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ウィトゲンシュタインの読み方『哲学探究』入門

 ウィトゲンシュタインを読むのは、認識の仕様が知りたいから。

論理哲学論考 中二病の宿題を終わらせる『論理哲学論考』で、彼がやりたいことを知った。日常言語を用いる限り、数学のように論理を引き出して直接扱うことは難しい。だから、せめて「ここまでは語り得ますよ」という限界を示すのだ。そして、言語の誤謬を避けるため、厳密に論理的なシンタックスに則った記号言語を構築してゆく。

 これをリバースエンジニアリングすると、認識のモデリングになるのではないか、というのがわたしは目論み。人であれAIであれ、知性はどんなやり方で(自分も含めた)世界を理解しているのかが分かれば、すなわち意識とは何か、そして「私とは何か」に近づけるんじゃないかと。アフォーダンスや数学、認知科学の近辺をウロウロ読んでいる動機は、これなのだ。

哲学探究 ただし、『論考』のプロセスの論理学は厳密だ。完全な純粋さを目指すあまりとっかかりがない。plainすぎて摩擦係数ゼロなのだ。ウィトゲンシュタインは、『哲学探究』でこう述べる。

私たちはアイスバーンに入ってしまった。摩擦がないので、ある意味で条件は理想的だが、しかしだからこそ歩くことができない。私たちは歩きたい。そのためには摩擦が必要だ。ざらざらした地面に戻ろう!
 たしかに、『探求』の方が入りやすい。論理式は出てこないし、産婆術のような対話形式で常識を切り崩す。最初はアウグスティヌス批判から始まるので、手がかりもある。

 だが、それでも難しい。剃刀のように簡潔な文体で凝縮された文章が続くため、主格が分からなくなる。彼なのか、彼の批判相手なのか見失う。比喩であることは分かるが、何の比喩かが分からない。要するに、癖がありすぎて、わたしの歯には硬すぎるのだ。

哲学探究入門 この哲学者の思考の"癖"のようなものを追体験するのが『ウィトゲンシュタイン「哲学探究」入門』になる。『探求』のダイジェストなら、ネットや本がいくらでも転がっている。わかったフリをするのではなく、彼の思考の運動をシミュレートするのだ。ゆっくり、じっくり、ともすると埋没しそうなぐらいのめりこんで読む。

 たとえば、『探求』では「言語ゲーム」という概念が出てくる。要するに、言語活動をゲームとして捉え、言葉の「意味」の共通点や具体化を論じるのではなく、ゲームの"機能"として理解すべきだという提案だ。彼が、言葉の"意味"なんてものはないと繰り返し攻撃するのだから、そう鵜呑むことは可能だ。だが、本当にそうなのだろうか?なぜそう言えるのだろうか?湧き上がる疑問に、『入門』の著者・中村昇は、いったん離れて考える。

わたしたちは、言語をすでに習得している。この事実は決定的だ。どれほど工夫したとしても、われわれは、言語そのものを外側から考察することはできない。ことばをすでに使っているという地点からしか考えられない。考察そのものも言語でおこなうのであればなおさらだ。

 そして、親しければ親しいほど、客観的に眺めることのできない相手との人間関係のようなものだと喩える。「意味」なるものが、すでに最初から存在していたような気になってしまい、習得後の世界から逆算して作り上げてしまったというのだ。

 もちろん、言語のおかげで、眼前の世界や自分自身を認識したり理解することは可能となった。世界と関係するための手がかりとして言語は有効かもしれぬ。だが、それはあくまで手がかりであって、世界そのものの写しなどではない。にもかかわらず、いったんこのような手がかりを獲得するや否や、手がかりが写しとなり、世界の精確な図解のようなものだと思ってしまう。世界を理解するためにつくった道具にすぎないものが、世界そのものの写しになってしまうのだ。この状況を可視化(可認化?)するために、ウィトゲンシュタインは、「言語ゲーム」なるアイディアを提示したのだという。

 この「言語ゲーム」の説明も腑に落ちる。『探求』を読みながら、プレイヤーがいて勝敗が決まる、外来語の「ゲーム」だと狭いのではないかと考えていた。もう少し広げて「あるルールに基づいて役割を果たす"ごっこ"」が近いニュアンスじゃないかと想定していた。あたかも、日本語という公理系を、人でない別の知性(AI?宇宙人?)が"ふり"をするゲームのようなものと想像していた。『入門』によると、日本語のゲームとドイツ語の"Spiel"は、かなりニュアンスが違うという。「いたずら、冗談、動き、芝居、演技」などの意味が"Spiel"にあるが、ゲームからは抜けているというのだ。

 彼の産婆術も解説してくれている。ウィトゲンシュタインの十八番は、まず相手の言い分に乗り、それをずらし、自分の見解へとみちびいていくと指摘する。相手の誤解を利用して、自分の正解へ一歩ずつ移動していき、最後にとどめを刺す、という展開だ。わたしが騙されないために、というよりも、むしろ、彼が自説を語る伴奏方法として押さえておきたい。

 このように、中盤までは、こちらの理解の歩調に合わせるかのように伴走してくれる。だが、終盤になると巻きが入ってくる。ゆっくり語り合いたいのに、頁か時間が押しているので、ちゃっちゃと終わらざるをえないようにスピーディになる。そして、唐突に終わる。もっと聞きたいのに。著者曰く、一生つづけるわけにはいかないという。300頁近く使って、『探求』の6.2%をカバーしているに過ぎないらしい。

 しかし、知りたいのは、ウィトゲンシュタインが何を言ったかの"what"ではなく、彼がどのように取り組んだかの"how"こそが、一番の果実だろう。次にわたしが格闘するために。

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