大事なのに、学校で教わらないこと『生きる技術』
『生きる技術』とは、社会で生き延びる技術であり、世を渡るコツである。
くだらないところで、つまらない意地をはって、身をほろぼしてしまわないように、予め読んでおくといい。そういう意味で「タメになる」本だから、息子の朝読にオススメしよう。
古今亭志ん生や司馬遷、マーク・トウェインからモンテーニュまで、「とっておき」の文章を集めたアンソロジーだが、一本筋が通っている。それは、どの人生にも効くところ。つまり、立場や年代に応じて、読み替えができるんだ。
たとえば、斎藤隆介の「大寅道具ばなし」。大工に惚れ込んだ職人衆の聞き語りなのだが、この一文(一聞?)に惹かれる。「買えるから買おうじゃ駄目だ、買えなくても買っちまうんだ」と一念発起して、少ない稼ぎから捻出して、道具の良い奴良い奴を集めていくのだ。
仕事の腕は道具で決まる。道具さえ良ければいい、というのではなく、出来の上限は道具が設けるというのが真意らしい。写真撮影を仕事にしている人から、同じ話を聞いたことがある。プロとは、あらゆる要望に応える写真を撮ることができる人であり、そのための機材をそろえるのが仕事なのだという。
あるいは、萩原朔太郎の「僕の孤独癖について」なんて、中二病に良いクスリだ。ニヒリズムといえば聞こえはいいが、世を斜に眺める自己愛と区別がつかぬ。自らの孤独癖を慰めるためにショーペンハウエルを持ち出す。「天才とは、孤独であるように宿命づけられているのであって、かつそれ故にこそ、彼らが人間中での貴族であり、最高な種類に属する」。
だが、孤独だからといって、天才である証拠にもならないし、ましてや他人より優れているつもりで孤高を気取るなら馬鹿者だろう。これは、若い頃のわたしにいってやりたい。自意識過剰のコンプレックスに気づくためには、その塊をつきつけてやればよい。これはその試金石になる。
さらに、嬉しいことに、ショーペンハウエルの「みずから考えること」もある。ほらあれだ、「読書とは、自分の頭脳で考える代わりに、他人の頭脳で考えること」だから、本ばかり読んでいると、自分で考えられなくなるぞというやつ。これは読書の通過儀礼の一つだろう。わたしの場合は、「本ばかり読んでいるとバカになる」に書いた。
これは、「学びて思わざれば、則ち罔し、 思いて学ばざれば、則ち殆し」を知っていれば、ショーペンハウエルが後段の独善に陥っているのが分かる。彼は巨人の肩に乗ったことがないか、乗る必要を感じたことがないに違いない。端的に言えば、彼は数学や物理学を学んだことがないのだろう。思想とは、人一生がひねり出せる本か脚注にすぎず、学問の蓄積は「歴史」として扱われる知だと仮定するならば、彼の主張は成り立つから。
G.マルケス『百年の孤独』に出てくる、独力で二次方程式の解法を編み出した男のエピソードを思い出す。一切の学問を受けず、自分だけで、一生を費やし、二次方程式の解法をつくりあげたのだ。それはそれで凄いことだろうが、才能の無駄遣い甚だしい。どのくらい独善に陥っているかのバロメーターとしても、本書が使える。
よく生きるとは、よく死ぬこと。バートランド・ラッセル「いかに老いるべきか」には、よく死ぬ方法が書いてある。死こそ普遍なのだから、あらゆる読者が対象になる。彼によれば、死の恐怖を征服するもっともよい方法は、自分の関心をだんだん広汎かつ非個人的にしていくのが肝心だという。自我の壁を少しずつ縮小し、自分の生命が次第に宇宙の生命に没入するようにすることを目指せという。
「自分をなくすこと=死」として、その練習をせよという。これを河を下る喩えで述べる。最初は小さく、次第に激しく、だんだん大きく、最後に海へ没入して、苦痛も無く個人的存在を失う―――これが、死なんだそうな。病気や老衰で死に自覚的になったとき、あらためて思い出そう。
ちくま「哲学の森」シリーズは、子どものためにと入手したが、子どもになんてもったいない。まずはわたしが全読しよう。
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コメント
>子どもになんてもったいない
同感です! 単行本が出た時に読んだのですが、いまになって読み直すと、セレクションのすばらしさに愕然とします。
ちなみに私のイチオシは「驚くこころ」。読み直してみたいのは「悪の哲学」ですね。
投稿: hachiro86 | 2013.05.02 22:37
>>hachiro86さん
オススメありがとうございます。『生きる技術』『悪の哲学』は松丸本舗で一目惚れして入手済み。『驚くこころ』も含め、ゆっくり全読します。
投稿: Dain | 2013.05.03 09:03