『科学と宗教』はスゴ本
オックスフォード大学の教科書(Very Short Introductions)で、専攻問わず大学新入生の必読書。
片方の肩を持つのではなく、「そもそも何が問題となっているか」を整理する。科学と宗教は、とかく対立するものとして見られるが、そうではないことが分かる。むしろもっと根が深い。「正しいか、正しくないか」ではなく、争点が政治にあることが問題なのだ。
定番のテーマであるガリレオ裁判、進化論に対する理解の変遷、そしてID(インテリジェント・デザイン)説をめぐる論争や、ドーキンスの利他性の問題を採り上げ、科学哲学と宗教的含意の議論をまとめている。
歴史の俎上に乗せてしまうと、科学と宗教は驚くほど似通っていて、対立というよりも、補完・強化する関係になっていることが分かる。先進的な科学者v.s.保守的な教会という構図はドラマティックだが、現実は違う。どちらも頑迷さと寛容性があり、どちらにも知的探究心と真実の尊重、レトリックの多用、国家権力へのすりよりといった側面を見ることができる。
たとえば、ニュートンやボイルのような初期近代科学の開拓者たちは、自分の研究を、天地創造を理解するための宗教的行為の一環と見なしていた。ガリレオもまた、科学と宗教は互いに調和して存続すると考えていた。ガリレオ裁判で争われたのは、地動説v.s.天動説という分かりやすい構図ではないらしいのだ。
もともと、聖書にある神の言葉の表現は、人間の理解に合わせた解釈を必要としていた。ただし、聖書のどの部分をどう解釈するかは、教会に絶対的権威があった。にもかかわらず、一平信徒にすぎないガリレオが、再解釈を迫るという“権威”を持っているという思想が「傲慢」だとされたのだ。
科学の定義は歴史的なコンテキストに依存している。ガリレオ裁判をめぐる科学と宗教の衝突が明らかにしたのは、「知識を生産・普及させる権威を持つのは誰か」という政治的な闘争になるのだ。
アメリカのID論争も、同じ根を持っている。知性ある何かによって生命や宇宙が設計されたとするこの説は、科学的、法的、神学的立場から山ほど反論されている。にも関わらず、米国の一部では、強固に支持する人がいるのはなぜか。この解説がめっぽう面白い。
ざっくりまとめてしまうと、ID運動は科学的な見解の不一致から生まれたのではなく、ある層の有権者から票を得たい議員たちと、キリスト教徒の親たちを狙ったPRの、純粋な産物になるという。
もちろん、ID説を「中世への逆戻り」と言いたくなるのも分かる。だが、これは科学と宗教の闘争ではなく、教育を支配するのは誰であるべきかをめぐる闘争なのだ。誰が公共教育における「正しい科学」を決められるのか?有権者か、政治家か、裁判官か、それとも科学の専門家なのか?
科学も宗教も社会的・歴史的条件の中で営まれており、その対立・闘争の言説が政治的文脈の中にある。疑似科学的な言説をもたらした経緯は、政治的文脈抜きでは理解できないことが分かる。
さらに、今のわたしのテーマである「実在論 vs 反実在論」を考える上で、キリスト教の恩寵が援用されており、理解の役に立った。科学を説明する上で、磁界やブラックホール、クォークや超ひもといった観測不能な概念モデルをどうとらえるか。実在論者と反実在論者は、異なる見解を示す。
実在論者は、科学とはそうした概念モデルの正確な記述をする作業を行っていると考え、量子物理学など理論が、現象の説明や予測の精密化に寄与してきたことを強調する。
いっぽう反実在論者は、実在性に関しては不可知論的な態度を取り、科学はただ観測可能な現象を正確に予測する作業を行っているだけだとみなす。そして、科学の歴史とは廃棄された理論の墓場だと反論する(エーテル、フロギストン等)。いま成功しているからといって、その理論が真である理由にはならない。なぜなら、正しかろうと誤っていようと、経験的に正確な予測を行うことができるから。
キリスト教によると、神が「見えるものと見えないものすべて」をつくったとの言明がある。『ローマの信徒への手紙』の一20にこうある。
聖パウロ「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます」
ここから、反実在論者としての神学者を、科学的反実在論者と比較すると面白い。整理するとこうなる。
- 神の実在性に対してチェックする方法を、我々は持っていない(少なくともいまはまだ)
- だから、聖典を通じての神についての命題は、字義通りの真として扱うべきではない
- むしろ、ただ人間の経験と観念を意味づける試みとして扱うべきである
これが、科学的反実在論者が主張する、科学的真実への言明に限りなく近くなる。神と真実を入れ替えるだけで、両者の主張は近似的になる。ただし、極論まで行き着くのは難がありそうだ。
なぜなら、人間の貧弱な認知能力では、神の実在性を確かめることはできない(僭越である)という主張は、神の属性についていかなる言明も真であると証明できないことになる。つまり、神は存在するという言明もたいした意味を持たないように思われてしまう。神であれ科学的真実であれ、パラダイムが変わらない期間おいて、プラグマティックに判断するほうが、より合理的なのかもしれない。
自分の科学観を検証したり、新たな視座から試したり、この新書はコンパクトなのに奥深い。本書は扱っていないが、仏教やアジアの多神教の視点を導入すると、さらに興味深くなるだろう。輪廻や悟り、気といった言説が、一神教の諸概念ほど政治問題化していない意味を考えると面白い。
正か死か?二択を強要するのは、唯一神をあがめる人々に多いような気がする。そうではなく、結論を留保したり並走させる説明を試みることはできないだろうか。科学にも同様に、留保したり両立できる空間を明確化すると、より受け入れられやすくなるかもしれない。「宗教なき科学は欠陥であり、科学なき宗教は盲目である」と言ったのはアインシュタイン、両者は対立するのではなく、並走してきたのだ。
自分の宗教観と科学感、その両方を量ることができるスゴ本。丸善出版の新書シリーズ「サイエンス・パレット」は順に追っていきたい。
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コメント
神という存在は、未来への不確かな運命に
神秘的に、信じ希望を見い出そうとする
教えと思われる。
投稿: | 2013.12.05 14:06
神を信仰することは結論として行動に力を与え結果に縛られない
自由な発想で、かつ集団化させることもできる。
投稿: | 2013.12.05 15:28
結婚は未来の誓いと共に、永遠の愛を神に誓う儀式でもある。
仏教においても同じくあることであり、晴れやかな舞台で祝う
めでたい想い出になる。
投稿: | 2013.12.05 15:36