抉られる読書『世界のスラム街探訪』
すさまじい貧困をつきつけられる。目を覆いたくなる写真集『SLUM 世界のスラム街探訪』。
NGOの営業用の写真とは異なり、アジアから中米、南米、中東、アフリカの7つのスラム街を3年かけて撮影したドキュメンタリーとなっている。スラム街は、富以外のあらゆるものを孕み、膨張し続けていることが分かる。
共通して写っているのは、子どもとゴミと臭いだ。年端もゆかぬ子どもが、ゴミの山(比喩ではなく、量的に山)を漁って、売れそうなもの、食べられそうなものを集める。もちろん画像で臭気は伝わらないが、強烈な臭いが支配していることは分かる。
多様なのは、彼・彼女らの呼び名だ。スラムの住民は、ムンバイ(インド)では「シティ・ビューティフルズ」と呼ぶ。街のゴミを片づけるからだという。パタヤス(フィリピン)ではスカベンジャー、グアテマラではインベーダーと呼ばれ、汚水に浸かり、ゴミを拾って暮らす。絶対に這い上がれない社会構造の中、1日14時間働いて5ドルに満たない生活。国の恥部と蔑まれ、夜な夜な警察がトラックで乗りつけ、地方に強制移住させられる。ゴミの山が崩壊し、バラックを押しつぶすこともある。
キャプションには、詭弁「貧しくても純粋な目の輝きが~」を弄さない。彼らにカメラを向けるのは危険だ。警告し、脅してくる人々が、盗み撮るように写っている。カメラに相対している人は、たいてい、侮蔑と、憎悪と、ときには殺意すら向けてくる。魅入られたように見入る。
我に返ると、血の味がしている。ずっと歯を食いしばっていたからだ。そして思い出す、これは『地を這う祈り』と同じ味だ。「稼ぎ」のため、故意に手足を切断する物乞いや、変色し腐臭を放つ死体を引きずり回し、埋葬の喜捨を求める死体乞食など、凄まじい現実に打ちのめされる。
シャッターを切る行為そのものが、人間の尊厳を踏みにじっているのではないか。撮り手は自問自答をくり返し、最初に戻るのだ、「伝えたい」という動機にね。「安全な場所でふんぞりかえて、ケチや論だけをでっちあげている人間にはなりたくない」という思いが、シャッターを切らせるのだという。頭が下がる。
言葉はない。ただ苛まれ、抉られ、全身が目となる。焚きつけられるような読書。
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