人類を定義する一冊『人類はどこから来てどこへ行くのか』
大上段で、具体的で、断定的で、しかもツッコミまくる読書になる。私だけが真実に最も近いという自負心が透け見えて面白い。強引なレトリックに鼻白むことはあっても、その主張が核心を突いていることが感じられ、興奮させられる。賛否は割れるだろう。だが、「人類とは何か」について考えさせるのが著者の目的だとすれば、本書は大成功しているといえる。
著者はハーバード大学の生物学者。分子遺伝学、神経科学、進化生物学、考古学、生態学、社会心理学、歴史学の視点から、ゴーギャンがタヒチで書き付けたこのテーマを照らす。
われわれはどこから来たのか
われわれは何者か
われわれはどこへ行くのか
「われわれは何者か」この認識は、立場や自尊心によって歪められる。神学者からファシストまで、特定のイデオロギーの信奉者は、「人類の本性」を自分に都合良く定義してきた。特に経済学者に多いような気がするが、統計その他を駆使しつつ、自分の信条に落とし込んだ俺物語を開陳するのは、見ているだけで愉しい。本書では、人類の進化の道筋を追いながら、蟻や蜂など、組織を営む昆虫と人間社会を対比させるアプローチから、この謎に迫る。
結論をまとめてしまうと、人間の本性は、種に共通する精神面の発達に関する遺伝的規則性(=後成規則)だという。先史時代からの長期にわたる遺伝的進化と文化的進化の相互作用によって遂げた、世界を認識し表現するための偏向であり、無意識にとりうる選択肢であり、反応だというのだ。
たとえば、われわれは、小川が流れる草原を美しいと思う一方で、高い場所や暗い森にはそう思わないように“準備”されている。蛇への嫌悪や幼子への親密な感情は、たとえ学習されなければならないにしても、最初から「当然」に思われているというのだ。ウィルソンはこれを、「準備された学習」と呼ぶ。
人の本性とは、こうした後成規則の集積だという。遺伝と文化の共進化によって作られた後成規則により、われわれは最も性的魅力があると思われる人を決定し、夫婦の絆を結ばせ、特定の行動や思考をさせる。無意識に取り得る選択肢こそが、最も報酬の多いパターンであり、「生殖は報酬に比例する」という考えに基づく自然選択的・ゲーム理論的な方法で説明することができるというのだ。
折々で示される解説が興味深い。たとえば生殖以外の性交の目的。ヒトの女性は外性器が隠れており、発情がハッキリ表に出ない分、いったん親密になった場合、頻繁な性交を求める営みが遺伝的に適応を助けるという。女性にとって、生殖目的ではない快楽をともなう性交が、配偶者の献身的な関与を保証してくれるからというのだ。
また、「幼少時に親密に付き合っていた相手には、性的関心をもたない」ように脳がプログラムされている例として、台湾のマイナーマリッジ(未成年結婚)の研究や、イスラエルのキブツ生活共同体の話が挙げられる。血縁上では無関係の男女でも、事実上の兄妹として育てられた場合、結婚を忌避するというのだ。
さらに、この数千年間に起っている遺伝子と文化の共進化の具体例として、成人の乳糖耐性が紹介されている。乳糖を消化するラクターゼ(乳糖分解酵素)の生成は、乳児に限られていた。ところが、9000年前から3000年前にかけて牧畜が発展すると、成人になってもラクターゼの生成を持続させてミルクを飲み続けられるような変異が文化的に広まったというのだ。ミルクや乳製品を利用するメリットは、生存や繁殖にとって非常に大きいためだ。ラクターゼの生成を長引かせる変異は、ヨーロッパやアフリカで実際に発見されている。文化が変異を起こした好例だといえる。
興味深く、時にはスリリングに読めるのだが、自説(グループ選択説)を強弁する節が見受けられる。著者によると、善と悪のジレンマや破壊行動と利他的行動、道徳性や宗教的熱狂などがグループ選択により説明できるとする。だが、その証明を他説への攻撃の中で試みているため、説得力を持たない。まさに「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」状態となっている。ひとつの理論ですべてを片付けようとするとハマる陥穽の良例としても読める。
そういう著者のナイーブなヒューマニズムをさし引いても、本書は充分ハマれる。進化生物学の大家と斬り結びながらの読書となるだろう。
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