痛を伴う自傷行為であると同時に、膨れ上がった自意識を抜く治療でもあると分析する。
強烈なのは、マーク・トゥエイン『トム・ソーヤーの冒険』の再評価だ。評論家たちは人種差別テーマが入った『ハックルベリー・フィン』を高く評価する。だが、人種差別問題は、『トム・ソーヤー』からより残虐に読み取れるという。ほら、あのインジャン・ジョーのことだ。彼が受けた仕打ちや、それを妥当なものとする物語の筆致、そして彼の死は偶然の悲劇であり誰が悪いわけでもない展開の裏側に、白人社会の見えない「悪意」を浮き彫りにする。
それはアメリカ合衆国で、ネイティブ・インディアンに対して過去、大規模な虐殺が行われたことを人々が認めてこなかったからだ。そしてそこが歴史認識の盲点になっているからこそ、『トム・ソーヤー』におけるインジャン・ジョーのひどい扱いについてもみな気づかないのである、と。
インジャン・ジョーは極悪人で、白人社会を憎んでいる。だがなぜそうなったのかは、語られない。この「語られない」ことを語り、そこにジョーを死に追いやった共同体(=アメリカ合衆国)の独善を感じ取る。この"読み"のセンスは凄い。tumblrで知ったアネクドートを思い出す。
トム「アメリカ合衆国は、移民が成功した唯一の国だ」
太郎「国全体が移民だからね。だから、質問するならネイティブ・インディアンに聞かないと『移民が来てよかったでしたか?』ってね」
トムとハックをこの視点で読み直したら、ぜんぜん別ものになりそうで恐くなる。未読のものは(もちろん)読みたくなるし、既読のものは(やはり)再読したくなる。読むと、読みたくなる呪いがこもった一冊なのだ。

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