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結婚あるある『結婚のアマチュア』 同棲あるある『喰う寝るふたり 住むふたり』

結婚のアマチュア 最初に結論。何年やっても、誰とやっても、結婚のアマチュアのまま。

 充足することはなく、ただ慣れるだけでしかない。仮にプロフェッショナルがいるとするなれば、彼・彼女は結婚サギと呼ぶべき。結婚とはゴールであるという欺瞞は、実は真実かもしれないと信じさせてくれる意味において。

 これは、結婚生活のシミュレーション。「夫サイド」「妻サイド」の両面から見た結婚生活。どちらの言い分も、正しく、悩ましい。まるで自分を見ているようで、身に詰まされる。嫁姑の確執、浮気、子どもの教育、近所・近親づきあい。平凡な結婚に降りかかる平凡な問題は、息苦しく苛々してくる。時と場は違えども、本質は同じなのか。

 夫の視点がほろ苦い。エネルギッシュで奔放ところに惚れて結婚したのに、情緒不安定で疲れるばかりだと愚痴る。同じ性格の表と裏なのに。激しい喧嘩をする度に、「なぜ、あんな女を結婚相手に選んでしまったのだろう。なぜ、自分の手に負えないような女に目が向いてしまったのだろう」と苦悩する。

 妻の視点がほろ苦い。落ち着いたところが好ましいと思って結婚した夫は、怠惰で、引きこもりなだけ。「ちょっと喧嘩したのが何だっていうの?それは私たちの結婚生活が活気にあふれていたという証拠じゃない?」という主張は、彼女の本心だろう。喧嘩をしたって、謝れば仲直りできるのだから。

 どちらも(その立場において)正論で、愚かだ。夫は、自分の内省そのものが矛盾していることに気付いていない。「自分の手に負える女」なんて存在しないのに。妻は、謝っただけで仲直りできると思っている。「ごめん」と言えば終わったことにしている。相手がそれを受け入れてはじめて修復できるはずなのに。どちらもk、人間関係は、双方向であることを知らないのか、忘れてしまったのか。この辺はイジメと似ている。夫婦関係とは、イジメ関係なのだろうか。

喰う寝るふたり住むふたり 同じ結婚生活を、男女のそれぞれの面から見たのが『結婚のアマチュア』なら、同じ同棲生活を、男女のそれぞれの面から見たのが『喰う寝るふたり 住むふたり』になる。これは、交際10年、同棲8年目の、恋人以上、夫婦未満のアラサーカップルの話。

 そんな設定は多々あるが、『喰う寝る』がユニークなのは、同じイベント/インシデント/トラブルを、最初は彼氏目線、次は彼女目線で交互に描いているところ。「なぜ、そんな態度を取ったのか」とか、「そのセリフの裏側の意味は?」といった伏線が回収される仕掛けになっている。

 ひとうの言動に、彼・彼女で正反対に捉えてしまうおかしさと、誤解が引き起こす感情の“ゆれ”が、笑いと涙を誘う。芥川『藪の中』の、ほんわか版やね。自分がしゃべっていること、していることを、もう一つメタな視線で眺められるなら、しなくてもいい喧嘩や、怒らずに済んだことがあっただろう。相手を大事に想う気持ちがわき上がってくる、あたたかい一冊。

 スゴ本オフ「結婚」の予習として結婚本を探しているが、読めば学べる。踏まなくていい地雷、仕掛けなくていい夜襲、回避可能な決戦は、傷を負った後に分かるもの。実践の前にシミュレートしてほしい。

 スゴ本オフは、好きな本を持ち寄って、まったり熱く語り合うオフ会なり。次回は「結婚」がテーマ。現在、招待制になっているので、参加したい方は、facebook「スゴ本オフ」からどうぞ。

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結婚のスゴ本

 今の amazon が逆立ちしても勝てないものがある。例えば「結婚」だ。

 試しに「結婚」で検索しよう。(あなたの予想通り)ハウツーやエッセイになる。タイトルや解説のどこかに「結婚」とある本だ。結婚「するため」の情報やトレンドを得るにはいいが、 amazon に「結婚」と打ち込む人は、もっと切実な問いを持っている。それはこれだ。

 「この結婚で、いいのか?」

 「わたしは結婚できるのか?」「結婚しないとどうなるのか?」でもいい。結局のところ、結婚したほうがいいのか、そうでないのか。今の結婚を続けるほうがいいのか、やめたほうがいいのか―――もちろん質問者の性別、年齢、立場、健康状態、将来展望、家族、地縁、相方への感情、そして自分自身の気持ちにより、人それぞれ。だから、 amazonは、こうした質問に沿ったリストを出せない。

 もちろん、そんな気持ちに寄り添うことで印税を稼ぐ本もある。あるいは、amazon が履歴からプロファイルして、そうしたサプリ本をお勧めしてもいい。だが、サプリ的な共通解が合う場合なんて、ほとんどない。文化と時代と国境を越えた、普遍的な制度なのに、取り組むのは、自分以外にありえない。そのために考える手立てだとか、メリット・デメリットの具体的な影響を学びたい。

 そんなとき、先例と想像が役立つ。いわば、過去事例とシミュレーション。ある人生に伴侶が与えた影響だとか、幸せな/そうでない結婚物語を自分になぞらえてみる。冒頭の問いに直接答えてはいないが、自分の身で考える上で役立つ本。「結婚」のケの字も入っていないため、検索で探し当てることはできない。

 これは、誰かに教えてもらうしかない。質問者の状況や感情に応じて、自分の経験と学びを本に託すんだ。自身の結婚の経験を語ってもらうのではない。誰でもしゃべり上手というわけではなし。本をダシに、結婚の価値観を伝えるんだ。重軽は受け手のほうで判断すればいい。本を探すのではなく、人を探すことで、「その一冊」に近づける。

 結婚を、二つの面から見てみよう。「結婚はすばらしい」というポジティブ面と、「結婚は人生の墓場」というダークサイドだ。これは、どちらも正しい。バーナード・ショーの暗黒格言がもてはやされるのは、そっちの方が面白いからであって、必ずしも真実だからというわけではない。“真実の一つ”なのだ。

 まずポジティブ面から。結婚が人生に与える良い影響、結婚して良かったこと、結婚という「ゴール」があったから生きのびられたこと。「今度の戦争が終わったら、あの娘と結婚するんだ」が死亡フラグたりうるのは、現況を(幸せなほうへ)突破するブレークスルーだから。

 小池昌代が編んだ『おめでとう』をオススメしたい。結婚に限らず、卒業、入学、出産、成長、そして別れをテーマに選ばれた詩集だ。読み手を祝福し、寿ぐ花束のような作品ばかり。結婚はバリエーションがあり、辻征夫『婚約』の幸せいっぱい胸いっぱいがある一方、高橋順子『あなたなんかと』のような狂気を孕んだ幸福も読める。定番の吉野弘『祝婚歌』は、何度読んでも新鮮な気づきがある。ここには、人生を二人で生き抜いていくコツが、いくつも畳みかけるように記されている。

  正しいことを言うときは

  少しひかえめにするほうがいい

  正しいことを言うときは

  相手を傷つけやすいものだと

  気付いているほうがいい

 ポジティブ面なら、トルストイ『アンナ・カレーニナ』を推したい。人生を滅ぼした女の悲劇なのに、結婚のプラスになるのか?そのプロセスは「アンナ・カレーニナ」読むと結婚が捗るぞに書いたが、ここでは裏面をご紹介。これは、アンナと交錯するもう一人の主人公、リヨーヴィンの物語が隠されている。一人の男が、どうやって「最高の結婚」まで至るか、その内面を精密に描くとエンタメになる。

 彼のプライドが七転八倒する様は、わたし自身のパロディを見ているようで、愉しくも身に詰まされる。男は、100年前から変わっておらず、100年後も変わらないだろうと思わされる。幸不幸に限らず、先達ならではの知恵(地雷?)が盛りだくさん。オスカー・ワイルドの箴言「女とは愛すべき存在であって、理解するためにあるものではない」を傍らに読みたい。

 次はネガティブ面から。結婚が引き起こした破滅。誤ったのは「結婚相手」なのか「結婚」そのものなのかは別として、結婚して悪かったこと。結婚を「ゴール」に喩えるのは間違いだ。「私にはスタートだったの、あなたにはゴールでも」は、結婚観の相違をズバリ言い当てた箴言といえよう。

 フィッシャー『愛はなぜ終わるのか』を読むと、ネガティブ面というよりも、結婚制度は最初から破綻していることが分かる。人の恋愛行動を、生物学、進化論、神経科学から斬り込んだ“愛の解剖学”だ。これを読むと、結婚は「死が二人を分かつまで」ではなく、四年間しか続かないのが“普通”であることが分かる。人は、四年で“飽きる”のだ。

 ただし、その反面教師もある。「愛がどのように終わるのか」の一般解を導き出そうとしているのが本書なら、反対に「愛の終わりをどうすれば避けられるのか」とも読める。熱狂的な恋愛感情が、アンフェタミンの一過性の作用なら、好きだと思ったときに結婚しないと、「なんでこの人を好きになったんだろう?」と醒めてしまう。結婚後の肝は「変化」、互いに影響を与え合うことで、変化していくのが夫婦。うろ覚えだが、tumblrで拾った至言を胸に読みたい。

 女は、男が自分のために変わってくれると思って結婚する。
 男は、女がいつまでも変わらないと思って結婚する。
 どちらも間違っていたとあとで気づき失望する。

 ネガティブ二つ目は、新井英樹『愛しのアイリーン』、結婚の毒本だ。結婚に純粋さを求める四十路男が、フィリピンの嫁を“買う”ことから始まるエロスとバイオレンス。「結婚とは即ち、金銭と欲望の交換である」主張がこれでもかと濃密に描かれており、一気に読むと中毒になるぞ。ずっと結ばれない二人が、ある出来事をきっかけに一線を(一戦を?)越えてしまうのだが、そこから先はフルスロットルで坂道を墜ちるように転がってゆく。アドレナリン全開で読むべし。

 田舎の閉塞感をブチ破る爽快さと、背を焼くような焦燥感と、欲望と金銭の果てのない背徳感を、抉るように貪るように描いている。露悪感がカタルシスにつながる、めずらしい読書となる(新井作品は常にそうなのだが)。結婚とは破滅だが、どこに救いを見いだすかは、読み手の自由だし責任でもある。

 いくらでもどこまでも出てきそうなので、紹介はここまで。続きはスゴ本オフで語り合おう。テーマは「結婚」、結婚を肯定的に、ポジティブに捉えている本と、結婚の暗黒面を強調している本とに色分けをする。これは、自分の結婚観と一致していなくても可。失敗した結婚を読んで、その轍を避けた場合なんてそうやね。「本ではこう主張しているが、自分は違うと思った。だからこそ反面教師となった」という紹介になるだろう。ポジティブ、ネガティブの片方だけでもOKだし、両方プレゼンしてもOK。

 だって矛盾しているもの。人という移ろい易い存在に一貫性を求めることが間違っている。一方で、柔軟なのも人の性。男と女という、まるで異なる存在が、それでも添えてしまうのは、日常の奇蹟としかいいようがない。

 スゴ本オフ「結婚」
 日時 5/25 11:00~18:00
 場所 渋谷
 申込 facebook「スゴ本オフ」からどうぞ

 結婚をポジティブに捉えた本か、ネガティブに捉えた本を持ってきて、結婚について語ります。未婚の方は地雷避け(または避雷針)に、既婚の方は新たな発見(または結婚あるある)のひとときを、どうぞ。

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抉られる読書『世界のスラム街探訪』

SLUM すさまじい貧困をつきつけられる。目を覆いたくなる写真集『SLUM 世界のスラム街探訪』。

 NGOの営業用の写真とは異なり、アジアから中米、南米、中東、アフリカの7つのスラム街を3年かけて撮影したドキュメンタリーとなっている。スラム街は、富以外のあらゆるものを孕み、膨張し続けていることが分かる。

 共通して写っているのは、子どもとゴミと臭いだ。年端もゆかぬ子どもが、ゴミの山(比喩ではなく、量的に山)を漁って、売れそうなもの、食べられそうなものを集める。もちろん画像で臭気は伝わらないが、強烈な臭いが支配していることは分かる。

 多様なのは、彼・彼女らの呼び名だ。スラムの住民は、ムンバイ(インド)では「シティ・ビューティフルズ」と呼ぶ。街のゴミを片づけるからだという。パタヤス(フィリピン)ではスカベンジャー、グアテマラではインベーダーと呼ばれ、汚水に浸かり、ゴミを拾って暮らす。絶対に這い上がれない社会構造の中、1日14時間働いて5ドルに満たない生活。国の恥部と蔑まれ、夜な夜な警察がトラックで乗りつけ、地方に強制移住させられる。ゴミの山が崩壊し、バラックを押しつぶすこともある。

 キャプションには、詭弁「貧しくても純粋な目の輝きが~」を弄さない。彼らにカメラを向けるのは危険だ。警告し、脅してくる人々が、盗み撮るように写っている。カメラに相対している人は、たいてい、侮蔑と、憎悪と、ときには殺意すら向けてくる。魅入られたように見入る。

地を這う祈り 我に返ると、血の味がしている。ずっと歯を食いしばっていたからだ。そして思い出す、これは『地を這う祈り』と同じ味だ。「稼ぎ」のため、故意に手足を切断する物乞いや、変色し腐臭を放つ死体を引きずり回し、埋葬の喜捨を求める死体乞食など、凄まじい現実に打ちのめされる。

 シャッターを切る行為そのものが、人間の尊厳を踏みにじっているのではないか。撮り手は自問自答をくり返し、最初に戻るのだ、「伝えたい」という動機にね。「安全な場所でふんぞりかえて、ケチや論だけをでっちあげている人間にはなりたくない」という思いが、シャッターを切らせるのだという。頭が下がる。

 言葉はない。ただ苛まれ、抉られ、全身が目となる。焚きつけられるような読書。


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パラダイムシフトの情報史 『情報技術の人類史』

 美は眺める者の眼中にあり、情報は受け手の脳内にある。

情報技術の人類史 一筋の煙や電気インパルスに込められた「情報」を「意味」に転じるには、人の介在を必要とする。古代、近代、現代の情報と通信の技術を経巡ることで、人が「意味」をどうやって進化させてきたかが分かる。伝えたい内容・残したい本質である、意味を見える化したものこそが、情報なのだ。

 アフリカのトーキング・ドラムに始まり、文字の発明、辞書製作、蒸気計算機や通信技術の開発、遺伝子解読や量子力学と情報理論の結合まで、「情報」を操る数多くのエピソードを縦横無尽に紹介する。膨大な量と深さに溺れそうになるが、「新たな情報技術に接したとき、人はどう変化したか」という軸で読むと、人間の思考の変質の歴史になる。これは、おもしろい。

 たとえば電信は、「天気の概念」「時間の概念」を一変させた。電信のおかげで遠隔地の状況が分かるようになったからだ。人々は天気のことを、土地ごとの予測できぬ現象の寄せ集めではなく、広範囲に渡る有機的な現象として捉えるようになった。同様に、かつて地域ごとのものだった「時間」が、同時に標準的なものでもありえることが一般化した。わたしたちは変容後の世界にいるから気づかない。だが、迷信が現象になり、地球は事実上、大幅に縮小されたのだ。

 あるいはDNAは、わたしたちが情報でできていることを強烈に意識させた。そして時を越えて情報を運搬しているという概念を植えつけた。もちろんわたしたちは、利己的な遺伝子の搬送ロボットではない(あれはドーキンスのレトリック)。視点をひっくり返し、遺伝子が自己複製の最大化のために働いていると見ると、生き物の行動に俄然筋が通ってくる。情報そのものである遺伝子という概念が、人間の認識を変えたのだ。

 ネットのコモディティ化を電話に喩える人もいるが、思考の変容については、むしろ電信の方が似ている。人は残したがるもの。電信会社は、実行不能になるまでのしばらくのあいだ、あらゆるメッセージの記録を保守しようとしたそうな。2013年1月の時点で、Wayback Machine は5ペタバイト、850億のサイトを保存しているが、歴史は現在進行形でくり返している。

 また、電信の登場で、人づてのネタを恣意的に編集している新聞という存在は、駆逐されると思われていたらしい。だが、速報と憶測、国際間と地域性で、電信と新聞は共生関係になったという。この辺りは、現在のネット・新聞の関係を暗示しているようで面白い。

 「情報技術の人類史」と銘打っているが、今の自分に引き合わせて読んでも面白い。例えば、電信のおかげで、19世紀の後期、人は符号化という観念を手の内に入れた。他の記号の代用品としての記号、他の単語の代用品としての単語という観念が普及したのだ。

 これは、20~21世紀のわたしにとっての「音楽CD」になる。音楽とはライブの一回性の限定的なものであり、たとえレコードやカセットがあっても、劣化した複製でしかなかった。音楽がCDになった段階で、音楽がデータである、という概念が一般化した。音楽が iPod に入り、Youtube になり、初音ミクが歌うのも、その延長上にある。たしかに、技術は概念を変えるのだ。

数量化革命 パラダイムシフトの情報史として考えると、『数量化革命』が好対照を成す。一言でいうなら、「現実の見える化」だ。定性的に事物をとらえる旧来モデルに代わり、現実世界を定量的に把握する「数量化」が一般的な思考様式となった歴史を辿る。視覚化・数量化のパラダイムシフトを、暦、機械時計、地図製作、記数法、絵画の遠近法、楽譜、複式簿記を例に掲げ、「現実」を見える尺度を作る試行錯誤や発明とフィードバックを描いている。数量化革命により、現実とは数量的に理解するだけでなく、コントロールできる存在に変容させ、近代科学の誕生したのだというのだ。『情報技術の人類史』と重なるテーマを併せると、意識の変容がより立体的に見える。

 たとえば、「時間」についてのパラダイムシフトは、両者の切り口が異なっていて面白い。「一日」という見える単位は、季節や地域によって伸び縮みするアコーディオンのような存在だった。これが暦法により均質化し、機械化時計により等分される。体感的だった時間が、区切って記録できるものに変容する。そして、一日や一時間が他の一日や一時間と同じ長さに再定義されることにより、時間に価値がつけられるようになる。

 その結果、利子や賃金が「時間」で分けるようになったというのだ。時間を計り、分割し、再定義するのが『数量化革命』である一方で、『情報技術の人類史』は、時刻と座標で空間を再認識するアプローチになる。

 そして、『数量化革命』で測れ/計れ/図れ/量れなかったもの、「情報」を、『情報技術の人類史』ではクロード・シャノンの情報理論を追いかける形で捕捉する。シャノンは「情報」から意味を消し去ろうとし、「メッセージの"意味"は、一般に重要性を持たない」と提唱する。情報を、特定の象徴記号を伝送する体系とみなすのだ。意味内容から切り離された「情報」は、電線パルスだけでなく、光や空気の振動、穿孔テープの穴に存在する。意味を付与する役目である人を尻目に、情報は量産され、コピーされ、拡散される。

 音楽が、文章が、画像が情報にしたことで、インターネットは、確かに人の意識を変えている。少なくともわたしにとって、音楽を聴く単位は23分からランダムアクセスに、文章を読む単位は一冊/一章/一節から「一読」になった。画像に至っては「一リブログ」だ。コマ切れのコンテンツを意味化していく過程で、自分がどう変わっていくか……本書ではこう示唆するのみだが、わたしは結構、楽しみにしている。

われわれは自分たちの世界についての"情報"をどんどん増やしているようにふるまうが、その世界はますます意味を奪われていくように見えるのだ。悲観論者なら過去を振り返りつつ、それを魂なきインターネットの最悪の先触れと呼ぶかもしれない。「われわれは、今のやりかたで『通信』すればするほど、"地獄のごとき"世界を作りだしている」デュピュイは書いた

 テクノロジーは斜め上を行くだろうが、対する人の“変わりかた”は、本書のどこかに書いてある。インターネットが「電信」くらい人を変えるのなら、「電信」を超える「電話」くらいのインパクトは、何によってもたらされるのか。今から楽しみだ。本書の言葉を借りるなら、少なくとも「最初は、子どもの玩具のように」思われるものであるはずだ。

 過去を振り返ることで、未来を覗き込むために。

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鬱 に 効 く 映 画 『シネマ・セラピー』

 ダウナーなときは寝るに限る。三時に覚めたらどうするか?

 アルコールは感情の増幅剤だから控える。集中しない(したくない)ので、本はお守り代わり。図鑑や手記など、断片で読めるものにして、うっかり“何かを思い出す”ことのないよう、小説は避ける。岩波青か、講談社学術文庫がいい、『自省録』『ガリア戦記』『言志四録』が鉄板。考えないための読書。

 ところが本書は、映画を提案する。精神科医が選んだ、適切な映画を観ることで、「死にたい」気持ちがほぐれてくるという。本当か?意識を向ける必要がある映画は、ダウナーなときには向いていないと思っていたのだが……著者によると、自殺を客観的に捉え、遺される人を考えたりする上で新たな視点を提示してくれるのが、これらの映画なのだと。

 著者は精神科医。自殺の実態や危険因子を解説したあと、自殺にまで追い詰められた人の心理をレポートする。さらに、「自殺したい」と打ち明けられたらどう対応すればよいか、原則を述べる(基本は傾聴)。

 その上で十本の映画を選び、そこに描かれた自殺の危険を説明する。鬱病、アル中、パーソナリティ障害。生きる意味を見失った人、すてばちになった人、絶望した人、そして、自殺する人。著者は中身にまで踏み込んで、裏側の心情や「たられば」を語る。いかにも分析医した語り口に辟易するが、プロのなせる業なんだろう。「死にたい」気持ちをほぐしてくれるオススメ作品は、下記の通り。

 『普通の人々』(ロバート・レッドフォード監督、1980)
 『素晴らし哉、人生』(フランク・キャプラ、1946)
 『セント・オブ・ウーマン』(マーティン・ブレスト、1992)
 『道』(フェデリコ・フェリーニ、1954)
 『リービング・ラスベガス』(マイク・フィギス、1995)
 『失われた週末』(ビリー・ワイルダー、1945)
 『17歳のカルテ』(ジェームズ・マンゴールド、1999)
 『桜桃の味』(アッバス・キアロスタミ、1997)
 『いまを生きる』(ピーター・ウィアー、1989)
 『シルヴィア』(クリスティン・ジェフズ、2003)

 いくつか観ているが、気持ちをほぐすか否かは別として、素直に心にクる。ただ、「死にたい」と思い詰めているひとは、どう捉えるのだろうか?切羽詰まって自分で自分を追い込んでいるような状態で、映画に集中できるのだろうか。もちろん人それぞれなのだが、少なくともわたしは、気鬱な夜は避けるとしよう。

 鬱ではないが、生きることと死ぬことをテーマにしたこれらの映画を思い出す。どれも癌をきっかけにして人生を問い直す作品で、再見したら号泣必至のやつ。ありそうな逝き方・生き方をくぐることができる。

 『死ぬまでにしたい10のこと』(イザベル・コイシェ、2003)
 『マイ・ライフ』(ブルース・ジョエル・ルービン、1993)
 『生きる』(黒澤明、1952)

 死をシミュレートすることで、生を見なおすきっかけに。

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今すぐ使える『明日からつかえるシンプル統計学』

明日からつかえるシンプル統計学 まちがえるな、統計学は道具だ。統計は学ぶものではなく、使うもの。

 これはわたし自身への戒言。だから、使い方を誤らない程度に理解していればいいし、そのために教科書をイチから読み込む必要も、Rをマスターする必要もない。もちろん様々な武器(統計手法)が使えるに越したことはないが、次のような問題と向き合っているなら、本書をオススメする。

  • あと500人お客を呼び込むためには、いくら広告費が必要か?
  • カスタードケーキがチョコパイに勝つには、「味の改良」と「販促キャンペーン強化」のどちらが有効か?
  • クラス全体の成績が低迷している。国語と数学の両方が苦手な生徒だけ補習したほうがいいのか、全員に国語の補習をしたほうがいいのか
  • 前任者から引き継いだデータが大量にあるが、それぞれの関係や着眼点がまとめられてない。どこから手をつければいいか?
  • 社内のKPI(Key Performance Indicator : パフォーマンス指標)を決めたいが、どこが効きどころなのか?
 あなたのビジネス上の問題を、これらに読み替えればいい。平均、分散、偏差、相関、散布図、決定係数、単回帰分析といった統計学の武器を、ビジネスの現場にどのように適用するか分かる。それも、専門のソフトウェアを使わずとも、Excelで用意されている機能やグラフが“使える”のだ。

 高度な統計手法が必ずしも使われないには理由がある。つまり、必要とされる精度に対してコスト(=知識習得/熟練/専門のソフトウェア/分析時間)が大きすぎるのだ。コスト・メリットの観点からすると、ちょっと調べて、今すぐ知りたいという状況には合わない。重要なのは、仮説検証の手立てとしての数字に説得力を持たせること。そのための、道具としての統計なら、先ずはExcelを用いて、手を動かしながらやってみよう、というのが本書の趣旨。いちいち具体的に痒いところに手が届く。

 例えば、値引きと売上げ、工期圧縮と品質など、相関関係がありそうなデータを調べるとしよう。CORREL関数の使い方を説明した後、相関あり/なしを見きわめる数値は、0.7だと教えてくれる。つまり、0.7以上であれば相関が「強い」といえる。同様に、散布図を用いた回帰分析を解説した後、決定係数R^2は0.5以上なら、“使える”精度だと述べる。「サンプルは最低30」など、厳密に言うなら前提条件に左右されるだろうが、学問的な精確さよりも、仮説検証のとっかかりとして言い切ってくれるのがありがたい。

 また、弱い相関に着目して、「理論的にはつながりがあるはずだが、実際には成立していないポイントを見つける」ことで問題を特定する手法を紹介する。分析の取り組み方が分かるので、右往左往が減るだろう。

 統計の「罠」について、きちんと釘を刺してくれるのがいい。因果関係があるなら、相関・逆相関が成り立つ。だが、相関があるからといって因果関係があるとは、必ずしも成り立たないと注意喚起する。人は因果をつけたがる。だが著者は、相関関係を見つけるとすぐに因果関係のストーリーを創り上げてしまうことを戒める。マスコミやケーザイ学者に彫っておきたい。

 さらに、統計分析の見せ方の「罠」についても述べてくれる。同じデータをどの範囲で切り取るかによって大きく異なる分析結果になるヒストグラムを実際に見せてくれる。分析者は「どのような理由でそのデータの範囲を決めたのか」を意識しておけという。自分の思い込みで仮説を作り、気づけばその思い込みを正当化するためのデータを都合よく分析していた……なんて愚を犯さぬように。見せ方の恣意性は、統計情報を「見る」側の心得ともなる。

 最後に自分メモ。本当に“使える”結果か見極めるための問いかけが紹介されているが、(わたしの実務に合うために)アレンジしてみた。

  1. その分析の前提は?(何のためにその分析をしたの?数値を独り歩きさせないためにグラフと同じ枠内に併記すべし)
  2. 分析結果を実務で使うときの制約条件は?(性能要件を見積もる場合、そのまま使えない/使わせないように)
  3. 制約条件の下で結論は変わる?(他の結論に目を閉じていない?)
  4. 分析による結論が、現在の条件を変えるだけのメリットがある?(リソースを追加してもやるべき、という結論があってもいいが、上司の上司を説得させられるだけの弾丸を準備すべし)
  5. 不明確な条件のときは、複数の結論に優先順位をつけられる?(落としどころに備えろ)
 統計の本といえば、小難しい学参書か、エッセイ風の読み物を沢山みるが、このような、「手を使って」「ビジネスの問題に沿って」いるのは珍しい。新入社員は必携やね。

 統計学+Excelの強みを生かせる一冊。


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性教育は、この一択。『ぼくどこからきたの』

ぼくどこからきたの これは家で教えなきゃ、と実践しているのが食と性。家庭科や保健体育では遅いし足りぬ。学校任せにしないおかげで家族の昼食ぐらいは作れるようになった(ただし麺類に限る)。

 では性は?探し回ったあげく、この一冊にした。

 男と女の違いから始まって、セックスとは?赤ちゃんができるとは?に真正面から答えている本。親子で読めて、きちんと話し合える。生々しすぎる描写ではなく、かといって抽象的すぎでもない(「プリキュアで性教育」といっても、おしべとめしべは、ほとんとメタファー)。『南仏プロヴァンスの12か月』のピーター・メイルの文を、谷川俊太郎が訳している。率直で、ごまかしのない言葉で伝えている。

 一通り読み聞かせた後、性感染症の話を補足する。お風呂のとき、そこを綺麗に洗いなさいというのは、これが理由だったのか、と納得してもらう。あとは質問コーナー。山ほど出てくる問いかけに、適切な言葉を選び、分かりやすく伝える。避けたかったのは、セックスを冗談や卑猥なもので歪ませたメディアから伝えられること。遅かれ早かれ、子どもは知る。その「知り方」が心配だったのだ。

 ただ、これが成り立つのは信頼関係ができてから。命が大切なこと、あなた(=子ども)が大切なこと、あなたがかけがえのない存在であること、何億分の一の確率で、卵子と精子が出会っていることを、予め分かってもらっていなければならない。そして、この命がなくなれば、死ぬことを知っていなければならない。性教育の前に、死の教育。生とは何か、死とは何か、「子どもに死を教える」で、理解はせずとも(わたしだって難しい)知ってはもらっていた。生と性と死が、子どものどこかでつながった(はずだ)。

 性の話が率直にできるようになった。友だちの誰かが、からかい半分で振っても、変に恥ずかしがったり、隠したりすることはないだろう。何か困ったことがあっても、きっと相談してくれるだろう。最近では、不妊と人工授精、出生前判断、性感染症予防、そしてAIDSの話を、折にふれ、ゆっくり、順繰りにしている。

 もう少ししたら避妊も教えておこう。後に倫理と名付けられる規範とは、こうして育まれるのかもしれぬ。

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