同じ本を二度読むことはできない『読書礼讃』
読書の師匠アルベルト・マングェルからの贈り物、「本を読む喜び」が詰まった一冊。紹介される作品はどれも読みたくなる(再読したくなる)誘惑に満ちた書評集でもある。
「同じ本を二度読むことはできない」は、ヘラクレイトスの「万物は流転する」を読書に言い換えたものだという。なぜなら、読む本は同じでも、読む人が変わるから。同じ本を再び手にするまでに、記憶、趣味、経験、先入観は変化するから。
しかし、不変なものもあるという。読む楽しみのことだ。そしてマングェルは、本を手にしているとき、不意にとらわれる奇妙な感覚―――不思議な驚き、ぞくぞくするデジャヴや温かさを感じるジャメヴを、無邪気に顔をほころばせながら語りかけてくれる。未経験で名前のない感情を、『リア王』のページにみつけたり、物語が物語を(読者ごと)呑み込むうねりを『ドン・キホーテ』を解きながら見せてくれる。
マングェル一流の"読み"は、人種問題、ジェンダー、創造的な贋作、テクノロジーと書物、翻訳と編集の役割など多岐に渡る。そこで紹介される作品は、『不思議の国のアリス』や『オデュッセイア』、ボルヘスやカフカなど、おなじみのものばかりだが、そこから掴み取る"読み"が素晴らしい。裏読み深読み多層的で、作者ですら思い及ばなかった意図を抉り出し、時には危険なほど接近した読書になる。未読なら強烈な読書欲が湧き上がり、既読なら猛烈な再読欲に駆られるだろう。
たとえば、フォースター『モーリス』やカポーティ『遠い声、遠い部屋』を取り上げ、ゲイ文学について語る。ヨーロッパでゲイにたいする敵意が広がったのは、12世紀半ばになってからだという。そして、いったん生まれた偏見が、他の全ての性質を無視した上で規定されてしまう不寛容を咎める。「オスカー・ワイルドを咎めるくせに、ダ・ヴィンチとアレクサンドロス大王の同性愛には目をつぶる」指摘は、マジョリティの二枚舌を刺してくる。
同時に、作品に共通する孤立感を見抜く。異性愛者は性にまつわる道徳観を、家庭、学校、職場、映像や活字などさまざまな場所で学ぶが、同性愛者はそうではない。ゲイとして育てられる者はいないのだから、(少年が)違いを自覚したとき、彼はそれを独りで受け入れるしかないという。この指摘は鋭い。
わたしの場合、ワイルドなら『ドリアン・グレイの肖像』、カポーティなら『冷血』を読んだが、マングェルのおかげで、これらの作品に「拒絶された孤立感」というテーマが隠れていることに気づく。どちらもゲイ文学ではないが、同じ罪を犯した男同士の親近感は、はっきりと覚えている。同性愛を"罪"と見なしたがる社会の不寛容さと、その隠喩としての"共犯者"という構造は、もう一度これらを手にするとき、再読というよりも全く新しい作品として読むことを促すだろう。
本書に繰り返しあらわれるテーマとして、「読むとは何か」がある。読書は決して受容的なものではなく、自分の過去に照らし合わせてこんな状況は前にもあったと振り返ったり、新しい人生経験を得るたびに、本のなかに予兆となるものはなかったかと思い巡らせたりする。「これ進研ゼミでやった」という、人生シミュレーターとしての読書だ。
そのためには、現実から身を離し、物語の中に移動しなければならない。なぜなら、読み手が拠って立つこの現実は、その中にいるかぎり見えないものだから。自分が何者で、どこにいるのかを知るには、想像やプロット、ほのめかしを通じて、いったん場所を移すというプロセスが必要だという。マングェルは指し示す。ゴルゴーンの顔をじかに見ないようにしたペルセウス、神から顔をそむけたモーセのように、現実の経験を直接にではなく、いったん別の場所においてから理解させるための、物語のメタファーなのだと。
最も広い意味において、メタファーは、私たちがこの世界、そして当惑させられる自己の姿を垣間見る(そして、ときとして理解する)ための手段なのだ。すべての文学作品はメタファーだといっても過言ではない。
人生は、私たちに偽の表現を何度となく与える。ボルヘスにとって、人生とはボルヘス的な小説世界の完全な似姿だった。そのなかで、読者は、あるひとつのテクストに、すべてが包含される完璧な答えを吹きこむのだ。
これは、「なぜ読むのか?」にもつながる。[それでも、読書をやめない理由]や、[なぜ小説を読むのか?なぜ小説を書くのか?]で掘り下げた、わたしの答えと一緒だ。ただ楽しみのために読むのが入口だとして、どんどん奥に(深みに)はまるうちに、読んでいるものを通じて世界を知ると同時に、自分を識りなおすのだ。自分が、その作品を、どう解釈しているのか、現実をどのように喩えているかが分かれば、そういう自分を、(自分じゃないところから)見ることができるのだ。
読む悦びを噛みしめる一冊。
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