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日本人は変態である『超絶技巧美術館』

超絶技巧美術館 目が驚く脳が騒ぐ「美」。

 流行りや消費者ウケとは一切関係せず、ひたすら自分の作りたい作品、表現したいものを追い求め、突き詰めて、カタチにしている人がいる。

 そんなとこまで見ないだろ、とか、そこまで細かくしないでも……とツッコミたくなるが、彼彼女らは、作りたい・描きたい・彫りたいからそうしてるだけで、自分が満足するために究極の技を研磨する。巧みさとか才能とかいったテクニカルなものではなく、一種の鬼気というか、ねちっこさを感じる。

 現代の生人形師・アイアン澤田がスゴい。神々しいまでの女体を、魂込みで眺めることができる。いわゆるフィギュアとは一線を画するもので、まず骨格作りから始め、その上に肉を被せ、表面に磨きをかけて、衣装を着せる。眼球も、仏像と同じように内側から嵌め込んでいるし、歯なんて少ししか見えないのに、全部そろえて植えてある。異様な質感に恐ろしくなる。女の美しさを、生身ではないカタチを通じて、あらためて見ることができる。

 本書に紹介されている"NICO2013"は、画像実物問わず、わたしの人生で見てきた中で、もっとも美しい尻だ。ふっくらした尻たぼといい、あわい目に添えられた小粒のほくろといい、完璧な尻がここにある。ぜひ、匠のブログで確認してほしい⇒Iron Sawada「NICO 2013」

 田嶋徹の細密画は、どんなに懲らしても焦点が追いつかない。リアルが欲しければ実物の薔薇を眺めればいい。だけど、絵とは思えないほどの、絵でしかありえぬような、「薔薇」がそこにある。その製作過程もレポートされており、「粒子を置く」ような微細ストロークで描く様を見ることができる。細密画には、対象と手元と目、その三角形の中で全身を使って見るような、えも言われぬ感覚を得る瞬間があるという。この張り詰めた感覚を、「表現された物」から追体験することができる。

 面白い、と感じたのは、何人かが「銘」を入れてないこと。サインを残さないのは、なくても誰それの作品だと分かるくらいオリジナルだからというのもあるが、究極を詰めるあまり、作家としての自分の名前なんてどうでもいいと感じているのでは……と思うほど完璧なのだ。

 舐めるような視線に耐えうるディテールを再現する会田誠が凄い。滝に集ったスク水の群れを描いているのだが、三次元の立体としてありえない構成に、濡れた感じ微妙なシワまで精密に厳密に描き込まれているため、眩暈すら感じさせる。

 John Hathwayの、情報を圧縮した絵画が凄い。Photoshopで非対称レンズや消失点を創造し、キュビズムのように複数の視点を画面に集約する。現実通りに描くと人物自体のひずみができるため、手書きで個々の頭身を調整する。"Electric Lolita 超伝導のマリア"(2011)を眺めていると、街を通して物理的概念が丸ごと説明されているような気がしてくる。

 他にも、一本の木から柿とタイルを掘り出した前原冬樹や、一頭のシカの皮と肉を剥ぎ、残った骨を素材にして、そこに花束を彫りだす橋本雅也など、制約を課せば課すほど、凄い物を作るのが日本人なのだと思い知らされる。わたし自身が不勉強なのか、会田誠と井上雅彦しか知らなかったが、こんなに凄い「美」をつくりだす人がいるなんて……目と脳を驚かす一冊。


【変態日本人を追加】 変態と天才は紙一重というか合同。
 高松和樹「距離感主義」
 深堀隆介「金魚養画場」

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苦しまないためのソンタグ『隠喩としての病い』

 予習として読む、苦しまないためのスーザン・ソンタグ。

 試験や結婚、性交や子育て、人生は初めてに満ちている。事故や事件に巻き込まれなかったら、おそらく「初がん」するだろう。いきなり初体験はキツいもの、だから「がん」を予習する。

がんの練習帳 自信がついたのは、『がんの練習帳』。患者と家族から見たケーススタディ集だ。人生のさまざまなステージで「がん」と出会い、どうやって乗り越え/付き合い/闘ってきたかの予習になる。告知されたときの心構え、検診や療法選択のコツ、費用から最期の迎え方まで、すべて練習できる。もちろん具体的な療法や症状は人によるが、どうやって「がんとつきあっていく」かを考える羅針盤になった。不安や恐怖のあまり、ネットの寓話に振り回されたり、病ではなく医者と闘った人の話を聞くたびに、「この本を読んでいたら……」と激しく感じる。

 ソンタグは、そうした不安や恐怖を取り除く「道具」を示してくれる。なぜ自分なのか?どうしてこうなったのか?遺伝や不摂生なのか?病の理由を己に向けてしまい、ただでさえ弱っているにもかかわらず、自分で自分を責め立ててしまうことになる。それは巧妙に仕組まれた隠喩の罠に陥ってしまっていのだと告発したのが、本書だ。

隠喩としての病い がん、結核、らい病、チフス……病をとりまくテクストを読み解きながら、そこにひそむ権力とイデオロギーの装置を解体する。病気は悪行への罰なりという先入観や、内的なものを劇化するための自己表現としての「病」を、ソンタグは次々と暴いてゆく。そこには実際の病ではなく、語り手から意味を付与され、喧伝されるための「隠喩としての病い」が白日の下にさらされる。ソンタグ自身のがん経験から、ときに激しく、ときに鋭く穿つような射撃が、くりかえし行われる。

 そして、人体におきる「出来事としての病い」は、ひとまず医学にまかせるとして、それと重なり合って苦しめる病の隠喩、すなわち言葉の暴力から解放してくれる。がんは、ひとつの病気だ―――とても重大な病気ではあるにしても、ひとつの病気にすぎないのだ―――呪いでも罰でもない、そこに「意味」などないのだというメッセージが、くりかえし伝わってくる。わたしが「初がん」したら直面するであろう苦しみのうち、せずにすむ部分を取り除いてくれる。

 心の保険として、手元におきたい一冊。

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『病の皇帝「がん」に挑む』はスゴ本

 人類はがんをどのように理解したか、これを多面的に描いたスゴ本。

病の皇帝がんに挑む上病の皇帝がんに挑む下

 人になぞらえて「がんの伝記」と評されるが、言い得て妙なり。これは、がんとの全面戦争の叙事詩なだけでなく、対峙した医者たちの手記であり、沢山の患者の闘病記になっている。ウィルスや遺伝学からのアプローチ、古代から現代に至る医療技術の変遷を追う一方で、環境汚染の疫学論争を扱い、たばこ撲滅キャンペーンによる第三世界への「がんの輸出」といった今日的なテーマまで広げる。

 本書を読むことで、がん戦史の証人としての視点から、最前線に立った医師として、あるいは侵された当事者として、がんを丸ごと知ることができる。「がんリテラシー」というものがあるならば、実際に宣告されることの次に、本書が王道になる。事故にも事件にも巻き込まれずに生き延びたなら、おそらくがんを告げられるだろう。そのとき、もういちど、読み直す。

 がんの歴史を描いているのに、急かされるように一気に読ませられる。その理由は緊迫感。がんはゆっくり準備され、急速に広まる。ステージの進行と、対抗する研究治療のリミットを、ある種の時限ミステリのように描いている。4000年の苦闘の歴史なのに、対する医師のキャリアは限られている。ましてや患者にとっては炙られるような思いだろう。この焦燥感が、読み手に伝染する。

 これとは裏腹に、がんの理解は試行錯誤と回り道の積み重ねになる。どの治療法が功を奏して、どのやり方が闇に葬られたか───後知恵だから分かるのだが、そのときの"実験体"となった人の話は胸に迫るものがある。「がんを殲滅できる魔法の弾丸がある」。そんな信念で持ったメスによる根治的切除術や、超大量化学療法、強力な放射線医療を施した事例が次々と紹介される。

 著者は注意深く、善悪の判定を読み手に任せる書き方をしているものの、明らかにこれはやりすぎだろうという印象を受ける「治療」もある。無慈悲で冷酷なまでの執拗さで、患者が副作用に耐えうる限界を押し広げていかなければならないという姿勢は、医学の未来を明るくとらえた無邪気の裏返しだ。そして、そうした先人の積み重ねの跡に、いまが成り立っていることを思い知らされる。

科学者は歴史学者と同じくらい熱心に歴史を研究する。なぜなら科学者という仕事は他に類をみないほど切実に、過去に依存しているからだ。あらゆる実験が過去の実験との会話であり、あらゆる新説が古い説の反証だ。

 こうした過去との対話から生み出された施術や治療薬のブレイクスルーは、カタルシスをもたらす。「ようやくたどり着いたのか!」ってね。特に、がんとの闘いの統計的な成績表である第6部「何ひとつ無駄な努力はなかった」は、こみあげてくる涙を抑えることができなかった。

 その一方で、強烈な違和感を抱いた。それは、がんに対する姿勢だ。著者および本書に登場する医師たちは、がんとは闘う相手であり、殲滅すべき「敵」として扱っている。しかし、がん特定の探索過程を通して詳らかにされるその正体は、“わたしたち自身”なのだ。マイケル・ビショップの言葉を借りるならば、「われわれ自身のゆがんだバージョン」である。著者自身は、「生存能力を付与され、活動の亢進した、多産で創意に富む、われわれ自身の寄せ集めのコピー」だという。

 この姿勢は、救うべき患者自身を攻撃することにはならないだろうか。二十年前の、わたしの親しい人の言葉を思い出す。「先生は私を見ていない、私のがんしか見ていない、だからこんなことができるのだ」。“こんなこと”とは、メス、薬、放射線による攻撃で、治すためなら殺してしまってもかまわないレベルだったという。彼に言わせると、がん込みで「私」があるということに、医師は気づけなかったらしい。そして、そう感じたとき、医師に問うべき質問を教えてくれた。

 1. あなたが私と同じ状況だったら、その方法を選ぶか?
 2. それはなぜか

 こうすることで、他の療法や施術の可能性を視野に入れた会話ができる。それは、残りの年齢も考慮しながら「根治を目指す」よりも「折り合いをつける」可能性だ。今ではQOL(Quality of Life)という便利な言葉があるが、昔は一般的ではなかった。「がんと私は、切っても切れない」と笑っていたが、「私」は「人」に置換できる。わたしは、かつて結核や天然痘やペストや肺炎でとっくにこの世にいない可能性があった。わたしは、発育不全や感染症や飢えで大人になる前に死んでいた可能性があった。医学の進歩と衛生の向上によって、がんがありふれた病になったのだから、わたしは、まだがんになっていないだけなのだ。

 もう一つの違和感は、些末な箇所かもしれないが、がんを「疫病」としているところ。「はじめに」のp.11で、こうある。

隠喩的、医学的、科学的、政治的な潜在力に満ちた、絶えず形を変える致死的疾患であるがんは、しばしば、われわれの世代を特徴付ける疫病だと表現される。

「疫病」とはインフルエンザやコレラのような伝染病のことだが、がんとは“伝染する”病気なのか!? と悩まされる。もちろん、B型肝炎ウィルスやヒトT細胞白血病ウイルスといった例外はあるものの、がんは基本的に伝染しない病気だと理解していた。

 仮に原書に"epidemic"とあるのなら、レトリックとして用いたと思う。つまり、喫煙習慣が伝染することになぞらえた場合は、肺がんを"epidemic"と表現するはずだ。ただし、肺がんは伝染しないから、イタリック体や引用符などで、隠喩としての「疫病」と記述するだろう。もし"plague"とあるのなら、流行病という意図が込められていると考える。もちろん、ペストなど伝染性の高い病気を指して用いられ、辞典にも「疫病」とあるが、むしろ時代を代表する病としての"plague"なのだ。著者は"plague"と"epidemic"を厳密に使い分けているような気がする。

 つまり、がん以外の病気が撲滅され、がん以外の病気による死亡率の低下に伴い、相対的にがんが目立ってきた、それが現代である、という意味で、現代の「流行病」としての、がんなのだ。かつては結核や肺炎がその座を守ってきたが、現代はがんの時代なのだ───そういう著者の主張が、「疫病」に託されていると読みとった。

 がんの系譜をたどることで、最後は自分自身に至る。興味深く好奇心を刺激されるだけでなく、わたし自身を試されている気にさせる。がんの理解は、わたしの理解につながるのだ。

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知性の性差という地雷『なぜ理系に進む女性は少ないのか』【リンク追加】【2019.9追記】

 「女ってバカだなぁ」こう自問する瞬間がある。

 もちろんこの問いそのものが間違っていることは分かっている。バカな男がいるように、バカな女がいるだけの話だし、そもそもわたしの母・嫁・娘だけで一般化することにムリがある。一番バカなのは、問うたわたし自身だ。男女のスレ違いを如実に表わしたコピペ「車のエンジンがかからないの…」の正解は、二行目で「それは大変!僕が送っていくよ」だ。オスカー・ワイルドの「女とは愛すべき存在であって、理解するためにあるものではない」を噛みしめながら、ヴィトゲンシュタインの「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」を守るべし。

 だが、あえて問うたのが本書だ。

 発端はハーバード大学学長ローレンス・サマーズの発言。数学と科学の最高レベルでの研究において、統計的に見ると、男性より女性が少ない適性を持つかもしれないと述べたのだ。これは「女性が科学・技術・工学・数学のキャリアにおいて少数派であるのは、認知能力において劣っているからである」と受け取られ、激しい抗議の声がメディアじゅうに響き渡り、ついに退陣に至る。人は自分の受け取りたいように受け取り、自分の観測範囲で判定した価値観に基づいて攻撃した。

 「知性に性差が存在するか?」問うた瞬間、フェミニズム十字砲火を喰らう、極めて微妙な質問を、徹底的に検証したのが本書である。サマーズの発言を「なぜ理系に進む女性は少ないのか」に置き換え、科学者による論証を批判的に解釈することで答えようとしている。米国、カナダ、英国を代表する研究者による15の論説をまとめている。

  1. 「理系に女性が少ない」は、そもそも本当か
  2. それは能力が低いからなのだろうか
  3. 単に関心が低いからなのだろうか
  4. 脳構造やホルモンなど、生態学的なものか
  5. 性淘汰など遺伝的・社会的状況の組み合わせの結果か
  6. 生まれつきの能力の差異があるのだろうか
  7. 文化のせいなのか
  8. 社会が女性を家庭に束縛しているのだろうか

 上記の観点を、エビデンスに基づく(evidence-based)主張で展開している。ややもすると感情と政治と修辞法に満ちたものになりがちな議論を、経験的なデータを示し、注釈と文献を示すことで、懐疑的な読者が自分で評価できるようにしている。本書を読むと、性差についての問題提起をいかにないがしろにしきたか、どれだけ自分の経験だけで一般論を語っていたかがよく分かる。

 特に、「性差は原因ではなく結果である」という主張や、無意識のバイアス「セルフハンディキャップ」という観点は目鱗だった。セルフハンディキャップとは、自分の失敗を外的条件に求め、成功を内的条件に求めるような行動の選択。すなわち、自分自身にハンディキャップを付けることで、この問いと研究自体がセルフハンディキャップのメッセージに変わる危険性があるというのだ。

 そして、主張はともかく「認知能力に性差がある」エビデンスは存在する。学術雑誌『サイエンス』における、ラリー・ヘッズとエイミー・ノウェルの論文だ。認知能力における性差に関する分析結果で、1960-1994年に公表された十代の若者の事例をもとにしている。中央値、平均値は男女でほとんど変わらないが、分布の端の方である上位1%、5%、10%で著しい性差がある。

 男性は、科学、数学、空間推理力や機械操作スキルはもちろん、社会的学習能力においても、女性より優れていた。女性は言語能力、連想記憶力、知覚速度において男性より秀でていた。劇的な点は、数学や空間推理力の上位1%において、男性は女性に対して7対1の比率で、圧倒的に数が多かった。

 他の例として、カミラ・パーソン・ベンボウの調査もある。これによると、SAT-M(Scholastic Assessment Test-Mathematics/大学進学適性試験の数学)で上位0.1%では男性対女性の割合がほぼ10対1になる。また、ジュリアン・スタンレーによる研究では、科学や数学の教師からずばぬけた才能があると推薦を受けたボルチモアの12-14歳のうち、最高の女子より高得点の男子が43人いたという。能力の分布の右端においてジェンダーのアンバランスがあることは明白だというのが、議論の出発点になる。

 だが、そこから先の展開はバラバラに分かれており、どれも非常に興味深い。

 例えば、女はヒトに、男はモノに注目する傾向があることを指摘する。女の赤ちゃんは「ヒト」に対する指向性を持って生まれてくるのに対し、男は「モノ」に対する嗜好性を持つため、興味の方向性が徐々に異なるようになるというエビデンスは、わたしの子育て経験上からいって納得できる。

 あるいは、「ステレオタイプ」をソフトに表現する用語「ジェンダースキーマ」を創り出し、ステレオタイプで説明してきたことを再説明する科学者もいる。ジェンダースキーマによって男女に対する認識と評価が歪められ、男性を過大評価し、女性を過小評価してしまうというのだ。

 また、ハンターとしての男性に着目したものもある。猟採集社会で男は一般にハンターであり、獲物を追い、狙うための武器を作るといった行動において、空間認知能力を必要としたため、そうした能力が性差として現れたのだというのだ。公平を期するため補足すると、空間認識能力は採集者たる女も同様で、さまざまな種類の食用植物を、それぞれが実る季節に見つけるため、かごを編んだり焼き物をつくるために必要だと述べている。

 性差よりも国の格差の方が大きいと指摘するレポートもある。国際数学・理科教育調査による、第8学年(日本だと中学2年)の数学の試験成績を比較したもので、米国の男女差よりも、日米の差の方がはるかに大きいのだ。平均で見たとき、米国の性差はわずかである一方、米国男子よりも日本女子の方が圧倒的に高得点なのだ。数学や理科の上位はアジア勢が優位であるにもかかわらず、ノーベル賞やフィールズ賞がそうとは限らないため、試験成績でもって性差を判断するのはおかしいという。[※1]

 同一のデータやエビデンスについて、異なる見解が示されるのが面白い。自説を通すため、レトリカルに解釈する“らしくない”科学者も若干おり、詭弁術の好例としても読める。たかだか数年の調査だけで生物学や進化論に結びつける態度が性急すぎておもしろい。

 しかし、これらが即ち「数学のノーベル賞“フィールズ賞”の受賞者に女性はまだいない」理由になるだろうか?[※2]わたしは反対に、下位の方に目を向けたい。上位0.1%に男性が集中している傾向は、下位でも同じように見られる。男女比で成績を見ると、男子は下に凸の釣鐘型、女子は上に凸の釣鐘型になる。平均的なところでは、女性は男性より優れているが、上端や下端では男が占める。つまり、超天才は男に多いが、超バカも男性ばかりであることが見落とされている。単純に、男性のスコアは、女性に比べるとばらついているだけなのだ。この事実をスルーして、上端だけで議論をするのは、ネタとしてはスリリングだが大いなる欺瞞だろう。

 さらに、「なぜ理系に進む女性は少ないのか」(Why aren't more women in science?)という問いそのものが中立的ではない。ハーバード大学学長の言に引きずられ、「理系=物理学、工学、数学」という枠から出発しているため、生物学、化学、医学、天文学などの分野が漏れている(そしてまさに、そうした分野で女性の優位性を指摘する論もある)。性差は、知性のどの領域に有意に現れるのか、そしてそれはなぜかを考える方が、より有意義だろう。こうした反論を誘うための呼び水的なタイトルであるならば、このタイトルは大成功しているといえる。

 知性の性差という地雷原は、エビデンスをベースに注意深く進んでいくと、大いに得るものがある。わたしはまだ(というかこれからもずっと)女性を分かっていないだろうし、オスカー・ワイルドの箴言はこう書き換えるべきだろう。「異性とは愛しあうべき存在であって、理解するためにあるものではない」とね。

※1 性差と同じなのかも⇒「アジア人は欧米人よりIQが高いのに、なぜ文明が遅れているのか」

※2 興味深い考察⇒数学の歴史上の人物で、なぜ女性はいないの? (教えて!goo)

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2019.9.15追記

アメリカにおける数学のSAT(※)スコアは男女差が減少しているという研究。

「女は数学に弱い」は固定観念であり事実ではなくなってきているというレポート。面白いのは、アジア系アメリカ人だと上位1%で男女差が逆転する(つまりめっちゃ数学ができるグループは女性が多い)ところ。

一方で、物理学と工学についてはジェンダーギャップが残ったままだという指摘もある。この差が適応によるものか、セルフハンディキャップを刷り込む社会に還元されるものか、追いかけてみると面白そう。

Gender Similarities Characterize Math Performance

(PDF)In tests of extreme math intelligence, boys still outscore girls in the US but the gap is closing fast

Ratio of males to females in math SAT scores of 7th graders

※SATはアメリカの標準的な試験。高校により成績評価基準の差があるため、大学進学の適正を判断し、合否を決めるために高校生が受験する。

コメント欄で教えていただいた名無しさん、ありがとうございます!
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『宇宙船とカヌー』はスゴ本

宇宙船とカヌー 両極端は一致する。両極端は繰り返す。

 巨大宇宙船を建造して星の海を旅することを夢見た父と、伝説のカヌーを復元して北の海を旅することを選んだ息子のドキュメンタリー。交わることのない父子の生き方に、技術主義、自然主義のライフスタイル、世代の断絶を盛り込み、ロードムービーのように再現してみせた二重伝記。

 初読のときは息子、ジョージ・ダイソンに寄り添って読んだが、いまは父・フリーマン・ダイソンの視線で読み直す。世界的な物理学者が、息子の成長にとまどい、その感性に驚き、反発する内心を思いやりながら読む。数学と物理学をやり直しているおかげで、父ダイソンの偉大さが分かる。相対性理論と量子力学を統合する数式(ダイソン方程式)を成立させただけでなく、ファインマン・ダイアグラムを数式化して理解を広めた功績は大きい。

 しかし、父ダイソンが造ろうとした宇宙船は噴飯ものだろう。燃料ロケットではなく、核爆弾を使うのだ。核爆発から得られた推進力で地球を飛び出し、光速の3%で航行する「都市」と呼んだ方が適切な巨大宇宙船だ。当時は米ソ冷戦の真っ盛りで、人類を何度も死滅させることができる核弾頭が売るほどあった。

 父ダイソンは、核爆弾のリサイクルをすると同時に、人類を地球から旅立たせる宇宙船をデザインしたかったのだろう。地球を脱出することに比べれば、大気圏内の爆発による放射能汚染を「微々たるもの」とする発想は、SFとしても時代遅れだが、当時としては最高の科学者の合理的な考えだったのだ。最近、『科学論の展開』『科学と宗教』を通じて「科学とは何か」について考えを深めている。父ダイソンの夢を追ってゆくと、「科学」とはその時代の合理性を反映したテクノロジーの根拠にすぎない、と思えてくる

 一方で、子ダイソンが作ったカヌーがおもしろい。16で父の元をとびだし、放浪の旅をつづけながら、ベーリング海の伝説のカヤックをグラスファイバーとアルミニウムで復元する。文明からできるだけ離れた場所で、文明の手をできるだけ借りず、巨大なカヌーを作り上げるのだ。おもしろいのは、そのカヌーが宇宙船そっくりだというところ。6人を乗せて湾内だけでなく外洋まで行けるカヌーの写真が、p.386にある。ハッチカバーが半球で、三本の帆を掲げた様子は、太陽風を受けて惑星を航行する宇宙船そのもの。

 驚くほど似ている。宇宙船とカヌー、父も子も、自分で作った船で、「ここ」から出て行こうとした。ただし、父は地球から出て行こうとしたし、息子は文明から出て行こうとした。そして、父はしがらみと重力に捕らわれ、息子はテクノロジーと重力に捕らわれるのだ。本書のスゴいところは、父を子を、科学と自然を対決として捉えるのではなく、双方をそのまま示す。二者一択ではなく、両者がそのまま「ある」のだ。

 もちろん著者の主張は一人称で語られる、だからといって片方が落ちることはない。読み手に委ねるように、そのまま書かれる。科学と自然は対立するものではなく、折り合いを付けるもの。だが、どこで折り合いを付けるのかは、時代と文明によって異なる。

 ちくま文庫で絶版状態となっていたが、ヤマケイ文庫にて復刊。Amazonでどえらい値がついており、「幻の名著」だった。図書館で探すしかなかったのを書店で手にできるのは有難い。息子だった私が読んでも、父になったわたしが読んでも、それぞれ知るところが二重になっているのがいい。

 かつて息子だった父に、これから父になる息子に読んで欲しい一冊

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