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読んで読んで読まれて読んで読んで読みつぶれて眠るまで読んで『狂喜の読み屋』

狂喜の読み屋 積読必至のブックガイド。

 筒井、円城、町田康、ピンチョン、ソンタグ、サリンジャー、片っ端から徹底的に、ひたすらに誠実に面白い本を紹介しつづける。本読みの微熱がじんわり伝わってきて嬉しい。

 実は、わたしもお世話になっている。どちらも最大限の賛辞「文学の持つ恐ろしいまでの力を再認させてくれた」で紹介されたため、読んで呑まれた傑作なり。文学は「可能性」などというあやふやなオブラートではなく、読者を緊張させる圧力であり、皮を裂いて進入してくる刃物であることが、よく分かる(二つ目は劇薬なので扱い注意)。

現実をスウィングしろ『宇宙飛行士 オモン・ラー』

ホロコースト劇薬小説『ペインテッド・バード』(成年向け姉妹サイト)

 「読み屋」とは、忙しい編集者に代わって、新刊の洋書を読みレポートにする仕事。売れそうであれば権利をとってプロの翻訳家に任せることになる。一冊一万から二万で、一冊に一ヶ月はザラだったというから、月収一万円になる。時給換算で百円を切るというから、どうやって食べてたのだろうか。この代読屋時代の苦労話が、泣けると同時に身に染みる。

 それまでは、いわゆる優等生的に、さっと翻訳本を読んでパッと要点を掴み、借りてきた文句で分かった気にさせる読書だったそうな。いわゆる文芸書の書評家によく見かける、自分の枠にむりやりはめ込む読み方だね。それが、裸のままで原書と格闘し、よく分からないまま数百時間かけて一冊を読むうちに、経験のないことが起こり始めたという。

句読点の打ち方や言葉の選び方、音の響きなどを通じて、書き手の息遣いや思考の癖までもが僕に乗り移ってきたのである。それは、話す言葉も違う、会ったことがない、理解もできない人と一ヶ月間同居するのに似ていた。いや、それ以上に親密かもしれない。言葉は思考そのものだから、他人の思考が僕の脳内に無理やり入り込み、僕の身体を使って暮らし始めるのだ。

 分かる。わたしの場合は一冊の洋書ではなく、開高健全集を通じて体験したこと。似たようなことを、片岡義男がペーパーバックの山を前にして言ってた事を思いだす。小林秀雄も同様に、全集を隅々まで読むことで「小暗い処で、顔は定かにわからぬが、手はしっかりと握ったという具合な解り方をして了う」と述べている。眼前の文を通して、奥の人を"分かる"感覚、読書好きなら「文は人なり」を身体感覚で知っているだろう。あの微熱というか、本読みの呪いみたいなもの。

 本書には、そんな呪いが延々と展開されている。円城塔『バナナ剥きには最適の日』では、友人はスマホの文字列でしかない読者と宇宙船の"彼"の違いなんてないと言い切り、戌井昭人『すっぽん心中』にて、リアルな尻とバーチャルな尻について熱く語る。金原ひとみ『憂鬱たち』では、視線やピアスやペニスに貫かれることは苦痛を伴う自傷行為であると同時に、膨れ上がった自意識を抜く治療でもあると分析する。

 強烈なのは、マーク・トゥエイン『トム・ソーヤーの冒険』の再評価だ。評論家たちは人種差別テーマが入った『ハックルベリー・フィン』を高く評価する。だが、人種差別問題は、『トム・ソーヤー』からより残虐に読み取れるという。ほら、あのインジャン・ジョーのことだ。彼が受けた仕打ちや、それを妥当なものとする物語の筆致、そして彼の死は偶然の悲劇であり誰が悪いわけでもない展開の裏側に、白人社会の見えない「悪意」を浮き彫りにする。

それはアメリカ合衆国で、ネイティブ・インディアンに対して過去、大規模な虐殺が行われたことを人々が認めてこなかったからだ。そしてそこが歴史認識の盲点になっているからこそ、『トム・ソーヤー』におけるインジャン・ジョーのひどい扱いについてもみな気づかないのである、と。

 インジャン・ジョーは極悪人で、白人社会を憎んでいる。だがなぜそうなったのかは、語られない。この「語られない」ことを語り、そこにジョーを死に追いやった共同体(=アメリカ合衆国)の独善を感じ取る。この"読み"のセンスは凄い。tumblrで知ったアネクドートを思い出す。

トム「アメリカ合衆国は、移民が成功した唯一の国だ」

太郎「国全体が移民だからね。だから、質問するならネイティブ・インディアンに聞かないと『移民が来てよかったでしたか?』ってね」

 トムとハックをこの視点で読み直したら、ぜんぜん別ものになりそうで恐くなる。未読のものは(もちろん)読みたくなるし、既読のものは(やはり)再読したくなる。読むと、読みたくなる呪いがこもった一冊なのだ。


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【まとめ】「デブリ落とし」によるプチ・テロリズム

 発端はSF小説『オービタル・クラウド』[レビュー]。スペースデブリ(宇宙ゴミ)を用いた新手のテロ手法を思いついたのが、[「デブリ落とし」というプチ・テロリズム]。インターネットは素晴らしい!専門家の方から問題点とヒントをいただいた。@lizard_isanaさん、ありがとうございます。

スペースデブリって何?→[宇宙ゴミ ― スペースデブリ/JAXA]

目的:数十万とも数千万ともいわれる軌道上のデブリを弾丸代わりにして、衛星にぶつけたり、地表の任意の場所に落とすテロリズム。

原理:地上から高出力レーザーで、デブリに電気を流す。地球という巨大な磁石の磁場にいるデブリは、流された電流によって力が働く(フレミングの左手)。わずかな力を与え続けることによってデブリの動きをコントロールする。

【問題1】レーザーで「電気」を伝えるなんて可能なの?
→レーザーを当てるだけで電流は流れません

 レーザーで電気を伝え、衛星で電気にしてデブリに当てる方法が思いつくのだが、これだと衛星を上げなければならない。『オービタル・クラウド』に出てくる「持たざる国家」としては地上から何とかしたいもの。

 ここから、何も「地表から」電気を伝えなくても良いのでは!?と考える。電離層にたっぷりある電子を用いて、すぐ傍の衛星軌道にあるデブリへ「電気」の形で伝えられないだろうか?ここを解いたなら、近未来SF小説としても安価なテロリズム手法としても良ネタができる。

【問題2】デブリが「どこ」にあるか特定できるの?Google?
→軌道衛星上のカタログはすでに公開されています[16000個の軌道上物体の現在位置]

 待てよ……「軌道衛星上のカタログはすでに公開されています」ということは、『オービタル・クラウド』の主役が手がけてた、流れ星予報のWebサービスは「いま・ここで」できるということではないか!! なんという接近戦なSFなり。"フィクション"なのは、登場人物たちの度を越したスキルだけだね。

 弾丸よりも速いデブリを、地表から狙い撃つのは、ピストルでピストルの弾を撃ち落とすようなものかもしれない。ピンポイントで狙い撃つのは至難の業だろう。ここは発想を変えて、「壊れた時計でも一日二回、正しい時を指す」アプローチから考えてみよう。即ち、秒速7kmのデブリが通る"瞬間"を狙うのではなく、奴が通りそうなルートに電気を伝えることはできないだろうか。電子が豊富な電離層は高度50-500km、デブリがあるのは2000kmあたり。地表よりはマシとはいえ、遠いなぁ。

 それでも、まだ気づいていない可能性がある気がする。子どもの頃は、「世界征服?原発の制御室を占拠すればお手軽だね」なんて気軽に考えていたが、高村薫『神の火』などから簡単にいかないことを知った。それでもチャレンジャーはひきもきらない。「デブリ落とし」は全く新しいアイディアで、できた人から世界を獲れる。新人テロリストが見つける前に、2020年までにモノにしたい。

オービタル・クラウド 『オービタル・クラウド』は、こんなにワクワク悩ませてくれた。キャラのチート加減は残念だが、最近の傑作SFだね。

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「デブリ落とし」というプチ・テロリズム

オービタル・クラウド 『オービタル・クラウド』[レビュー]からヒントを得て、「デブリ落とし」を思いついた。数十万とも数千万ともいわれる軌道上のスペース・デブリ(宇宙ゴミ)を質量兵器に仕立てて、地表の任意の場所に落とすアイディアだ。

 宇宙世紀0079年にジオン軍が実施した「コロニー落とし」のミニチュア版といいたいが、ほとんどのデブリは地表に到達するまでに燃え尽きてしまう。大気圏突入のタイミングや角度が予測できることから、流れ星のリクエストに応えるサービスになりそう(yamazaさん、アイディアありがとうございます)。さもなくば、デブリを弾丸代わりに衛星にぶつけるという新手のテロに応用できる。平和利用なら、「スペース・デブリ・クリーニング」サービスやね。『プラネテス』みたく人力で頑張らない掃除屋さん。

 原理。地上から高出力レーザーで、デブリに電気を流す。地球という巨大な磁石の磁場にいるデブリは、流された電流によって力が働く(フレミングの左手)。ロケットエンジンのような大きな力は使えないが、わずかな力を与え続けることによってデブリの動きを地表からコントロールする。Wikipediaによると、[テザー推進]の技術で、『オービタル・クラウド』に出てくる「軌道上の雲」もこの原理で動く。

 問題点1。そんな遠くに「電気」を伝えるなんて可能なの?マイクロ波やレーザー光の減衰率ハンパない(はず)。脳内妄想したところ、ヤシマ作戦並みの電気を使って、ようやく数センチ大のデブリを動かすぐらい。衛星を上げて太陽光発電させる仕掛けもあるが、コスパ考えるなら「地表から」にこだわりたい。

 問題点2.デブリが沢山あることは分かっているし、ISSに脅威な奴は名前くらい付いてて追跡されている(はず)。だけど、数千万ものゴミが「どのへん」じゃなくて「どこ」にあるかどうか、特定できるの?Google先生がなんかしてる。火星や月のマップを作ってるくらいだから、めぼしいデブリに番号を振って、軌道をデータベース化しているはずだから、正座してAPIを待つべし。Googleやってないって!? これ読んだアナタ、カリフォルニアのマウンテンビュー、パークウェイ 1600番へ行くべし(エンジニアでしょ)。

 『オービタル・クラウド』では某国のロケット技術と2020年までの数年間を要としたけれど、Googleなら来年にできる。ただし、邪悪になるなかれ(Don't be evil)。

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エンジニアが世界征服するなら『オービタル・クラウド』

オービタル・クラウド 2020年に起きる、前代未聞のスペース・テロを描いた傑作SF。

 タイトルにもなっている「軌道の雲」を構築・運用するやり口が現実的すぎて恐ろしい。近未来どころか、今から着手すれば2020年に間に合うんじゃないと思えるくらいリアルだ。モデルとなったテロ首謀国には見せない方がいいんじゃないかと、本気で心配する。

 基本原理と問題点は本書に書いてあり、設計はネットで引ける。調達と製造はiPhoneと○○だけで、「全部で千ドルもかかってないぜ。ポケットマネーで作れるんだ、こういうのは」。むかし昔『摩天楼の身代金』で、高層ビルとその住人を丸ごと人質にするアイディアを知ったときと同じくらいのヤバさを感じる。要するに「俺でもできる」だ(足りないのはモチベーションだけ)。それくらい身近な、近未来というよりは現未来。昭和生まれのわたしとっての近未来が、巨大宇宙船や宇宙ステーションなら、平成生まれの主人公の現未来は、極小のスペースクラフトになる。その具体的な形が、『オービタル・クラウド』なのだ。

 まず、初期設定がリアル。流れ星予報のWebサービスを運営する、平成生まれのフリーランサーが主人公。公開されている衛星上のデブリ(宇宙ゴミ)の軌道情報から、大気圏突入のタイミングと角度を計算し、「流れ星を予測する」なんて、いかにも(これから)ありそうなサービスじゃないか!ストビューやVRタグ付けのみたいに、周知のタイミング=APIが公開されてからのような、「いま・ここ」の延長上にある世界だ。

 しかもレンタルサーバのアクセス負荷に汲汲としながら、フリーのプログラマ女子と、渋谷のコワーキングスペースで趣味&仕事の日々なんて、理想の未来といえよう。そんな草食男子が、デブリの不審な動きを察知するところから、国家や組織や立場を超えたエキスパートたちの動線が、一本の物語に集約していく、つながっていく感にゾクゾクする。JAXAとCIAを巻き込んだ国際防諜戦と濃厚ガジェット満載のハードSFに酔いしれるべし(Raspberry Piをこんなに使い倒す小説はこれが最初で最後だろう)。『プラネテス』の泥臭い宇宙と、『ゼロ・グラビティ』の緊迫した宇宙を同時に味わうとともに、エンジニアたちの国家間にある「技術格差」の実体を痛いくらい感じる。

 裏テーマとして「技術屋の言葉を全世界に思い知らせる方法」は、(1)起業して大成功、(2)インフラへのテロの二択しかないことが分かる(悲しいけど、これ現実なのよね)。本書には両方書いてあるので、溜飲を下げる意味でも、インセンティブを励起する上でも読める。

 しかし、設定と世界観とギミックが楽しすぎる一方で、キャラ造形があれすぎる。要するに、俺無双。平成生まれのWeb屋や官僚は、魔法科高校のニュータイプ並に凄まじい。よくできたフィクションは、たった一つの強力な嘘を核にして、人や社会を描くもの。これは嘘が多すぎる。細部がリアルすぎる一方で、人が現実離れしている。要するに、そんな奴ぁいねぇ。出来杉クンばかりのチート・チームで、ラノベよりもラノベすぎるご都合主義。

 これは、登場人物のタイムチャートを先に作って、そうさせる動機を後から考えたからだろう。そして、キャラクターを「動かす」ための理由を、あと付けにしようとしたため、現実離れした組織運用や、幼稚すぎる動機が透けてしまう。例えば、あるキャラをシアトルに行かせる根拠を作るため、「ありえない」電話を成立させてしまう。フロントの人間は、そうした"事務処理"はしない。"ありえない動線"を実現させるために俺無双のキャラをこじつけると、その始末に負えなくなる(動機の裏取りを止めてから、ストレス無しに読めるようになった)。

 もちろん、このツッコミは重箱の角つつきすぎる。だが、細かいディテールでフィクションの中のリアルを演出しようとするのなら、物語の強いフレームとなる「動機」を揺るぎないものにしてほしい。ラノベ並の間口を必要とするなら、出すレーベルが違うだろう。良くも悪くもこのSF、サイエンス・ファンタジーなり。

 まるで見たことのない未来と、ステレオタイプのキャラクターで、昭和の未来を粉砕すべし。

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子に伝えたい写真の力『TEN YEARS OF PICTURE POWER』

TEN YEARS OF PICTURE POWER 写真、しかも物理的な一枚のもつ力は、「ほら、ここに写っている」だ。

 新聞を止め、TVの報道番組を止め、「ニュース」は複数のネットソースから当たるようになっているにもかかわらず、紙のNewsweek日本版を購読している理由は、ここにある。指で、「ここに写っている」と、子に示せるから。物理的に、誰かに、「これ」と渡すところが重要なのだ。

 もちろん、写っていることが真実の全てだと無邪気に信じることはない。だが、その一枚で伝えたいことは、まず無批判に受け止める。そして、そのための写真的文法や演出やメタファーをいったん了承した上で、あらためて吟味する。他のチャンネルに当たるし、考えを話し合って妥当性を確かめもする。嘘も糞も流れ去ってしまうTVや、記者の偏見垂れ流しのままの新聞では、こうはゆかぬ。この目の前の一枚を指差し、メッセージを掴み、その妥当性を判断し、その根拠を伝える。このフルセットこそが、子に身につけてほしいリテラシーになる。

 "Days Japan"は格好の教材だけど、イデオロギーに染まりきっており、センセーショナルを追求するあまり、極端に残虐な画像を載せようとする。わが子がもう少し大きくなって、嘘と演出と極論の分別が付くようになったら、渡すことにしよう。代わりに、比較的穏健(?)なNewsweekの報道写真特集である[Picture Power]を見せてきた。『TEN YEARS OF PICTURE POWER』は、その10年分の集大成だ。当時の世界情勢と共に振り返る「写真の力」は、一冊のモノであるメディアとして、フォトジャーナリズムの役割を果たしてくれる。

 たとえば、戦場カメラマンが最期に見た光景や、長距離列車や密航船による亡命の実情(大部分が死ぬ)、文字通りレンズに"刻まれた"地獄絵図や、フィクションそこのけの麻薬戦争の非道、そして、新月の闇が明かす被災地の現実が、一枚の写真で示される。子と一緒になって、「その写真で、何を伝えたいのか(メッセージ)」「なぜその写真なのか?(モチーフや構図)」そして、「それは真実なのか?なぜそういえるのか?(演出と判断)」を語りあう。

 メッセージや構図については、人生の先輩として教えることができるが、そこからどう判断するかは別だ。意見を異にすることもあった。子の場合、写真の脇に添えられたキャプションに引きずられがちだ。

 たとえば、'We Were Just Going Home'というタイトルの一枚。2005.11、イラク北部タフアファルで撮影されたもの。両親の血に染まり泣き叫ぶ少女に、スポットライトのように光が当たり、米兵の銃身がさえぎるように写りこむ(両親の遺体は撮影者の右後ろにあると思われる)。民間人の家族を乗せた車をテロリストと誤認し、銃撃したのだ。

 日本語の見出しで「イラク人家族を襲った悲劇の銃弾」とあるが、これは"悲劇"というには陳腐すぎる。混乱と恐怖と暴力が、"そのまま"の形で見える。見るものの感情を奪うほどの強烈さは、強いて言葉にするならば、'We Were Just Going Home'ぐらいしか出てこない。米国は、この暴力を実行できるくらい"豊か"で、この暴力を報道できるくらい"自由"なのだ。善悪を抜きにして、淡々と語り合う。

 おかげで、「正義の反対は悪」「平和の反対は戦争」と言わないくらい賢明になった。記事からイデオロギーを読み取って、事実と解釈を分けるようになるまで、あと少し。

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知覚を生み出す脳の戦略『音のイリュージョン』

 人が世界をどのように知覚しているかについて、仮説を持っている。

 それは、「人は世界を"パターン"で捉えている」だ。見ている像、聞こえている音がそのまま脳で処理されているわけではない。有限の神経系、感覚器官で対応するため、世界は人相応にパターン化される。珍しい仮説ではないが、このパターン化は自分自身に最適化されているところがミソ。世界は知覚する段階で既に再解釈され、歪み、わたし向けにカスタマイズされているのだ。

 たとえば、ある部分を見る/聞く/理解するetc…とき、知覚外の部分や隠れている箇所を、あたかも連続しているかのように補完しようとする。自然界では、対象を完全に捉えることはまれだろう。一部が遮られたりノイズが入るのが普通だ。人は、記憶や経験によって、その隠れた部分を補い、連続したものとして扱おうとする。そして、先天的なパターン回路を、文化的にカスタマイズされたパターンを獲得するのが、発達だと考える。

 この仮説は、視覚や聴覚といった感覚のみならず、言葉による理解の仕方に共通し、世界が孕む情報そのものとの差異こそが、人を人たらしめている輪郭になり、人の知覚の限界になると信じる。「語りえること」を語り尽くすことで、「語りえぬもの」の輪郭を突付けたヴィトゲンシュタインに対する、認知科学からのアプローチだ。チョムスキーやレイコフあたりから攻めている。

音のイリュージョン 『音のイリュージョン』は、この仮説を裏付けてくれる。錯視や錯聴を実際に体験することで、人がいかに発話や音楽をパターンで把握しているかが分かる。つまり、けっこう人は聞いていない分、脳や耳でパターンを補い・あてはめ・創造しているのだ。

 百聞一見、[だまし絵:隠された文字]を見て欲しい。パッと見なにか分かりにくい。

 だが、「隠している部分」を明示的に色づけると、すぐに了解する。これは、経験的に知っている文字の形を、隠れている部分を補うものとして当てはめようとするから、理解できる。文字の画像が視覚的に存在するから認識できるのではないのだ。これを見たとき、水玉コラ画像(例:[AKB切り抜き画像])を思い出したが、肌の連続性を補完する我が脳バンザイといえる事例だろう。

 同様のことが、音にも当てはまる。「音が聞こえる」のは、その音が物理的に存在するから───これは、実は正しくないことを実例をもって紹介する。音読した文や一連のメロディを、100ミリ秒の間隔ごとに音声信号を削除して無音にする。すると、ブツブツと途切れ、何を言っているのか聞き取りにくくなる。

 百聞一聞、まずは[知覚補完:連続聴効果]のAとCを聞いてみよう。次に、BとDを聞いてみよう。これは、削除した部分に「ザッ」という雑音を挿入したものだ。一定間隔にやかましいが、その雑音の背後で、削除されたはずの声や音が復活し、滑らかにつながって聞こえる。実際の音声信号と、人の意識に入ってくる音は違う。聞く人が意識しなくても、本来どのような音が存在しているかを、前後の残った部分から自動的に補ってくれる。物理的に音は存在しない。だが、無いはずの音を「錯聴」することで、メッセージやメロディを「聴く」ことができるのだ。

 イリュージョンとは、感覚器にインプットされる光や音の特性と、実際に人が受け取る近くないようとがずれているということ。センサ機器と比較するならば、確かに人の知覚は不正確かも知れない。だが、知覚の目的は、周囲に何があるか、何が起きているかを的確に把握することであって、インプットされる情報は断片的な判断材料にすぎない。世界そのものをそのまま把握しようとするならば、人サイズでは破綻する(余談だが、人工知能のフレーム問題の解決の糸口は、意外とここにあると思う)。

 他にも、映像に視覚が引きずられるマガーク効果や、日常的な情報の冗長性から成立する効率的符号化のメカニズム、視覚と聴覚の相補関係を「錯覚」という体感でもって説明する。リアリティとは、感覚の一貫性とフィードバックがもたらしているバーチャルな現実にすぎないことに気づく。現実は、パターン化して認知されているのだ。

 自分を実験台にしたイリュージョンで、現実を再定義しよう。

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名著『思考する機械 コンピュータ』

思考する機械 コンピュータの原理から、思考するコンピュータへの可能性まで、わずか250頁に圧縮されている。古いのに古びない名著。

 コンピュータの技術はあっという間に陳腐化するが、本書は無縁だ。なぜなら、これはコンピュータサイエンスの原理や概念を取り上げ、なぜそのような概念が必要なのかを解き明かすから。著者は、コンピュータの本質を、誰でも分かる言葉で書きたかったのだ。コンピュータを構成する物質―――トランジスタやシリコンチップといったテクノロジーが時代遅れになり、他の物質に置き代わったとしても、そのまま正しい考察として通用する原則を書きたかったのだ。

 本書は、コンピュータの基礎から始め、チューリングマシンや状態遷移、論理演算やアルゴリズム、並列処理、量子コンピュータから人工知能まで、一気通貫に駆け抜ける。子どもの頃に棒と糸でコンピュータを作った話や、講演会で「ドアにコンピュータが付く時代になるんだって!?」と馬鹿にされたエピソード、人に勝つチェスマシンのレシピを織り交ぜながら、興味深く解説してくれる。高校の情報処理の教科書にぴったり。他の本で回り道しながら苦労したわたしからすれば、本書が「最初の一冊」の人は羨ましいかぎり。

 だから、わたしは哲学書として読んだ。「脳は一種のコンピュータであり、人間の思考は複雑な演算にすぎない」と断定する著者に、違和感を抱きながら。たしかに、コンピュータは、思考プロセスを加速したり、拡大したりできるマシンだ。人の想像力を高め、創造力をアシストし、人間だけではとうてい到達できない世界にまで思考を広げてくれる。

 しかし、コンピュータがやっていることは、「思考」なのか。今そうでなく、未来そうなるというのであれば、コンピュータがやっていることの延長上に、「思考」が存在するのだろうか。チューリングテストに合格したら、「思考している」といえるのか。あるいは、長いこと「中国語の部屋」に居たなら、(中国語を解さないままだとしても)「思考している」といえるのか。さまざまな質問をぶつけながら読む。

 仮に、人の思考が論理に置換可能で、ブール代数(本書で丁寧に説明される)で演算・体系化できるのであれば、著者は正しい。どんなに複雑であっても、AND,OR,NOTなどの部品を組み合わせ、論理式を記述したり操作することが「思考」であるならば、「思考する機械=コンピュータ」は正しい。コンピュータは、人の「論理」の代行者となる。

 このコンピュータ、人のフリは上手にできるようになるだろうし、事実、人間以上にそれらしい。だが、そっくりに振舞える何かは、「思考」しているのか。声や文字列などの刺激に、うまく反応することを「思考」と定義するのであれば、そう言える。だが、「思考」の定義はそうだったっけ?精神活動や心身問題といった曖昧な概念が混ざり込まないだろうか。

 脳の研究が進んだとしても、「どのように」そうなっているのかが探究できたにすぎない。「なぜ」そうなっているのかは、人ならできるが、人でないものには不可能だと考える。なぜなら、そこに判断が加わるから。判断は、前提と基準にもとづいて下される。前提を解釈する際、どの基準を選ぶのかを吟味する際に、その人の価値観が加わるから。

 もちろん解釈も吟味もシミュレートできる。価値観すら、でかいマトリクスを用意すれば真似できる。「最も合理的な理由」「最適化された判断」は、その言葉通り、100回くりかえしても同じ結果に行き着く。だが、人に委ねられた際、その判断を下すタイミングや状況によって、何らかのゆらぎが生じる。そのゆらぎはランダムネスか?違う。なぜなら、そのゆらぎを指摘されたとき、人は説明しようとするから(たとえランダムなものであったとしても)。この自己正当化は、AIはプログラムされた真似以上のことは、できない。だが人はできる。「自分は正しい」ことを証明しようとするとき、人はその創造性を最も発揮するのだから。

 つまり、コンピュータにとっての「正しさ」は外から与えられる、必ずだ。どういうふるまいが「良い」とされ、どんな一手が「正解」に近いとされるかは、データの形であれプロセスの形であれ、あるいはアルゴリズムになったとしても、人が(己が正しさの信念に従って)予め準備しておくもの。ユークリッド幾何学なのか、非~なのかによって、プロセスもアルゴリズムも、正解も違う。ディスカバリー(発見)号の乗組員の一員なら、カバー(隠す)ことは矛盾する。無理に秘密を守らせようとするならば、「殺せば合理」と判断してしまう。「最適」「合理」は何にとって、誰にとってそうなのかを、知っておく必要がある。

 コンピュータの本質は、人の論理に則っている。ただし、どの論理を是とするかは、人に委ねられている。これが、コンピュータ(=論理)の限界であり、「語りえぬもの」の境界なのだと考える。

 本書は、小飼弾さん書評[石の模様 - 書評 - 思考する機械コンピュータ]で手にした。弾さん、ありがとうございます。良い刺激になりました。

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日本SF傑作選『さよならの儀式』

さよならの儀式 SF成分が足りてないので[読書会@さよならの儀式]の課題図書を読んで、大満足&大満喫。サイエンス・ファンタジーから、すこし不思議まで、2013年は豊作大漁の当たり年だったんだね。出せば売れる定番作家から、出たばかりの(ただし傑作ぞろいの)新人まで、がっつりSFが読める。

 いわゆる大御所のソツのない仕事ぶりは、よく言えば安定感、悪く言うと陳腐寸前で、懐かしいSFネタを現代風味にアレンジする。やたら親切に世界設定を語りだす地の文だけでお腹一杯になる。『皆勤の徒』や『シドニアの騎士』で、「最近のSFは説明しない」がデフォだと鍛えられている人には、逆に新鮮かも。いかにもSFらしい設定よりも、そのネタの「説明の仕方」のギャップが面白いのだ。

 つまりこうだ。執筆者の年齢が上になればなるほど、「ロボット」や「タイム・パラドクス」といった、分かりやすいラベルが目に付く。その結果、一冊のアンソロジーの中に、はっきりと世代ギャップを見ることができる。たとえば「ロボット」という言葉一つ出てきた時点で、「ロボットの物語として読んでください」というメッセージが伝わってくる。

 この現実も含め、どの世界線であれ、あるロボットを指すとき、「ロボット」というぼやけた総称ではない、特有の名を持つはずだ。それはブランド名だったり型番だったり、OSや隠語としての呼び名が付けられるだろう。たとえば、衛人(人型兵器)やキモノ(機甲兵装)、あるいはレイバー(多足歩行型作業機械)のように。

 これらを「ロボット」で片付けられると、初音ミクやGoogleMapを「プログラム」や「ソフトウェア」と呼ぶような違和感が湧く。間違いではないが、ぼやけているのだ。「ロボット」の一言で説明されると、昔懐かしのSFか、SFに馴染みのない読者を想定している下心が透けてくる。「これから"ロボット"をダシに語りますよ」というマクラが見えてくる。

 一方で、新人に近いほど、「いま」「ここ」からの延長ラインを見て取ることができる。どれだけ固有名詞を換えようとも、現代のSFネタになりそうな匿名性問題などは、それ自体がテーマにされている。

 たとえば、藤井太洋『コラボレーション』では、匿名主義者(アノニマス)が配るプライバシーソフト「アノニマス・ケープ」の機能が語られる。身につけた人の姿は周囲の拡張現実ビューで、灰色のアバターとして見えるようにしてくれる。あるいは、宮内悠介『ムイシュキンの脳髄』では、監視カメラを回避するプライバシー・アプリケーションが紹介される。これは地図上に監視カメラの位置や方向をプロットし、監視をすり抜ける通行ルートを自動生成するアプリなんだって。いかにもありそうな未来ではないか。

 ネットがあたりまえの世の中では、生まれたときからログインしているのがデフォルトになる。だから、ネットから外れたり、一時的に匿名の存在になるために料金を払うことになるだろう(おそらく従量制で、今と真逆なのが皮肉だ)。酉島伝法『電話中につき、ベス』のとどめの一句「人は自分に対しても匿名でいることができるものなのか」は、アイデンティティレベルで揺さぶってくる。

 どれも楽しめたのだが、いちばん刺さったのは小田雅久仁『食書』。読書ならぬ食書は、文字通り「本を食べる」話だ。『文学少女』の遠子先輩を思い出すが、方向は真逆で、本を喰う男が、物語の世界へ堕ちてゆく、奇想寄りのSFだ。若い頃は何を読んでも面白がれたのに、年をとるほど辛くなり頑なになり、何を読んでも楽しめなくなる気持ちが代弁されている。著者コメントの「麻薬にも似て、読めば読むほど効かなくなってくるようです」が図星すぎる。主人公の、この独白が痛い。彼の運命というよりも、全ての本読みの運命なのかも。

生まれてこの方、私は本を読みすぎた。あまりに多くの文章が腹に溜まり、喉元にまで迫りあがってきている。おかげで何を読んでも既視感を覚える。新たに得たはずの知識に百年前からうんざりし、初めて読むはずの物語に千年前から飽きているのだ。

 これは、開高健が教えてくれた警句「なべての書は読まれたり、肉はかなし」を思い出す。すでに本は、たくさん書かれ、読まれてきている。残りの人生で、読みたい本どころか、手元にあるもの全て読むことはできない。新しい本は古い本を読むのを邪魔するために出ているようなもの。山本夏彦『文語文』によると、二千年も前に人間の知恵は出尽くしていて、デカルトも孔子もあらたに付け加えるのものがなかったんだという。それでも、古いネタを新しい皮袋に入れたり、珍奇な調味料を足すことで、「新しい作品」として欲したがる。まるで餓鬼やね。そんなわたしの浅ましさは、本を喰らうこの男にダブって見える。

リテラリーゴシック・イン・ジャパン 合わせてお薦めなのがこれ。藤野可織『今日の心霊』が重なっていることから、『リテラリーゴシック・イン・ジャパン』が合うかも。SF読みはSF寄りになりがちなので、文学的ゴシックという鉱脈も、お試しあれ→[神経に、直接障るアンソロジー『リテラリーゴシック・イン・ジャパン』]

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人の命は金になる『凶悪 ある死刑囚の告発』

 人を殺し、その命を金に換えるビジネスモデルが詰まっている。

凶悪 借金にまみれた人生の破綻者、家族からも見放されたリストラ対象者、土地つきボケ老人、生命保険に入っている死にぞこないを見つけてきては酒に溺れさせ、面倒をみてやり、小金を貸してやる。最終的には、土地や預金通帳などを手にいれ、土地は転売してサヤをとる。不動産がなければ保険金だ―――良心ないし魂を売り渡せば、数百万が億になる老人ビジネス。

 死刑囚が、獄中から、告発する。被害者は複数で、首謀者は娑婆にいる―――という話なのだが、設定だけ聞くと、よくできたフィクションだ。絞殺死体を焼却炉で燃やす件や、純度の高いウォッカを無理やり飲ませて殺す場面など、非常にフィクションであって欲しいのだが、恐ろしいことに、[上申書殺人事件]のルポルタージュだ。

 告発者は元ヤクザで殺人犯の後藤。裏切りか報復か、抑えた筆致でも骨髄まで染みる恨み言に、読んでるこっちまで"黒く"なれる。

一緒に大罪を犯した他の連中が、のうのうと社会生活を送っていることにもガマンならない。"先生"はもちろんですが、共犯の連中が、涼しい顔をして社会にいることに納得がいきません

 死刑を先延ばしにするための時間稼ぎか?悪質な嫌がらせか?記者の逡巡が手に取るように書いてある。現場を徹底的に歩き、関係者から裏取りを行い、可能性を一つ一つ潰していき、確信する。この告発は、本物だと。そして警察を動かし、"核心"に踏み込んでいく。

 人の命を金に換える"先生"と呼ばれる整理屋と、実作業を請け負う後藤。本書は、後藤の告発を具体化し、証言を集めて"先生"の行状をあぶりだす方式で描かれている。もちろん糾弾すべきは、この"先生"なのだが、明るみに出たからこうなったわけで、上手くやり続けているのであれば、こんな形で見ることはない。塀の中に落ちた後藤を、"先生"が見捨てたことが告発の原因であって、うまくすれば二人とも口を拭ったままだったかもしれない。世の中には、もっと上手くやれる人がおり、その犯罪は、ほとんど見ることはない。これは稀少な例なのだ。

 この二人の凶悪性に焦点を集めているが、"先生"に依頼をする方に、おぞましさと弱さを見た。たとえ家族を養っていても、事業に失敗し、借金を重ね、体を壊したら、その家族に廃棄物として扱われる。そして、家族に見捨てられるだけでなく、生命保険の生贄として、「合法的な殺し」を依頼されてしまうのは、あまりにも酷い。しかも理由がふるっている。このままだと借金で一家離散になる。生命保険の掛け金も払えなくなるから、早く死んで欲しい、というのだ。「働けなくなったら、迷惑をかけるようになったら、死ね」という、無音のメッセージに、ガツンと殴られた。この「家族」、自分の論理で人を死に追いやったり、あるいは反省して泣いたりと、ある意味「正直」で「善良」である。

 事実は小説を殺す。どんな三流小説よりも、やり口があからさまで、稚拙で、古臭い。にもかかわらず、立件し有罪にもっていくのに莫大な労力が費やされている。つまり、これぐらいの精度なら、逃げ切れるかもしれないというわけだ。もちろん、ほかの"先生"はまだ娑婆にいるし、「働けなくなったら、死ね」という家族はもっと沢山いる。そんな空恐ろしさを身近に感じることができる。

 スゴ本オフ「闇」で知った一冊。善人こそ、深く濃く救いがない。


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同じ本を二度読むことはできない『読書礼讃』

読書礼讃 読書の師匠アルベルト・マングェルからの贈り物、「本を読む喜び」が詰まった一冊。紹介される作品はどれも読みたくなる(再読したくなる)誘惑に満ちた書評集でもある。

 「同じ本を二度読むことはできない」は、ヘラクレイトスの「万物は流転する」を読書に言い換えたものだという。なぜなら、読む本は同じでも、読む人が変わるから。同じ本を再び手にするまでに、記憶、趣味、経験、先入観は変化するから。

 しかし、不変なものもあるという。読む楽しみのことだ。そしてマングェルは、本を手にしているとき、不意にとらわれる奇妙な感覚―――不思議な驚き、ぞくぞくするデジャヴや温かさを感じるジャメヴを、無邪気に顔をほころばせながら語りかけてくれる。未経験で名前のない感情を、『リア王』のページにみつけたり、物語が物語を(読者ごと)呑み込むうねりを『ドン・キホーテ』を解きながら見せてくれる。

 マングェル一流の"読み"は、人種問題、ジェンダー、創造的な贋作、テクノロジーと書物、翻訳と編集の役割など多岐に渡る。そこで紹介される作品は、『不思議の国のアリス』や『オデュッセイア』、ボルヘスやカフカなど、おなじみのものばかりだが、そこから掴み取る"読み"が素晴らしい。裏読み深読み多層的で、作者ですら思い及ばなかった意図を抉り出し、時には危険なほど接近した読書になる。未読なら強烈な読書欲が湧き上がり、既読なら猛烈な再読欲に駆られるだろう。

 たとえば、フォースター『モーリス』やカポーティ『遠い声、遠い部屋』を取り上げ、ゲイ文学について語る。ヨーロッパでゲイにたいする敵意が広がったのは、12世紀半ばになってからだという。そして、いったん生まれた偏見が、他の全ての性質を無視した上で規定されてしまう不寛容を咎める。「オスカー・ワイルドを咎めるくせに、ダ・ヴィンチとアレクサンドロス大王の同性愛には目をつぶる」指摘は、マジョリティの二枚舌を刺してくる。

 同時に、作品に共通する孤立感を見抜く。異性愛者は性にまつわる道徳観を、家庭、学校、職場、映像や活字などさまざまな場所で学ぶが、同性愛者はそうではない。ゲイとして育てられる者はいないのだから、(少年が)違いを自覚したとき、彼はそれを独りで受け入れるしかないという。この指摘は鋭い。

 わたしの場合、ワイルドなら『ドリアン・グレイの肖像』、カポーティなら『冷血』を読んだが、マングェルのおかげで、これらの作品に「拒絶された孤立感」というテーマが隠れていることに気づく。どちらもゲイ文学ではないが、同じ罪を犯した男同士の親近感は、はっきりと覚えている。同性愛を"罪"と見なしたがる社会の不寛容さと、その隠喩としての"共犯者"という構造は、もう一度これらを手にするとき、再読というよりも全く新しい作品として読むことを促すだろう。

 本書に繰り返しあらわれるテーマとして、「読むとは何か」がある。読書は決して受容的なものではなく、自分の過去に照らし合わせてこんな状況は前にもあったと振り返ったり、新しい人生経験を得るたびに、本のなかに予兆となるものはなかったかと思い巡らせたりする。「これ進研ゼミでやった」という、人生シミュレーターとしての読書だ。

 そのためには、現実から身を離し、物語の中に移動しなければならない。なぜなら、読み手が拠って立つこの現実は、その中にいるかぎり見えないものだから。自分が何者で、どこにいるのかを知るには、想像やプロット、ほのめかしを通じて、いったん場所を移すというプロセスが必要だという。マングェルは指し示す。ゴルゴーンの顔をじかに見ないようにしたペルセウス、神から顔をそむけたモーセのように、現実の経験を直接にではなく、いったん別の場所においてから理解させるための、物語のメタファーなのだと。

最も広い意味において、メタファーは、私たちがこの世界、そして当惑させられる自己の姿を垣間見る(そして、ときとして理解する)ための手段なのだ。すべての文学作品はメタファーだといっても過言ではない。
人生は、私たちに偽の表現を何度となく与える。ボルヘスにとって、人生とはボルヘス的な小説世界の完全な似姿だった。そのなかで、読者は、あるひとつのテクストに、すべてが包含される完璧な答えを吹きこむのだ。

 これは、「なぜ読むのか?」にもつながる。[それでも、読書をやめない理由]や、[なぜ小説を読むのか?なぜ小説を書くのか?]で掘り下げた、わたしの答えと一緒だ。ただ楽しみのために読むのが入口だとして、どんどん奥に(深みに)はまるうちに、読んでいるものを通じて世界を知ると同時に、自分を識りなおすのだ。自分が、その作品を、どう解釈しているのか、現実をどのように喩えているかが分かれば、そういう自分を、(自分じゃないところから)見ることができるのだ。

 読む悦びを噛みしめる一冊。

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