脳はどのようにことばを生みだすか『言語の脳科学』
[大学教師が新入生に薦める100冊]でエントリさせた一冊(このリストは、わたしのリストでもある)。
「言語がサイエンスの対象であることを明らかにする」と主張し、文系の範疇とされてきた言語学に、脳科学からアプローチする。人類共通の、一般的な文法そのものを明らかにするのが言語学だとすれば、なぜ脳が文法を決めることができるのかが、脳科学の役割だという。文理の垣根を取り払い、両側から攻めよという趣旨は明快で、再現性や反証性を重視する姿勢に共感が持てる。何よりも、言語の問題の核心は、「脳が言語を創る」という説がスリリングだ。著者は、言語の初期状態である普遍文法は、脳には生得的に備わっているというチョムスキーの生成文法説を支持し、fMRIによる研究や失語症・手話の国際比較も交えた分析を展開する。
一方で、チョムスキー礼賛が鼻につく。生成文法はたいへん興味深く、これからの進められてゆく研究の焦点だろう。だが、著者のチョムスキー好きは極端で、反対者への攻撃が容赦ない。悪魔の証明「全くない」「何一つない」が頻出する記述は、およそ科学者らしからぬ。異端排斥の全否定が強すぎて、その論拠に首をかしげる。
たとえば、「プラトンの問題」を用いた反論。言語は後天的に学習されたとする行動主義に対し、プラトンの「刺激の貧困(poverty of stimulus)」で反論する。即ち、言語の発達過程にある幼児が耳にする言葉は、多くの言い間違いや不完全な文を含んでおり、言語データの入力に限りがある。しかし、それにもかかわらず、無限に近い組み合わせの文を発話したり解釈したりできるようになるのか?これは後天的な学習ではなく、生得的に言語を身につけているからだ―――という主張だ。
確かに言葉の組み合わせは多種多様だが、パターンはほぼ決まっており、学習で身につけることができる。そして、子どもだけでなく大人になっても言い間違いや不完全な文を話す。従って、文法の習得が先天的か獲得なのかの決定打になりえない。少なくとも「プラトンの問題」だけで統語論を採用し、意味論や語用論を排除するのは早すぎる。
「言語を話す人の心/脳の中に何があり、そのシステムはどのように形成され、どんな物理現象が生じているのか」―――このテーマに対し成果が出るのは、百年単位の未来だろう。そこから振り返って、数年単位で新しいも古いもありゃしない。「科学」が百年前にどんな姿をしていたのかを思い出せば、今の科学がどれだけ筋違いの旧態依然かは、容易に見積もれる。だから、始まったばかりの脳科学を用いて、反対派を「古い」「時代遅れ」と切り捨てるのは時期尚早だろう。文系理系の枠に囚われるなというメッセージは痛いほど伝わる反面、その舌鋒の鋭さ故に、予算獲得でよっぽど痛い目にあってきたのかと忖度したくなる。
次はチョムスキー『統辞構造論』、レイコフ『レトリックと人生』、ピンカー『言語を生み出す本能』だろうか。「わたしとは何か」にどこまで潜れるだろうか。
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