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科学とは何か『科学論の展開』

科学論の展開 科学の本質に迫るスゴ本。無批判に科学を信仰する者は悶絶する。

 「科学」とは何か。実験で立証されたから?再現性があるから?反証に耐えてきたから?この問いをハッキリさせ、それに答えようとする試みが、本書だ。帰納や演繹を始め、クーンのパラダイム論やラカトシュの研究プログラム、実証主義やベイズ主義など、科学哲学の議論を噛み砕き、咀嚼し、批判する。

 「科学」の確からしさを信じる人は、衝撃を受けるに違いない。「科学」という確固たる観念があって、それが紆余曲折を経てきたのではないことが分かるから。その観念自体も揺れて再定義されてきたのだ。

 たとえば、科学の「正しさ」を帰納に求める人がいる。実験や観察といった事実から理論を導き出しているから、正しいというのだ。これには七面鳥の喩え話を紹介する。飼育場で育てられている七面鳥は、「毎朝餌をもらえる」という結論を出すのだが、翌日はクリスマス・イヴで、首を切られてしまいましたとさ、という話。わたしなら、ビールの喩えを思い出す。

 ビールには、水が入っている
 ワインには、水が入っている
 日本酒には、水が入っている
 ゆえに、水を飲むと酔う

 あるいは、演繹を攻撃する。演繹は強力で正当だが、論理の前提が正しいかどうかについては保障しないという。著者チャルマーズは猫の喩えを持ち出してくる。

 a. すべての猫は五本の足をもつ
 b. ミケは私の猫である
 c. (ゆえに)ミケは五本の足をもつ

 演繹としては適切だ。 a. と b. が真であれば c.は真であるから。だが、 a. と c. が偽である。論理学はそれだけでは新しい真理の源泉にはならない。既に提示された言明から、どんな事柄が得られるかを示すだけで、最初の事実言明( a. )が真実かどうかは、保障されない。

 では、実験と理論の両方ならどうか。実験結果から理論を打ち出し(帰納)、理論から事実を導く(演繹)ならどうだろう。著者はこの間の循環論法を追及してくる。仮に実験結果の妥当性を判断するため理論に訴えるとして、その同じ実験結果が理論の証拠として考えられるとするなら、それは循環論法に陥ってしまっているという。まさに鶏卵だね。

 帰納は経験によって正当化されるから、ほとんど真なら一般化してもよいではないかという主張がある。これには厳密に否定する。いかに多くの証拠があろうと、結果は有限回である。一方、一般法則は無限の状況について主張している。そのため、証拠に照らした法則の確立は、有限を無限で割ることになるから、結局はゼロになってしまうというのだ。

 これを回避するために、ベイズ主義が採用される。そこでは、観測された事実から、その起因である原因事象を確率的に求めることを繰り返すことにより、命題の尤もらしさが改訂されてゆく。ある理論を信じていない科学者が、観測を繰り返すことで、その信じる度合い(尤度)を増やしてゆく解説は分かりやすい。その理論なしでは説明できない事象があり、その事象がめったに起きなければ起きないほど、信じられやすくなることは、感覚的にも分かりやすい(例:日蝕とか)。

 しかし、著者はベイズ主義をこう批判する。

事前確率はそれ自体全く主観的であり、批判的分析を受けない。それは単に個々の科学者がたまたまもっているさまざまな信念の度合いを反映する。
 そして、ベイズの理論は、与えられた証拠に照らして、事前確率から事後確率へ変形するのに役立つ様式にすぎず、命題が真であると受け入れることが正しいかどうかは知ったことではないというのだ。

 確かに著者の批判は筋が通っている。演繹に対する批判と同様、手法の妥当性は認めるが、手法は科学理論の「正しさ」を保障しないというのだ。だが、それでもベイズの理論は有用だと考えられる。なぜなら、そうした信念の確率は実験を繰り返すことにより収束/拡大してゆくから。それぞれの「信念」はいわば淘汰されることにより、より事実に近い「信念」が生き残ると思うぞ。

 では、反証主義ならどうだろう。有限回の観察結果から一般則を導くことは不可能だとしても、法則に矛盾する例ならただ一つの結果だけで反証できる。「すべての白鳥は白い」という命題は、ただ一羽のコクチョウで反証可能だ。

 だが、科学哲学の根拠として反証主義を使うには、それほど単純ではないという。反証を用いることで、星占いが科学的であるという主張を排除することは、確かに可能である。だが、反証を用いることにより、ニュートンの万有引力の法則も、ボーアの原始構造論も、マックスウェルの気体分子運動論も(当時は)排除可能になってしまうというのだ。反証されたからといって、彼らが主張を捨てなかったからこそ、現在の科学がある。ここが反証主義の限界だというのだ。

 科学者が研究している理論的枠組みに焦点を当てた、クーンのパラダイム論にも容赦がない。まず、科学者集団が採用する一般的な前提や法則と、その理論を応用するためのテクニックからなるパラダイムがある。反証の増加にしたがって説明が困難になり、新たなパラダイムが出現する不連続な変化を概説する。

 そこでは、パラダイムの変化は漸進的な積み重ねではなく、一足飛びにとって代わられるものとなる。競合するパラダイムは、理論上の根本原理のみならず、研究手法そものを異にするため、共役不可能であるという。既存の業績も、新しいパラダイムで新しい解釈に照らされ、根本的に別のものとして扱われる。パラダイムシフトは、累積的・連続的な進歩というよりも、優劣の基準を共有できない切断的・革命的な交代になる。

まだ科学で解けない13の謎 『まだ科学で解けない13の謎』によると、パラダイムシフトになる大発見は、「あたりまえ」「常識」とされている中の、説明がつかない場所に潜んでいる。そうした、変則事項(アノマリー/anomaly)の最もホットなやつを十三編の物語にして紹介している。膾炙した知見に反証実験や、現時点では説明できない(でも厳然たる)事象をジャーナリスティックに描く。

  1. 暗黒物質・暗黒エネルギー : 存在しない宇宙の大問題?
  2. パイオニア変則事象 : 物理法則に背くパイオニア号
  3. 物理定数の不定 : 微細構造定数の値は百億年で変わった?
  4. 常温核融合 : あの騒ぎは魔女狩りだった?
  5. 生命とは何か? : 合成生物は生物の定義となるか
  6. 火星の生命探査実験 : 火星の生命反応が否定された理由
  7. "ワオ!"信号 : E.T.からのメッセージとしか思えない信号
  8. 巨大ウイルス : ウイルスは真核生物の老化解明の鍵?
  9. : 死ななければならない理由が科学で説明できない
  10. セックス : わざわざセックスする理由が科学で分からない
  11. 自由意志 : 存在しない証拠が山ほど、信じる・感じるもの?
  12. プラシーボ効果 : 偽薬で効く証拠、効かない証拠
  13. ホメオパシー : 不合理なのに世界中で普及している理由
 確かに、パラダイムシフトを起こすものは常識の外からやってくる。だから、アシモフのこの名言は正しい。シフト先は、最初はニセモノの形を取ってやってくるからね。
科学の大発見をしたときの最初の言葉は、「わかった(エウレカ!)」ではない。「こりゃおかしい」だ。
 だから、競合パラダイムに属する研究者は、異なる世界に生きているようなもの。文字通り、ガリレオの時代の世界感と、現代のそれは隔世の感だ。だが、この変化が科学だというのだろうか。その時その文化の多数の科学者が、「これが科学だ」と思っているものが科学になるというのか。これは、科学の特徴付けに関わる規準として極めて曖昧だという。

 では、著者・チャルマーズ本人は、何を「科学」とするのか?ポパー、クーン、ラカトシュ、ファイヤーベントと、科学哲学における様々な主張を概説し、批判してきたからには、代案があるのか?

 ある。

 チャルマーズはこれを非表出的実在論と呼んでおり、これまでの極端から極論ではなく中庸を目指しているように見えた。つまりこうだ。物理的世界は、実在として存在しており、それを説明しようとする理論には依存しない。そして、個々の実験や観察を通じ、理論が世界に当てはまっている限りにおいて、普遍的に当てはまるといえる。

 しかし、だからといって理論は世界をそのまま記述しているものではないという。世界の特徴を抽出して近似的に記述しているに過ぎないというのだ。すなわち、世界を記述する近似式を探すことが、科学だというのだ。

 ここに至るまでの、様々な主義主張を経た後には、最も"しっくり"感がある。ただしこれは、これから批判を受ける主張だろう。たとえば、チャルマーズの論に限らず、本書を通じて言及されていなかったのは、テクノロジーの側面だ。「科学技術」という言葉に馴染んだわたしにとっては、その実験結果が技術に適用でき、産業や戦争やその他もろもろの"役に立つ"説明を「科学」として重視してきたという観点はどうだろうか。それぞれの文明史を振り返りながら、もっと功利的な側面から科学の発達を検証することにより、科学の一般的な定義を導き出せないだろうか。

 本書は、科学哲学の入門書にして決定版のスゴ本だ。大学の教養課程で、重要な本として取り上げられているのも分かる。

 いわゆる科学の啓蒙書を読んでも、知識は増えこそすれ、その本質には至らない。新刊の科学本ばかり追い求め、無批判に「新しい=正しい」罠に喜んで入りたがるのであれば、科学と信仰の区別がついていないに等しい。それぞれの理論がどんな性質で、どのように受け入れられてきたか分かっても、なぜそれを「科学」と言えるのかという疑問を抱こうとしないから(「学而不思則罔 思而不学則殆」を思い出せ)。科学は常に「前へ」向かっているから、いつもアップデートされるものだから、「新しい=正しい」という罠が見えないのだ(深くハマりこんだ人ほど、"進歩"という言葉を使いたがる)。

 そういう、わたしの中の「科学教」にトドメを刺した点でも、凄い。科学は、かなり非連続でゆるやかで、矛盾を孕み、かつ糊塗のさらに上塗りにして成り立っている。厳密な論理に曝されれば保たない概念である一方、それでいて世界を理解し拡張する上で最も役立つ具体的な方法でもあるのだ。科学を定義づける、一般的な言明は、新しい科学知識の中にはなく、そうした問いと答えそのものが、科学を「科学」たらしめていることに気づかされる。

 重要なのでもう一度。本書は、科学の本質に迫るスゴ本。

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