「女ってバカだなぁ」こう自問する瞬間がある。
もちろんこの問いそのものが間違っていることは分かっている。バカな男がいるように、バカな女がいるだけの話だし、そもそもわたしの母・嫁・娘だけで一般化することにムリがある。一番バカなのは、問うたわたし自身だ。男女のスレ違いを如実に表わしたコピペ「車のエンジンがかからないの…」の正解は、二行目で「それは大変!僕が送っていくよ」だ。オスカー・ワイルドの「女とは愛すべき存在であって、理解するためにあるものではない」を噛みしめながら、ヴィトゲンシュタインの「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」を守るべし。
だが、あえて問うたのが本書だ。
発端はハーバード大学学長ローレンス・サマーズの発言。数学と科学の最高レベルでの研究において、統計的に見ると、男性より女性が少ない適性を持つかもしれないと述べたのだ。これは「女性が科学・技術・工学・数学のキャリアにおいて少数派であるのは、認知能力において劣っているからである」と受け取られ、激しい抗議の声がメディアじゅうに響き渡り、ついに退陣に至る。人は自分の受け取りたいように受け取り、自分の観測範囲で判定した価値観に基づいて攻撃した。
「知性に性差が存在するか?」問うた瞬間、フェミニズム十字砲火を喰らう、極めて微妙な質問を、徹底的に検証したのが本書である。サマーズの発言を「なぜ理系に進む女性は少ないのか」に置き換え、科学者による論証を批判的に解釈することで答えようとしている。米国、カナダ、英国を代表する研究者による15の論説をまとめている。
- 「理系に女性が少ない」は、そもそも本当か
- それは能力が低いからなのだろうか
- 単に関心が低いからなのだろうか
- 脳構造やホルモンなど、生態学的なものか
- 性淘汰など遺伝的・社会的状況の組み合わせの結果か
- 生まれつきの能力の差異があるのだろうか
- 文化のせいなのか
- 社会が女性を家庭に束縛しているのだろうか
上記の観点を、エビデンスに基づく(evidence-based)主張で展開している。ややもすると感情と政治と修辞法に満ちたものになりがちな議論を、経験的なデータを示し、注釈と文献を示すことで、懐疑的な読者が自分で評価できるようにしている。本書を読むと、性差についての問題提起をいかにないがしろにしきたか、どれだけ自分の経験だけで一般論を語っていたかがよく分かる。
特に、「性差は原因ではなく結果である」という主張や、無意識のバイアス「セルフハンディキャップ」という観点は目鱗だった。セルフハンディキャップとは、自分の失敗を外的条件に求め、成功を内的条件に求めるような行動の選択。すなわち、自分自身にハンディキャップを付けることで、この問いと研究自体がセルフハンディキャップのメッセージに変わる危険性があるというのだ。
そして、主張はともかく「認知能力に性差がある」エビデンスは存在する。学術雑誌『サイエンス』における、ラリー・ヘッズとエイミー・ノウェルの論文だ。認知能力における性差に関する分析結果で、1960-1994年に公表された十代の若者の事例をもとにしている。中央値、平均値は男女でほとんど変わらないが、分布の端の方である上位1%、5%、10%で著しい性差がある。
男性は、科学、数学、空間推理力や機械操作スキルはもちろん、社会的学習能力においても、女性より優れていた。女性は言語能力、連想記憶力、知覚速度において男性より秀でていた。劇的な点は、数学や空間推理力の上位1%において、男性は女性に対して7対1の比率で、圧倒的に数が多かった。
他の例として、カミラ・パーソン・ベンボウの調査もある。これによると、SAT-M(Scholastic Assessment Test-Mathematics/大学進学適性試験の数学)で上位0.1%では男性対女性の割合がほぼ10対1になる。また、ジュリアン・スタンレーによる研究では、科学や数学の教師からずばぬけた才能があると推薦を受けたボルチモアの12-14歳のうち、最高の女子より高得点の男子が43人いたという。能力の分布の右端においてジェンダーのアンバランスがあることは明白だというのが、議論の出発点になる。
だが、そこから先の展開はバラバラに分かれており、どれも非常に興味深い。
例えば、女はヒトに、男はモノに注目する傾向があることを指摘する。女の赤ちゃんは「ヒト」に対する指向性を持って生まれてくるのに対し、男は「モノ」に対する嗜好性を持つため、興味の方向性が徐々に異なるようになるというエビデンスは、わたしの子育て経験上からいって納得できる。
あるいは、「ステレオタイプ」をソフトに表現する用語「ジェンダースキーマ」を創り出し、ステレオタイプで説明してきたことを再説明する科学者もいる。ジェンダースキーマによって男女に対する認識と評価が歪められ、男性を過大評価し、女性を過小評価してしまうというのだ。
また、ハンターとしての男性に着目したものもある。猟採集社会で男は一般にハンターであり、獲物を追い、狙うための武器を作るといった行動において、空間認知能力を必要としたため、そうした能力が性差として現れたのだというのだ。公平を期するため補足すると、空間認識能力は採集者たる女も同様で、さまざまな種類の食用植物を、それぞれが実る季節に見つけるため、かごを編んだり焼き物をつくるために必要だと述べている。
性差よりも国の格差の方が大きいと指摘するレポートもある。国際数学・理科教育調査による、第8学年(日本だと中学2年)の数学の試験成績を比較したもので、米国の男女差よりも、日米の差の方がはるかに大きいのだ。平均で見たとき、米国の性差はわずかである一方、米国男子よりも日本女子の方が圧倒的に高得点なのだ。数学や理科の上位はアジア勢が優位であるにもかかわらず、ノーベル賞やフィールズ賞がそうとは限らないため、試験成績でもって性差を判断するのはおかしいという。[※1]
同一のデータやエビデンスについて、異なる見解が示されるのが面白い。自説を通すため、レトリカルに解釈する“らしくない”科学者も若干おり、詭弁術の好例としても読める。たかだか数年の調査だけで生物学や進化論に結びつける態度が性急すぎておもしろい。
しかし、これらが即ち「数学のノーベル賞“フィールズ賞”の受賞者に女性はまだいない」理由になるだろうか?[※2]わたしは反対に、下位の方に目を向けたい。上位0.1%に男性が集中している傾向は、下位でも同じように見られる。男女比で成績を見ると、男子は下に凸の釣鐘型、女子は上に凸の釣鐘型になる。平均的なところでは、女性は男性より優れているが、上端や下端では男が占める。つまり、超天才は男に多いが、超バカも男性ばかりであることが見落とされている。単純に、男性のスコアは、女性に比べるとばらついているだけなのだ。この事実をスルーして、上端だけで議論をするのは、ネタとしてはスリリングだが大いなる欺瞞だろう。
さらに、「なぜ理系に進む女性は少ないのか」(Why aren't more women in science?)という問いそのものが中立的ではない。ハーバード大学学長の言に引きずられ、「理系=物理学、工学、数学」という枠から出発しているため、生物学、化学、医学、天文学などの分野が漏れている(そしてまさに、そうした分野で女性の優位性を指摘する論もある)。性差は、知性のどの領域に有意に現れるのか、そしてそれはなぜかを考える方が、より有意義だろう。こうした反論を誘うための呼び水的なタイトルであるならば、このタイトルは大成功しているといえる。
知性の性差という地雷原は、エビデンスをベースに注意深く進んでいくと、大いに得るものがある。わたしはまだ(というかこれからもずっと)女性を分かっていないだろうし、オスカー・ワイルドの箴言はこう書き換えるべきだろう。「異性とは愛しあうべき存在であって、理解するためにあるものではない」とね。
※1 性差と同じなのかも⇒「アジア人は欧米人よりIQが高いのに、なぜ文明が遅れているのか」
※2 興味深い考察⇒数学の歴史上の人物で、なぜ女性はいないの? (教えて!goo)
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2019.9.15追記
アメリカにおける数学のSAT(※)スコアは男女差が減少しているという研究。
「女は数学に弱い」は固定観念であり事実ではなくなってきているというレポート。面白いのは、アジア系アメリカ人だと上位1%で男女差が逆転する(つまりめっちゃ数学ができるグループは女性が多い)ところ。
一方で、物理学と工学についてはジェンダーギャップが残ったままだという指摘もある。この差が適応によるものか、セルフハンディキャップを刷り込む社会に還元されるものか、追いかけてみると面白そう。
Gender Similarities Characterize Math Performance
(PDF)In tests of extreme math intelligence, boys still outscore girls in the US but the gap is closing fast
Ratio of males to females in math SAT scores of 7th graders
※SATはアメリカの標準的な試験。高校により成績評価基準の差があるため、大学進学の適正を判断し、合否を決めるために高校生が受験する。
コメント欄で教えていただいた名無しさん、ありがとうございます!
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