なぜ女は忘れるのか『フィクションの中の記憶喪失』
ベタな展開が見えているのに滂沱を禁じ得ない。「好きを取り戻したい」」と「好きになっちゃいけない」、そして「この気持ちは誰のもの?」が交錯し、打ちのめされたり裂かれたり。ラスト3話はタオル用意して正解、今まで体感してきた「切ない気持ち」が、完全に上書きされた。そのテーマがこれだ。
もし、「人を好きになる気持ち」を奪われたら、その女の子は別人になるのか。
もちろん、過去のことは覚えているから、いわゆる記憶喪失ではない。ただし、「人を好きになる気持ち」に結びつく言動を思い出そうとすると、霞んでしまう。一種のマインドコントロールといっていい。この描き分けが凄い。(洗脳の典型である)瞳の色だけでなく、「人を好きになる」方へ向かいそうになると、微妙なしぐさで「らしくなさ」が表れる。まるで別人のように。『凪のあすから』は、フィクションではお約束としての「記憶喪失」を、「好きにまつわる記憶」として捉えなおしているところがユニークだ。この約束事を知っているから、彼女のとまどいを物語として受け入れることができる。
この「記憶喪失」というモチーフは、いつから始まり、どのように広まり、どんな機能を担ってきたのかを集めたのが、本書になる。小説、演劇、映画、漫画、アニメ、ゲームに現れる「記憶喪失」を取り上げ、虚構の世界において、どう描かれてきたのかを考察する。そして、なぜ人はこのモチーフにこだわるのかを深掘りする。
たとえば、神話的な忘却が近代で用いられた例として『ニーベルングの指輪』、記憶喪失と二重人格を扱った『ジキル博士とハイド氏』といった古典が分析される。前行性健忘症をモチーフとした映画『メメント』、小川洋子『博士の愛した数式』は、アイデンティティの不連続生と“それでも残るもの”(犯人や数式)との対比で語られる。偽の記憶というモチーフを人格の不一致をめぐる恐怖にまで高めたP.K.ディック『追憶売ります』や『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』は、非常に先見性があったという。発表当時の冷戦時代の対立を、「自分という他人」との遭遇になぞらえているというのだ。
記憶のすり替えというより、ぶっちゃけ集団洗脳なのが、オーウェル『一九八四』や、キアヌ・リーブスの『マトリックス』だ。ビッグ・ブラザーのスローガン「過去をコントロールするものは未来をコントロールし、現在をコントロールするものは過去をコントロールする」は、フィクションもノンフィクションでも、今までもこれからも有効だ。「記憶をコントロールするものは、世界をコントロールする」という命題なら、『攻殻機動隊』における“記憶の外部化”、ヘブンズドアーやホワイトスネイク(ともに『ジョジョの奇妙な冒険』、最近なら野崎まど『know』なんて浮かんでくる。
そう、本書を読んでいると、「それならコレも!」と芋づる式に萌え出でるのが楽しい。偽史を騙るマザーコンピューターが人類を管理しようとする仕組まれた物語なら、本書で紹介された作品よりも、手塚治虫やプリキュアを思い出す。記憶喪失という設定でゲーム世界を拡張する例として、『ファイナルファンタジーⅢ』が紹介される。「リピート」というキーワードで、記憶喪失とゲームの相性のよさを論じる。断片的な過去を再演することで、そこから真実(らしきもの)を浮かび上がらせる物語構造は、ゲームシナリオの定番だ。それならずばり『Kanon』(Key制作)を推したくなる。記憶と再生と初恋が、らせん状にモザイクのように繰返される物語だ(ラストの、「ボクのこと、忘れてください」は文字列だけで泣ける)。
ギミックとしての「記憶喪失」に対する面白い指摘が、『うる星やつら』最終巻にあるという。これは、記憶喪失をストーリーで説明するのではなく、文字通り「漫画的」に使われているというのだ。筋を転換させるための約束事である「手の内」をあえて明かすことで、クライマックスであることを予見させている。そして、人類の記憶を賭けた、「記憶喪失装置」こそが、第一話から始まった長い長い鬼ごっこを終わらせる約束事だと示すだけでなく、ある種のアンチ・クライマックスとしての役割を果たしているというのだ。
さらに、「なぜ、記憶喪失になるのか」に対する仮説のいちいちに反応する。フィクションにおける記憶喪失ネタが広まるきっかけは、第一次世界大戦のシェルショックだという指摘が鋭い。シェル(shell)は砲撃を意味し、シェルショックは戦場での精神的なダメージによって引き起こされる症状を指す(今ならPTSDだね)。
また、男性の主人公が記憶喪失になる設定では、彼らを導く女性が登場するという。ヒッチコック『白い恐怖』、カーティス・バーンハート『高い壁』、ロス・マクドナルド『三つの道』を挙げ、記憶喪失という迷宮から脱出するアリアドネの糸的な役を、ヒロインが担うのだというのだ。また、「カラッポの記憶」の中で生きる『ドグラ・マグラ』は、脳髄の地獄、すなわち、自らの主観性から逃れられない狂気を描く。その背後には、この時代に日本人が初めて持った「世界意識」があり、さらには作品内で一度も言及されない世界戦争=第一次大戦が影を落としているという。男の記憶喪失の背景には、姿形を変えた戦争のトラウマが控えているのかも。
翻って女性の記憶喪失だと、それは「少女」である場合が多いという。『涼宮ハルヒの憂鬱』や『とある魔術の禁書目録』を挙げ、ある世界と別の世界を結びつけるメディア(「霊媒」と「媒体」の二つの意味がある)として機能する少女像を浮かび上がらせる。そして、霊媒=メディアとしての少女の原型として、筒井康隆『時をかける少女』を指す。同じタイトルで実写映画やドラマ、アニメという媒体で、何度も“リプレイ”される「時をかける少女」は、わたしたちの記憶のゆらぎを顕わしているのかもしれない。
なぜ人は、記憶喪失というモチーフを語る/騙るのか。本書の結論では、物語としての記憶喪失こそが、記憶の連続性を体験させるための一つの方法なのだという。人は、失われた記憶を仮想的に甦らせる「遊び」によって「死」と戯れる。それは、究極の気晴らし=娯楽であるだけでなく、記憶が動いていることを実感することで、自らの生を確認する方法だからというのだ。
わたしはそこに、「生贄としての少女」を追記したい。少女が忘れるのは、供犠として捧げられる際、残された人たち───とくに想い人との別れの辛さを少しでも軽減させるためではなかろうか。約束事のギミックとしての記憶喪失と回復の物語は、少女の死と再生の演出を、より一層ドラマティックに仕立てあげる。女が忘れるのは、その物語を楽しむ人のための、生贄の役を果たしている。そう考えると、『凪のあすから』のヒロイン、まなかは二重の意味で生贄となっている。一つは、物語の中での海神さまに捧げる犠牲として。そしてもう一つは、この物語に涙するわたしのために。
「記憶喪失あるある」を引き出し、あなたの記憶喪失感を呼び覚ます、刺激的な一冊。

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