『病の皇帝「がん」に挑む』はスゴ本
人類はがんをどのように理解したか、これを多面的に描いたスゴ本。
人になぞらえて「がんの伝記」と評されるが、言い得て妙なり。これは、がんとの全面戦争の叙事詩なだけでなく、対峙した医者たちの手記であり、沢山の患者の闘病記になっている。ウィルスや遺伝学からのアプローチ、古代から現代に至る医療技術の変遷を追う一方で、環境汚染の疫学論争を扱い、たばこ撲滅キャンペーンによる第三世界への「がんの輸出」といった今日的なテーマまで広げる。
本書を読むことで、がん戦史の証人としての視点から、最前線に立った医師として、あるいは侵された当事者として、がんを丸ごと知ることができる。「がんリテラシー」というものがあるならば、実際に宣告されることの次に、本書が王道になる。事故にも事件にも巻き込まれずに生き延びたなら、おそらくがんを告げられるだろう。そのとき、もういちど、読み直す。
がんの歴史を描いているのに、急かされるように一気に読ませられる。その理由は緊迫感。がんはゆっくり準備され、急速に広まる。ステージの進行と、対抗する研究治療のリミットを、ある種の時限ミステリのように描いている。4000年の苦闘の歴史なのに、対する医師のキャリアは限られている。ましてや患者にとっては炙られるような思いだろう。この焦燥感が、読み手に伝染する。
これとは裏腹に、がんの理解は試行錯誤と回り道の積み重ねになる。どの治療法が功を奏して、どのやり方が闇に葬られたか───後知恵だから分かるのだが、そのときの"実験体"となった人の話は胸に迫るものがある。「がんを殲滅できる魔法の弾丸がある」。そんな信念で持ったメスによる根治的切除術や、超大量化学療法、強力な放射線医療を施した事例が次々と紹介される。
著者は注意深く、善悪の判定を読み手に任せる書き方をしているものの、明らかにこれはやりすぎだろうという印象を受ける「治療」もある。無慈悲で冷酷なまでの執拗さで、患者が副作用に耐えうる限界を押し広げていかなければならないという姿勢は、医学の未来を明るくとらえた無邪気の裏返しだ。そして、そうした先人の積み重ねの跡に、いまが成り立っていることを思い知らされる。
科学者は歴史学者と同じくらい熱心に歴史を研究する。なぜなら科学者という仕事は他に類をみないほど切実に、過去に依存しているからだ。あらゆる実験が過去の実験との会話であり、あらゆる新説が古い説の反証だ。
こうした過去との対話から生み出された施術や治療薬のブレイクスルーは、カタルシスをもたらす。「ようやくたどり着いたのか!」ってね。特に、がんとの闘いの統計的な成績表である第6部「何ひとつ無駄な努力はなかった」は、こみあげてくる涙を抑えることができなかった。
その一方で、強烈な違和感を抱いた。それは、がんに対する姿勢だ。著者および本書に登場する医師たちは、がんとは闘う相手であり、殲滅すべき「敵」として扱っている。しかし、がん特定の探索過程を通して詳らかにされるその正体は、“わたしたち自身”なのだ。マイケル・ビショップの言葉を借りるならば、「われわれ自身のゆがんだバージョン」である。著者自身は、「生存能力を付与され、活動の亢進した、多産で創意に富む、われわれ自身の寄せ集めのコピー」だという。
この姿勢は、救うべき患者自身を攻撃することにはならないだろうか。二十年前の、わたしの親しい人の言葉を思い出す。「先生は私を見ていない、私のがんしか見ていない、だからこんなことができるのだ」。“こんなこと”とは、メス、薬、放射線による攻撃で、治すためなら殺してしまってもかまわないレベルだったという。彼に言わせると、がん込みで「私」があるということに、医師は気づけなかったらしい。そして、そう感じたとき、医師に問うべき質問を教えてくれた。
1. あなたが私と同じ状況だったら、その方法を選ぶか?
2. それはなぜか
こうすることで、他の療法や施術の可能性を視野に入れた会話ができる。それは、残りの年齢も考慮しながら「根治を目指す」よりも「折り合いをつける」可能性だ。今ではQOL(Quality of Life)という便利な言葉があるが、昔は一般的ではなかった。「がんと私は、切っても切れない」と笑っていたが、「私」は「人」に置換できる。わたしは、かつて結核や天然痘やペストや肺炎でとっくにこの世にいない可能性があった。わたしは、発育不全や感染症や飢えで大人になる前に死んでいた可能性があった。医学の進歩と衛生の向上によって、がんがありふれた病になったのだから、わたしは、まだがんになっていないだけなのだ。
もう一つの違和感は、些末な箇所かもしれないが、がんを「疫病」としているところ。「はじめに」のp.11で、こうある。
隠喩的、医学的、科学的、政治的な潜在力に満ちた、絶えず形を変える致死的疾患であるがんは、しばしば、われわれの世代を特徴付ける疫病だと表現される。
「疫病」とはインフルエンザやコレラのような伝染病のことだが、がんとは“伝染する”病気なのか!? と悩まされる。もちろん、B型肝炎ウィルスやヒトT細胞白血病ウイルスといった例外はあるものの、がんは基本的に伝染しない病気だと理解していた。
仮に原書に"epidemic"とあるのなら、レトリックとして用いたと思う。つまり、喫煙習慣が伝染することになぞらえた場合は、肺がんを"epidemic"と表現するはずだ。ただし、肺がんは伝染しないから、イタリック体や引用符などで、隠喩としての「疫病」と記述するだろう。もし"plague"とあるのなら、流行病という意図が込められていると考える。もちろん、ペストなど伝染性の高い病気を指して用いられ、辞典にも「疫病」とあるが、むしろ時代を代表する病としての"plague"なのだ。著者は"plague"と"epidemic"を厳密に使い分けているような気がする。
つまり、がん以外の病気が撲滅され、がん以外の病気による死亡率の低下に伴い、相対的にがんが目立ってきた、それが現代である、という意味で、現代の「流行病」としての、がんなのだ。かつては結核や肺炎がその座を守ってきたが、現代はがんの時代なのだ───そういう著者の主張が、「疫病」に託されていると読みとった。
がんの系譜をたどることで、最後は自分自身に至る。興味深く好奇心を刺激されるだけでなく、わたし自身を試されている気にさせる。がんの理解は、わたしの理解につながるのだ。
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