人生は芸術を模倣する『新訳 チェーホフ短篇集』
「これはいい、胸にクる。だが、若い人には分からんだろう」、そう言えるくらい齢とってしまったことに愕然とする。
人生は変わる。人も変わる。なのに、記憶だけは変わらずに追いかけてくる。ふいに思い出した若かりし日々の言動に、夜、独り身悶えしたり、もう何度目かの後悔を繰り返す。懐かしく痛々しくて情けない、そういう想起のよすがとして、チェホフは、恐いくらいに効いてくる。
かつてのラノベがそうだった。押しかけ女房ヒロインや、ハーレム展開なんてありえない。だけど、そんなシチュに気持ちを重ねて共鳴する。好きだと言えずに初恋は、「すき」という言葉の戯れだけだった。「萌え」はバーチャル、リアルは「燃え」だった。そんな残滓や焼けぼっくいに、チェホフは、容易に点火する。
「こんな女いるよね?」「いるいる!」と大きな声で言えなくなってしまったのが、『可愛い女』(『かわいい』と改題されてた)。なぜ声を潜めるのかというと→「彼女はいつだって誰かのことが好きで、好きな人なしではいられなかったのだ」。そして、いわゆる「あなたの色に染めてください」という女なのだ。惚れっぽくて、一途で、相手の受け売りばかりで、およそ「自分」というものがない。
これを、愚かしいとか滑稽だと可笑しがった瞬間、某所から猛攻撃を喰らうだろう(発表当初も女性からの反発があったらしい)。一方で、これこそ理想の女性だ、素晴らしいと賞賛したのがトルストイ。自分を捧げて人を愛する行為は神聖で、神に近づけるとまで言ったそうな。
もちろん、(昔も今も)彼女のような女は少ない。だが、振り返ってみると、確かにいた。そして、この『可愛い女』に自分がどう感じ、何をしたかを思い返すと、顔から火が出るという表現が適切だ。そういう、過去を掘り起こされるような普遍性を持っている。
最も素晴らしいのは、『いたずら』という掌編。ほんの数頁の小話で、人生の酸いも甘いも味わわせてくれる。純白の雪に包まれた丘で、「ぼく」とナージャがそり遊びをするひとときと、その後日談。
そりが奈落へ滑り落ち、トップスピードの突風の中で、「ぼく」はナージャにささやきかける。「す・き・だ・よ、ナージャ」。その告白は風なのか、空耳なのか、勘違いと思い込みで舞い上がる娘が可愛らしくいじらしい。『いたずら』という題が示すとおり、これは「ぼく」の戯れなのか、それとも漏れ出た本心か。
面白いことに、ナージャの未来は「選べる」。そり遊びからかなりの時が経ち、「ぼく」はナージャにあることを、する/しない。それぞれは、二つの未来として並べられる(そう、ギャルゲのエンディングのように)。そしてもっと味わい深いことに、どちらも「あったかもしれない」未来で、どちらを選んでも甘くて苦い。読み手がおっさんなら、どちらも「あったかもしれない」過去のはず。悶えろ、萌えろ。
ラノベを読むのは「ありえない過去」を追想するためで、チェホフを読むのは「あったかもしれない過去」を追創するため。チェホフを読むと、人生は確かに芸術を模倣していることが分かる。

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