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日本という実験場『そして日本経済が世界の希望になる』

そして日本経済が世界の希望になる これは、クルーグマンからアベノミクスへのエール。

 アベノミクスの目玉であるインフレ目標/リフレ政策を提唱した経済学者ポール・クルーグマンが、アベノミクスの成果と将来を語りおろした一冊。基本は“絶賛”である一方で、「やってはいけない轍」もきっちり釘を刺している(そして、その轍は力いっぱい踏まれている)。

 肝は、大胆な金融政策になる。現在日本がハマっている罠から脱出するために重要なのは、人々がもつ将来への期待を変えることだという。そのためにはまず、経済は将来的に落ちこまない、と人々が信じ、次に、中央銀行が金融緩和を実行すると確信されることを目指す。

 望ましい状況は、マネーストック(金融機関から経済全体へ供給されている通貨の総量)の増加がインフレを誘発し、さらにマネタリーベースを増やし続けるとみなされること―――十年前からクルーグマンが主張していたことが、今春の日銀の異次元緩和で実行されている。これが上手くいけば、日本は世界各国のロールモデルになるとまで誉めている。

 ただし、「やってはいけない」罠として、尚早すぎる財政再建をあげる。もちろんいずれは財政再建は必要だが、景気が十分に回復してからすべきだという。時期を誤ると、かえって回復を遅らせ、経済を弱めることになる。特に消費税増税は、“1997”を思い出せという。消費税を3%から5%に引き上げたら、それが、1998リセッションの引き金になったことを指摘する―――既に8%が宣言されてしまっているため、これは予言のように読み取るべきだろう。

 いっぽうで、反リフレ派や緊縮財政派の主張もある。『さっさと不況を終わらせろ』での反論に加え、痛烈な批判を展開している。確かにクルーグマンの主張はもっともらしく感じられるのだが、学術的な根拠よりも、彼の物言いのほうが核心を貫いているように見える。曰く、「彼らは『正しいと信じたい』ものに飛びついている」とか、「経済学を道徳劇として見たい欲求に動かされている」という台詞だ。

世俗の思想家たち これは、『世俗の思想家たち』で気づかされたことなのだが、経済学者の主張は、その人の生い立ちや社会的状況に依存している。アダム・スミス、マルクス、ケインズ、シュンペーター、経済学説史上の巨人たちの言説には彼ら個人の、ひいては当時の世の中の裏付けが存在する。

 たとえば、インターナショナル全盛のときは、資本主義は打倒されることが真実だったし、帝国主義の勃興は、資本主義がみずから課したジレンマから逃れるための、歴史的趨勢だと考えられた。それらは、真実というよりも信念、つまり、ヴィジョンを指す者が何を信じるかに依存するのだ。

 それぞれの経済学者は、(自覚の有無にかかわらず)自分の信念に基づいて学説を選び手を加える―――これが、経済学者の数だけ理論がバラバラであべこべな理由になる。経済学を「科学」と言い切るのをためらう理由である。経済学説の理論的な正しさよりも、むしろその「正しさっぽさ」を如何に伝播するかの方が重要に見えてくる。

 クルーグマンの主張は、「失われた二十年」という状況の下で実行された。その正しさは、日本という実験場で明らかになる。そういう意味では潔いし、フェアである。後ろから揚げ足を取ろうとする“経済学者”は、同じリングに上がるべきだろう。


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10代の女の子が読むべき44冊『女子読みのススメ』

女子読みのススメ 女の子の悩みに寄り添うブックガイド。

 女性作家が書いた、女の子を主役にした作品を、「教室」「恋愛」「家族」「大人になること」といったテーマに沿って、女性評論家が紹介。まさに、女性の、女性による、女性のための44冊。

 今を生きる少女が、子どもから大人になる過程で出会う悩みや壁―――それは小説やアニメで物語として美味しくいただいている。だが、多感な10代にとっては、人生を左右するどころか死活問題ですらある。女性の思考回路を理解することが不可能なのに、ましてや女子の情緒を分かるのは無理筋というもの。せめては本書を紐解いて、現代社会で「若い女の子」として生きることをめぐる、痛みや希望、生きづらさに寄り添ってみる。

 スクールカーストを描いた鈴木翔著『教室内カースト』の紹介では、「みんな」を馬鹿にしながらも肥大化する自我を持てあます「私」に着目する。「世間のモノサシ」から離れていることとして価値がある、という現実から浮遊した屈折と、そこから自由になる過程を通じて、教室という空間を「宇宙船」に喩えている。皆が同じ「空気」を吸っていて、そこから出たら、空気はなくなる空間だ。

 そして、豊島ミホ著『底辺女子高生』では、教室という宇宙船から解き放たれた「私」について分析する。自分を「ダメだ」「底辺だ」と決めつけるのは、謙虚なようで、実は自分を「特別な存在」と思う傲慢な自意識の裏返しだという。そして、そこに気づき、ありのままの自分を受け入れられるかどうかが、成熟への肝だという。

 あえて80年代の作品を持ってくるのが面白い。干刈あがた著『黄色い髪』で、「学校へ行かなくなると、どうして家にもいられなくなるのか?」という問いへの答えを引いている。

学校と家が、なぜか同じ場所になっているからです。生きていくことイコール学校へいくこと、という場所です。だから、学校へ行かないことイコール死になってしまうのです。

 不登校は、単に「学校へ行かないこと」だけでなく「この社会からもれおちてしまうこと」を意味し、「学校に行かないと、将来社会に出ることができない」すなわち、不登校が死に結びつく風潮があった。

 ところが、この仕組みは1990年代以降、失われていく。「いい就職をするためには良い学校に行かなければならない」という現実は残る一方、「いい学校に行ったからといって、いい就職ができるとは限らない」という不安定さは、たしかに拡大してきた。

 学校に行かないということは、かつてほど強く否定されなくなり、フリースクールなど民間の居場所が認められる余地が増えたのだが───瀬尾まいこ著『温室デイズ』の主人公は、異を唱える。母親から勧められた「学校よりも自由で、好きにできる場」を、慎重に拒絶する。この「自由」という言葉の裏側にある時代の強迫「やりたいようにやればよい、ただし自己責任で自立せよ」への、直感的な疑念があるというのだ。

 自傷女子必読の書があるらしい。

「あーやばい、もう私なんか生きてる意味がない」が口癖になっている女の子達は。手首に刃を当てる前に、だまされたと思ってご一読を。

ここまで言い切ってオススメしているのは、金原ひとみ『オートフィクション』。「あえて弱者になりきることで、強者の側に回る」という女の子の戦略を描いた作品で、これを読むことは、リストカットする人が自分の血を見るときの、しんとした安心に似ているのかもしれないという。

 「教室」「恋愛」「家族」「大人になること」それぞれのテーマを一貫するポイントは、「相対化」。これしかない、と追い詰めてしまう女の子のために、退路というか別の次元(世界)を見せてくれる44冊は次の通り。

教室という宇宙船

  • 『平成マシンガンズ』三並夏(河出書房新社)
  • 『底辺女子高生』豊島ミホ(幻冬舎文庫)
  • 『檸檬のころ』豊島ミホ(幻冬舎文庫)
  • 『初恋素描帖』豊島ミホ(メディアファクトリー)
  • 『温室デイズ』瀬尾まいこ(角川文庫)
  • 『黄色い髪』干刈あがた(朝日文庫)
  • 『蝶々の纏足・風葬の教室』山田詠美(新潮文庫)
  • 『ともだち刑』雨宮処凜(講談社文庫)
  • 『西の魔女が死んだ』梨木香歩(新潮文庫)
  • 『つきのふね』森絵都(角川文庫)
  • 『ガールズ・ブルー』あさのあつこ(文春文庫)
  • 『蹴りたい背中』綿矢りさ(河出文庫)

恋愛は女の子を救ってくれる……か?

  • 『ガールズ イン ラブ』ジャクリーン・ウィルソン(理論社)
  • 『ナラタージュ』島本理生(角川文庫)
  • 『アッシュベイビー』金原ひとみ(集英社文庫)
  • 『ハイドラ』金原ひとみ(新潮文庫)
  • 『オートフィクション』金原ひとみ(集英社文庫)
  • 『暴力恋愛』雨宮処凜(講談社文庫)
  • 『カツラ美容室別室』山崎ナオコーラ(河出文庫)
  • 『青空チェリー』豊島ミホ(新潮文庫)
  • 『荒野』桜庭一樹(文春文庫)
  • 『君は永遠にそいつらより若い』津村記久子(ちくま文庫)
  • 『依存姫』菜摘ひかる(主婦と生活社)
  • 『ひとり日和』青山七恵(河出文庫)
  • 『ミューズ/コーリング』赤坂真理(河出文庫)
  • 『黄色い目の魚』佐藤多佳子(新潮文庫)

家族について

  • 『まともな家の子供はいない』津村記久子(筑摩書房)
  • 『空中庭園』角田光代(文春文庫)
  • 『祈祷師の娘』中脇初枝(福音館書店)
  • 『きみはいい子』中脇初枝(ポプラ社)
  • 『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』桜庭一樹(角川文庫)
  • 『いつか見た青い空』りさり(新書館)
  • 『幸福な食卓』瀬尾まいこ(講談社文庫)
  • 『前略、離婚を決めました』綾屋紗月(イースト・プレス)

いつか、大人になったら

  • 『スイッチ』さとうさくら(宝島社文庫)
  • 『きりこについて』西加奈子(角川文庫)
  • 『永遠の出口』森絵都(集英社文庫)
  • 『マザーズ』金原ひとみ(新潮社)
  • 『森に眠る魚』角田光代(双葉文庫)
  • 『対岸の彼女』角田光代(文春文庫)
  • 『臨死!!江古田ちゃん』瀧波ユカリ(アフタヌーンKC)
  • 『肩ごしの恋人』唯川恵(集英社文庫)
  • 『格闘する者に○』三浦しをん(新潮文庫)
  • 『すーちゃん』益田ミリ(幻冬舎文庫)


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『技術の千年史』はスゴ本

技術の千年史 技術の発展は「対話」であると喝破した名著。

 テクノロジーの人類史を、千年単位で眺めると、西欧優位が書き換わる。いわゆる「西欧技術」がヨーロッパでのみ創造されたとする幻想を暴き、欧米の技術を非西欧世界に無修正で「移転」されるべきだいう認識に反撃を加える。

 技術を発明・開発した側の刺激に対して、受け入れ側が反応し、交流を経ることで修正されつつ双方の技術的対話(technological dialogue)が繰り広げられる様相として、歴史を描き出す。その中で、西欧は歴史のあらゆる時期を通じて、異文化技術との「技術的対話」から恩恵を被ってきたことを明らかにしている。

 技術史といえば、15世紀の印刷術や蒸気機関の産業化など、いわゆる西欧が先導した科学技術史のおさらいになる。しかし、本書は8世紀から現代に至るまで、人間が活動してきたほぼ全域を対象としており、スケールとスコープを広げている。水車、紡ぎ車、織機、製紙術など、似た発明や開発が世界の異なる地域に、同時あるいは時を隔てて現れる事象に着目し、その伝播の過程をマクロの視点で分析する。

 さらに、技術発展のダイナミズムに着目する。技術の発達は、必ずしも発明者が一方的に線形に成し遂げるものではなく、伝えられたほうの反応によって様々な改良がなされるという。改良の方向性に地域性が滲み出たり、技術の伝播に伴いその技術が持つ“思想”が双方向に広まる様が面白い。

 たとえば、19世紀後半における日本とイギリスの紡績技術について。当時の日本はイギリスのプラット・ブラザーズ社から自動織機を輸入していたが、織りの工程には依然として伝統的な足踏み技法が使われていた。40年でこの技法が改良され、豊田という自動織機が考え出される。対話から学ぶのはイギリスの方になり、1929年、イングランドで豊田式織機を製造する独占権を取得したのは、当のプラット・ブラザーズ社だったというのだ。

 同じ技術であっても、異なる反応をする文化の違いが、その技術の発展のみならず、国の帰趨まで決めているようで面白い。火薬と銃は中国で発明されたが、西欧における大砲の発明を刺激したという。時計に対する態度が対照的で、高価な玩具の一種である模型として捉えた中国と、全宇宙を支配する機械的な秩序を示すシンボルとして考えたヨーロッパは、その後の科学技術革命で大きく差がつくことになる。

 技術の歴史は戦争の歴史でもある。本書では、他国に対抗する戦争技術の向上が、その文明圏全体の技術向上を促したことを、具体例で示している。1300年以降のイタリアで弓と鎧と銃器の改良が行われたのは、軍拡競争の結果だった。当時のヨーロッパは、小国と自治都市の集まりだったため、技術の向上は死活問題だったのだろう。戦国時代の日本も同様で、小国に分割・乱立された状況下で、銃器製造の熟練技術に通じる鍛冶職人が多数いたことを指摘する。

 その成果ともいえる日本刀のオーバーテクノロジーも評価されており、当時最も優れた「ダマスカス鋼」に匹敵するレベルだったという。トルコ製ダマスカス鋼の刃、インドのウーツ鋼、日本刀のもつ高い品質に対し、19世紀前半のヨーロッパの技術者はまったく太刀打ちできなかったと述べている。

 ヨーロッパを特徴付けるものは、鉱石の採掘や運搬などの資源を確保する技術である一方で、アジアを特徴付けるものは優れた製造技術だという。14世紀から17世紀にかけて、アジアとヨーロッパで貿易不均衡問題があったのだが、現代とは逆転しているのが面白い。アジアの人々が輸入したいという品物がヨーロッパにほとんどなく、あっても品質的に劣っていたという。銃器は確かに需要があったが、イスラム諸国やタイ産の方が品質がよく、綿織物にいたってはインドの安さと品質がずばぬけており、染色技術が移転されたのは、他ならぬイギリスの方だった。

 世界史を学ぶたびに痛感するのが、ヨーロッパ(特にイギリス)の簒奪っぷり。植民地という搾取システムに限らず、技術開発にも同様のことが言える。産業革命が成功した理由としては、最初に「進んだ」技術があったためではなく、他所で生まれた着想にいち早く積極的な態度で接し、活発な技術的対話を生み出したためだという。

 反対に、西欧の技術を非西欧へ「移転」する効果については、疑義を示す。農業機械、工場、給水のいずれをとっても、新技術は期待されたほど有効とはならなかった。西欧側はこれを「適応の失敗」として、地元の人々の責任に帰した。だがこれは、提供側に問題があるというのだ。新技術を受け入れる非西欧の人々がその技術にどう対応しているか、あるいはその技術をどう作り変えようとしているかを、提供側が見極められなかったことが原因だというのだ。

 例として、他の植物を排除して単一の作物を育てる西欧式の耕作と、様々な作物を同じ場所で育てる多層農業(アグロフォレストリー)の違いを示し、モノカルチャーがアフリカにもたらした悪影響を指摘する。

 鋤で耕し種を蒔いた後、剥き出しにされた土壌は、熱帯の降雨のために養分が極端に溶け出しやすく、浸食されやすくなる。ため、土地の生産力が低下しやすくなる。アフリカの大部分、南アジア、中央アメリカ、ブラジルにおける土壌浸食・生産力低下は、モノカルチャーが一役買っているというのだ。

 対照的に、アフリカ式の混作技術であれば、密集した植物で農地を覆うことができる。なぜなら、さまざまな作物が繁茂する時期が少しずつずれながら重なっているから。そのため、地面が雨にさらされることは比較的少なくなり、土壌浸食を防いでくれるというのだ。この多層農業は、アジア、アメリカ、アフリカの三大大陸の農民たちが独自に発展させていたという。

 完全に開墾した耕作地で行う単一栽培方式は、必ずしも普遍的な技術とはいえなない。西欧では、技術と工学を同一視する傾向があるため、このような陥穽に陥ったのかもしれぬ。西欧は、今度は「聞く」番なのだろう。

 技術的知識や機器が、国や文明間で「対話」をすると、新たな創意に富んだ着想が生まれ、修正や適応が始まる。その過程である「対話」がどんな結果を生み出すか。それは移転された技術に初めて出会う人々の知識と技能にかかっている。どれだけ改良されるかは、受け手側の知的素地による。18世紀にインドに移転された造船技術や、明治維新後の日本の産業化を例に挙げ、受け入れ側の素地が技術の発展を左右することを解説してくれる(その後の技術の逆輸出は周知の通り)。技術とは、まさしく対話であるのだ。

 歴史を動かした技術的ダイアローグのダイナミズムが分かるスゴ本。

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シバレン剣豪小説傑作選『一刀両断』

 天才というものは、殆ど例外なく、狂気を内に宿している

一刀両断 一刀流の継承者『小野次郎右衛門』からの一節。剣豪小説の枠を借りて、天才の孤独と狂気を描いている。名を成して伝えられている者たちは、すべて伝説となるまで生き残った者たちだけ。剣一途の生涯を送り、無数の試合に勝ち抜いた一流の兵法者は、常人の枠を突き抜けている。キアイの入った表紙は、むしろ両断される敵方のほうだろう。一流者はみな静かだ。その静かな狂気を孕んだ緊張を、削ぎ落とした文で味わう。

 『一刀両断』は、柴田錬三郎の作品から、実在の剣豪がモデルになっているものを選んだ短篇集。ラインナップは以下の通りで、古くからのファンには感涙モノらしい。

  塚原彦六
  小野次郎右衛門
  宮本無三四
  霞の半兵衛
  実説「安兵衛」
  平山行蔵
  孤独な剣客
  心形刀

 フォーマットが「剣豪モノ」なだけで、ミステリ仕立てに展開したり、史実の因果と愛憎劇や逆転劇にアレンジしたり、一筋縄でいかない物語を作り上げている。必ずしも勧善懲悪ではなく、後味の悪いラストも用意されているのがいい。

 本物と対峙すべく、武蔵の名を騙る『宮本無三四』に出てくる本物の武蔵の鬼畜っぷりがいい。『バガボンド』の吉川英治に味付けされた武蔵に慣れていると度肝を抜かされるに違いない。未読だが、柴錬『決闘者宮本武蔵』の方が圧倒的に面白いと聞く。たぶん、この“武蔵”なのだろう。

 白眉は『孤独な剣客』、幕末の剣客・上田馬之助の復讐譚。強い上にさらに高みを目指す、狂気じみた求道性が、これ以上ないほど削ぎ落とされた文で描かれている。中島敦『名人伝』と並べる評者もいるが、その通りだろう。

 究めるために、人間を辞めるところまで逝った男たちの生き様が、カッコよく見えた時もあった。しかし、今では孤独や無常の方を、より強く感じるのは、わたしがトシとったからなんだろう。

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なぜヒトはおっぱいが好きなのか?『おっぱいの科学』

おっぱいの科学 おっぱいの最前線が、ここにある。

 「いいえ、僕は尻派です」と嘯く人も、ちょっと付き合ってほしい。わたしだってオシリストだ[証拠]。だが、「なぜおっぱいなのか」について深く掘り下げた本書を読めば、女性の胸について認識を新たにするだろう。これは、【全年齢推奨】『ヴァギナ』と同じである。持ってはないが、知ってるつもりのあそこについて、いかに自分が無知であることを思い知らされるから。

 大きなテーマは乳がんであるが、それだけではない。「なぜヒトの女性がおっぱいをもつようになったか」から始まって、哺乳の進化、乳房の構造と働きが解説される。そして、乳房の究極の“不自然史”ともいうべき豊乳手術の現状が体当たりでレポートされ、「母乳 vs 粉ミルク」論争の科学的決着、化学物質による母乳汚染について語られる。著者は二児の母のサイエンスライターで、ジャーナリストとしての冷めた目と、当事者としての熱い目の両方で、おっぱいのリアルを見つめる。

 なぜおっぱいなのか?乳房の起源をめぐる話には政治的・性的・社会的思惑がついてまわる。乳房がどのように誕生したかを考えることは、乳房の「存在目的」を考えることになる。これは、非常に微妙な問題だ。

 「男がおっぱいを好んだから」という性選択説とは、即ちこうだ。もともと、メスの外性器が赤く肥大化することで、生殖の準備ができたことを告げていた。だが、直立歩行により隠れてしまい、代わりに乳房が成熟したことを知らせるようになった。オスは乳房で健康と成熟を判断したのである。いっぽう著者は自然選択説を採っており、乳房とは単に脂肪を貯蔵する過程で生まれた副産物に過ぎないという。なんのために乳房があるのか、性選択と自然選択の両面から迫るが、自然選択説の分が悪そうに見える。しかし、乳房を性的なものとして捉えすぎることによる害については同意する。

私たちは乳房を性的な対象としてしか見ない世界に生きているために、乳房が本来もつ最も大事な機能(授乳と強烈な神経の感覚)を犠牲にしてまでセクシーになることを選び、ついにはその見返りにセクシーさのシンボルであるはずの器官が性的感覚を失うまでになっている
 メディアに偽房があふれる今、それを規準にして少年は少女を、少女は自分自身を判断するようになった。「あるべき理想の乳房」という固定化した観念は危険である。妊娠・出産・授乳期も含め、10年以上も観察し続けたから、そういえる。著者の言うとおり、「乳房とは絶えず変化する動的なプロセス」なのだから。

 よく観察されてるわりに、人類は乳房を分かっていない。妊娠に乳がん予防効果があるという調査報告があるが、そのメカニズムはいまだに分かっていない。母乳は培養したヨーグルトに近く、乳汁の分泌が進化した一番の目的は栄養ではなく免疫力を与えることだった可能性が高いというが、粉ミルクはそこまで至っていない。乳房は外界を映し出す鏡で、化学物質が濃縮される場所でもあるが、どこまで母乳が“汚染”されているか、不透明なのが現状だ。

 男女を問わず近くて遠い、おっぱいの最前線を刮目すべし。

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都市から見た人類『都市の誕生』

都市の誕生 人類は、都市から見ると面白い。

 都市は単なるインフラや建造物の集積ではなく、人間のもっとも偉大な創造物である。人類の営みを、都市という面から捉えると、多様でありながら普遍的で、変化しながら不変的な要素をもつことが分かる。あらゆる時代、あらゆる文化の都市のあいだに、類似したところを串刺しにする───これが本書の主旨。

 歴史や習慣、マネーや余暇、未来都市といったテーマに分かれ、文学や映画、美術などの多彩なジャンルを横断しながら、どこかの都市のガイドブックのように紹介している。都市のコアな部分を見せようとしつつ、文化による差異が顕われてしまうのが面白い。

 例えば、都市の「形」。生物のコロニーのような形状になると思いきや、根底の思想がヨーロッパと中国(と日本)で異なっていることに気づかされる。古来の世界観に基づき、宇宙を模した方形となっている中国の王城とは対照的に、限られた石材と煉瓦で内側の面積を最大するために円形なのがヨーロッパの古城になる。象徴性と実用性の重心が、都市の「形」に表われている。

 「理想的な都市」という斬口でも、さまざまなバリエーションが表れてくる。例えば、ル・コルビジェが影響を与えた大規模都市ブラジリアは、完全に計画された『輝く都市』になる。建造物は素晴らしいが、人々の生活と完全に分断されており、密集性やカオスが排除されている。究極のハコモノ都市やね。

 また、プラトン『国家』で描かれた「カリポリス」は、哲人王によって統治され、厳しい階級制度が敷かれた都市国家である。住民は徹底的に監視され、管理されている。思考実験としては理想的だが、住むのは御免被りたい。

 「壁を築いたとき、人間は初めて動物ではなくなった」「壁は最も偉大な発明かもしれない」この名台詞は、ザミャーチン『われら』にある。人は名前を持たず記号で呼ばれるディストピアで、緑色の壁は有害な俗世間から守っているのではなく、人々を無慈悲な独裁国家に閉じ込めている。「ムリヤリ天国を作ろうとすると、たいてい地獄ができあがる」という言葉は、社会制度のみならず都市計画にもあてはまりそう。

 都市生活の匿名性を語るとき、ポー『モルグ街の殺人』が紹介されているのが興味深い。殺人事件を通じて、共同体の匿名性を浮き彫りにしたうえ、パリという街を“バベル”として表現している。田舎からの逃げ場として、職にありつく機会やきらびやかな消費の舞台として、あるいは自己発見をする拠り所として都市は、「誰でもない自分=あたらしい自分」になれるのだ。

 また、「舞台としての都市」を広場という断面で見せている。天安門広場やカール=マルクス広場、そして最近ならタハリール広場まで目配りしているのも新しい。大規模なデモが行われ、アラブの春の舞台として民衆の力を再発見した場が「広場」になるのだ。

 さらに、世界中から人々を引きよせる、聖都としての役割も面白い。ヴァラナシ(ベナレス)やメッカ、そしてエルサレムといった大御所のなかで、京都がしっかりと紹介されている。日本人が思っているよりも、京都は(人類レベルで)重要らしい。

 都市の未来はどうなるか?「都市の死=廃墟」というテーマも惹かれる。ウルクやアテナイやモヘンジョダロといった古代のみならず、カート・ヴォネガット『スローターハウス5』で描いた空襲後のドレスデンや、ヒロシマとナガサキが紹介されている。爆撃による荒廃のみならず、アメリカ版アクロポリスとしての、デトロイトが廃墟の代表として挙げられている。未来の廃墟は、戦争ではなく経済によって引き起こされるのかも。

 未来の都市を描くには、SFの方が上手だ。以下の作品のみならず、多くの映画や小説を引きながら、ユートピアンな奴からディストピアンな都市が出てくる。

 『スター・ウォーズ』の空中都市クラウドシティ
 『マトリックス』の地下都市ザイオン
 『月は無慈悲な夜の女王』の月都市

 中でも強烈なのは、『ブレードランナー』の冒頭シーン、2019年のロサンゼルスは、都市の未来の代表例。スモッグに覆われ、金色の焔を上げる暗黒の未来像は、今でも印象に残っている。計画停電で暗い夕暮れ、放射能雨を気にしながら電子タバコをふかしつつ、携帯端末をチェックするという、ものすごくベタなSFの時代になったものよ。「ふたつで十分ですよ!」は、今や希少種のウナギになるかもしれない。

 都市は様々な民族を抱え込んだ世界の縮図、いわば世界村とも言える。チャイナタウンやゲットーという側面から見ると、都市の民族面が語れるし、ムンバイやスモーキー・マウンテンを挙げれば、スラムとしての都市がテーマになる。電力網や地下鉄、上下水道や光ファイバーケーブルといった、インフラ網から攻めるなら、そのまま衛生学の歴史、情報網の歴史、鉄道網の歴史になる。網羅性を目指す本書をとっかかりとして、自分で深堀りするのも面白い。

 様々な斬口から都市の発達と変遷を紹介しつつ、そのまま人類の集積を読み解くことになる。「都市は人をどのように変えてきたのか?」知的好奇心をたっぷり満足させるべし。

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開高健の大吟醸『漂えど沈まず』

漂えど沈まず 最近の枕頭書。夜更けに、ニヤリと、刺さる寸鉄。

 開高健が愛した名句・警句・冗句が200選、エピソードや引用とともに紹介されている。開高自身が産んだ名言もあれば、名人・凡人の半句を氏が蒸留・精錬して名句に仕立てたものもある。

  生まれるのは、偶然
  生きるのは、苦痛
  死ぬのは、厄介

 神学者ベルナールが遺した言葉だが、『オーパ!』で知った。知ったのは子どものときだが、妙にひっかかり、後からジワジワくるね。おっさんになった今、この文句に出会う度に、「それでも生きねばならぬ、なぜなら、生まれてきたのだから」と口ずさんでいる。

  大人と子どものちがいは
  持ってる玩具の
  値段のちがいだけである

 ニヤリと大きく笑うしかないのは、これだ。『オーパ!オーパ!!アラスカ篇』で出てくる。釣り師の性癖についての定言は古今東西たくさんあって、どれもこれも核心をついていると前置きした上で、数ある代表として紹介されている。これは、釣りに限らないところがミソで、自分の玩具を思い出すと二重にニヤリとできる。

 小説は形容詞から朽ちる

『輝ける闇』では、このように使われている。

壁にもたれ、ハイビスカスの花のかげでタバコを噛みながら、私は、小説は形容詞から朽ちる、生物の死体や眼やはらわたから、もっとも美味な部分からまっさきに腐りはじめるように、と考えていた。

 匂いのなかに本質がある
 『輝ける闇』

 心に通ずる道は胃を通る
 『花終わる闇』

輝ける闇 小説からの引用も多々あるが、『輝ける闇』からのが一番あるようだ。開高作品の話をするとき、いつも不思議なのが、『輝ける闇』。豊穣で濃密で、それでいて残酷な、小説の体をなすルポルタージュとしても傑作だと思っているのだが……会う人会う人ことごとく、駄作・失敗作とこき下ろす。ホント!? なにゆえ? と訊くのだが要領を得ない。一人称が開高っぽくないのか、ドキュメンタリーとして中途だからか。

 これは、小説というよりも、もっと言葉そのものの普遍的なパワーについて喝破している。

 ライオンはライオンと名づけられるまえは
 えたいの知れない凶暴な恐怖であった
 
『輝ける闇』は、こう続く。

 けれどそれをライオンと名づけたとき、
 凶暴ではあるが一個の四足獣にすぎないものとなった

 言葉や文字が発明される必然を感じる。"ライオン"という言葉が作られた瞬間、ライオンのある部分は本質的に殺されてしまったという。人間が外界を征服するにあたって、火とか棍棒といった道具と同じくらいの働きを言葉がしていたというのだ。

 編者は、自分のやった名言の抽出・解析の作業について、ビッグデータの活用に近いと胸を張る。だが、やってることは極めてアナログで、開高作品を片っ端から読み返し、「 ! 」や「 ? 」と思った一言半句を選んでは、せっせと抜き書きした集積から成る。

 たとえば「滅形」という言葉は、『輝ける闇』『夏の闇』『花終わる闇』そして『オーパ!』に登場するが、それぞれの文脈や使われ方が異なる。これらを読み比べ、そうしたキーワードで串刺しにすることで開高健の精神世界を理解するという試みが面白い。

 そこには、幾多の戦場を歩き硬質なルポルタージュを残したジャーナリストの姿ではなく、世界中の河、湖、海辺を釣り歩いた釣師の姿でもなく、原稿用紙を前に悶々鬱々としている純文学の作家の姿が浮かんでくる。

動物農場 わたしはこれに、開高健が訳した『動物農場』における、彼自身の解説を追記したい。最初は輝かしく、次第に変貌し、最後は敵そのものの姿になっていることに気づいて愕然とする、革命の運命を言い当てている。

これは左右を問わず、あらゆる種類の革命が権力奪取後にたどる変質の過程についての寓話で、寓話であるからには最大公約数なのである。

 夜更けに味読したい、開高健の大吟醸。

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『ヨーロッパ史における戦争』はスゴ本

 戦争は社会を規定し、社会は戦争を規定する。

ヨーロッパ史における戦争 ヨーロッパ史を通じ、戦争の歴史と社会の変遷は両軸を為していることが分かるスゴ本。ヨーロッパ社会はもとより、今日の歴史が戦争を通じていかに形成されてきたかについて理解できる。
 
 戦争が常態化している中、平和とは単なる一時的な秩序に過ぎないのはなぜか。戦争の原因として宗教や経済から眺めるのは、見えてる部分だけで語ることに過ぎぬ。戦争は歴史を通じて社会にロックインされており、この現状を築き上げたのは、他ならぬヨーロッパだということが分かる。

 ヨーロッパの歴史を考察し、社会変化に伴う戦争の様相の変遷を概観した一冊。わずか250頁に1000年間の戦争の歴史が包括的かつ体系的に圧縮されており、戦争を考える上で入門書であり基本書になる。

 本書は、政治、経済、社会制度、技術、戦争目的、そして現実の戦争の様相の相互関係を明確化している。著者は、社会が変化するに従って、どのように戦争が変化したのか、逆に戦争そのものがいかに社会を変化させたのかについて、簡潔かつ明確な枠組みを提供する。その枠組みが本書の章立てとなっている

 1. 封建騎士の戦争
 2. 傭兵の戦争
 3. 商人の戦争
 4. 専門家(職業軍人)の戦争
 5. 革命の戦争
 6. 民族の戦争(国民の戦争)
 7. 技術者の戦争
 8. ヨーロッパ時代の終焉
 9. 核の時代

 王が自分の利益のために行っていた戦争から、騎士という金のかかるシステムを維持するために封建制度が生まれ、封建制を守るために傭兵が雇われ、ラテン語の常用句「金こそ戦争の活力(pecunia nervus belli)」の通り、戦争は莫大な金が掛かる商人ものになる。敵の疲弊と枯渇を待つ戦争が、交易の略奪により財政的に相手を滅ぼす重商主義を生み出し、革命の輸出により生まれた「国民」が、相手を殲滅させる総力戦につながる。社会制度と戦争システムは、互いに補完しあい、歴史の両輪をなしていることがわかる。

 同時に、戦争と平和は対極に位置する概念ではなく、むしろ逆で、相互補完関係にあるという主張も見てとれる。著者・ハワードによると、平和とは秩序にほかならず、平和(=秩序)は戦争によってもたらされる。すなわち、戦争は新たな国際秩序を創造するために求められるプロセスであり、平和とは、そのプロセスから創り出されたというのだ。この意味において、戦争の歴史は人類の歴史とともに始まったものであるが、平和とは比較的新しい社会現象といえる。

戦争の世界史 本書を読んだら、マクニール『戦争の世界史』を推す。ギルガメシュ王の戦いから大陸弾道ミサイルまで、軍事技術の通史だ。人類が「どのように」戦争をしてきたかを展開し、「なぜ」戦争をするのかの究極要因に至る。

 略奪と税金のトレードオフが商業化し、専門技術者が王侯と請負契約関係を結んだ「技芸としての戦争」。軍産複合体の前身にあたる軍事・商業複合体が形成され、ライバルとの対抗上、この複合体に依存した「商業化された戦争」。さらに、イギリス産業革命が生み出し、アメリカ旋盤技術が開化させた、全世界を顧客とする近代兵器製造ビジネスが支配する「産業化された戦争」───これらの視点から、軍事技術が人間社会に及ぼした影響を論じ、世界史を書き直そうとする野心に満ちた名著だ。

 「ヨーロッパ≒世界」ではないが、少なくとも現在の戦争を規定したのはヨーロッパである。自らの歴史に無自覚な欧米の政治家の発言に煮えながらも、「どうしてこうなった」を考察する上で再読したい。

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