40超えたら突き刺さる『タタール人の砂漠』
ある種の読書がシミュレーションなら、これは人生の、それも自分の人生の「手遅れ感」の予行演習になる。若い人こそ読んで欲しいが、分からないかも。歳経るごとにダメージ増、over 40 からスゴ本。
この感覚は、カフカの『掟の門』。かけがえのない人生が過ぎ去って、貴重な時が自分の手からこぼれ去った、あの「取り返しのつかない」感覚に呑み込まれる。
大事なことは、これから始まる。だからずっと待っていた。ここに来たのは間違いだから、本気になれば、出て行ける。けれど少し様子を見ていた。習慣のもたらす麻痺が、責任感の強さという虚栄が、自分を飼いならし、日常に囚われ、もう離れることができない―――気づいたらもう、人生の終わり。
カフカの再来と称されたブッツァーティは、『神を見た犬』でも示すとおり、寓意性の高い幻想譚を描く。物語の面白さにうっかり釣り込まれると、極めて当たり前の、普遍とも言えるメッセージを突付けられる。普段なら目を逸らしていた事実と対峙させられ、気づいたら逃げられない。ほとんど恐怖に近い感情を覚えながら、ストーリーとともに苦い読後感をいつまでも引きずることになる。
最上のものを、みすみす逃してしまった。目の前を通り過ぎてゆく幸せを、通り過ぎてゆくがままに放置してしまった自分の愚かしさを、取り返しの付かなさを、ゆっくり、じっくり噛みしめる。わずかな残りの人生ぜんぶを使って、後悔しながら振り返る。
そして、なにか価値があることが起っているのに、自分は一切関与できない、それも自分から動こうとはしないために。そういう焦りのようなむなしさに苛まれる。そうやって、じっと待ち続けるあいだにも、時は加速度的に、容赦なく流れ去る。
阿久悠の言葉に、こういうのがある。読中、何度もリフレインしていた。
夢は砕けて夢と知り
愛は破れて愛と知り
時は流れて時と知り
友は別れて友と知り
だが、遅すぎた。何も始まっていなかった人生であることを、人生の最後になって知るということは、なんと残酷なことか。これが、自分の人生でなくてよかった。確かに日々は短調な積み重なりにすぎず、むなしく時が流れてゆくのみ。
期待と、言いしれぬ不安と、焦燥の中で宙吊りになった苦しみから解き放たれるような“なにか”を待つのが日常である限り、いつまで経っても、“人生”は始まらない。日々の積分が人生であることに気づかない人が多すぎる(もちろん、わたしも含めてね)。時とは、命を分割したものなのだ。
これが物語でよかった、わたしの人生でなくて、本当によかった。
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