『人間は料理をする』はスゴ本
キッチンからの文明論。知識欲も食欲も、満足させられる一皿。
火・水・空気・土に因んだ料理に挑戦しながら、最新科学と古典文学を縦横に行き交い、料理の文明史を語る。加工食品と健康のパラドクスを嘆き、農耕を始めたのは酒のためと説き、細菌を含んだ超個体としての人間の本質に迫る。鋭い洞察に唸らされたり、危なっかしい料理にヒヤヒヤさせられたり、かぶりつく瞬間の描写にゴクリと喉を鳴らしたり、食問題の警鐘に首をかしげたり、忙しい読書になる。
例えば火の章、バーベキューのプロに弟子入りし、豚の丸焼きに挑戦する。バーベキュー原理主義に則り、じっくり時間をかけて、「生きた」オークとヒッコリーのチップで焼いたものは、著者の人生を一変させたという(以後、自分が焼いたほとんどの料理を「グリル」と呼ぶようになるくらい)。自宅で再現してしまう行動力(+それだけの庭)が羨ましい。その、豚を焼く過程をつぶさに観察しながら、「消化の外部化」を考察し、ホメロスの食事風景を想像する。
つまりこうだ、火を使うことで炭水化物を分解し、タンパク質を消化しやすい形に変えることができる。腱や靭帯の硬いコラーゲンをゼラチンにし、食材に付着している細菌や寄生虫を死滅させ、熱により無毒化させる。料理とは実質的に、体の外で行う消化、すなわち、体のエネルギーの代わりに火のエネルギーを用いることで、体に代わって咀嚼と消化を行うことだという。「鍋は体の外の消化器官」と表現するが、言い得て妙なり。
そして、ロバート・ランガム『火の賜物 ヒトは料理で進化した』を引きながら、人は、料理によって、延々と咀嚼しつづける生活から開放され、時間とエネルギーを他の目的に使えるようになった「料理仮説」を展開する。さらに料理は、食材だけでなく社会の発達を促したという。火を使うことで、決まった時間に決まった場所で集団で食事を取るようになった。これにより人の社会性は育まれたという主張は、納得できる。(そうではない歴史の証拠も多々あるが)「分かち合い」が社会の最初なのだから。
あるいは空気の章では、全粒粉パンを焼くことに没頭する。どうも完全主義の気があるようで、その道のプロを求めて四苦八苦する様は、可笑しくも気の毒に思える。プロの傑作に啓示を受けたり、自分が焼いたパンにエントロピーの反証を見出したり、いちいち大げさで面白い。やはり「パン」には特別な思いがあるのだろうか、「全粒粉」「ドライイースト禁止」「手作り」にこだわる。電子レンジやホームベーカリーで焼くけど、著者に言わせると反則なのかもしれぬ。
そして、究極の全粒粉を探すうちに、「小麦粉」を取り巻く加工・流通システムに矛盾を見出す。製粉業者は、小麦の最も栄養ある外皮や胚芽をすっかり除去したものを、「小麦粉」として売る。残された「かす」は、ビタミン、抗酸化物質、ミネラル、健康に良い油脂の全てを含むが、家畜の飼料や、ビタミン剤の原料となる。さらに、そのビタミン剤は、精白小麦粉が一因の栄養不足を補うために、売られることになる。ビジネスモデルとしては上出来だが、生態学的に見れば実に歪んだシステムなのだという。
なぜこんなことをするのか。それは、白さの追求だという。進化的に不適応な行動であるにもかかわらず、人類は小麦粉を白くすることに励んできたのだ。ギリシャや古代ローマの時代にまでさかのぼり、人間の才覚の愚かさを、時として賢さゆえに愚かなことをすることを明らかにする。人類は料理術を発見し、発展させ、栄養価を高め、他の生物には得られないカロリーを摂取できるようになった。だが、飽くなき食欲と進歩欲に駆り立てられ、過剰加工の末に、健康と幸福を害するようになったのだ。日本にも白米至上主義の歴史(と、そのカウンターである玄米/雑穀米ブーム)があるので笑えない。このくだりは『食品偽装の歴史』と重なるが、食品加工の歴史に人類レベルの欺瞞を見、そこから寓話を取り出す手腕はさすが。
他にも、土の章で発酵をテーマに、ちゃんと乳酸菌を用いたザワークラウトや、日本でやったら完全に違法なビールの醸造に取り組む。料理というより、ガーデニングや日曜大工などのDIYを見ているようだ。その中で、人と微生物の深い係わり合いを語りだす。人の一生を通じて、60トンもの食物が腸内を通過し、腸壁上皮をさまざまな危険にさらす。その危険の多くは、腸内細菌によって処理されている。人の腸内に棲む、およそ500種で3兆もの細菌の運命は、宿主の生存にかかっている。ゆえに、彼らは全力をつくして、宿主を健康にし、長生きさせようとするという。彼らの栄養源は、食物繊維を発酵させた有機酸になる(他の器官と異なり血流にはほとんど頼らないらしい)。つまり、腸内でおきる発酵こそが、健康の鍵になるというのだ。
ところが、脂肪分と精製炭水化物の多い食事が中心になると、エネルギーは与えてくれるが、腸と、そこに棲む細菌は飢えることになる。人と細菌からなる超個体には栄養を与えず、人にだけ栄養を与えるものになった。3兆の生物のためではなく、たった一つの生物のために食べているのが、現代なのだという。わたしという存在を、ヒトという種から見た場合、ヒトの細胞だけでなく、様々な細菌や寄生生物から成る、巨大なコロニーのように思えてくる。「わたし以外」を排除するのではなく、それらをひっくるめた超個体が、「わたし」なんだね。漬物から超個体まで広げる想像力がすごい。
さすが全米No.1の食の権威、ホメロスから分子ガストロノミーまで、哲学と科学の両面から「人にとって料理とは何か」を表現する、その筆圧はすばらしい。だが、主張があまりに大げさで、違和感がつきまとう。炭火を使う料理から、地域社会にまつわる物語につなげ、宇宙の秩序にまで展開する。炭は毎日使うには不便だろうし、焼肉はグリルかフライパンの上で事足りる。食の産業化や冷凍食品がもたらす、家庭の個食化や不健康について警鐘を鳴らすが、上手に使えばいいだけのこと。「毎日冷凍食品だけ」はさずがにマズいだろうが、まさかそれが普通じゃないだろう。
そう、なんだか料理を大仰なものに祭り挙げているように見える。料理はもっと、日常的なプロセスなのに、人類や宇宙を持ってくるのがそぐわない(ただし、その取り合わせの妙こそが本書の魅力なのだ)。毎日食べているのだから、毎日料理するでしょ?著者は1ヶ月に数回、週末にパンを焼いたりシチューを作ったりするようだが、DIY自慢を聞いているようだ。玉ネギのみじん切りやシチューをかき混ぜるのを、退屈だとか涙が出ると嘆くが、料理中は退屈を感じている間がないぞ。玉ネギは冷やしてみじん切りはyoutubeを参考にすればすぐだし、シチューだけの食事なんてないでしょ?併行して何か作るはず。下ごしらえの切るものの順序、シンクに何を置くか、コンロ×2+電子レンジの有効活用、洗い物の対応(料理中に出てくる汚れ物は、極力洗っておく)等など……料理のいいところは、料理以外の一切を考えずに済むところ。著者はいろいろ考えすぎで、包丁が危なっかしく見えてくる。でも、そのおかげで、こんなに愉快で深い「料理本」ができたのだ。
読者と料理の距離を測り、どれほど離れていようと近かろうと、確実に近づけてくれるスゴ本。
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