『死の棘』はスゴ本
読んだら後悔する劇薬小説。特に独身男性は読んではいけない。既婚男は、相手を見る眼が変わる。夫婦の嫌らしいところ、生々しいところ、エグいところ、おぞましい所を、徹底的に暴き立て、拡大し、突付けてくるから。
そりゃ、夫の不倫に発狂する妻の話だから、特殊かもしれぬ。ほとんどの夫婦は、これほど罵り合い、争い合い、狂い合うこともなかろう。だが、この結婚の極北は、あらゆる夫婦の最も醜悪な部分を追体験させてくれる。多かれ少なかれ、どの夫婦も、この夫婦を孕んでいる。この狂気は、覆われていたり、滲み出てたり、ひり出される。温度差ともかく、既婚者は、体感レベルでこの恐怖を感じるべし。
夫である「私」は、妻の錯乱にとりみだし、便乗して自分もおかしくなってゆく。追い詰められ、無条件降伏し、それでも責め続けられ、嫌悪でからだが凍り付き、自己が粉微塵にされる。家を飛び出し、大声で叫び、己の首を絞めようとする。ただしこの夫、本気で死ぬ気はない。
死ぬ死ぬ詐欺というなかれ。装われた狂気は本気に取って代わる。リアリズムが仇となる。時間が跳んだり、辻褄が合わなくなったりして「私」の記述が歪んでくる。妻の発作を待ち構え、一緒に堕ちようとする一種の共依存の関係に陥る。ここがサイコホラーとして怖い。夫婦喧嘩がヒートアップして、「もうどうなってもいいや」と捨て鉢な気分に陥ったことがある人は、拡大鏡を見ている気分になるだろう。
そこには一切の救いも、癒やしもない。何らかの着地点を求めて読むなら、毒を飲むような読書になるだろう。ただし、学べるというか、予め諦めておくべき「女の追いつめの技術」は、結婚のアマチュア男子にきっと役立つ。「質問に質問を重ねる技法」「自己都合の記憶改変」「断定を単純に言いきって、相手を曖昧な立ち場に追い込むロジック」「二択への落とし込み」「思い出し怒り(感情による想起)」は、全男性の全ての譲歩を引き出すだけでなく、自ら洗脳されたほうがいいという気にさせる。
一方で、「昔の女語り」「情事の相手との日記(今ならメールか)を一緒に読む」「極論から極論への展開」「中途半端な暴力」など、夫婦の諍い事に関するあらゆる禁じ手がさらけ出されている。べからず集として読むのもありだ。
そして、すさまじい狂態にもかかわらず、むしろこの狂乱こそが、妻の美しさを引き出す。結婚して十年、二人の子がいる疲れた女が、艶美で、崇高なものに変化(へんげ)する。軽く汗ばんだ鎖骨や、つり上がってきらめいている眼、上気してつやを帯びた貌は、鬼のように夜叉のようにも魅力的だ。起きているときは嫌悪と侮蔑しか向けない妻が、つかの間の眠りにつく姿を見て、はっきりと愛着を感じる夫、真性のMなのかもしれぬ。
死ぬか別れるか、この関係を終わらせることもできず、不倫相手にけりをつけることもできない「私」に、ほとんどの読者はどん引きするだろう。あるいは放置され、どんどん荒れてゆく子らを不憫に思うだろう。
だが、作者が羞恥の果てに掴み出した夫婦の「愛」は、驚くほどリアルだ。皮膚レベルで共有している夫婦だからこそ、相手が最も忌避したい部分を抉ることができる。殺したいほど愛しあう(でも依存先だから死んでほしくない)壮絶な夫婦の姿が、ここにある。愛とはすなわち執着なのだ。
結婚を見直すに傑作、未婚にとっては禁止のスゴ本。
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コメント
言わずもがなですが
島尾ミホ『海辺の生と死』もスゴ本!
あの宮崎駿がずっとアニメ化したいと思いながら、彼自身の「思想的な困難」から出来ずにいるそうです。
終わり近く、戦後の東京での
「あの島尾隊長様は、何処に行ってしまわれたのだろう……」
というミホの嘆息を、「いや、あれは離島の後進性と戦争という異常な状況が生じさせた誤った幻影だったんです」と完全否定できる人が、どれほどいるんでしょう…。
あー、そういう意味では、『死の棘』の前日譚であるこれは、ドラマチックな恋愛結婚をした新婚さんが読んじゃいけないスゴ本でしょうかね?
投稿: SFファン | 2013.05.13 16:21
追記で少々補足というか訂正:
宮崎駿がアニメ化したいのは、敏雄の『出発は遂に訪れず』をベースに『海辺の生と死』を加えたもの、だそうです。
投稿: SFファン | 2013.05.13 16:27
>>SFファンさん
これは……!wwwすげぇや、アニメ観たいです。
(新婚さん禁止ですね)
投稿: Dain | 2013.05.15 00:16