「悪」は見る人に拠る『悪の哲学』
時代と場所で、悪が変化する様相が透け見える。
ちくま哲学の森アンソロジーで、「悪」をテーマにした論文、随想、小説が集められている。先人の思索の跡を訪ね、遺された一つ一つから自分の「哲学」を紡ぎ出す、温故知新ど真ん中のシリーズ。『生きる技術』に次いで手を出す。
選者の妙が素晴らしく、「悪とは何か」が考えぬかれている。人の悪意のえげつなさを狙った小説から、周辺を徘徊しつつ悪人との距離感を推し量るようなエッセイまで、様々な「悪」を試すことができる。
例えば、簡潔な文で残酷な運命を描くフラナリー・オコナーからは、『善良な田舎者』が入っている(傑作『善人はなかなかいない』は尺が長すぎるから外れたのだろう)。「この物語は読者にショックを与えるが、その理由の一つはこの物語が作者にショックを与えるからだ」というメッセージが冒頭に警告のように与えられるが、望み通り(?)鮮烈な衝撃を受けた。厭な悪夢のように、折に触れて思い出してしまうだろう。
ラス・カサス『エスパニョーラ島について』にダメージを喰らう。15世紀の中南米における、キリスト教徒の残虐行為を告発した『インディアスの破壊についての簡潔な報告』からの一章になる。虐殺、強奪、暴行の数々を、感情を排した筆致で描く。老若男女を一撃で殺せるか賭をする。身重の女の腹を割く。母親から奪った乳飲み子の足をつかんで岩に頭を叩きつける。救世主と使徒を崇めるためといって十三人ずつ吊るし(ぎりぎり足が届く)、生きたまま焼殺した。これだけの非道行為に、「悪」という形容が交じらないところが恐ろしい。
悪という共通的な観念について集めたにもかかわらず、矛盾した主張が飛び交っているのが興味深い。聖人アウグスティヌスが「してはならぬことをして喜び、それが愉しいのは、してはならないから」と述べる一方で、独の大量殺人犯ペーター・キュルテンは、「単に悪への喜びから犯罪を犯すものはいない。つねに何かがこれに加わる。その何かは、当人の咎ではない」と告白する。悪とはバラエティに富むのだ。
一見、「悪」と見まごうテーマもある。植民地主義がでっちあげたアルジェリア民族の特徴を指弾するフランツ・ファノンのアフリカ版「オリエンタリズム」や、「貨幣は目に見える神であるであり、貨幣は人類の外在化された能力である」というカール・マルクスの小論文は、読み手が悪のありかを探さなければならない。
読者自身が「悪の哲学」で悩むのも愉しい。つまり、「わたしならこれを入れる」を頭に、比較しながら読むのだ。モーム『困ったときの友』があるなら、安部公房『良識派』を入れたい。ニーチェやアウグスティヌスで「悪」を探すなら、エーリッヒ・フロムやシュタイナーの「悪について」が欲しい。武田泰淳を出すなら、筒井康隆を入れたくなる。
このテーマだけで一連のシリーズができそうだ。性的な、人類としての、史上○○の、現代の、想像上のetc...様々な「悪」を発見する。何をもって「悪」にするかは、見る人によるのだ。
バラエティー豊かな「悪」を発見する一冊。

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