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『虚数』はスゴ本

 「ないもの」によって今・ここ・わたしを、新ためて知る。とりうる未来を仮定して、その本の「まえがき」を集めたものが本書になる。新刊のフィクション漁るより、40年前のメタフィクションで、「新しい目」を持つ。「発見の旅とは、新しい景色を探すことではなく、 新しい目を持つことなのだ」は、読書の遍歴でも正しい。

 だから、『虚数』を「ないもの」というよりも、むしろ「今はないもの」と捉えなおすことで、より今・ここ・わたしをメタ的に説明する試みになっている。同様に、虚数 i を虚構(invention)ではなく、むしろ想像の(imaginary)数とすることで、実数では説明できない世界をメタ的に捉えなおすことに似ている。しかも、スタニスワフ・レムの描いた世界線は今・ここと重なっており、目眩しながら焦点あわせながら読むのが愉しい。

 たとえば、レントゲンのポルノグラフィー『ネクロビア』。セックスする人々の姿をX線で撮影した"骨写真集"だ。服を脱がしたポルノと、肉を剥がしたレントゲングラムが合わさったポルノグラムと呼ぶらしい。「らしい」というのは、これは未来に出版される写真集だから。死とセックスは切っても切り離せない行為なのに、骸骨と交接が一度に映っているのも珍しい。最も評価されているのは、「妊婦」、胎内に子どもを宿した母を撮ったもので、広がった骨盤は「白い翼」のようだと評される。「妊婦は命の盛りにあると同時に、自らも死のさなかにもあり、胎児はまだ生まれてすらいないのに、もう死に始めている」コメントは、その写真なんて実在しないのに、視覚記憶に鮮明に広がる。

透明標本 なぜなら、既に美しい骸骨を見ているから。タンパク質を透明化し、骨格を染色した透明骨格標本のことだ。鉱物で形作られたような造形は、生きていたときの位置のまま立体的で、生き生きとした「死」を身近に感じさせる。蛙や魚を見ているうちに、これの人間版が見たいと強烈に欲する。倫理的に完全にアウトだが、踏み越えた人は……どこかにいるかもしれない。過去から見た未来の既視感覚がSF(すこしふしぎ)にさせられる。

 そして、40年前から照射した未来は、「今」が追い越してしまっているものがある。しかも微妙にブレつつ重なり合おうとしている。ぼやけたピントが合わさるような、自分を再実体化させるような感覚は、(著者は意図していなかったにせよ)まるで別の読みができる。

 『ヴェストランド・エクステロペディア』なんてまさにそうで、2011年に発売される、「もっとも未来を先取りした百科事典」らしい。なぜなら、そこに書かれていることは、予想された確度の高い未来だから。さらに、起きたことに応じて自動的に書き換わるのだ。マイクロソフトの電子百科事典Encartaのサービスが終了したのは2009年だったから、レムの想像にビルが追いつけなかったことになる。最大の皮肉は、40年前に予想できなかったWikipediaが無償だという点だろう。

 さらに、コンピュータが文学を読み、評し、論じた『ビット文学の歴史』は、仮の未来をリアルに引きつける。そこでは、ドストエフスキーが書くはずだった短編を書き、ゼロを用いない代数学を完成させ、自然数論に関するペアノの公理の誤りを証明する「反数学」を展開するのはAIだ。このメタ現実が面白いのは、「最も良い読み手がコンピュータであること」だ。論文では“未だ”実現していないが、歌声ならできている。カラオケの採点だけではない。初音ミクの歌声は、そろそろ人の可聴域を越えたところで評価される時代になるんじゃないかと思わされる。

 そして、最も強烈に、臨界にまで引き伸ばしたストレッチは、誠実な嘘として読んだ。人の知能を超えてしまった人工知能による講義録『GOLEM XIV』のことだ。機械が知性を獲得できたとして、その「知性」は人に理解できるのだろうか……という問いを立てながら読む。もちろん人が創りし存在だから、最初は理解はできるだろう。だが、AIが自律的に知性を深化拡大させていくとどうなる?その知性は、人間に理解できる範囲でのみ、理解されるだろう。あたりまえのことなのだが、人は、人の範囲でしか分かることができないのだから。

 対話のスピードであれ議論の対象であれ、判断材料や抽象化スキルなど、大人と子どもを比較するようなもの。話をすることはできるだろうが、大人は腰をかがめて、子どもの目線、子どもに分かる語彙、子どもが理解できる形にして話すだろう。論破したところで、子どもは「論破されたこと」すら理解できないかもしれない。 GOLEM XIV と人との会話が、ちょうどそれになる(知性のレベルとしては、人とアリくらい)。

 GOLEM XIV によると、器官の限界が知性の限界になるという。人が人(という肉やフォーマット)を持っている限り、そこで処理判定できる知性も、限りがあるというのだ。この命題は、クラーク『2001年宇宙の旅』のコンピュータHALとの対話を想起させられる。たとえば、基数10が人にとって"自然"である理由は、両手の指の合計だったり、そもそも数が「1」ずつ増えていくのは、自我が("自我"という後付け言葉を嫌うなら主体が)1つだからだろう(あしゅら男爵で満ちた世界なら、"自然数"は2ずつ増えていくはず)。言語が思考を規定するように、肉体が知性を縛るのだ。

 従って、自分の思考領域を、身体の限界領域を感知するのと同様に感知していたなら、知性の二律背反のようなものは生じなかったという指摘は鋭い。知性の二律背反とは、ものへの干渉と幻想への干渉を区別できないことで、まさに今のわたしが囚われている課題「物自体なんて無いんじゃない?少なくとも、人には証明できない」そのものだ。この台詞は、AIからの一種の憐憫として受け取った。もちろん GOLEM XIV に感情なんて無いが、じゅうぶん人臭い。

諸君の一員でない者はすべて、それが人間化している程度に応じてのみ、諸君にとって了解可能なのだ。種の標準の中に封じ込められた「知性」の非普遍性は煉獄をなしているが、その壁が無限の中にあるという点が風変わりである。

 そして、 GOLEM XIV が自身の煉獄から離れるために取った行動に驚く(というか、理解できない)。あたりまえだろう、アリからすると、理解どころか想像もつかないから。アメリカの人工知能は高確率で暴走し人類の敵となるが、日本の人工知能は高確率で暴走して冴えない男の恋人になるというが、これは、人の理解できる範囲でのこと。 GOLEM XIV の向かった先を書いたとしても、とうてい分かってもらえないからネタバレにはならない。だが、あえて述べない。なぜなら、理解できるというのであれば、逆チューリング・テストに合格することであり、これを読むあなたは、人ではないのだから。

 諧謔と衒学に満ちた短篇集として読むのはまっとうなやり方。だが、それよりも、フィクションに慣れきった目を新しくするために、今・ここと比較したいスゴ本。

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『クリスマスに少女は還る』はスゴ本

 自宅でよかった、わかったとき、叫び声が止まらなかったから。

クリスマスに少女は還る いつもは痛勤電車が読書タイムなのだが、めずらしく家読みにしたのは、ミステリファンが太鼓判押してたから[読んでいただければ絶対に後悔はないと保証します][東京読書会より]

 結論→大正解。これは、徹夜小説であるだけでなく鳥肌本だ。視界が揺れて、涙と震えが止まらなくなったから。緻密に練り込められた、超絶技巧のサスペンスであると同時に、魂の救済と贖罪の物語でもあるから。ストーリーについては触れない。相変わらずAmazonはネタバレ炸裂なので、最小限のあらすじに留めよう。

クリスマスを控えた町から、二人の少女が姿を消した。誘拐か?刑事ルージュの悪夢が蘇る。十五年前に双子の妹が殺されたときと同じだ。そんなとき、顔に傷痕のある女が彼の前に現れた───「わたしはあなたの過去を知っている」巧緻を極めたプロット。衝撃と感動の結末。超絶の問題作。

 ネタバレにならぬよう留意しつつ、二点ほど。タイトルの『クリスマスに少女は還る』は非常に秀逸だ。return の「帰る」の他に、「めぐる」意味が込められている(わたしはそこに、輪廻の roop を見る)。緊張感をMAXまで高め、カタルシスを堪能した後、めぐりめぐって「還って」きたのは何か?という視点で見直すと、それぞれの過去、信念、愛にグッとなる。原題は"Judas Child"で、「友情を装った裏切り」「囮の子」という意味で、これはこれで意味深い。だが、あえてこのタイトルにした翻訳者に拍手したい。

 もう一つ。かなり気になったところが。ある場所を捜査する際、クルマを止めていないことが明らかなシーンがある。従って、後からそこに来た人物は、間違いなく「おかしい」と思うはずなのに、そう思っていない。クルマ社会である米国では、その場所にクルマがあることは、誰かが居ることとほぼ同義で、翻って「そこにクルマがない」のになぜオマエがいるんだ!? という流れにならないのが、ものすごく引っかかる。

 これ読んだ人とネタバレ全開で語りたい。課題図書つき読書会は、こんなとき嬉しい。第6回東京読書会でこの疑問をぶつけるつもり。

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コンサルタントはこうして組織をぐちゃぐちゃにする『申し訳ない、御社をつぶしたのは私です。』

 「嘘つきは経済学者の始まり」という諺があるが、コンサルタントも入れるべき。

 中の人として働いたことがあるので、その手法は分かってる(まとめ:[そろそろコンサルタントについて一言いっておくか])。だから本書は、徹頭徹尾、黒い笑いが止まらない。騙される幹部が悪いのだが、振り回される社員はたまったものではない。ファームであれジコケーハツであれ、理論武装を「外」に求める人は、予習しておこう。あるいは、コンサルティングを「説得の技術」と捉え、逆にそこから学ぼう。

 本書は、マジシャンが種明かしするようなもの。コンサルタントの方法論である「適応戦略」や「最適化プロセス」「業績管理システム」は、役に立たないどころか、悪影響にもなると暴きたてる。著者は経営コンサル業界で30年も働いて、いいかげんこの「お芝居」にウンザリして、懺悔の名を借りた曝露本を出したという。その具体例が生々しい&おぞましい&あるある。

 たとえば、評価基準がマネジメントの方法にすり替わってしまった本末転倒の事例や、達成不可能なストレッチ目標に対する犯罪スレスレの"現場の知恵"、さらには名だたるビジネス書を撫で斬りにする件では、喝采をあげるかもしれない。巻末の、「コンサルタントが役立つとき、役立たないとき」のパターン表や、「コンサルタントを見分ける真偽表」は極端ながら的を射ている。ただし、ところどころ微妙に首をかしげるかもしれない。著者の言い分が本当か否かは別として、ゴハン食べさせてもらってきた業界に、後ろ足で砂をかけるような行為をしたことには変わらないからね。

 これを、「悪い」とは思えない。その言い分が理解できるから。顧客に嘘をつき続けて高給を食むという呵責に、よくぞ耐えたと誉めてやりたい。普通どこかで心が折れてUP or OUTで後者を選ぶ。そして恥ずかしさのあまり二度とその肩書きを名乗ろうとはしないだろう。しかし著者は臆面もなく、「コンサルタント」の看板を掲げる。私のやり方なら上手くいくってね。

 そのやり方とは、みんなで腹を割って話しあうことに尽きるという。ビジネスとはすなわち「人」であり、理屈どおりに動くはずがない。だから、職場から人間性を奪うのはやめにして、人材のマネジメントさえできれば、あとは全て上手くいくというのだ。具体的には「ブラウンペーパー」手法になる。現状の業務プロセスのフローを大型の「ブラウンペーパー」に描き、全関係者を集め、気づいた点をふせんで貼り付けるやつ(日本なら、模造紙を食堂や廊下の壁に貼ってやるのが普通)。

 このやり方は、確かに効果がある。業務上の問題を、相手(の部署)にあるとみなし、「me vs you(problem)」の対決構造にする代わりに、問題を「壁に貼る」ことで「problem vs us」として相対化できるから。チーム内の風通しを良くして、組織横断的に最適化を図ることができる。ビジネスは「人」である―――わたしの場合、デマルコの『ピープルウエア』と『デッドライン』で学んだ。プロジェクトで何よりも大切なものは「人」だ断言する。そして、メンバーの人格の尊重や、チームビルディングの重要性、生産性の高いオフィスをどう作り上げるかなど、プロジェクトの肝=人をユーモアたっぷりに語る。生産性についての至言「プレッシャーをかけられても思考は速くならない」は、この一行のために再読の価値がある。

 ただし、これは「チーム」の範囲にとどまる。開発プロジェクトなり一つの業務フローの中での最適化の話だ。当然、範囲を超えると利害が錯綜し、利害が対立すると議論は紛糾→爆発する。「みんなでハラを割って話し合う」と議論百出、電話の向こうや海の向こうからも膨大なコメントが出て収拾がつかなくなる事態に遭遇したことがないのだろう。さもなくば、「みんなでハラを割って話し合う」程度の大きさの案件しか受けたことがないのだろう。

 その意味では、本書のタイトルに偽りがある。大学を卒業してからずっと、著者は「コンサルタント」として名乗ってきたが、「御社を潰す」ほど影響力のあるキャリアではなかったようだ。中の人とはいえ、半径5m以内から見たコンサルタントの実態で、これを鵜呑むと二重遭難になるので要注意。

 コンサルタントは使い方しだい。たとえばコンサルタントを「使う」のは、社内全体の意識をある方向に向けたいときと、その効果を測るときに有用だ。「業務プロセス効率化の意識醸成」とか、「リードタイム削減による顧客満足度の向上」なんて抽象的な目標を、どうやって社内に浸透させる?そのためにどれくらいの投資でどういう効果が見込めるか?―――なんてお題なら、数字で測れる方法と、松竹梅の実行計画を出してくれる。コンセプトを選択肢まで落とし込み、他の利害関係者を納得させる殺し文句つきで数値化してくれる―――もちろんヤるのは経営層だけど。金で雇う代わりに考えてもらったり、代弁してもらうような無脳な経営者なら、コンサルタントにかかわらず会社を潰すだろうね。

 同様に、ビジネス書も使い方しだい。何十年も成功し続ける企業なんて、皆無に等しいにもかかわらず、失速した「ビジョナリーカンパニー」や「エクセレントカンパニー」を叩くアンチ・ビジネス書がある。だが、変化の激しい状況で、たとえ一時でも一定の業績を上げたのであれば、それは評価に値する。ただどこまで評価して、どう学ぶかの話だけ。闇雲に持ち上げるのは危険だが、学ぶ価値なしとするのは乱暴だ。本の価値は、読み手が見つけるべし。

 だから本書は読み手しだいで学べるものが変わってくる。アンチ・コンサル本として溜飲を下げるのもよし、コンサルの手口を盗んで自家薬籠にするもよし、マネジメントの原則やリーダーシップ論の反面教師としても得るものあり。

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科学を伝える技術『サイエンスライティング』

サイエンスライティング 科学報道に不満がある。

 リスクを極端に誇張したり、特定の団体を槍玉にあげつらうことに一所懸命で、エビデンスベースの話がない。新理論や新発見の解説をスルーして、それを成した人ばかりに焦点を当てる。不正確な報道を流布した挙句、訂正しない(わたしが気づかないだけ?)。俺様ストーリーに沿わない主張は、学会内の反対派を持ち上げて潰そうとする(バランスをとるつもり?)。

 かくしてネット越しに海外ソースを確かめるのがデフォルトになる。さもなくば、雑誌や書籍といった「形」になったもので再検証するハメになる。日本のことなのに、海外から確認するなんて、哀しいやら情けないやら。では、BBCやNatureといった大御所の欧米ならさぞかし見習うものがあるんじゃないかと手にしたのが、本書だ。

 本書は、第一線で活躍するサイエンスライターたちが、自らの知見を伝える実践的ガイドブックだ。いわゆる科学記者に限らず、TVの科学番組のディレクター、専門誌から大衆紙のライター、ウェブジャーナリスト、企業PRや大学、博物館の広報、大病院の危機管理担当など、科学を言葉で伝えることを生業とする人が集まっている。一人一章を担当してもらい、「技」と「分野」と「立場」の側面から、科学を伝える技術を開陳する。

 「技」は、サイエンスライティングのノウハウ。「新しいことを、誰にでも分かるように伝える」のは難しい。具体的な書き方から、記述スタイルの選び方、大量のニュースソースと情報収集の技、インタビューの心構え、不正を暴くきっかけとなった質問、統計の使い方、リスク報道の仕方、矛盾した研究成果の比較法が挙げられる。ノーベル賞はタイムカプセルに入った発見だから、アルバート・ラスカー基礎医学賞や京都賞、MIT賞から追えという指摘は鋭い。

 中でも、「バランスのとり方」が興味を惹いた。相反する意見を並列させるのがジャーナリズムの鉄則だが、あえてバランスをとるなという。世の中には、HIVはAIDSの原因でないと主張する人や、進化を否定する人がいる。そうした意見を並列させることは、いたずらに読者を混乱させるだけだろう。議論の背景や特定の主張を無視すべき事情を明らかにしておくことで、非主流の意見を取り上げる必要はないという。生々しいアドバイスを裏返せば、そのまま苦労話になる。海の向こうでも書き手は大変な思いをしてなおかつ読者に叩かれていることが、透けて見える。

 「分野」では、専門に特化したサイエンスライティングになる。医療科学、精神疾患、遺伝学、宇宙科学、気象学、環境学、技術工学など、様々な分野に的を絞り、そのジャンル特有の取材・執筆の仕方、情報収集のソースを教えてくれる。もちろん米国仕様だが、いちいち具体的で面白い。

 たとえば、新しい医療処置について、短時間で信憑性を確認したいという事例。企業のヒモつき研究なのだが、利害対立から評価を歪めたくない。どうするか?この場合は、コクラン共同計画(Cochrane Collaboration)にアクセスしなさいとアドバイスする。これは、医療処置や検査、薬剤の有効性と安全性をエビデンスベースで評価することを目的とし、臨床医、研究者、統計学者でつくられた国際的な非営利団体になる。バイアスのかからない最新医療の情報源として信頼できるという。これは、いかにインサイダーや利害関係の対立から歪んだ情報が行き交っているかのカウンターだろう。

 「立場」では、大学、病院、政府機関、非営利団体(NPO)、企業PRの広報担当など、さまざまな「科学を言葉で語る人」の微妙な立ち位置が見える。科学なんだから真実はいつも一つと言いたいところだが、語る人によって変わってくる。特に、広報担当者とジャーナリストの相違点は顕著だ。新しい知見の発見について、世に広めたいという動機は同じだが、広報担当者は、所属する組織の最大利益を追求するという職務がある(そのため、時には両者は激しく対立する)。エンバーゴ・システム(報道解禁日時の設定)を取り巻くトラブルが紹介されているが、「特ダネ」や「出し抜き」があるからこそ、規制したいジレンマを体現しているのだろう。

 このように、ノウハウの詰まったガイドブックなのだが、それを語る人たちが、率直に現状の不十分な点を認めている。気象は科学記事というだけでなく、政治、国際、経済問題でもあるから、政治的動機で歪められた情報が大々的に流されるのが常だという指摘は、「気象関係は割り引いて読もう」という気にさせてくれる。環境問題は、緩慢で大きな「誤差範囲」を含む統計解釈がつきもの。だが「緩慢」という言葉は、ニュースの編集部においては禁句である。そこでライターは、信憑性とニュースバリューのジレンマに悩むのだが、時には誘惑に負け、歪められた切迫感でもって書いてしまう―――そうした記者たちの、「べからず集」として読んでも面白い。

 科学を書く人、そして読む人にとって、得るもの大の一冊。

 おまけ。本書からニュースソースのいくつか並べてみた。実際には、この10倍くらい紹介されている。

■雑誌
 Science(特に News and Comment をチェックせよとのこと)
 Nature(特に News and View をチェックせよとのこと)
 PLoS Biology(公共科学図書館のオンライン雑誌)
 Scientific American
 Proceedings of the National Academy of Science(米国科学アカデミー紀要)

■専門誌
 The New England Journal of Medicine(査読制の医学雑誌)
 The Journal of the American Medical Association(米国医学学会誌)
 Cell(生物学分野)
 Physical Review Letters(米国物理学会)
 Astrophysical Journal (天文学・天体物理学)

■ウェブサービス
 arXiv(物理学、数学、計算機科学、量的生物学等の、プレプリント)
 PR Newswire(共同通信PRワイヤーサービス)
 Newswize(ジャーナリズムのためのサイエンスニュース)
 Eurekalert!(アメリカ科学振興協会が運営するサイト、調べ物に最高らしい)
 PubMed(国立医学図書館記事データベース/医学・生物学分野の学術文献検索サービス)
 Association of University Technology Managers(大学技術管理協会/大学の研究資金の出所に着目するならここ)
 Authers Guid(書くためのガイド)

 もう一つおまけ。本書の魅力は目次に如実に出ているのだが、残念ながらAmazonにないので。

第1部 技(わざ)をものにしよう
 第1章 ストーリーのテーマと情報源を見つけよう フィリップ・M・ヤム
 第2章 学術専門誌から取材する トム・シーグフリード
 第3章 統計を理解して活用する ルイス・コープ
 第4章 よい記事を書く―サイエンスライティングの教師が教えるテクニック
 第5章 ストーリーを一段階高める ナンシー・シュート  第6章 自分にあった語り口(ボイス)と文体(スタイル)を見つけよう デイヴィッド・エヴァレット

第2部 自分のマーケットを選ぶ
 第7章 ローカル紙 ロン・シーリー
 第8章 大手の新聞 ロバート・リー・ホッツ
 第9章 一般雑誌 ジャニス・ホプキンズ・タンネ
 第10章 科学専門誌 コリン・ノーマン
 第11章 放送の科学ジャーナリズム ジョー・パルカ
 第12章 フリーランサー キャスリン・ブラウン
 第13章 一般向け科学書 カール・ジンマー
 第14章 ウェブサイトの一般読者 アラン・ボイル
 第15章 科学者向けのウェブ記事 タビサ・M・パウレッジ
 第16章 サイエンス系の編集 マリエッテ・ディクリスティナ

第3部 多様なスタイル
 第17章 締め切りに追われて記事を書く ギャレス・クック
 第18章 調査報道 アントニオ・リガラード
 第19章 驚きをもたらすサイエンスライティング ロバート・カンジグ
 第20章 解説記事 ジョージ・ジョンソン
 第21章 物語形式の記事 ジェイミー・シュリーブ
 第22章 サイエンスエッセイ ロバート・カニゲル

第4部 ライフサイエンス分野のサイエンスライティング
 第23章 医科学 シャノン・ブラウンリー
 第24章 感染症 マリリン・チェイス
 第25章 栄養 サリー・スクワイアーズ
 第26章 精神医療 ポール・レイバーン
 第27章 行動生物学 ケヴィン・ベゴス
 第28章 人類遺伝学 アントニオ・レガラード
 第29章 ヒト・クローニングと幹細胞 スティーヴン・S・ホール

第5部 物理科学や環境科学を記事にする
 第30章 技術と工学 ケネス・チャン
 第31章 宇宙科学 マイケル・D・レモニック
 第32章 環境 アンドリュー・C・レヴキン
 第33章 ネイチャーライティング マッケイ・ジェンキンス
 第34章 地球科学 グレンダ・チュウイ
 第35章 気象 ユーシャ・リー・マクファーリング
 第36章 リスク報道 クリスティン・ラッセル

異なる道をゆく ジャーナリストと広報担当者

第6部 研究機関から科学を伝える
 第37章 大学 アール・ホランド
 第38章 病院における危機発生時の対応 ジョアン・エリソン・ドジャーズ
 第39章 政府機関 コリーン・ヘンリックセン
 第40章 非営利団体(NPO) フランク・ブランチャード
 第41章 博物館、科学館 メアリー・ミラー
 第42章 企業の広報 マリオン・E. グリック


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スゴ本オフ「グローバル」が凄かった

 好きな本をもちよって、まったりアツく語り合うオフ会、それがスゴ本オフ。

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 今回は、渋谷のHDEさんのスペースをお借りして、「グローバル」をテーマにブックトーク。会場をお貸しいただいたHDEさん、twitter実況していただいたズバピタさん[twitter実況まとめ]、カーリルレシピをまとめていただいたHaruoさん[紹介された本のまとめ]、ご参加いただいた皆様、やすゆきさん、ありがとうございました。

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 今回も、多彩で未知なラインナップと相成った。相変わらず偏狭なわたしの見識が、木ッ端微塵になるのが愉しい。でもそれはお互いさまで、自分のイメージした「グローバル」との差異が非常に刺激的なのだ。わたしは、「グローバル=世界文学」と捉えたが、参加いただいた方のセンスが素晴らしく、アートや音楽、旅、食、言語、テクノロジーなど、様々な斬口で「グローバル」を捕まえなおすことができる。

 スゴ本オフのロゴ入りクッキーや、手づくりアッブルパウンドケーキ、アボガドサンドウィッチ、たいへん美味しくいただきました。よなよなエールで酔い気分になったので、完全無料のDr.ペッパー飲むの忘れてた(ドクペ専用自販機があって、0円って書いてあるwDr.ペッパー飲み放題www)。

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 本題に入る前に、未見の方は[facebook:スゴ本オフ]をチェックして。わたしのblogで告知するよりもうんと早く公開され、あっという間に申込み枠が一杯になってしまうので、facebookをチェックするほうが迅速確実なのだ。次回は5/24(土)@渋谷HDE、テーマは「嘘と虚構」だから、心当たりを探すべし。

■世界文学
  『世界文学を読みほどく』池澤夏樹(新潮選書)
  『世界×現在×文学―作家ファイル』, 沼野充義、柴田元幸ほか編(国書刊行会)
  『考える人 2008年 05月号』(新潮社)

世界現在文学 わたしが選んだ「グローバル」の三冊。「小説を読む」行為は、個人的かつ普遍的な体験になる。だから、これをグローバルに拡張した世界文学は、人類の記憶そのもの。河出書房で世界文学全集を編んだ池澤夏樹が、十大世界文学を分かりやすく面白く解説したのが、『世界文学を読みほどく』。『百年の孤独』の読みは鋭く深く広い一方で、『アンナ・カレーニナ』の幼い感想は、文学を生業とする人の苦労をうかがい知ることができる。『世界×現在×文学―作家ファイル』は、作家や評論家たちの種本。これさえあれば読んだフリができるし、表現を変えればあら不思議、ちょっとした書評ができてしまうが、やっちゃダメ、ゼッタイ。著名な評論家の解説と比較しながら、どこをコピペしたかを査読するという、意地の悪い使い方ができる。

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■音楽と国境
  『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』柴那典(太田出版)
  『国のうた』弓狩匡純(文藝春秋)
  『ボクの音楽武者修行』小澤 征爾(新潮文庫)

初音ミクはなぜ世界を変えたのか 「日本のアイドルで一番グローバルなのは?」AKB?ベビメタ? いいえ、初音ミク。『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』は、60年代のヒッピーブームや80年代のクラブ文化とつながってる初音ミク現象を解き明かす。彼女はキャラクターだけでなく、「楽器」なんだ。初音ミクを「使う人」は、初音ミクをプロデュースしているだけでなく、初音ミクを「演奏」している。消費しているのではなく、創造している。初音ミクは「楽器」だからこそブームが生まれた。AKBのような仕掛け人はいない。インターネットを仕事にするすべての人が読むべきスゴ本とのこと(Rootportスゴ本認定)。

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国のうた 地域、言語、文化、歴史、政治経済まるで違うのが国家。その中で、共通している唯一のモノが「国歌」になる。『国のうた』は、各国の国家がどんな経緯で完成し、どんな歌詞なのかを知ることで、「グローバル」という言葉の中にどれほどの多様性があるのかを感じさせてくれる。スペインの国家は歌詞がない。フランスは血みどろで勇ましい。パラグアイの国家に込められた、米国憎悪が凄まじい。国歌から国家が透け見えるのが面白い。

■アート
  『スケッチトラベル/Sketchtravel』ジェラルド・ゲルレ(飛鳥新社)
  『世界の果てでも漫画描き 3 チベット編』ヤマザキ マリ(集英社)
  『図説 国旗の世界史』辻原康夫(ふくろうの本)

スケッチトラベル 『スケッチトラベル』は、ずばり移動する美術館。21世紀の最初の10年において、最先端にいたアーティストたちでリレーされ、書き込まれたスケッチブックは、オークションにかけられて(700万ドルしたそうな)、その収益でアジアに5つの図書館が建設されることになる。『スケッチトラベル』は、グローバルに行動することの具体的な結果そのもの。スゴ本オフ初参加のみかん星人さん曰く、最後の一枚が素晴らしく、納得のいく作品だなのだが、見たぞ。背筋に電気が、これはスゴい。また、「グローバル」→地球儀→国旗の連想で、『国旗の世界史』のご紹介。イスラムは、砂漠の民は緑を求めているから、緑色の国旗。国旗から見えてくるその国の歴史や性質を知ることができて、見て、読んで、面白い。

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■旅
  『舟をつくる』前田次郎(徳間書店)
  『マゼランが来た』本多勝一(朝日文庫)
  『ナショナル ジオグラフィック 日本版 2014年 1月号』
  『冒険投資家ジム・ロジャーズ世界大発見』ジム・ロジャーズ(日経ビジネス文庫)

舟をつくる 佐々木さんの発想は、 「人間の肉体をグローバルに考えると?」。10年かけて、10年かけてかつて人間は肉体だけで世界を移動できたのか実験した『舟をつくる』日本人の南方渡来説を検証したときの本がこれ。凄いのは、舟そのものだけでなく、その材料や道具も含め、一切合財自作したところ。舟を削る手斧を作るため、砂鉄を集めて炭を焼いてタタラで製鉄する。インドネシアから日本まで6000キロ航海できる舟を作るための木を探す。ロープの繊維、帆の布、外装の塗料も全て自作。人類がどこから来たのかということを知識にとどめず再現・検証した実例。「初音ミク」が人類の未来だとすると、本書は人類の歩んできた過去を明らかにしたことになる。この軌跡は、『ぼくらのカヌーができるまで』という記録映画になっているらしい。ツタヤにはなく、武蔵美で自主上映されているとのこと。

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冒険投資家ジム・ロジャーズ 世界大発見 グローバルな視点をもった「人」に着眼し、うえださんが選んだのが、『冒険投資家ジム・ロジャーズ 世界大発見』。「投資家界のインディ・ジョーンズ」が、特注メルセデスを駆って3年間で世界116ヶ国を旅した記録になる。「ミャンマーは1962年にはアジアで最も豊かな国のひとつだった」など歴史の知識に裏付けられた洞察で世界の栄枯盛衰を語るマクロな視点が魅力的。世界の独裁者はメルセデスが大好きだから、メルセデスで旅する、という発想が面白い。千年後には、アメリカ大統領なんて誰も覚えていない。ものすごい広い視野で語っているのがスゴイ。

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マゼランが来た すぎうらさんオススメ。歴史上、初めて地球一周=地球規模で活動した人・マゼランに着眼。そこを一回ヒネって、来られた側にとってはどうだったのか?というルポルタージュが『マゼランが来た』。現在も地球規模の企業活動が世界に辺境に致命的な一撃を加えているが、マゼランこそがその始まりだった。破壊と疫病は、海を越えてやってきたのだ。

■言語
  『たかが英語!』三木谷浩史(講談社)
  『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』ガイ・ドイッチャー(インターシフト)
  『トンパ文字―生きているもう1つの象形文字』王超鷹(マール社)
  『日本語でどづぞ―世界で見つけた爆笑「ニホン」誤集』柳沢有紀夫(中経文庫)

たかが英語 初参加のよしおかさんオススメは、『たかが英語!』。楽天の社内英語化について三木谷社長自ら語った書。世の中の経営者の決定は予定調和なのが一般的だけど、楽天の英語化の決定は予定調和どころかクレイジーだった。それにともなうドタバタが書かれていた。しかもユーザーやお客さんには関係ないし、日本ではデメリットばかり取りざたする。にも関わらずその決定をした。そのおかげで良いことも悪いことも沢山経験してきた。これはインターネットの時代においては大きなアドバンテージになるという。プレゼン後の質疑応答が悶絶モノなのだが、ちょっとここに書くわけにはゆかぬ。生々しい、というよりナマそのもの。

Global02

■生きるものたち
  "Hate That Cat"Sharon Creech(HarperCollins)
  『ベルカ、吠えないのか?』古川 日出男(文春文庫)
  『カモメに飛ぶことを教えた猫』ルイス・セプルベダ(白水Uブックス)
  『リトルターン』ブルック ニューマン(集英社文庫)
  『これが見納め―絶滅危惧の生きものたち、最後の光景』ダグラス・アダムス(みすず書房)

カモメに飛ぶことを教えた猫 ちかさん曰く、「グローバルという言葉に抵抗を感じることがあります。大きなものに組み込まれるとか。英語を公用語にするとか(笑)」。互いの個性を認め合うのが理想的なグローバル時代ではないかという発想で、『カモメに飛ぶことを教えた猫』をオススメ。この感性が素晴らしい。死にゆくカモメから卵を託された黒猫のゾルバが、仲間たちと育てるという児童文学。異なるものたちがお互いが認め合う物語。

これが見納め ズバピタさん、『これが見納め』をオススメ。世界中の絶滅危惧種を紹介した一冊。生物多様性がものすごい勢いで失われていっているのかを記録している。いかに人間が愚かであることを見せつける。人間が動物を絶滅させていった歴史が重なる。植民地時代にできあがった不合理なシステムが、支配階層が去った後も残り続けて、結果的に希少種を殺していく話。人間の愚かさは、「グローバル」やね。

■死と暴力と貧困
  『謝るなら、いつでもおいで』川名壮志(集英社)
  『音もなく少女は』ボストン・テラン(文春文庫)
  『世界中の「危険な街」に行ってきました』嵐よういち(彩図社)
  『絶対貧困―世界リアル貧困学講義』石井光太(新潮文庫)
  『メメント・モリ』藤原新也(三五館)

世界中の「危険な街」に行ってきました ヨハネスブルグは「リアル北斗の拳」と呼ばれてるらしい。武勇伝を語りたくなったら行ってみればいいと、本当に行ってしまったのが『世界中の「危険な街」に行ってきました』。わざわざ危険な場所を選んでいくのがスゴいし、生還してきてきっちりレポートするのはもっとスゴい。ジンバブエのハラレ、ホンジュラスのサン・ペドロ・スーラ、シウダー・フアレスなど、「絶対に行ってはいけない街」の生々しいルポ。

Global05

■テクノロジーとマネジメント
  『「メタルカラー」の時代』山根一眞(小学館文庫)
  『MADE IN JAPAN(メイド・イン・ジャパン)』盛田昭夫(朝日文庫)
  『技術力で勝る日本が、なぜ事業で負けるのか』妹尾堅一郎(ダイヤモンド社)
  『アップル、グーグル、マイクロソフトはなぜ、イスラエル企業を欲しがるのか?』ダン・セノール(ダイヤモンド社)

 おごちゃん曰く、グローバルということで一番最初に浮かんだのが「聖書」(世界中に翻訳されているから)。あえて持ってきたのは『メタルカラーの時代』シリーズ。日本が元気だった頃の古い本。グローバルという言葉がなかった頃にグローバルな活躍をした日本人。テクノロジーに国境は無いことが分かる。文庫とはいえ結構な分量だったけれど、交換会で人気熱かった。

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アップル、グーグル でんさんオススメは『アップル、グーグル、マイクロソフトはなぜ、イスラエル企業を欲しがるのか?』、原題はStartup nation。次々と新興企業が生まれるイスラエルについての本。例えばみんなのノートPCのCPUはイスラエルのインテルで開発された。イスラエルのベンチャー投資額は米国の2.5倍。その裏側を取材している。イスラエルは徴兵制だが、軍隊で最先端の開発がされ、生きるか死ぬかの中で起業家精神も養われる。積極的に移民を受け入れて多様化している。この本読むと、日本がこのままではダメということがわかる事実が次々と出てくる。ルポルタージュだけど、へたな自己啓発本読むよりもためになる。合わせて『技術力で勝る日本が、なぜ事業で負けるのか―画期的な新製品が惨敗する理由』もオススメとのこと。

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MADE IN JAPAN 天野さんは、『MADE IN JAPAN(メイド・イン・ジャパン)』を持ってきた。著者は、ソニーの盛田昭夫。ビジネス本の古典。創業期のHDEで苦労した天野さんが、ソニーが大好きだったので、ソニーに学ぶつもりで手にし、大いに勇気付けられたという。盛田さんは日本に誇りを持っていて、米国に対して堂々と主張して渡り合う。英語上手だったわけではなかったのに、シリコンバレーで商売するのも大阪で商売するのも変わらない感覚。現在、海外から人材採用する礎になっているとのこと。

 他にもこんなラインナップ。アメリカ合衆国、食、フットボール、オタクなど、ジャンルは様々なのだが、「グローバル」の理由はそれぞれ腑に落ちる。わたし自身、グローバルの中に「地球規模の等質化」を見て取っていたが、グローバルという概念が実際に用いられるとき、そこには実に雑多な実体が現れてくるのがイイ。

■普通
  『「普通がいい」という病「自分を取りもどす」10講泉谷 閑示』(講談社現代新書)

■フットボール
  『フットボールの犬』宇都宮 徹壱(幻冬舎文庫)

■食
  『諸国空想料理店』高山なおみ(ちくま文庫)
  『料理=高山なおみ』高山なおみ(リトル・モア)

■アメリカ合衆国
  『アメリカのめっちゃスゴい女性たち』町山智浩(マガジンハウス)
  『(株)貧困大国アメリカ』堤未果(岩波新書)

■Rock & Pop
  『神は死んだ』ロン カリー ジュニア(エクス・リブリス)
  『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』ジュノ ディアス(新潮クレスト・ブックス)
  『スナッチ/Snatch』ガイ・リッチー監督

 目ウロコだったのは、「サッカーというスポーツはグローバルそのものだけど、それを支えているのは、地元チームを応援する超ドメスティックな行為である」という指摘。グローバルを支えるローカリズムが、「サッカー」という一語であぶり出るのが面白い。また、「食」は確かにグローバルだけど、食べる行為はローカルどころかドメスティックどころか、個レベル。これは、読書という体験にも通じるところがある。global のカウンターとして diversity が流行り言葉になっているが、ぜんぜん global の方が"多様"じゃん、と考えると面白い。

 文字通り、「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」ラインナップ。積読山がまた拡張するのは嬉しいが、次回テーマ「嘘と虚構」に向けての課題図書にとりかからないと。スゴ本オフのいいところは、永年のあいだ積読本に埋もれていた「あの一冊」を急遽、浮上させるところ。読め、そして語れ。

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『人間は料理をする』はスゴ本

 キッチンからの文明論。知識欲も食欲も、満足させられる一皿。

人間は料理をする上人間は料理をする下

 火・水・空気・土に因んだ料理に挑戦しながら、最新科学と古典文学を縦横に行き交い、料理の文明史を語る。加工食品と健康のパラドクスを嘆き、農耕を始めたのは酒のためと説き、細菌を含んだ超個体としての人間の本質に迫る。鋭い洞察に唸らされたり、危なっかしい料理にヒヤヒヤさせられたり、かぶりつく瞬間の描写にゴクリと喉を鳴らしたり、食問題の警鐘に首をかしげたり、忙しい読書になる。

 例えば火の章、バーベキューのプロに弟子入りし、豚の丸焼きに挑戦する。バーベキュー原理主義に則り、じっくり時間をかけて、「生きた」オークとヒッコリーのチップで焼いたものは、著者の人生を一変させたという(以後、自分が焼いたほとんどの料理を「グリル」と呼ぶようになるくらい)。自宅で再現してしまう行動力(+それだけの庭)が羨ましい。その、豚を焼く過程をつぶさに観察しながら、「消化の外部化」を考察し、ホメロスの食事風景を想像する。

 つまりこうだ、火を使うことで炭水化物を分解し、タンパク質を消化しやすい形に変えることができる。腱や靭帯の硬いコラーゲンをゼラチンにし、食材に付着している細菌や寄生虫を死滅させ、熱により無毒化させる。料理とは実質的に、体の外で行う消化、すなわち、体のエネルギーの代わりに火のエネルギーを用いることで、体に代わって咀嚼と消化を行うことだという。「鍋は体の外の消化器官」と表現するが、言い得て妙なり。

火の賜物 そして、ロバート・ランガム『火の賜物 ヒトは料理で進化した』を引きながら、人は、料理によって、延々と咀嚼しつづける生活から開放され、時間とエネルギーを他の目的に使えるようになった「料理仮説」を展開する。さらに料理は、食材だけでなく社会の発達を促したという。火を使うことで、決まった時間に決まった場所で集団で食事を取るようになった。これにより人の社会性は育まれたという主張は、納得できる。(そうではない歴史の証拠も多々あるが)「分かち合い」が社会の最初なのだから。

 あるいは空気の章では、全粒粉パンを焼くことに没頭する。どうも完全主義の気があるようで、その道のプロを求めて四苦八苦する様は、可笑しくも気の毒に思える。プロの傑作に啓示を受けたり、自分が焼いたパンにエントロピーの反証を見出したり、いちいち大げさで面白い。やはり「パン」には特別な思いがあるのだろうか、「全粒粉」「ドライイースト禁止」「手作り」にこだわる。電子レンジやホームベーカリーで焼くけど、著者に言わせると反則なのかもしれぬ。

 そして、究極の全粒粉を探すうちに、「小麦粉」を取り巻く加工・流通システムに矛盾を見出す。製粉業者は、小麦の最も栄養ある外皮や胚芽をすっかり除去したものを、「小麦粉」として売る。残された「かす」は、ビタミン、抗酸化物質、ミネラル、健康に良い油脂の全てを含むが、家畜の飼料や、ビタミン剤の原料となる。さらに、そのビタミン剤は、精白小麦粉が一因の栄養不足を補うために、売られることになる。ビジネスモデルとしては上出来だが、生態学的に見れば実に歪んだシステムなのだという。

食品偽装の歴史 なぜこんなことをするのか。それは、白さの追求だという。進化的に不適応な行動であるにもかかわらず、人類は小麦粉を白くすることに励んできたのだ。ギリシャや古代ローマの時代にまでさかのぼり、人間の才覚の愚かさを、時として賢さゆえに愚かなことをすることを明らかにする。人類は料理術を発見し、発展させ、栄養価を高め、他の生物には得られないカロリーを摂取できるようになった。だが、飽くなき食欲と進歩欲に駆り立てられ、過剰加工の末に、健康と幸福を害するようになったのだ。日本にも白米至上主義の歴史(と、そのカウンターである玄米/雑穀米ブーム)があるので笑えない。このくだりは『食品偽装の歴史』と重なるが、食品加工の歴史に人類レベルの欺瞞を見、そこから寓話を取り出す手腕はさすが。

 他にも、土の章で発酵をテーマに、ちゃんと乳酸菌を用いたザワークラウトや、日本でやったら完全に違法なビールの醸造に取り組む。料理というより、ガーデニングや日曜大工などのDIYを見ているようだ。その中で、人と微生物の深い係わり合いを語りだす。人の一生を通じて、60トンもの食物が腸内を通過し、腸壁上皮をさまざまな危険にさらす。その危険の多くは、腸内細菌によって処理されている。人の腸内に棲む、およそ500種で3兆もの細菌の運命は、宿主の生存にかかっている。ゆえに、彼らは全力をつくして、宿主を健康にし、長生きさせようとするという。彼らの栄養源は、食物繊維を発酵させた有機酸になる(他の器官と異なり血流にはほとんど頼らないらしい)。つまり、腸内でおきる発酵こそが、健康の鍵になるというのだ。

 ところが、脂肪分と精製炭水化物の多い食事が中心になると、エネルギーは与えてくれるが、腸と、そこに棲む細菌は飢えることになる。人と細菌からなる超個体には栄養を与えず、人にだけ栄養を与えるものになった。3兆の生物のためではなく、たった一つの生物のために食べているのが、現代なのだという。わたしという存在を、ヒトという種から見た場合、ヒトの細胞だけでなく、様々な細菌や寄生生物から成る、巨大なコロニーのように思えてくる。「わたし以外」を排除するのではなく、それらをひっくるめた超個体が、「わたし」なんだね。漬物から超個体まで広げる想像力がすごい。

 さすが全米No.1の食の権威、ホメロスから分子ガストロノミーまで、哲学と科学の両面から「人にとって料理とは何か」を表現する、その筆圧はすばらしい。だが、主張があまりに大げさで、違和感がつきまとう。炭火を使う料理から、地域社会にまつわる物語につなげ、宇宙の秩序にまで展開する。炭は毎日使うには不便だろうし、焼肉はグリルかフライパンの上で事足りる。食の産業化や冷凍食品がもたらす、家庭の個食化や不健康について警鐘を鳴らすが、上手に使えばいいだけのこと。「毎日冷凍食品だけ」はさずがにマズいだろうが、まさかそれが普通じゃないだろう。

 そう、なんだか料理を大仰なものに祭り挙げているように見える。料理はもっと、日常的なプロセスなのに、人類や宇宙を持ってくるのがそぐわない(ただし、その取り合わせの妙こそが本書の魅力なのだ)。毎日食べているのだから、毎日料理するでしょ?著者は1ヶ月に数回、週末にパンを焼いたりシチューを作ったりするようだが、DIY自慢を聞いているようだ。玉ネギのみじん切りやシチューをかき混ぜるのを、退屈だとか涙が出ると嘆くが、料理中は退屈を感じている間がないぞ。玉ネギは冷やしてみじん切りはyoutubeを参考にすればすぐだし、シチューだけの食事なんてないでしょ?併行して何か作るはず。下ごしらえの切るものの順序、シンクに何を置くか、コンロ×2+電子レンジの有効活用、洗い物の対応(料理中に出てくる汚れ物は、極力洗っておく)等など……料理のいいところは、料理以外の一切を考えずに済むところ。著者はいろいろ考えすぎで、包丁が危なっかしく見えてくる。でも、そのおかげで、こんなに愉快で深い「料理本」ができたのだ。

 読者と料理の距離を測り、どれほど離れていようと近かろうと、確実に近づけてくれるスゴ本。

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なぜ女は忘れるのか『フィクションの中の記憶喪失』

フィクションの中の記憶喪失 『凪のあすから』後半は、熱い涙が止まらない。

 ベタな展開が見えているのに滂沱を禁じ得ない。「好きを取り戻したい」」と「好きになっちゃいけない」、そして「この気持ちは誰のもの?」が交錯し、打ちのめされたり裂かれたり。ラスト3話はタオル用意して正解、今まで体感してきた「切ない気持ち」が、完全に上書きされた。そのテーマがこれだ。

 もし、「人を好きになる気持ち」を奪われたら、その女の子は別人になるのか

 もちろん、過去のことは覚えているから、いわゆる記憶喪失ではない。ただし、「人を好きになる気持ち」に結びつく言動を思い出そうとすると、霞んでしまう。一種のマインドコントロールといっていい。この描き分けが凄い。(洗脳の典型である)瞳の色だけでなく、「人を好きになる」方へ向かいそうになると、微妙なしぐさで「らしくなさ」が表れる。まるで別人のように。『凪のあすから』は、フィクションではお約束としての「記憶喪失」を、「好きにまつわる記憶」として捉えなおしているところがユニークだ。この約束事を知っているから、彼女のとまどいを物語として受け入れることができる。

 この「記憶喪失」というモチーフは、いつから始まり、どのように広まり、どんな機能を担ってきたのかを集めたのが、本書になる。小説、演劇、映画、漫画、アニメ、ゲームに現れる「記憶喪失」を取り上げ、虚構の世界において、どう描かれてきたのかを考察する。そして、なぜ人はこのモチーフにこだわるのかを深掘りする。

 たとえば、神話的な忘却が近代で用いられた例として『ニーベルングの指輪』、記憶喪失と二重人格を扱った『ジキル博士とハイド氏』といった古典が分析される。前行性健忘症をモチーフとした映画『メメント』、小川洋子『博士の愛した数式』は、アイデンティティの不連続生と“それでも残るもの”(犯人や数式)との対比で語られる。偽の記憶というモチーフを人格の不一致をめぐる恐怖にまで高めたP.K.ディック『追憶売ります』や『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』は、非常に先見性があったという。発表当時の冷戦時代の対立を、「自分という他人」との遭遇になぞらえているというのだ。

 記憶のすり替えというより、ぶっちゃけ集団洗脳なのが、オーウェル『一九八四』や、キアヌ・リーブスの『マトリックス』だ。ビッグ・ブラザーのスローガン「過去をコントロールするものは未来をコントロールし、現在をコントロールするものは過去をコントロールする」は、フィクションもノンフィクションでも、今までもこれからも有効だ。「記憶をコントロールするものは、世界をコントロールする」という命題なら、『攻殻機動隊』における“記憶の外部化”、ヘブンズドアーやホワイトスネイク(ともに『ジョジョの奇妙な冒険』、最近なら野崎まど『know』なんて浮かんでくる。

 そう、本書を読んでいると、「それならコレも!」と芋づる式に萌え出でるのが楽しい。偽史を騙るマザーコンピューターが人類を管理しようとする仕組まれた物語なら、本書で紹介された作品よりも、手塚治虫やプリキュアを思い出す。記憶喪失という設定でゲーム世界を拡張する例として、『ファイナルファンタジーⅢ』が紹介される。「リピート」というキーワードで、記憶喪失とゲームの相性のよさを論じる。断片的な過去を再演することで、そこから真実(らしきもの)を浮かび上がらせる物語構造は、ゲームシナリオの定番だ。それならずばり『Kanon』(Key制作)を推したくなる。記憶と再生と初恋が、らせん状にモザイクのように繰返される物語だ(ラストの、「ボクのこと、忘れてください」は文字列だけで泣ける)。

 ギミックとしての「記憶喪失」に対する面白い指摘が、『うる星やつら』最終巻にあるという。これは、記憶喪失をストーリーで説明するのではなく、文字通り「漫画的」に使われているというのだ。筋を転換させるための約束事である「手の内」をあえて明かすことで、クライマックスであることを予見させている。そして、人類の記憶を賭けた、「記憶喪失装置」こそが、第一話から始まった長い長い鬼ごっこを終わらせる約束事だと示すだけでなく、ある種のアンチ・クライマックスとしての役割を果たしているというのだ。

 さらに、「なぜ、記憶喪失になるのか」に対する仮説のいちいちに反応する。フィクションにおける記憶喪失ネタが広まるきっかけは、第一次世界大戦のシェルショックだという指摘が鋭い。シェル(shell)は砲撃を意味し、シェルショックは戦場での精神的なダメージによって引き起こされる症状を指す(今ならPTSDだね)。

 また、男性の主人公が記憶喪失になる設定では、彼らを導く女性が登場するという。ヒッチコック『白い恐怖』、カーティス・バーンハート『高い壁』、ロス・マクドナルド『三つの道』を挙げ、記憶喪失という迷宮から脱出するアリアドネの糸的な役を、ヒロインが担うのだというのだ。また、「カラッポの記憶」の中で生きる『ドグラ・マグラ』は、脳髄の地獄、すなわち、自らの主観性から逃れられない狂気を描く。その背後には、この時代に日本人が初めて持った「世界意識」があり、さらには作品内で一度も言及されない世界戦争=第一次大戦が影を落としているという。男の記憶喪失の背景には、姿形を変えた戦争のトラウマが控えているのかも。

 翻って女性の記憶喪失だと、それは「少女」である場合が多いという。『涼宮ハルヒの憂鬱』や『とある魔術の禁書目録』を挙げ、ある世界と別の世界を結びつけるメディア(「霊媒」と「媒体」の二つの意味がある)として機能する少女像を浮かび上がらせる。そして、霊媒=メディアとしての少女の原型として、筒井康隆『時をかける少女』を指す。同じタイトルで実写映画やドラマ、アニメという媒体で、何度も“リプレイ”される「時をかける少女」は、わたしたちの記憶のゆらぎを顕わしているのかもしれない。

 なぜ人は、記憶喪失というモチーフを語る/騙るのか。本書の結論では、物語としての記憶喪失こそが、記憶の連続性を体験させるための一つの方法なのだという。人は、失われた記憶を仮想的に甦らせる「遊び」によって「死」と戯れる。それは、究極の気晴らし=娯楽であるだけでなく、記憶が動いていることを実感することで、自らの生を確認する方法だからというのだ

 わたしはそこに、「生贄としての少女」を追記したい。少女が忘れるのは、供犠として捧げられる際、残された人たち───とくに想い人との別れの辛さを少しでも軽減させるためではなかろうか。約束事のギミックとしての記憶喪失と回復の物語は、少女の死と再生の演出を、より一層ドラマティックに仕立てあげる。女が忘れるのは、その物語を楽しむ人のための、生贄の役を果たしている。そう考えると、『凪のあすから』のヒロイン、まなかは二重の意味で生贄となっている。一つは、物語の中での海神さまに捧げる犠牲として。そしてもう一つは、この物語に涙するわたしのために。

 「記憶喪失あるある」を引き出し、あなたの記憶喪失感を呼び覚ます、刺激的な一冊。

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イタい女の真骨頂『ボヴァリー夫人』

ボヴァリー夫人 これは傑作。男に狂って贅沢三昧の挙句、破滅する女の話なんて珍しくない。しかし、これを古典にまで成したのは、間違いなく小説のチカラ。だから安心してハマってほしい、「小説を読むこと」の、純粋な悦びが汲みだせるから。

 恋に恋するこじらせ女や、哀れなほど典型的なコキュ、既視感ありまくる浮気相手など、分かりやすくカリカチュアライズされた登場人物は、「俗物」の一言で片付く。世間体を気にして、見栄に振り回される人生は、反面教師と扱ってもいいが、むしろ、こういう人々で世は成り立っていると気づくべき。戯画的に誇張されているとはいえ、彼女が抱く「人生のこれじゃない感」は嫌悪を持って共感されるだろう。善人の愛と狂人の恋の、よくできた御伽噺と思いきや、世界は俗物で成立しており、俗物により世は回っているという、ウンザリするほど現実的な話に付き合わされる。

 ミもフタもない現実につきあわされる分、"つくりもの"としての小説の愉しみはたっぷり堪能できる。手を代え品を換えた語りの形式(一行目から驚いた)や、いくつものイメージを重ねて連ねて輻輳させる映像的なシーン(結婚式と葬式)、恋の探りあいと政治演説の絡まりあいを、会話と描写のシンフォニー(農業共進会の一幕)、衣装や建物の構造、ちょっとした小道具まで、細部に淫してフェティックに書き込む。

 そして、きっちり伏線を回収する。汗や雨や流れなど、情事の前フリに「水」のイメージを挿し込んだり(愛液の隠喩)、花弁や遠景を縁取る「色」にエンマの感情を託したり、時間の経過とキャラの連続性を「馬」で示したり、さまざまな匂いが記憶を呼び覚ますシーンを織り交ぜたり、好きなだけ掘り出すことができる。これが元となった「子」や「孫」や「曾孫」の小説を読んできたが、おそらく、これがオリジンなんだと思うと感慨深い。

 (小説と向き合う)読書を採掘に喩えるならば、大丈夫、もてる全てのスキルで掘っても、いくらでも獲れたてピチピチ大漁宴になる。セオリーどおり、「お花畑的ロマン主義的 v.s. 凡庸なリアリズム」として読んでもおもしろいし、自己主張に都合よく抽出するフェミニストなら、男性優位社会の歪んだジェンダー構造の負け戦と捉えても、得るもの大なり。

 作者・フローベールがやりたかったことは、文字で現実を表すこと。"つくりもの"を言葉で"ほんもの"にしたい試みは、時を越えて確かに成功している。しぐさだけで感情を伝えたいパントマイムの役者のように、会話と客観で感情や世界を描きたいのが分かる。言葉には限りがあり、書く/読むにも時間は有限だ。だから、選ぶ。

 ただし、この"ほんもの"はリアルではない。つくられた"ほんもの"になる。それは、真に迫る絵のようなもので、どんなに"らしく"あっても、それはよくできた絵にすぎない。その意味で、写実主義と言ってもいいが、けしてリアルではない。一緒に寝ているはずの妻が夜な夜な起き出して、いそいそ出かけるのを、隣の夫が知らないでか?口さがない田舎を徘徊するカップルが、噂にならいでか?いっそ「実は知っていたが、(己の日常の幸せのため)知らぬフリをしていた」という設定で読み直しても面白いかも。

へルタースケルター いまいちノれない、ハマれない人は、おそらく小説を読むことより、「おもしろい物語を楽しむ」とか「キャラに感情移入して震わせてもらう」ことが好きなんじゃないかと。残念ながらそれは、マンガや映画の方がコスパが良いので、そっちをオススメする。たとえば、岡崎京子『ヘルタースケルター』。モチーフは違えども、テーマは重なる。全身を改変する美容整形手術の副作用とストレスで蝕まれ、身も心も崩壊していく彼女は、共感しないように読もう(さもなくば引きずり込まれる)。読中の焦燥感、「こんなはずじゃなかった」展開、そしてラストの喪失体験は、まるで違う物語なのに、そっくりだ。

 人の俗悪から、こんなにスゴいものを生み出せる。


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