パラダイムシフトの情報史 『情報技術の人類史』
美は眺める者の眼中にあり、情報は受け手の脳内にある。
一筋の煙や電気インパルスに込められた「情報」を「意味」に転じるには、人の介在を必要とする。古代、近代、現代の情報と通信の技術を経巡ることで、人が「意味」をどうやって進化させてきたかが分かる。伝えたい内容・残したい本質である、意味を見える化したものこそが、情報なのだ。
アフリカのトーキング・ドラムに始まり、文字の発明、辞書製作、蒸気計算機や通信技術の開発、遺伝子解読や量子力学と情報理論の結合まで、「情報」を操る数多くのエピソードを縦横無尽に紹介する。膨大な量と深さに溺れそうになるが、「新たな情報技術に接したとき、人はどう変化したか」という軸で読むと、人間の思考の変質の歴史になる。これは、おもしろい。
たとえば電信は、「天気の概念」「時間の概念」を一変させた。電信のおかげで遠隔地の状況が分かるようになったからだ。人々は天気のことを、土地ごとの予測できぬ現象の寄せ集めではなく、広範囲に渡る有機的な現象として捉えるようになった。同様に、かつて地域ごとのものだった「時間」が、同時に標準的なものでもありえることが一般化した。わたしたちは変容後の世界にいるから気づかない。だが、迷信が現象になり、地球は事実上、大幅に縮小されたのだ。
あるいはDNAは、わたしたちが情報でできていることを強烈に意識させた。そして時を越えて情報を運搬しているという概念を植えつけた。もちろんわたしたちは、利己的な遺伝子の搬送ロボットではない(あれはドーキンスのレトリック)。視点をひっくり返し、遺伝子が自己複製の最大化のために働いていると見ると、生き物の行動に俄然筋が通ってくる。情報そのものである遺伝子という概念が、人間の認識を変えたのだ。
ネットのコモディティ化を電話に喩える人もいるが、思考の変容については、むしろ電信の方が似ている。人は残したがるもの。電信会社は、実行不能になるまでのしばらくのあいだ、あらゆるメッセージの記録を保守しようとしたそうな。2013年1月の時点で、Wayback Machine は5ペタバイト、850億のサイトを保存しているが、歴史は現在進行形でくり返している。
また、電信の登場で、人づてのネタを恣意的に編集している新聞という存在は、駆逐されると思われていたらしい。だが、速報と憶測、国際間と地域性で、電信と新聞は共生関係になったという。この辺りは、現在のネット・新聞の関係を暗示しているようで面白い。
「情報技術の人類史」と銘打っているが、今の自分に引き合わせて読んでも面白い。例えば、電信のおかげで、19世紀の後期、人は符号化という観念を手の内に入れた。他の記号の代用品としての記号、他の単語の代用品としての単語という観念が普及したのだ。
これは、20~21世紀のわたしにとっての「音楽CD」になる。音楽とはライブの一回性の限定的なものであり、たとえレコードやカセットがあっても、劣化した複製でしかなかった。音楽がCDになった段階で、音楽がデータである、という概念が一般化した。音楽が iPod に入り、Youtube になり、初音ミクが歌うのも、その延長上にある。たしかに、技術は概念を変えるのだ。
パラダイムシフトの情報史として考えると、『数量化革命』が好対照を成す。一言でいうなら、「現実の見える化」だ。定性的に事物をとらえる旧来モデルに代わり、現実世界を定量的に把握する「数量化」が一般的な思考様式となった歴史を辿る。視覚化・数量化のパラダイムシフトを、暦、機械時計、地図製作、記数法、絵画の遠近法、楽譜、複式簿記を例に掲げ、「現実」を見える尺度を作る試行錯誤や発明とフィードバックを描いている。数量化革命により、現実とは数量的に理解するだけでなく、コントロールできる存在に変容させ、近代科学の誕生したのだというのだ。『情報技術の人類史』と重なるテーマを併せると、意識の変容がより立体的に見える。
たとえば、「時間」についてのパラダイムシフトは、両者の切り口が異なっていて面白い。「一日」という見える単位は、季節や地域によって伸び縮みするアコーディオンのような存在だった。これが暦法により均質化し、機械化時計により等分される。体感的だった時間が、区切って記録できるものに変容する。そして、一日や一時間が他の一日や一時間と同じ長さに再定義されることにより、時間に価値がつけられるようになる。
その結果、利子や賃金が「時間」で分けるようになったというのだ。時間を計り、分割し、再定義するのが『数量化革命』である一方で、『情報技術の人類史』は、時刻と座標で空間を再認識するアプローチになる。
そして、『数量化革命』で測れ/計れ/図れ/量れなかったもの、「情報」を、『情報技術の人類史』ではクロード・シャノンの情報理論を追いかける形で捕捉する。シャノンは「情報」から意味を消し去ろうとし、「メッセージの"意味"は、一般に重要性を持たない」と提唱する。情報を、特定の象徴記号を伝送する体系とみなすのだ。意味内容から切り離された「情報」は、電線パルスだけでなく、光や空気の振動、穿孔テープの穴に存在する。意味を付与する役目である人を尻目に、情報は量産され、コピーされ、拡散される。
音楽が、文章が、画像が情報にしたことで、インターネットは、確かに人の意識を変えている。少なくともわたしにとって、音楽を聴く単位は23分からランダムアクセスに、文章を読む単位は一冊/一章/一節から「一読」になった。画像に至っては「一リブログ」だ。コマ切れのコンテンツを意味化していく過程で、自分がどう変わっていくか……本書ではこう示唆するのみだが、わたしは結構、楽しみにしている。
われわれは自分たちの世界についての"情報"をどんどん増やしているようにふるまうが、その世界はますます意味を奪われていくように見えるのだ。悲観論者なら過去を振り返りつつ、それを魂なきインターネットの最悪の先触れと呼ぶかもしれない。「われわれは、今のやりかたで『通信』すればするほど、"地獄のごとき"世界を作りだしている」デュピュイは書いた
テクノロジーは斜め上を行くだろうが、対する人の“変わりかた”は、本書のどこかに書いてある。インターネットが「電信」くらい人を変えるのなら、「電信」を超える「電話」くらいのインパクトは、何によってもたらされるのか。今から楽しみだ。本書の言葉を借りるなら、少なくとも「最初は、子どもの玩具のように」思われるものであるはずだ。
過去を振り返ることで、未来を覗き込むために。
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