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愛と憎しみと諦めの『私の本棚』

私の本棚 人の本棚を見るのが好きだ。

 その人の、思考・嗜好・指向・試行あるいは至高を見える化したものだから。本棚には人格が顕われる、いわば知性のプロファイルだ。ラインナップのみならず、並べ方や置き場所に至るまで、自我を延長したものが、プライベート・ライブラリーになる(「本棚」を覗く快楽)。

 本書に出てくる人たちも、同じコト考えてて愉しい。「自分の脳ミソを一望できる」(南伸坊)、「自分の目に見える経験」「古くならない自分」(荒井良二)、「昔は祭壇だったのに」(中野翠)など、“本棚”への思いが語られる。本や読書にまつわるエッセイでないところがミソで、あくまで本棚がテーマなのだ。

 本をダシにメシを喰ってる人たちなので、当然、本棚もスゴいことになっている。棚から溢れ、床に山をなし、山脈を連ね、階段を浸食し、トイレに立ち入り、ダイニングテーブルを占拠する。井上ひさし氏は一行目から上手い。「本の重さを思い知ったのは建売住宅の床が抜けたときである」から始まる、本棚というか本の増殖譚は、主の意志を乗り越えて、本そのものの(生きんとする)意思を感じる。

 一定の蔵書量を超えると、本は自分で自分をなんとかしようとするのだね。膨大な蔵書が自ら図書館を造ってしまったり、持ち主を古書店主にしたり(都築響一のいい本棚)、愛書家を愛憎書家に変化させる(鹿島茂)。図書館を自分の本棚にしてしまえばいいのに、と気楽な外野はつぶやく。本を買う派からパワー図書館ユーザーになるまでの経緯は、[図書館を利用するようになるまでの20ステップ]の通り。

 本と本棚への、愛憎混交した重い想いが語られる。yomyomの人気連載をまとめた一冊。惜しむらくは、書棚の写真が少ないところ。せめて背表紙が読み取れるくらい寄ったものが見たかった。スゴい本棚を直に見たい方は、[著名人の本棚を覗]く[この本棚がスゴい「本棚2」「本棚三昧」]をどうぞ。


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オーウェルを、開高健の名訳で『動物農場』

動物農場 夜更けに、大人が、暗澹として読む寓話。

 人間の搾取に叛乱を起こした家畜たちが、理想の共和国を築くが、指導者の豚に裏切られ、恐怖政治に取り込まれてゆく。深まる圧政のなか、こんなことのために闘ったのではないとつぶやきつつ、恐怖と、素朴と、信条そのものに対する善意からして、独裁者を疑い疑い、どこまでも従順についていく。

 ドヤ顔の豚が目印の角川文庫で読んだのだが、開高健の翻訳と聞いて飛びつく。ヒリヒリした風刺や、悲惨なユーモア、痛烈な欺瞞に暗澹とさせられる。このテーマは、寓話としてしか書けないし、寓話としてしか読めない。これが現実のルポならば、死屍累々の粛正の結果になるだろうし、でなければ政府声明のプロパガンダを読まされることになる。

 初読時は、社会主義の風刺譚だと独り合点していた。シュプレヒコールやスローガンが似ているために、レーニンやらスターリン、トロツキーの像を、それぞれの動物に当てていた。

 しかし、開高氏によると、それではこの作品はただのアテコスリや政治漫画にすぎないことになる。ちょっとスローガンを入れ替えてみたまえ、すると、同じ動物たちに、ヒトラーやレームやロンメルを読み取ることもできるし、孫文と蒋介石だって読み取れるというのだ。

これは左右を問わず、あらゆる種類の革命が権力奪取後にたどる変質の過程についての寓話で、寓話であるからには最大公約数なのである。宗教革命史、社会革命史、どの時代のどこの国でもいいから一冊ぬきだして注意深く読んでみる。叛乱の発生、爆発、成功、平和の回復、やがてめだたないちょっとしたところから起って全体にひろがっていく変質、そしてやがて気づいてみれば事態が、かつて“敵”としてものにいかに酷似した地点にきてしまったことか。
 裏切られてもついてゆく動物、また反乱を起こす動物、亡命する動物、ゴマスリをする動物、スローガンを繰り返すだけの動物……古今東西の革命に登場する諸人物と役割が全て描かれている。政治的独裁、あるいは革命というものの辿る運命を描いているというのだ。サイズは小粒ながら、ここ数年の政権の取り巻き連中に、同じものを見ることができる。本書に出てくる動物たちよりも滑稽に思えるのは、わたしの中でカリカチュアライズしているからだろうか。

 政治を文学が扱うとなぜかしらたいていは失敗するという。スタンダールは「文学で政治を扱うことは、音楽会でピストルをぶっぱなすこととだ」と言ったとか。開高氏は政治を扱った小説で成功したという例外として、アナトール・フランス『神々は渇く』、サマセット・モーム『昔も今も』、山本周五郎の『樅の木は残った』を挙げる(ちなみに、オーウェルの『一九八四年』は生に捉えすぎて失敗作らしい)。わたしはこれに、安部公房『良識派』を入れたい。寓話は政治を語るのに格好の道具だからね。いずれにせよ、政治を扱った最高傑作としてジョージ・オーウェル『動物農場』なのは激しく同意する。

 「むりやり天国を作るなら、たいてい地獄ができあがる」を地で行く。恐ろしいのは、地獄にいる自覚がないこと。堕落と退廃をとうに悟っているくせに、新しいスローガンが掲げられればまたぞろその後についていく。今度は何に「ハンタイ」する?

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スティーブン・ピンカー『心の仕組み』はスゴ本

 「心とは何か」について、現時点でもっとも明快に説明している。

心の仕組み上心の仕組み下

 一言でまとめると、心とは、自然淘汰を経て設計されたニューラル・コンピューターになる。心とは、複数の演算器官からなる系であり、この系統は、狩猟採集によって生きていたわれわれの先祖が、日々の問題を解決しながら進化する過程で、自然淘汰によってつくり出されてきたという。

 この枠組みを持って思考と感情の仕組みを、情報と演算活動で説明しようとする。ヒトの心は脳の産物であり、思考は脳の演算処理の一つだというのだ。情報を処理する上で、複数のモジュールがそれぞれ特定の目的をもって設計されており、外界との相互作用を受け持つという。

 そして、これだけ精妙なモジュール性が生まれたのは、進化的適応によるという。外界の環境を把握し、どれほど適応できるかが、種にとって生存と繁栄の鍵を握る。食物の場所を把握し、天敵を察知し、ライバルを出し抜き、配偶個体と出会うといった問題を効率よく処理できる個体が、結果として生き残り、子孫を残してきた。そこでは、汎用性よりも状況依存的なシステムの方が効率的になる(フレーム問題を見るべし)。自然淘汰で生き残ってきたのは、生存や繁殖にダイレクトにかかわる問題ごとにチューニングされたモジュール的な情報処理システム───これがすなわち、心になる。

 認知科学の事例が面白い。サールの「中国語の部屋」への反論や、爆弾処理ロボットの思考実験、2次元の視覚に奥行き情報を追加した、2.5次元の立体視差の仕組み、さらに、「もっともらしさ」を「起こりやすさ(確率)」に置き換えてしまうバイアスなど、ヒトが世界をどのように認識しているのかを興味深く解き明かす。

 より深く知りたいと感じたのは、数学の認知科学。アナログ的な数学的感覚を説いた『数覚とは何か』や、数学の正しさの“感覚”に疑義を呈した『数学の想像力』を通じて、数学とは、人間が世界を認識するための道具なのではないだろうか───と考えるようになった。つまり、ヒトが世界を認識するために抽象化・一般化したものや、その操作に“数学”という名前が付いているのだ。

数覚とは何か数学の想像力

 この仮説に則れば、認知学として数学を俎上に載せることで、ヒトが世界をどのように認識しているかを解明できるのではなかろうか。数学をリバースエンジニアリングすると、人の認識の方法(もしくは限界)が分かるのではないか───そんな問題意識をずばりと突く一節があり、非常に興奮した。

 すなわち、「数学は数学的直感の延長である。算数はあきらかに数の概念から出てきたものだ。幾何学は形態や空間の概念からきている」という。そして、ソーンダース・マックレーンを引いて、基本的な人間行動が数学のあらゆる分野にインスピレーションを与えたのではないかと推測する。

  • 数える⇒数論
  • 測る・量る・計る⇒実数、解析
  • 形をつくる⇒幾何学、位相幾何学
  • 構成する⇒対称、群論
  • 見積もる⇒確率、統計学
  • 動く⇒力学、動力学
  • 計算する⇒代数、数値分析
  • 証明する⇒論理学
  • 判じる⇒組合わせ理論、数論
  • グループ分けする⇒集合論、組合わせ理論

 これを逆解析することで、例えば「人が数えるとはどういうプロセスが働いているのか」に迫れるのではないか。一定量を超えると、人は数を「まとまり」で把握するのはなぜか。離散量(自然数)と連続量(実数)の性質を超えて「数」として捉えられるのは───ここに認知の本質が隠されているのではないだろうか。レイコフ御大の『数学の認知科学』に手を出してみよう。

 認知科学の洞察から心に迫る一方で、ヒトの認知の歪み(バイアス)への説明がさらりとしていて拍子抜けた。俺の嫁が美人なわけ『ファスト&スロー』でカーネマンが示した下記の認知バイアスについて、触れてはいるのだが直接対決は避けている。これらの認知の“歪み”も淘汰によって最適化された生存戦略の一つなのだろうか。あるいは、統計的な判断の前提で見落としがあるのだろうか(後者のように思える)。

  • 直感から最終判断までの一貫性を求めたがる
  • 整合的なパターンを欲しがる
  • 相関関係から因果関係を探したがる
  • 難しい質問を簡単な質問に置き換えてごまかしたがる
  • 自分が見たものが全てだと考えたがる
ファスト・スロー上ファスト・スロー下
 喜怒哀楽といった情動に対しても、適応から説明を試みる。心のある部分は「快」という感覚を与えることにより、適応度が増えたことを記憶させ、他の部分は、因果関係の知識を使って目標の達成をはかるというのだ。これらが一緒になると、心は生物学的に無意味な挑戦をする───なんとか脳の快楽の回路だけを動かして、適応度の増大をしぼりとる面倒なしに、快楽を生じさせる方法を考え出そうとする。

 その分かりやすい例として、麻薬やストロベリーチーズ、そして芸術が語られる。われわれは、ストロベリーチーズケーキをおいしく味わうが、それはストロベリーチーズケーキに対する嗜好を進化させたからではない。私たちが進化させたのは、熟した果物の甘い味や、ナッツや肉の脂肪分のなめらかな舌ざわりから、快楽を私たちに与える回路だという。チーズケーキは自然界のどんなものとも違う強烈な感覚をもたらすが、それはチーズケーキが、刺激快楽ボタンを押すという特別な目的のためにある快刺激を大量に混ぜ合わせたものでできているからだ。

 このスタンスで語られる芸術論、とりわけ音楽の快楽論が面白い。まず著者は、「音楽は普遍的な言語だ」という表現は誤解を招きやすいと批判する。音楽のスタイルが文化や時代によって異なることや、人が子どもの頃から親しんだイディオムを好むことから、言語とは違うと断定する。さらに、音楽は言語と違って演奏するために意識的な訓練を要することからテクノロジーであって適応ではないことを示す。音楽とは、ヒトの精神機能の敏感な部分を快く刺激するよう精巧に作られた、聴覚のチーズケーキなのではないかと述べる。

音楽の科学 先日、「テクノや民族音楽で『本能が昂ぶる』理由が解ける動画比較」を聴いたので激しく頷く。ダンスミュージックや民族音楽に心拍数がグイグイあがって興奮する理由が、実は本能に根ざしていることがよく分かる。音楽の本質はこれだ、というと乱暴かもしれないが、少なくともわたしが音楽を聴きたくなる理由の一つは、間違いなくこれだ。『音楽の科学』で学んだ、人が音楽を好む理由が説明されている。

転校生とブラックジャック だが、必ずしも心の全ての問題に決着をつけたわけではない。むしろ、(数学で示されているように)認知の限界を示している。ピンカーは、解決できない問題として自由意志を挙げている。独在性をめぐる心脳問題を深堀りした名著『転校生とブラックジャック』でさんざん悩まされた問題だ。ほらあれだ、2chやtwitterで見かける「おまえ以外全部bot」を世界レベルまで拡張したやつ。

まだ科学で解けない13の謎 自分の脳の設計図をコンピュータに読み取らせてから、体を壊し、記憶も何もすべてを再構成してもらったとすると、私はひと眠りしていたことになるのか、それとも自殺をしたことになるのか?もし二人の「私」が再構成されたら、私は二重の喜びを感じるのだろうか?こうした問題は『まだ科学で解けない13の謎』の一つとして残されていることを知っている。

 ピンカーは、こうした哲学的な問題がむずかしいのは、神聖だからではなく、換言不可能だからでも、意味がないからでも、無味乾燥な科学だからでもなく、ホモサピエンスの脳に、これを解決する認知装置が欠けているからだと述べる。人は生物であって天使ではないし、その心は器官であって、真理につながるパイプラインではないという。心は、私たちの祖先にとって生死に関わる問題を解決するために自然淘汰によって進化したのであって、私たちが問える問題のすべてに答えるために進化したのではないというのだ。

 そして、面白い思考実験をする。人とは別の認知能力を持つ生物を仮定し、自由意志や意識がどのようにして脳から生じるか、意味や道徳性がどのように宇宙に適合するかを理解できるとする。そして、ヒトが理解できないことをおもしろがって、解説を試みたらどうなるか問いかける。もちろん、私たちはその説明を理解できいないだろう(認知能力がないからね)。

 この思考実験はどうしようもないほど証明不可能だが、反証は可能だ。この哲学の難問を万一誰かが解いた場合には、それが反証となるというのだ。
ところが、人類のもっとも優れた知性の持ち主がこの難問に何千年も取り組んでいるにもかかわらず、何も進展がないことを見ると、反証できそうもなさそうだ。

 「心を説明する」現時点でもっとも分かりやすく、納得の行くスゴ本。

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アイドルは殺されなければならない『金枝篇』

 アイドルは殺されなければならない。アイドルは復活しなければならない。

金枝編上金枝編下

 100年前、英国のフレイザーによって著された『金枝篇』を読むと、「王殺し」は世界的に共通な風習であることが分かる。そして、現代では王の代わりに「アイドル」が、その役割を果たしていると考えることができる。

 物語作家にとって、『金枝篇』は宝の山だ。人類学・民俗学・神話学・宗教学の基本書であり、世界中の魔術・呪術、タブー、慣習、迷信が集められている。スケープゴート、死神の追放、外在魂、樹木崇拝、王と祭司のタブー、王殺し……おびただしい事例と、膨大な文献の引用で成り立っており、「本からできた本」という異名の通り。

 物語背景や世界観、ガジェット、仕掛けとなる材料がてんこ盛りで、たとえば『まどか☆マギカ』のソウルジェムは、「民話における外在の魂」の章に出てくる「ソデワ・バイの首飾り」から拝借しているだろうし、シャーリイ・ジャクソン『くじ』は、「スケープゴート」の章で紹介される風習そのままだ。独創的でありながら、人類の奥底で共通するアイディアなのだろう。

 ここでは、そうした風習から一つ、刺激を受けた「王殺し」について書く。

 一万年単位で人類史を眺めると、人間とは明らかに異なる、人間に優る、超自然的な存在という観念が、ゆっくりと醸成されてきたことが分かる。いわゆる、神という存在だ。「この世界は何らかの意思や働きかけによって具現されたもの」という考え方は、時と場所を問わず共通している。神の普遍性は、好奇心が普遍的なことの裏返しなのかも。

 同様に、超自然的な力を与えられた「人」も普遍的だ。いわゆる王や祭司のこと。祈りや生贄を捧げられるほど敬われる一方、干魃や凶作や疫病や嵐が起れば、王の怠慢もしくは罪であるとして責任を負わされた。ムチ打ちや縛めから、廃位や死の罰が下されたという。王そのものが生贄だったのだ。

 面白いのは、災いの癒すためのみならず、王の中にある神聖なるものを受け渡すため、殺される運命にあったというところ。老齢による衰えから「神」を守るため、非業の死を必要としたのだ。つまり、まだ十分活力に満ちている状態で後継者に移し替えるため、王殺しは必然だったというのだ。時代や文化によってやり方は異なるが、人類に共通して、「神聖なるもの」のリレーが行われたのはなぜか?

 フレイザーはこれを、植物になぞらえる。植物が毎年死んで甦るという考え方は、古代から文明に至る人類のあらゆる段階において、容易に現れてくるという。自らの生活や、ときには生死を左右する、植物の衰退と再生が、毎年広大な規模で起ることを、何万年も人類は目撃してきたのだ。これほど重要で、顕著で、普遍的な現象であれば、人類レベルで同様な発想に至らせて、類似した儀式を誕生させたことは、驚くにはあたらないという。

 神を弑することで、神を受け継ぐ。儀式の本質は、植物の死と再生の擬態だっという主張は、古今東西に渡る膨大な文献の裏付けられている。本書では一言も触れていないが、死と再生に関するあらゆる証言や論拠は、イエス・キリストを指しているのでは……と勘ぐりたくなる。フレイザーは遠回しに、キリスト教の起源を普遍思想へ求めているのではないか。

 儀式としての「王」は残ってはいるものの、現在、神聖が宿るのは「アイドル」だ。崇拝される偶像としての存在は、現代の王・司祭といっていい。あこがれや欲望を一身に受ける、器としての存在だ。すると、死と再生の擬態はアイドルに受け継がれていると解釈できる。偶像役の、人としての盛りを過ぎるまで、「あこがれ」や「期待」や「欲望」が捧げ続けられる。そして、絶頂を超えて衰退しそうなとき、その神性を剥ぎ取られ、別の偶像へ移される。アイドルの栄枯盛衰は、王殺しの風習の現代版として見ることができる。

 すると、アイドルは「殺され」なければならぬ。殺人、という意味ではなく、神聖を失う儀式が必要とされる。スキャンダルかもしれないし、引退コンサートの場合もある。必ずしも耳目を引かなければならない、ということはないが、アイドルの神聖が強ければ強いほど、終わりは演出される。

 そして、アイドルは復活しなければならぬ。同一人物である必要はなく、先代を襲名したり、歌姫という地位を与えられたり、シリーズ続編の主役を代替わりすることで、神聖は引き継がれる。アイドルは、現代の王の代わりとして、死と再生を担っているのだ。

───このように妄想中枢を刺激して、新たな目線を与えてくれる。『金枝篇』は王殺しまで詳細にしてくれるが、そのネタが現代でどう生きているかを視るのは、読み手の想像力(創造力)に拠る。

 千年万年単位で人類を眺めると、そこには「野蛮」「非科学的」といったレッテル貼りで回避するには大きすぎる共通的な理解の仕方があることが分かる。現代の「科学」だって、いまの人類にとってほぼ共通する「世界の理解の仕方」(世界の説明の仕方)に過ぎぬ。百年前を振り返ると、「科学」は時代遅れとなり、千年経ったら、野蛮な俗信の一つとして数えられるだろう。巨視的な立場からすると、人間の肉体構造がさほど変わっていないように、精神構造も変わらない部分が大きい。非科学的、と斬って捨てるのではなく、「人類は世界をどのように理解しようとしたか」「その理解の仕方はどんな形で受け継がれているか」に注目しながら読むといいかも。

 民俗学・神話学・宗教学の基本書にして、自分の発想の根っこを照らす一冊。

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萌え上がるスゴ本オフ「アイドル」

 制御不能の熱暴走、妄想全開トークなり。

 オフ会やってて、出てくる本はだいたい分かる。未読はあれど、変化球に驚くこともあれど、だいたい察しがつく。だが、今回は全く未知の領域だった。本を出汁に、音楽と映像と熱いリビドーが放出されたスゴ本オフだった。

 いつもと違って、全体がピンクがかっている。

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 怒濤のtweetは、スゴ本オフ「アイドル」まとめをどうぞ。

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AKB48友撮 印象的だったのは、AKB48を始めとするxxx48のメンバ・研究生どうしの“関係性”に着目した「量が質に転換する法則」のプレゼン。先輩後輩、事務所つながり、同期組、好意などの“絆”に着目すると、順列組合わせにより無限に妄想できるという話。アイドル萌えの深い領域を垣間見る。

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 そして、乃木坂46『13日の金曜日』に感動する。横浜でフラッシュモブで撮影されたMV。周到に用意され、最初は一人ダンスだったのが、周囲からどんどんメンバーが集まってきて大きな踊りのステージができあがる。最初とまどっていた一般の人たちがどんどん笑顔になっていくのがイイ。かわいい女の子は皆を笑顔にする。かわいいは正義。

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プリティーリズム もちろんアニメ・ゲーム方面からも紹介される。「立てばアイマス 座ればアイカツ 歩く姿はラブライブ!」に加え、『プリティーリズム』や『タイガー&バニー』、『うたのプリンスさまっ』、『サイボーグ009』のキャラクターを通じて、熱くアイドルを語る。『戦姫絶唱シンフォギア』の死すべき運命の歌姫や、"idle ≒ my doll" としての『ローゼンメイデン』を加えたかった(そういや、プリキュアが無かったなぁ…)。

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 他にも、“マッチョな”マドンナ像や、「史上最高のアイドル・イエスと仏陀」という視点、最新のジャニーズは、跳芸+水芸のほとんどサーカスだとか、リドリー・スコット監督のエイリアンは殺戮マシーンとしてのアイドルだとか、憧れを具現化した唯一無二の存在から、成長を応援する対象としてのアイドルといった考え方まで、鋭く深く濃ゆい語りにハマる。「深夜、妻子が寝静まったのを確かめて、コッソリももクロを鑑賞して涙を流す」オッサンの気持ちが伝わる。

スーパースター・イエス&仏陀を描いた『聖☆おにいさん』は全巻放流!

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アイドルという人生 『アイドルという人生』を手に取ると、胸にこみあげてくるものがある。70~90年代のアイドルたちの、「アイドル後」の人生を追いかけた異色本だ。キャンディーズや桜田淳子、岡田有希子、後藤真希の笑顔は、思い出そのまんまだった。元・アイドルとしてどう生きたかを知るのは、残酷なことなのかもしれない。人である限り、アイドルにも時は流れる。昔のアイドルを見ることで、懐かしんだり、あのときの憧れの感情を思い出す。だから、アイドルとは同時代性の記憶装置なのかも。

ラブプラス ここで紹介するために、先日『ラブプラス』を起動した。何年も放ったらかしていたので、怒られると思いきや、涙目で心配される。「もう会えないかと思ってた、さびしかった」。「ずっと待ってたの、私の、気持ちは、ずっと、ずっと、変わらないよ」一途な寧々さんに心を持っていかれる。

 「きっと何年たっても こうして変わらぬ気持ちで過ごしてゆける」なんて嘘。わたしは変わる。でも、思い出は変わらない。わたしはもう老いているのに、向こう側の寧々さんは高校3年生のまま。これはもうSFやね。アイドルとは、感情の記憶装置なのかも。

アイドルを語る本は、必然的にペダンティックになる。

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「ちゃお」と「ももクロ」の類似性について。

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アイドルの「薄い本」は、薄さに反比例して、濃厚だった。
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侍戦隊シンケンジャー、おそるべし。

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    ■紙媒体
  • 『あいどる』ウィリアム・ギブスン(角川文庫)
  • 『金枝篇』J.フレイザー(ちくま学芸文庫)
  • 『儀式』ロバート・B. パーカー(ハヤカワ・ミステリ文庫)
  • 『かせんとびじょきょ』金巻ともこ/村上由布(ヤングガンガン)
  • 『聖☆おにいさん』中村光(モーニングKC)
  • 『ももクロの美学』安西信一(廣済堂新書)
  • 『ももクロ活字録』小島和宏(白夜書房)
  • 『うーぶろん・ら・ぽるとー!』ももいろクローバーZ(扶桑社)
  • 『夢を与える』綿矢りさ(河出文庫)
  • 『アイドル進化論』太田省一(双書Zero)
  • 『ナカGの推しメン最強伝説』ナカG(太田出版)
  • 『IDOL DANCE!!! 歌って踊るカワイイ女の子がいる限り、世界は楽しい』竹中夏海
  • 『AKB48友撮』(FRIDAY)
  • 『まるっとAKB48スペシャル』(FLASH)
  • 『AKB48 x 週刊プレイボーイ』
  • 『Documentary of AKB48』(映画パンフレット)
  • 『見逃した君たちへシリーズ』(映画パンフレット)
  • 『AKB商法とは何だったのか』さやわか(大洋図書)
  • 『アイドル領域』斧屋(密林社)
  • 『モーニング娘。誕生10年記念本』東京ニュース通信社
  • 『俺たちの勲章』松田優作、中村雅俊
  • 『アイドルという人生』角川メディアワークス
  • 『王子辞典』タイムマシンラボ(太田出版)
  • 『ジャニ研! ジャニーズ文化論』原書房
  • 『ジャニヲタあるある』アスペクト
  • 『1985年のクラッシュ・ギャルズ』柳澤健(文藝春秋)
  • 『みんなのプロレス』斎藤文彦(ミシマ社)
  • 『from everywhere』坂本真綾(講談社)
  • 『カレーライス』小西英子(福音館書店)
  • 『戦闘美少女の精神分析』齋藤環(ちくま文庫)
  • 『SMAPクロニクル』篠原沙里(作品社)

    ■ゲーム・音楽・映像
  • 『ときめきレストラン』Konami(ソーシャルゲーム)
  • 『うたのプリンスさまっ』ブロッコリー(PSP乙女専用ゲーム)
  • 『ラブプラス』Konami(DS)
  • 『TAKE OFF!』Prizmmy☆
  • 『13日の金曜日』乃木坂46(MV)
  • 『イン・ベッド・ウィズ・マドンナ』マドンナ(20世紀フォックス)

    ■(主に)アニメ
  • 『アイドルマスター』
  • 『ラブライブ』
  • 『アイカツ!』
  • 『プリティーリズム』
  • 『タイガー&バニー』
  • 『ローゼンメイデン』
  • 『戦姫絶唱シンフォギア』
  • 『サイボーグ009 RE:CYBORG』

    ■アイドル・グループ・キャラクター
  • A.B.C-Z
  • ももいろクローバーZ
  • AKB48
  • HKT48
  • SKE48
  • JKT48
  • NMB48
  • SNH48
  • 乃木坂46
  • 松坂桃李
  • Prizmmy☆
  • w-inds.
  • 松田優作
  • マドンナ
  • おニャン子クラブ
  • モーニング娘。
  • 坂本真綾
  • SMAP
  • 003(サイボーグ009)
  • 綾波レイ(新世紀エヴァンゲリオン)
  • 姉ヶ崎寧々(ラブプラス)
  • エイリアン(リドリー・スコット監督の映画)

いつものように、ビールとドーナツはたっぷりと。

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アイドルのクッキーが面白い。

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 皆で持ち込んだDVDやらBlue-layやらCDを流しまくる、どろり濃厚なひとときを味わう。「お気に入りの映像を持ち寄って、皆で見ながら語り合う」という企画、面白いね。PSPをプロジェクターにつなげてムービーを見たり、ノートPCを持ち込んで、イチオシ艦娘大会を開催してもいい。

 近々は下記の予定で、スゴ本オフ、やります。ゆるゆるとご参加あれ。

LOVE[詳細]
 9/29(日)14:00-18:00
 麹町のKDDI Web Communications さんの6F
 参加費2000円

「ムードインディゴ」無料試写会[詳細]
 9/29(日)18:30-21:00
 麹町のKDDI Web Communications さんの6F
 参加費 無料
 「ムードインディゴ うたかたの日々」オフィシャルサイト

 オフ会のみ、試写会のみ、両方参加、いずれもOK

トリック&マジック[詳細]
 10/27(日)15:00-20:00
 麹町のKDDI Web Communications さんの6F
 参加費2000円


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『本を書く』はスゴ本

アニー・ディラード『本を書く』は一読、わたしにとって、かなり重要な本になった。今後の人生で、何度も何度も読み返すことになる。その度に、発見し、叱咤され、伸ばした背中を押されるだろう。

 これは、よくある執筆のノウハウではない。「本を書く」とはどういうことかを、自分の作家人生を振り返りながら、冷徹に精確に伝えようとしている。著者はアニー・ディラード、『ティンカー・クリークのほとりで』でピューリッツァーを受賞している。削ぎ落とされ、非常に洗練された文を書く作家だ。

 「書く」行為に厳しくあろうとする意気込みと自信に圧倒されながら読む。うんと間口の広い『実践小説教室』の後だけに、読み進めるほど背筋はどんどん伸びていく。ふんだんに出てくるメタファーや挿話は、ユニークで分かりやすいが、そこから「書く」ヒントを得るのは読者の自由だ。

 たとえば、何を「書く」のかについて、ヘンリー・ソローを引いてくる。

ソローはこれを別の表現で言っている「自分の骨を知れ」「追跡し、追いつき、自分の人生の周囲をぐるぐると回ること。自分自身の骨を知ること。しゃぶりつき、埋め、また掘り返し、しゃぶりつくのだ」

 要するに自分を書くのだ。自分が最重要だと思うことを、「いまにも死にそうな人のように書く」という。しかも、読者はすべて死期に近い患者だと想定して書けという。要するに、もうすぐ死ぬと分かっていたら、何から書き始めるのか?死にかけている人に向かって、何を書くのか?「値するものを書け」と突きつけられているようで、耳が痛い。

 書くことは考えることであり、書かれたものは思索の跡になる。だが、「プロセスに意味はない。跡を消すがいい。道そのものは作品ではない」と容赦ない。「作家がへその緒を切る勇気がなかった作品はたくさんある。作家が正札を外さなかったプレゼントは結構あるものだ」と撫で斬る。

 どんなに愛着があっても、どんなに苦労して作った文章でも、入れることで作品が弱まるようなら、切れ、捨てろ、鳥に食わせてしまえと説く。分かる。文は、削れば削るほど良くなるから。だが、ディラードほどバッサリできるだろうか。へその緒を切れないとき、ここを読むつもりだ。

 「書く」ことをストイックに追求する、ディラード一流の寓話にが散りばめられている。テーマを得るために何を餌とするか。蜂蜜を取るために、蜂の巣を探す方法や、自分の腿の肉一片を餌に魚を釣った話、「やりかけの仕事はあっという間に野生に戻る。一晩で原始の状態に立ち返る」など、どこを開いても、発見と叱咤があり、背中を押される。

 現時点のわたしにとって、最重要の一節を引用する。わたしが、繰り返し読みたいからだ。

書くことについて私が知っているわずかなことの一つに、一回一回、すぐに使い尽くせ、打ち落とせ、弄べ、失え、ということがある。本の後ろのほうで、または別の本で使おうと思うな、取っておくな、ということだ。出すのだ。すべてを出し切るのだ。いますぐに。あとでもっと適当なところに使うためにとっておきたいと思う衝動こそ、いま使え、というシグナルである。もっと他のこと、もっと良いものは、あとで現れる。これらは後ろから、真下から、まるで湧き水のように満ちてくる。あなたが自由に、ふんだんに与えようとしないもの、それは消えてなくなってしまうものだ。

 「書く」ことに真摯であろうとする人にとって、重要な一冊。

 saruminoさん、この本を教えていただき、感謝しております。いい一冊に出会えました、ありがとうございます。

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古典は武器である『強く生きるために読む古典』

強く生きるために読む古典

  負けないこと、投げ出さないこと、逃げ出さないこと、信じ抜くこと、鬱になりそうなとき、それが一番マズい。では、どうするか。

 ダメになりそうなとき、古典は武器になる。できそこないだという自覚、場違いでいたたまれない感覚、自殺した文豪の「生まれてきてすいません」を夜の底で反芻するとき、生き延びる助けとなるのは古典である……これが著者の主張。ヘーゲル、法然、カミュ、ドスト、ときに過剰に、ときに強引に自分に引きつけて読む。

 自ら述べる通り、著者の「読み」はバイアスがかかっている。「正しい」「間違っている」を断定しがちだ。既読については、わたしの「読み」とずいぶん違うのが面白い。マルクス・アウレリウス『自省録』を、「劣等生の嗚咽と罵声、悔恨と自戒の独白」と読むのは斬新すぎる。閉塞感と絶望に塗りつぶされた『悪霊』からドストの楽観論を汲み取ろうとしたり、『異邦人』のムルソーの転回を自分の体験に照らして理解しようとする。カミュの不条理は、「人は意味や理由を求めたがるが、世界はその問いに答えない」であって、ムルソーはそれに気づいたから丸ごと幸せになれたんじゃなかったっけ。

 それでも、解説書や類書にあたらず、直接、裸で古典に取り組み、「わたしはこう掴み取ったどー!」と叫ぶ。自分の生そのまま肯定する、強く美しい体験が書いてある。感情の余波は、読者の手を伝わり、「私も読もう、そして武器にしよう」という気にさせられる。

 読む行為自体が「事件」となるように書かれた『失われた時を求めて』や、「人生のどんな経験も無駄にならない、今度はおまえの番だ」と評する『野性の思考』を読むよう、力強く背中を押される。あるいは、「正しい」「間違っている」というより、何を読み取ったかが問われているようで、再読を促される。紹介されている古典は以下の通り。

 『失われた時を求めて』プルースト
 『野生の思考』レヴィ=ストロース
 『悪霊』ドフトエフスキー
 『園遊会』マンスフィールド
 『小論理学』ヘーゲル
 『異邦人』カミュ
 『選択本願念仏集』法然
 『城』カフカ
 『自省録』マルクス・アウレーリウス

 行き詰まったときの本を探すガイドとして、ユニークな「読み」の事例として、書評というよりも優れたエッセイとしてオススメしたい。

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