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スゴ本オフ「遊び・ゲーム」嬉しい楽しい大好き!!

 好きな本を持ち寄って、まったりアツく語り合うスゴ本オフ。

 今回は趣向を変えて、「子どもたちに楽しんでもらう」趣旨で、ゲームやマジック、読み聞かせの午後だった。子どものみならず、大人も楽しんでしまうのが(・∀・)イイ!! たっぷり堪能したぞ。

 まずは読み聞かせ。赤ちゃんから小学生まで、年齢層は広めなのだが、流石はプロフェッショナル、上手い。物語の世界に引き込むのが、読み手の役割なんだね。「全部読み聞かせる」のではなく、ポイントをかいつまみ、最後まで言わず、“面白さ”だけを伝える。興味が湧いたら自分で読めばいい(字が分からなければ「読んで」とねだればいい)。

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 ロバート・サブダのしかけ絵本『DINASOR』と『OZ』と『ALICE』。精緻かつ大迫力の飛び出す絵本で、ページを繰ると盛り上がってくる立体感覚がすごい。畳まれた紙がポップアップするというよりも、練り込まれた螺旋が開いていく様がいい。

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 ルーシー・カズンズの『メイシーちゃんのあたらしいおうち』がすごい。しかけ絵本というよりも、巨大な絵本が家になるしかけ。そこでままごと遊びができるのだ。もちろん、わたしの娘もメイシーちゃんにハマった一人なのだが、ふつうの絵本だけ。もっと早くに知りたかった。

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 お次は「パラバルーン」。幼稚園の運動会で見たことがある。パラシュートの端っこを皆で持って、振り上げたり下ろしたりする。キノコになったりテントになったり、くるくる姿を変える生き物みたいで楽しい。だが、自分ですると、もっと楽しいことが分かった。「一人でできない」ところが面白いところ。

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 「スティッキー」が面白かった。サイコロで出た色の棒を抜いていくだけ、という簡単ルール。将棋の駒を使った山崩しを想像してほしい。バランス感覚と戦略、なによりも立体構造を考えさせるゲームなり。アイスブレイクにいいかも。高円寺のすごろく屋の紹介⇒
ゲーム紹介: スティッキー / Zitternix

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 ずばぴたさんの手品もすごい。「ン年ぶり」のブランクとはいえ、トランプさばきは何度見ても分からなかった。いくつか子どもたちにレクチャーして、見事マスターしていた。マジシャンのお約束、というのがあるらしい。娘はきちんと守っていて、絶対に教えてくれない。

 1 タネをばらさないこと
 2 こっそり独りで練習すること
 3 同じ手品を繰り返さないこと

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 他にも、ドミノ倒しをやったりWiiのをやったり。生まれて初めて、おっかなびっくり大貧民にまぜてもらったのだが、これは性格出る出るゲームやね。UNOみたいに、無慈悲にも菩薩にもなれる。遊び倒した割にはまだまだ遊び足りないひとときでしたな。

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 まさかプロジェクターの大画面で『ハッピーダンス・コレクション』ができるとは思わなかった。あべさん、ありがとうございます。

作ろう草玩具
 『作ろう草玩具』は新たな発見。藁や葉を編みあわせて作る草玩具は、知育の見地からも、「遊びゴコロ」としても、オススメしたい。子どもの頃、見よう見まねで笹舟を作ったことはあるけれど、こういうのを教えてくれる本は、なかなかないから。

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 スゴ本オフにちょこちょこ登場するキャラ(名前あるのか?)をモチーフにしたクッキー。これだけ巧みに作ってあって、これ、食べられるんだぜ(しかも美味)。山ほど買ったドーナツはすごい勢いで消えていった。

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 ニンテンドー3DS、ゲームボーイ、ゲームウォッチを並べたところ。「ゲームウォッチは、DSの先祖なんだぞ-」と言っても信じてくれなかった……ちょっとしたジェネレーションギャップやね。

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 「あの腰をクネクネさせてやるスケボー」をやらせてもらう。むむ難い。最初は板を捻らせることで進むのかとおもいきや、動かすのは腰のみ。原理は分かるが乗れないまま断念したので、いつかリベンジしたい。

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 集まった本・ゲームはこんな感じ。カルカソンヌやニムトなど、やり残したゲームもたっぷり。今度はお泊まりとかで一日中ダラダラと遊びたいね。

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科学とは何か『科学論の展開』

科学論の展開 科学の本質に迫るスゴ本。無批判に科学を信仰する者は悶絶する。

 「科学」とは何か。実験で立証されたから?再現性があるから?反証に耐えてきたから?この問いをハッキリさせ、それに答えようとする試みが、本書だ。帰納や演繹を始め、クーンのパラダイム論やラカトシュの研究プログラム、実証主義やベイズ主義など、科学哲学の議論を噛み砕き、咀嚼し、批判する。

 「科学」の確からしさを信じる人は、衝撃を受けるに違いない。「科学」という確固たる観念があって、それが紆余曲折を経てきたのではないことが分かるから。その観念自体も揺れて再定義されてきたのだ。

 たとえば、科学の「正しさ」を帰納に求める人がいる。実験や観察といった事実から理論を導き出しているから、正しいというのだ。これには七面鳥の喩え話を紹介する。飼育場で育てられている七面鳥は、「毎朝餌をもらえる」という結論を出すのだが、翌日はクリスマス・イヴで、首を切られてしまいましたとさ、という話。わたしなら、ビールの喩えを思い出す。

 ビールには、水が入っている
 ワインには、水が入っている
 日本酒には、水が入っている
 ゆえに、水を飲むと酔う

 あるいは、演繹を攻撃する。演繹は強力で正当だが、論理の前提が正しいかどうかについては保障しないという。著者チャルマーズは猫の喩えを持ち出してくる。

 a. すべての猫は五本の足をもつ
 b. ミケは私の猫である
 c. (ゆえに)ミケは五本の足をもつ

 演繹としては適切だ。 a. と b. が真であれば c.は真であるから。だが、 a. と c. が偽である。論理学はそれだけでは新しい真理の源泉にはならない。既に提示された言明から、どんな事柄が得られるかを示すだけで、最初の事実言明( a. )が真実かどうかは、保障されない。

 では、実験と理論の両方ならどうか。実験結果から理論を打ち出し(帰納)、理論から事実を導く(演繹)ならどうだろう。著者はこの間の循環論法を追及してくる。仮に実験結果の妥当性を判断するため理論に訴えるとして、その同じ実験結果が理論の証拠として考えられるとするなら、それは循環論法に陥ってしまっているという。まさに鶏卵だね。

 帰納は経験によって正当化されるから、ほとんど真なら一般化してもよいではないかという主張がある。これには厳密に否定する。いかに多くの証拠があろうと、結果は有限回である。一方、一般法則は無限の状況について主張している。そのため、証拠に照らした法則の確立は、有限を無限で割ることになるから、結局はゼロになってしまうというのだ。

 これを回避するために、ベイズ主義が採用される。そこでは、観測された事実から、その起因である原因事象を確率的に求めることを繰り返すことにより、命題の尤もらしさが改訂されてゆく。ある理論を信じていない科学者が、観測を繰り返すことで、その信じる度合い(尤度)を増やしてゆく解説は分かりやすい。その理論なしでは説明できない事象があり、その事象がめったに起きなければ起きないほど、信じられやすくなることは、感覚的にも分かりやすい(例:日蝕とか)。

 しかし、著者はベイズ主義をこう批判する。

事前確率はそれ自体全く主観的であり、批判的分析を受けない。それは単に個々の科学者がたまたまもっているさまざまな信念の度合いを反映する。
 そして、ベイズの理論は、与えられた証拠に照らして、事前確率から事後確率へ変形するのに役立つ様式にすぎず、命題が真であると受け入れることが正しいかどうかは知ったことではないというのだ。

 確かに著者の批判は筋が通っている。演繹に対する批判と同様、手法の妥当性は認めるが、手法は科学理論の「正しさ」を保障しないというのだ。だが、それでもベイズの理論は有用だと考えられる。なぜなら、そうした信念の確率は実験を繰り返すことにより収束/拡大してゆくから。それぞれの「信念」はいわば淘汰されることにより、より事実に近い「信念」が生き残ると思うぞ。

 では、反証主義ならどうだろう。有限回の観察結果から一般則を導くことは不可能だとしても、法則に矛盾する例ならただ一つの結果だけで反証できる。「すべての白鳥は白い」という命題は、ただ一羽のコクチョウで反証可能だ。

 だが、科学哲学の根拠として反証主義を使うには、それほど単純ではないという。反証を用いることで、星占いが科学的であるという主張を排除することは、確かに可能である。だが、反証を用いることにより、ニュートンの万有引力の法則も、ボーアの原始構造論も、マックスウェルの気体分子運動論も(当時は)排除可能になってしまうというのだ。反証されたからといって、彼らが主張を捨てなかったからこそ、現在の科学がある。ここが反証主義の限界だというのだ。

 科学者が研究している理論的枠組みに焦点を当てた、クーンのパラダイム論にも容赦がない。まず、科学者集団が採用する一般的な前提や法則と、その理論を応用するためのテクニックからなるパラダイムがある。反証の増加にしたがって説明が困難になり、新たなパラダイムが出現する不連続な変化を概説する。

 そこでは、パラダイムの変化は漸進的な積み重ねではなく、一足飛びにとって代わられるものとなる。競合するパラダイムは、理論上の根本原理のみならず、研究手法そものを異にするため、共役不可能であるという。既存の業績も、新しいパラダイムで新しい解釈に照らされ、根本的に別のものとして扱われる。パラダイムシフトは、累積的・連続的な進歩というよりも、優劣の基準を共有できない切断的・革命的な交代になる。

まだ科学で解けない13の謎 『まだ科学で解けない13の謎』によると、パラダイムシフトになる大発見は、「あたりまえ」「常識」とされている中の、説明がつかない場所に潜んでいる。そうした、変則事項(アノマリー/anomaly)の最もホットなやつを十三編の物語にして紹介している。膾炙した知見に反証実験や、現時点では説明できない(でも厳然たる)事象をジャーナリスティックに描く。

  1. 暗黒物質・暗黒エネルギー : 存在しない宇宙の大問題?
  2. パイオニア変則事象 : 物理法則に背くパイオニア号
  3. 物理定数の不定 : 微細構造定数の値は百億年で変わった?
  4. 常温核融合 : あの騒ぎは魔女狩りだった?
  5. 生命とは何か? : 合成生物は生物の定義となるか
  6. 火星の生命探査実験 : 火星の生命反応が否定された理由
  7. "ワオ!"信号 : E.T.からのメッセージとしか思えない信号
  8. 巨大ウイルス : ウイルスは真核生物の老化解明の鍵?
  9. : 死ななければならない理由が科学で説明できない
  10. セックス : わざわざセックスする理由が科学で分からない
  11. 自由意志 : 存在しない証拠が山ほど、信じる・感じるもの?
  12. プラシーボ効果 : 偽薬で効く証拠、効かない証拠
  13. ホメオパシー : 不合理なのに世界中で普及している理由
 確かに、パラダイムシフトを起こすものは常識の外からやってくる。だから、アシモフのこの名言は正しい。シフト先は、最初はニセモノの形を取ってやってくるからね。
科学の大発見をしたときの最初の言葉は、「わかった(エウレカ!)」ではない。「こりゃおかしい」だ。
 だから、競合パラダイムに属する研究者は、異なる世界に生きているようなもの。文字通り、ガリレオの時代の世界感と、現代のそれは隔世の感だ。だが、この変化が科学だというのだろうか。その時その文化の多数の科学者が、「これが科学だ」と思っているものが科学になるというのか。これは、科学の特徴付けに関わる規準として極めて曖昧だという。

 では、著者・チャルマーズ本人は、何を「科学」とするのか?ポパー、クーン、ラカトシュ、ファイヤーベントと、科学哲学における様々な主張を概説し、批判してきたからには、代案があるのか?

 ある。

 チャルマーズはこれを非表出的実在論と呼んでおり、これまでの極端から極論ではなく中庸を目指しているように見えた。つまりこうだ。物理的世界は、実在として存在しており、それを説明しようとする理論には依存しない。そして、個々の実験や観察を通じ、理論が世界に当てはまっている限りにおいて、普遍的に当てはまるといえる。

 しかし、だからといって理論は世界をそのまま記述しているものではないという。世界の特徴を抽出して近似的に記述しているに過ぎないというのだ。すなわち、世界を記述する近似式を探すことが、科学だというのだ。

 ここに至るまでの、様々な主義主張を経た後には、最も"しっくり"感がある。ただしこれは、これから批判を受ける主張だろう。たとえば、チャルマーズの論に限らず、本書を通じて言及されていなかったのは、テクノロジーの側面だ。「科学技術」という言葉に馴染んだわたしにとっては、その実験結果が技術に適用でき、産業や戦争やその他もろもろの"役に立つ"説明を「科学」として重視してきたという観点はどうだろうか。それぞれの文明史を振り返りながら、もっと功利的な側面から科学の発達を検証することにより、科学の一般的な定義を導き出せないだろうか。

 本書は、科学哲学の入門書にして決定版のスゴ本だ。大学の教養課程で、重要な本として取り上げられているのも分かる。

 いわゆる科学の啓蒙書を読んでも、知識は増えこそすれ、その本質には至らない。新刊の科学本ばかり追い求め、無批判に「新しい=正しい」罠に喜んで入りたがるのであれば、科学と信仰の区別がついていないに等しい。それぞれの理論がどんな性質で、どのように受け入れられてきたか分かっても、なぜそれを「科学」と言えるのかという疑問を抱こうとしないから(「学而不思則罔 思而不学則殆」を思い出せ)。科学は常に「前へ」向かっているから、いつもアップデートされるものだから、「新しい=正しい」という罠が見えないのだ(深くハマりこんだ人ほど、"進歩"という言葉を使いたがる)。

 そういう、わたしの中の「科学教」にトドメを刺した点でも、凄い。科学は、かなり非連続でゆるやかで、矛盾を孕み、かつ糊塗のさらに上塗りにして成り立っている。厳密な論理に曝されれば保たない概念である一方、それでいて世界を理解し拡張する上で最も役立つ具体的な方法でもあるのだ。科学を定義づける、一般的な言明は、新しい科学知識の中にはなく、そうした問いと答えそのものが、科学を「科学」たらしめていることに気づかされる。

 重要なのでもう一度。本書は、科学の本質に迫るスゴ本。

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スゴ本オフ「山」「アイドル」「トリック&マジック」のご案内

 好きな本を持ちよって、まったり熱く語り合うスゴ本オフのご案内。だいたいの流れはこんな感じ。

 1. テーマにピンときた本を持参する
 2. その作品の想いを、熱く語る
 3. 最後に、持ち寄った本をシャッフルする(交換会)

 もちろん、本に限らず、マンガ、雑誌、写真集、DVD、CD、ゲームなんでもあり。誰にも放流できない作品なら、紹介するだけで持ち帰るのもOK。ひとり5分くらいでプレゼンしてもらうんだけれど、順位付けとかはありませぬ。本を通じて人に会い、人を通じて本を知るための場なのだから。

 わたし自身、このオフ会で沢山の人と本に出会い、世界がぐぐぐと広がったもの。「いい本あるかな?」という野次馬的な見学も歓迎するけど、自分でオススメすると、「これはどう?」というリアクションが返ってくるはず。自分のアンテナが延びるのは、まさにこの瞬間だぞ。来週は「遊び・ゲーム」と「スポーツ」をテーマでするけれど、以降のラインナップはこの通り。

[詳細]
 8/4(日)14:00-20:00
 モンベル渋谷店の5Fのイベントスペース
 参加費2000円

アイドル[詳細]
 9/7(土)15:00-20:00
 麹町のKDDI Web Communications さんの6F
 参加費2000円

トリック&マジック[詳細]
 10/27(日)15:00-20:00
 麹町のKDDI Web Communications さんの6F
 参加費2000円

 これまでのスゴ本オフのレポートをいくつか。右サイドのメニューからもいけるけれど、実際の知的興奮の 1/10 くらいしか伝え切れていないのが歯がゆい。

 スゴ本オフ 「学校」
 スゴ本オフ 「結婚」
 スゴ本オフ 「食とエロス」
 スゴ本オフ 「早川書房×東京創元社」
 スゴ本オフ 「新潮文庫」

 本を知るだけなら、リアル/ネットショップでできる。だけど、選りすぐりの本に出会えるのは、そして思い入れたっぷり読み手と知り合えるのはスゴ本オフだけ。

 アンテナの感度と範囲を広げる、よいチャンス。ふるってご参加あれ。

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数学は正しいか『数学の想像力』

数学の想像力 数学の「正しさ」について、ぎりぎり迫った一冊。

 何によって数学的な「正しさ」を認識するのか、その根拠とでもいうべきもの、正しさの深層にあるものを掘り起こす。

 本書の結論はこうだ。数学の正しさの「規準」は明快だが、正しさの「根拠」は極めて非自明である。そもそも「正しさ」に根拠などというものがあるのか?この疑問への明快な解には至らないにせよ、そこへのアプローチにより、数学の「正しさ」が少しも自明ではないこと、そしてその非自明性が数学を柔軟性に富んだものにしている―――この結論のみならず、そこへ至る議論の数々が、読み手に知的な揺さぶりをかけてくる。数学の正しさを疑わない人には、頭にガツンと一撃を喰わされる。

 もちろん数学は「正しい」。[Wikipedia]によると、数学とは「いくつかの仮定から始めて、決められた演繹的推論を進めることで得られる事実(定理)のみからなる体系の研究」である。そこにおける「正しさ」とは、予め決められた定義や公理の組み合わせから外れていないこと、(もしくは新たな概念を導入する場合)元の体系との整合性がとれていること、になる。この世界にいる限り、その「正しさ」は疑いようもない。だが、この世界を知らない人は、どうやってその「正しさ」を理解するのだろうか。

 例として著者は、ソクラテスの問答を示す。無学の少年に、正方形の倍積の原理を伝える対話だ。まず、対話を成立させるためには、ソクラテスと少年は、共通の世界に住み、共通の言語を話す基盤が必要だと説く。倍積を示した図といくつもの対話を通じ、ついに正しさの理解まで到達する。

 この過程を通じ、著者は、「見る」行為こそが証明の決済となっていることを指摘する。「見る」ことによって得られる認識は、普遍的な「正しさ」についての揺るぎない直感に限らず、見られた普遍的対象についての強い実在感をも伴うと主張する。

 一方で、「見る」という直感を排除しようとしたユークリッド原論を紹介する。そこでは、曖昧さを取り除いた定義や公理という形で事前に準備しておき、議論の本体ではこれらを出発点として淡々と事務的に流れてゆく。そこに留保される「正しさ」は、演繹的論証というスタイルに基づいた「様式化(儀式化)された正しさ」だという。

 まとめるとこうなる。著者は、「正しさ」を確信させるための基本的要素として、以下の三つを掲げる。そして、人類が数学をどのように理解してきたか、数学はどのように正しさを主張してきたかを、西洋、インド・イスラム、日本の数学の歴史を振り返りながら解いてゆく。

 基盤 : 共通の世界に住み、共通の言語を話すという前提
 流れ : 修辞的論証・対話や、計算・計算手順などの論理過程
 決済 : 議論の落としどころ、往々にして直感的

 数学の正しさは、基盤・流れ・決済といった「お約束」によって立つ。それは、最初は直感的な理解に則っていたとしても、数学が「進歩」するにつれ、直感からは極力離れた、お約束だらけの世界に支えられていることが分かってくる。

 著者はさらに、数学はそれを発展させてきた文化や社会での共通的な了解に依拠しているという。ある概念がはっきりと忌避されたり重視されたのは、普遍的な正しさが存在するのではなく、その社会で「何をもって“正しい”とみなすか」について異なっているから。

 例えば、アルキメデスら古代ギリシアの数学者たちは、無限に対する強い心理的抵抗から、無限を回避する路を選んだという。そのために背理法による証明を開発したわけ。つまり、計算を証明で置き換え、「証明はしたが計算はしなかった」というのだ。無限を孕んだ等式を「計算で導く」という発想はなかったことが、古代ギリシアで微積分学が発見されなかった要因の一つとまで主張する。

 また、インド数学は物事を計算ベースへ抽象化し、一度その枠組みに翻訳したら、後は淡々と機械的な計算手順を遂行する傾向にあるという。彼らにとっての議論の「流れ」とは、まさに計算だったのであり、証明という議論の形体は必要なかったと述べる。計算手順を劇的に簡略化させた、ゼロという位の発見のルーツはそこにあるのだというのだ。

 さらに、イスラム数学は、論理重視の演繹数学と計算重視のアルゴリズムをブレンドする好位置にあったという。その結果、イスラム代数学は数学全般の算術化の第一歩を踏み出した。「数学の算術化」という流れは近代西洋数学や現代数学にまで続けられることになる。実際、アルキメデスによって証明された円の面積や球の体積は、後に近代西洋数学の微分積分を用いて計算できるようになる。

 一方、和算は独自のスタンスをとっていたようだ。著者は、建部賢弘による円周率の計算を紹介し、現在ではロンバーグ法と呼ばれる手法を二世紀も先取りしていることを示す。ところが和算の真髄は、「遊び」なのだという。「無用の用」「芸に遊ぶ」、これが和算家の理想といい、古代ギリシアの「真理」への厳格な哲学探究と対照的だと述べる。確かに、無理数の発見者を処刑したピタゴラス派の逸話は、数学の解法を絵馬として奉納した算額の伝統とは好対照を成している。

 数学史をたどりながら、数学の「正しさ」の理解のされ方を比較してゆく。いかに抽象化が推し進められ、どんなに変貌を遂げたとしても、数学は日常的な事物と連続性を保ち続けるという。「正しさ」がどんなに様式化されたとしても、そこには必ず何らかの具体性と普遍性を保つとまで言い切っている。

 冒頭の「数学の“正しさ”の根拠とは何か?」には、答えられていない。著者は正直に告白する。

ゲーデルの不完全性定理が示すように、「内的整合性」という規準は原理的に立証不可能なものであるその意味では、「数学が正しい根拠は何か?」という問いにまだ答えられていない。数学の「正しさ」における「理性と信仰」という両義性を乗り越えられてはいない。
 数学は信仰なのだろうか?著者は前提つきでYESという。数学を一つの巨大な知的ゲームとみなし、公理をそのルールと見なすなら、「内的整合性という客観的な規準への信仰」こそが現代的な「信仰」の姿だというのだ。

 カッコ付であれ「信仰」とまで言われると、さすがに語弊があるだろう。だが、無理数や虚数を“発見”し、紆余曲折の末、そこまで積み上げてきた数学に呑み込んでゆく過程を眺めていると、(存在を実感することはないにせよ)理解と感覚の間を埋めているのは、正しいという“確信”なのかもしれぬ。

 数学の「正しさ」の変貌と普遍を同時に確信しながら、自分の数学への確信を揺さぶられるスゴ本。

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アンドレアス・グルスキーsugeeeeeeeeeee

 国立新美術館でやってるアンドレアス・グルスキー展行ってきた。

 壮大で緻密な光景と向かいあう。もの凄い巨視感なのに非常に微細なものまでクッキリ見える。いわば、望遠鏡と顕微鏡の視力を手に入れたかのよう。

 一見、何が写っているのか分からない。規則正しい線の羅列が畝だったり、抽象画のような幾何学模様がF1レースコースだったり。そこでは人は、アリンコよりも細かく、ミジンコ並みに注意を払われない。ウォーリーを探すかのように視線をずらして、ようやっと人であることが分かる。神の目線とはこんなものか。

 たとえばピョンヤンで撮ったマスゲームなんて、ひしめき合う人が細胞のようだ。よく見ると容貌や肢体はそれぞれ違うが、一望すると細胞の寄せ集めになる。マドンナのステージでは、舞台の内側と外側の両方が一度に"見える"から、原因と結果の両方を同時に把握しているような感覚に陥る。ツール・ド・フランスの九十九折りでは眼下・近景・遠距離の全てに完全にピントが当たっているから、全能感覚あふれまくる。『99セント』の暴力的なくらい過剰な情報量にアドレナリンが出まくる、見る快楽。

 だが、"見る"ことが困難な写真でもあることは確かだ。数メートルに及ぶ巨大な写真は視角に収まりきらないから、顔を動かしたり、体ごとバックさせたり近づけたりすることで、やっと"見る"ことができる。"見る"とは、どちらかというと受動的にこなしてきた感覚なのに、この写真の前に立つと、積極的に"見る"ことを強いられる。iPodやPCの画像とは、同じ作品なのに全く別物に"見える"。こんなにも"見る"ことに必死になるなんて、初めてかも。

 ドーパミン出しながら、"見る"ことを刷新させられるべし。

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数学は美しいか『考える人 2013年 8月号』

考える人201308 「数学は美しいか」、この挑発的な惹句に反応して、一読おどろく。

 もちろん数学は美しい。だが、どのようにその美を伝えるか、そもそもなぜ美しいと感じるのか、考え出すと楽しいけれど果てがない。こちらの悩ましさを見越したかのような、数学の美が展開される。

 まず、巻頭グラビアでは、数学的形体(Mathmatical Form)が出てくる。ディニ曲線という、擬球をねじって得られる負の定曲率面の立体だ。極めて抽象度の高い、頭の中だけでしか成り立たない存在が、触れられるモノとして示される。この奇妙さに、美を感じるよりも先に現実感覚を失ってしまいそうだ。

 また、一枚の紙から折りだされた「らせん」は、美しいというよりも不思議な気持ちになる。東大折紙サークルorist部員の指先から折り出された、"肉体化された数学"は、無限を孕んでいる。有限の一枚紙から無限が構成されるなんて、矛盾そのものを見せつけられているようだ。

 さらに、「東大の数学入試問題は美しい」というテーマで、"易しい難問"が紹介されている。受験数学の技術的な知識をほとんど必要とせず、視覚で把えられない数学の美を感じられる問題だ。たとえばこれ。

Photo

 前半は分かったけれど、後半が解けない。難しいというよりも、とっかかりがないのだ(強引に計算する、というのを除いて)。解をみると、解法そのものがエレガントなり。

与えられた整数の問題を正式の問題にすり替えることによって本質の洞察が容易になることが面白い。整数と整式の間に存在する構造的一致(同型性)がこの洞察の理論的根拠である。

 上記だけ読むと、何のことやら分からないかもしれないが、"解ける人"(⊇解法を見た人)には、整式の対応性のロジックが心地よく感じられることだろう。美はヴィジュアルに依拠しがちだが、この美しさは、たしかにロゴスに宿る。

 好事家には、「とっておきのマイベスト数式」が響くに違いない。円城塔や野崎昭弘、竹内薫といった匠たちが、世界一美しいと思う数式・証明を紹介してくれる。誰が何をお気に入りかを知るのは、それぞれの性格(や趣味)が如実に顕れ興味深い。まさに、「美は、愛する者の目の中にある」の通り。

  • 円城塔:オイラー積表示
  • 野崎昭弘:コーシーの積分定理
  • 竹内薫:カントールの対角線論法
  • 志村忠夫:質量とエネルギーの等価性およびその関係式(E=mc^2)
  • 角大輝:縮小写像の原理
  • 加藤文元:オイラーの計算
  • 三宅陽一郎:縮小作用の原理
 他にも、数学の愉悦を味わうための「現代数学マップ」や、数学で証明する「カジノ資本主義の破綻」、円城塔インタビュー「数学者は孤独ではない」、「発見と難問の森に遊ぶブックガイド」など、多角的に数学の美しさに迫っている。目を惹いたのは、『数学の認知科学』(レイコフ、丸善出版)。数学が人間の営みである以上、そこには人間の脳と心の仕組みに基づいている(はず)。この発想から見なおすことで、数学は果たして人間の外に存在するのか否かという問題にまで発展する論文だという。

 「数学は美しいか」、この挑発的な惹句に対し、自分なりの答えを準備してぶつけるもよし、ここに出てくる人々の答えに感応するのもよし。

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キッチン・サイエンスの定番『料理の科学』

 キッチンで起きるマジックの根本原理を、誰でも分かるように噛み砕いたエッセイ。章末には嬉しいレシピのおまけつきで、試したくなる。

料理の科学1料理の科学2

 ふだん料理をする人は、食材や調理道具の背景にある科学をどこまで理解しているだろうか。「おばあちゃんの知恵」だったり、レシピ本の受け売りばかりで、「なぜそうなのか」を説明できない場合が多いのではないか……といより、わたしがまさにそう。本書は、「ふだん料理をする人」が、料理の素朴な疑問に対し、科学の視点から答えている。

 たとえば、パスタを茹でるとき塩を加える本当の理由は?なぜ「塩する」と長持ちするのか?「冷凍焼け」とは?アルコールを飛ばしても残っているのでは?炭火とガス火の違いは?圧力鍋の原理は?電子レンジの原理は?食品照射は"安全"か?などなど(全ての疑問は、一巻目次二巻目次に載っている)。

 わたしの場合、料理漫画やウロ覚え知識で、「炭火とガス火」と「圧力鍋の原理」は合っていたが、他はほぼ全滅だった。自信のある方は、各節の冒頭の疑問に解答を用意してから読み進めると吉。

 単なる科学的説明にとどまらず、そこから派生する技も豊富にあり、大変ありがたい。飴色タマネギはひたすら炒めるしかないと思っていた。だが、飴色はデンプンが遊離糖に分解されカラメル化したものだから、「小さじ一杯の砂糖がカラメル化を促進させる」とある。悪手か妙手か分からないが、試してみるだけの価値はありそう。

 また、「白砂糖は害」「海塩はミネラルたっぷり」といった、料理の神話を解体させるにも効果がある。「○○は体に悪い(良い)」といった種々の言い伝えに、真っ向勝負を挑んでいる。要するに、「DHMOの誤謬」と一緒で、演出の仕方で毒にも薬にも印象づけることができる。証跡を重ねた原理に"印象"だけで判断されちゃたまったものではない、というスタンスが心地よい。

 ただし、料理は科学である一方で文化でもあるのだから、著者の主張に首を傾げたくなる部分もある。たとえば「うま味」の説明。「必ずしも食べ物の味をよくするわけではなく、風味を増強したり押し上げたりする」といい、日本人は昆布の"umami"に敏感だという解説に連なっている。だが、フォンでもコンソメもいいし、トマトを煮込むのも"umami"を増すためだろう。ダシ取らなかったら、何だって美味くないぜ、と言いたくなる。日本が敏感というよりも、米国の食文化が鈍感なのでは?と意地悪な目になる。

 誤訳なのか首を傾げる記述もある。パスタを茹でるときに塩を入れる理由について説明しているところ。著者は、もっともらしい様々な"理由"を一つ一つ排してゆく。以下、「沸点が上がるから」という理由を無意味だと評する件。

500gのパスタを6リットルの沸騰した湯で茹でる場合、小さじ一杯(20g)の食卓塩を加えて上昇する沸点の温度は、0.0007℃で、茹で時間を0.5秒かそこらは短縮してくれるかもしれません

 ここは知ってた。が、わたしが引っかかったのは、「小さじ一杯(20g)」。まじで!?小さじって、5ccだよね?なら、せいぜい5、6gのはずなのに、アメリカは小さじのスケールが違うのか……と思わず調べた(tablespoon=大さじ、teaspoon=小さじなので、"大さじ"が正しい/そのうち改訂されるとのこと)。

 また、「風味を増すため」という理由だけを主張し、他をことごとく否定しているくせに、「浸透圧の関係でパスタからソースへ水分が移動してしまうのを緩和するため」という説への反論はなかった。この説はネットでよく聞くが、裏付け調査やデータを目にしたことがないため、検証してほしかった。

 ヤードポンド法の悪習も垣間見えて面白い。「オンス」はオンスは、液体をはかるときに使われる「液量オンス」(29.6ml)と、重量をはかるときに使われる「重量オンス」(常用オンス、28.4g)、さらにはトロイオンスや英液量オンス、薬用オンスなど何種類もあるらしい。でも大丈夫、本書では重さ(g)と液量(cc)を統一して変換してくれているので、美味しそうなレシピも再現できるぞ。以下、作ってみたいレシピの覚書。

【ムール貝の白ワイン煮】(2人分)

海からやってきたファーストフード。ワシントン州にあるテイラー・シェルフィッシュ・ファームで養殖されたムラサキガイが、大きさ、肉付きのよさ、ジューシーさ、風味すべてにおいて最高という。

 ムール貝(洗って、足糸を除いたもの) 900g
 白ワイン 240cc
 シャロット(タマネギ代用可) 60cc
 ニンニクみじんぎり 2かけ
 パセリみじんぎり 120cc
 有塩バター 大さじ2

  1. ムール貝を洗い、ちょうつがいから出っ張った足糸と引っ張り取る
  2. きっちりフタのできる深鍋に、ワイン、シャロット、ニンニク、パセリを入れる
  3. ワインを沸騰させ、弱火で3分煮る
  4. ムール貝を加え、強火にする。しっかりフタをしてから、数回鍋を振り混ぜながら4~8分煮る
  5. ムール貝をスープ皿に取る
  6. 鍋が熱いうちにバターを加えて乳化したソースを作る
  7. ムール貝の上からソースを注ぎ、かりかりのパンと冷えたワインで

いつもアサリ酒蒸でやっているけれど(嫁子大好評)。ムール貝が手に入ったら白ワインで試してみよう。

【豆腐モカプディング】(標準4個分)

火を使わないプディング。豆腐+チョコレートという発想が凄い。

 セミスイート・チョコレートチップ 170g
 木綿豆腐(水切りしたもの) 1パック(340g)
 豆乳または牛乳 60cc
 濃いコーヒーまたはエスプレッソ 大さじ2
 バニラエッセンス少々
 塩ひとつまみ

  1. チョコレートを湯煎するか、電子レンジで溶かす
  2. ミキサーに豆腐、豆乳、コーヒー、バニラエッセンス、塩を入れて30秒
  3. ミキサーを回しながら、溶かしたチョコレートを加え、なめらかなクリーム状になるまで1分
  4. 1時間ほど冷やしていただく

 料理を実験ととらえ、徹底的にキッチンで遊んだ『Cooking for Geeks』とは一線を画し、『料理の科学』は、どちらかというとキッチン寄りのキッチン・サイエンス本となっている。読んで作って食べて、美味しく知識を深めよう。

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良書カタログ『私が目覚める、読書案内。』

私が目覚める、読書案内。 雑誌のブックガイド特集は、わりと期待している。というのも、編集者のアンテナがそのまんま選書のフィルタになっているから。雑誌の「色」に合わせてはいるけれど、読書癖のようなものが透け見えて愉しい。

 その意味で『フィガロジャポン』の本の特集はツボになる。文学や詩集、アート、哲学、絵本、食といったテーマから、定番を少しズラした、隠れた傑作ばかりを集めており、カタログ感覚でつきあえる。書影と惹句とレイアウトが絶妙で、短めで食い足りない紹介文は、読者が手にとって確かめるべし、と言っているかのよう。

 例えば、ガルシア=マルケスなら『百年の孤独』と思いきや、『エレンディラ』が紹介される。いずれも神話的な語り口で紡がれるマジック・リアリズムに満ちた作品だが、「ガルシア=マルケス入門として」最適なのかも(短篇集だし)。

 また、須賀敦子『遠い朝の本たち』については、「ここに挙がっている本を一冊も読んだことがなくても、またこの先も読む見込みもなくても、本書を読んだ記憶は長く残るでしょう」という魅力的な誘い方をしている。本(の中身)の記憶ではなく、その本を読んだときの、自分との結びつきの思い出を語りかけてくる。

 同じ"オススメする側"としても参考になる殺し文句が随所にあり、思わず使ってみたくなる。ド定番のカフカ『変身』を、「ザムザを情けない青年として訳す池内訳を読むと、こんなに笑えて無惨な話だったのかと目からウロコ」と言われると、ぜひ白水uブックスの池内紀訳で読みたくなる。

 ずっと積読リストに入りっぱなしのユルスナール『ハドリアヌス帝の回想』は、「死の床にある『わたし』の回想から無彩色の題名からは想像もできない内面のプリズム」と評する。どんな色彩を感じられるか、いっそう楽しみになる。

 他にも、三島由紀夫は『反貞女大学』、澁澤龍彦の『ホラー・ドラコニア 少女小説集成』といった"狙った"選書から、レム『ソラリス』やソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』などの直球まで、「わたしの趣味」に沿ったバラエティ豊かなラインナップも面白い。

 未知なる世界へのパスポートとして、人生の相談役として、良書ばかりがセレクトされた一冊。

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ボルヘスのお気に入り『新編バベルの図書館 第3巻』

バベルの図書館第3巻 人生は短く、読む本は多い。読みたい本を読み尽くす前に、わたしの命が尽きる。死ぬときの後悔の一つは、「あれ読みたかった……」だろう。せめては予め面白いと分かってる未読に絞りたい。だが、読んでないのに面白いとはこれいかに?

 そこで読み巧者のオススメですぜ。ボルヘス師匠という先達を得て、どれだけ面白い作品に出会えてきたか。ボルヘス自身の指がつむいだ作品のみならず、師の指す先を見るにつけ、宝の山に咽びながら『バベルの図書館』を読み干す。アク・クセ・ドクはあるけれど、極上のライブラリーが集まっている。未知の作家に出会えるだけでなく、既知の作家の知らない傑作が読めるのも嬉しい。

 収獲は、ダンセイニ卿の『不幸交換商会』。「互いの不幸を交換し合う」という、いかにもありそうな奇譚だ。入店料を払うと、客は誰かと不幸や不運を交換する権利を得ることができるようになる。「分別」と決別した男は、幸福そうなしかし愚かしい表情で店を出て行くが、もう片方の男は、困惑した、思い悩んだ様子で立ち去ってゆく。客たちはそれぞれ、逆の不幸を交換するシステムになっているらしい。

かつてひとりの男が、死を交換しようとここへ駆けこんできたことがあった。彼は誤って毒薬を飲んでしまい、あと十二時間しか生きられないというのだ。この邪悪な老人は、その願いをかなえてやることができた。客がひとり、商品を交換しようと待っていたのだ。

「しかし、その男は死と引き換えに、何を得たのかね?」と私はたずねた。
「生ですとも」と陰気な老人は、ひそやかにほくそ笑んで答えた。
「それはさぞかし恐ろしい生だったにちがいない」と私はいった。
「そりゃ、わしの知ったこっちゃない」
 これだけでもじゅうぶん魅力的な設定なのに、これはマクラにすぎないのだ。この短篇は簡潔に完結してしまっているが、シリーズにしたくなる物語の磁力を放っている。

 アーサー・マッケンが描く、悪の勝利と人間の堕落は面白い(といったら不謹慎か)。ありえない幻想物語なのに、そこで繰り広げられる選択と行動は、極めて現実的だ。大嘘の物語に読者を突っ込ませる代わりに、その片足はリアルに残させる。最後の頁を閉じて「お話でよかった」と胸をなでおろしながら、極端な現実をシミュレートできる。

 本作に収録されている作品が、『三人の詐欺師』という変わったタイトルの短篇集から採られていることが象徴的だ。中世末期、『三人の詐欺師について』という危険な書物が取り沙汰されていた。人類は、モーゼ、キリスト、マホメットという悪名高い三人のいかさま師によって誘惑されてきたという主題だ。宗教会議で幾度も弾劾されたこの本、ぜひ読んでみたいが現存しないらしい。だが、マッケンの短篇集を経て、本書で読むことができる。確かに、ポーやラヴクラフトばりの神の不在を味わえる。光文社古典新訳『白魔』に俄然興味湧いてきた。

 他にも、哲学的ゾンビ物語からキリストの受難にスピンアウトするのが面白い『ペルシアの王』(ヒントン)や、[このカドカワが凄い]で強力にオススメされた、ファンタスティック・ゴシックの傑作『ヴァテック』(ベックフォード)など、嬉しい発見が沢山ある。

 ありえない現実にありがちな欲望が捩じ込まれており、その強烈さが時代を乗り越えている。100年前の幻想譚なのに、現代でも通じる(というか、舞台と小道具をそろえれば花開く)。幻想ネタや世界観の宝庫で、シナリオ屋さんにはご馳走だろう。

 読み達者が選んだ、幻想怪奇の文学全集を堪能あれ。

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猫専門書店「にゃんこ堂」いってきた

 珍しい猫本専門店「にゃんこ堂」。とはいっても、神保町の姉川書店という普通の本屋の中に猫本棚がある構成で、いわば書店内書店なのだ。客足が途切れず、猫好きホイホイとなっている。

 エッセイ・コミック・写真集、絵本・小説・専門書と、ひたすら猫・猫・猫づくしで、猫好きにはたまらない棚だろう。大型書店で限定期間で、猫本を揃えることはあっても、ここのように常設しているのは珍しい。猫本専門ネットショップ「書肆 我輩堂」にも悶絶させられるが、ここのように実際に手に取れるのも嬉しい。

 たぶん、今あなたの頭に浮かんだ猫本はだいたいある。『100万回生きたねこ』『猫語の教科書』『綿の国星』あたりがピンとくるが、ありったけを貼っておくので、あなたのイチオシ猫本があるかどうか、探して愉しんでくださいませ。

『ネコを撮る』という発想がイイ
01

『ノラや』『綿の国星』は鉄板ですな
02

『ねこのオーランドー』も定番と聞く
03

猫と写真と随筆は相性がイイ
04

05

『100万回生きたねこ』『空飛び猫』も鉄板
06

キャパを捩った『ちょっとネコぼけ』、でもほのぼの
07

「猫は天からの贈り物」……確かに!
08

09

10

猫の目の表紙カバー、実は猫耳が隠されているぞ
11

『世界は猫のもの』……いいキャッチだ
12

13

町田康って猫エッセイ書いてたんだ
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15

にゃんこ堂のしおりは、なくなり次第終了とのこと
16

『猫の教科書』は、ここで買った
17

 プラス、「あれ?」「おや?」というような、ちょっと変化球の、でもちゃんと猫ねこした奴が並んでいる。あ、でも定番中の定番、『吾輩は猫である』がなかったような……私的オススメ猫本が無かったのが残念。「この猫本がイイ」として三冊挙げるなら、これ。

ちびねこ絵本ねこめーわく優駿猫の地球儀

 『ちびねこ』(大島弓子): 見る癒やし。名作『綿の国星』の番外編。もとは幼児向け絵本雑誌『おひさま』に連載されていた中から、作者が選りすぐった珠玉の構成となっている。ちびねこが小サイズになっているように見えるのは気のせい?

 『ねこめ~わく』(竹本泉): 猫の世界に召喚される女子高生の話。猫がかわいい、女の子がかわいい、かわいいは正義まんまだが、相変わらず竹本泉先生なので、何も起きず、何も変わらず、とぼけてて、安眠できる変な話を愉しめる。

 『猫の地球儀』(秋山瑞人): 可愛い表紙に重いテーマ(通して読むと表紙詐欺)。説明抜きで話が始まり、大加速し、ユニークかつ興味深い世界設定や実存ネタ、萌えキャラに翻弄されるうちに一気に読み終える。擬人化というより擬猫化されたSF。

 この三冊は見当たらなかったので、ぜひ揃えてくださいませ>にゃんこ堂様

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