読んで悶えろ『東雲侑子は短編小説をあいしている』
ラノベを読むのは、存在しなかった青春を味わうため。
「いいおもい」なんて、なかった。劣等感と自己嫌悪に苛まれ、鬱屈した日々が終わることを、ひたすら望んでいた。苦くて痛々しいわたしの恋を、甘くてしょっぱい味付けで上書き保存するために、恋物語を読むのだ(妄想だって経験だ)。
そういう意味で、東雲侑子の三部作は素晴らしい。
無気力で無関心な主人公は、まんま「わたし」だし、いつも独りで本を読んでる彼女は、あのとき好きだった“誰か”になる。照れ屋で臆病な二人の、不器用で未熟な恋に、好きなだけ投影できる。ラノベの体裁をしてラノベらしからぬリアルな設定と、文芸の王道を往く技巧的な構成に、完全に撃たれる。のめり込んで舌を巻いてキュンとなる。
彼女がある秘密(それも、現実にありそうな秘密)を抱えてて、偶然に知ってしまった主人公とのバーターから成る仮面恋愛にハラハラさせられる。どっこいわたしは(もちろん皆さんも)、どうなるか薄々分かってはいる。だってラノベのパッケージだもの。
だが、一番肝心なところは書いてない。作者はよく分かっている。一人称で統一し、東雲侑子の心情を見せぬようにしている。代わりに、彼女の言葉やしぐさ、顔色から息遣いまで、それこそ綿密に舐めるように描かれる(主人公が“見て”いるからね)。すると彼女は、「あんまり見ないで…」とうつむく(悶えろ)。
だから、この恋がどうなるか、目に見えるところでしか分からない。彼女の心が見えないからこそ、歯がゆかったり、恐ろしかったりする。東雲侑子を純で可愛い女と見てもいいし、少ない言葉で彼を振り回すエキセントリックな娘と思ってもいい。恋と同じ、読み手の解釈に委ねられる。
秘すれば花、いちばん肝心なところ、彼女の気持ち、を書かないから恋愛小説になれる。小説のいわば楽屋裏を「みせない」。見せずに魅せるのが小説の極意。だから解釈は多様に別れ、面白い“読み”が生じる。
代わりに彼女の気持ちは、作中作として挟まれる短編小説の描写に、間接的に託される。最初は生活感のない世界で堅苦しさを強調する『ロミエマリガナの開かれた世界』。二巻目は柔らかさが意図されリアルな感情をそのまま伝えようとする『いとしくにくい』
。そして最後、三巻目では世界が広がり、相手の心情を推し量る微妙な距離感が生まれる『恋愛学舎』。これは、東雲侑子の成長譚でもあるのだ。
“彼女の気持ち”を一切書かずに、でも彼女の“好きだ”という切なさが伝わってくる。二巻目の嵐も、三巻目の彼の選択も、物語の気持ちのいいところにグッと入ってくる。こんな恋愛、したかった。だが、こんな恋愛、小説だけで狂いそうだ。
そういう意味で、存在しえない甘酸っぱい青春を上書き保存できる。妄想だって経験だ、最終巻を読んだ夜は、きっといい夢を見るだろう。
読め、そして悶えろ。
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