日本という実験場『そして日本経済が世界の希望になる』
アベノミクスの目玉であるインフレ目標/リフレ政策を提唱した経済学者ポール・クルーグマンが、アベノミクスの成果と将来を語りおろした一冊。基本は“絶賛”である一方で、「やってはいけない轍」もきっちり釘を刺している(そして、その轍は力いっぱい踏まれている)。
肝は、大胆な金融政策になる。現在日本がハマっている罠から脱出するために重要なのは、人々がもつ将来への期待を変えることだという。そのためにはまず、経済は将来的に落ちこまない、と人々が信じ、次に、中央銀行が金融緩和を実行すると確信されることを目指す。
望ましい状況は、マネーストック(金融機関から経済全体へ供給されている通貨の総量)の増加がインフレを誘発し、さらにマネタリーベースを増やし続けるとみなされること―――十年前からクルーグマンが主張していたことが、今春の日銀の異次元緩和で実行されている。これが上手くいけば、日本は世界各国のロールモデルになるとまで誉めている。
ただし、「やってはいけない」罠として、尚早すぎる財政再建をあげる。もちろんいずれは財政再建は必要だが、景気が十分に回復してからすべきだという。時期を誤ると、かえって回復を遅らせ、経済を弱めることになる。特に消費税増税は、“1997”を思い出せという。消費税を3%から5%に引き上げたら、それが、1998リセッションの引き金になったことを指摘する―――既に8%が宣言されてしまっているため、これは予言のように読み取るべきだろう。
いっぽうで、反リフレ派や緊縮財政派の主張もある。『さっさと不況を終わらせろ』での反論に加え、痛烈な批判を展開している。確かにクルーグマンの主張はもっともらしく感じられるのだが、学術的な根拠よりも、彼の物言いのほうが核心を貫いているように見える。曰く、「彼らは『正しいと信じたい』ものに飛びついている」とか、「経済学を道徳劇として見たい欲求に動かされている」という台詞だ。
これは、『世俗の思想家たち』で気づかされたことなのだが、経済学者の主張は、その人の生い立ちや社会的状況に依存している。アダム・スミス、マルクス、ケインズ、シュンペーター、経済学説史上の巨人たちの言説には彼ら個人の、ひいては当時の世の中の裏付けが存在する。
たとえば、インターナショナル全盛のときは、資本主義は打倒されることが真実だったし、帝国主義の勃興は、資本主義がみずから課したジレンマから逃れるための、歴史的趨勢だと考えられた。それらは、真実というよりも信念、つまり、ヴィジョンを指す者が何を信じるかに依存するのだ。
それぞれの経済学者は、(自覚の有無にかかわらず)自分の信念に基づいて学説を選び手を加える―――これが、経済学者の数だけ理論がバラバラであべこべな理由になる。経済学を「科学」と言い切るのをためらう理由である。経済学説の理論的な正しさよりも、むしろその「正しさっぽさ」を如何に伝播するかの方が重要に見えてくる。
クルーグマンの主張は、「失われた二十年」という状況の下で実行された。その正しさは、日本という実験場で明らかになる。そういう意味では潔いし、フェアである。後ろから揚げ足を取ろうとする“経済学者”は、同じリングに上がるべきだろう。
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