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統計で犯罪を測る『犯罪統計入門 第2版』

犯罪統計入門 統計の怖さと強さを学ぶ、格好の教則本。

 たしかに統計は強力なツールだ。しかし、やりようによっては、正しい情報を用いて、堂々と白を黒と言い包めることができる。「嘘には三つある。嘘、大嘘、そして統計だ」、これが冗談でもなんでもないことが分かる。

 本書は、犯罪統計を探す場所・方法・ノウハウを詳説する。また、警察統計の収集手続きやメカニズムを解説することで、それぞれの統計情報の特性が分かる。さらに、官庁だけでなく、主要先進国の犯罪・司法統計など、ネットを利用した犯罪統計の検索の最前線を紹介している。このテの研究にすぐ着手したいなら、第3部の犯罪統計リファレンスが一番に役立つだろう。そして、通して読むことで、「統計のカラクリ」が分かる仕掛けになっている。

 たとえば、「少年犯罪が凶悪化している」神話を思い出そう。いまだに信じている人がいるかもしれないが、比較対象を取捨することで、あるいは異なるスケールを同一視することで、いくらでも印象操作できる。つまり、同じ統計情報から、「悪化している/していない」の、両方を導き出すことができる。

 刺激的なキャプションと共に、平成だけをグラフ化するならば、確かに右上がりになっている。伝統的家族や教育が崩壊し、若者のモラルが低下している証左だと断じる、マスコミお得意のアレだ。だが、昭和40年以前を入れると、三丁目の夕日時代が遥かに極悪だったことが分かる。最近ではそういう煽りが効かなくなるほど視聴者が知っているので、「体感治安」たる曖昧な言い回しを用いるようになった。

 また、グラフだけ見せて、あえて情報を「隠す」テクニックも暴かれる。窃盗を除く一般刑法犯の認知件数の推移を見ると、平成11年を境に急激に「悪化」しているように見える。なぜか?

窃盗を除く一般刑法犯の認知件数の推移(犯罪白書平成24年より)

 著者は、平成12年に公布されたストーカー法と警察庁通達発出、それに伴う警察の方針転換が、「治安を悪化させた」ことに結びつける。ストーカー事案をはじめとした警察相談取扱件数が増加し、未発覚であった事件を「掘り起こした」ためと推察する。

 つまり、いままでは暗数とされていた事件が“認知”されたというのだ。“ストーキング”はいつだってあったが、それが「犯罪」になったのは、平成12年度からだから。“虐待”と同じ構造やね。子を叩く親は昔からいたが、“せっかん”という別名が付けられていた(“せっかん死”という言葉がまかり通っていた)。法律が犯罪を「掘り起こす」のだ。

 この「掘り起こし」にはマンパワーを要する。警察官が多ければ多いほど、相談取扱件数の限度や「掘り起こし」件数が増加する。警察官数の推移がこれを裏付ける。平成になってから11年まで、22万人と横ばいだったのが、平成12年を境に増員をくり返し、平成23年には25万人に至る(警察白書)。犯罪関連の学会で、「警察官を増やせば増やすほど、認知件数が増加する」とのコメントが飛び出したことがあったという。

 ただし、著者の主張は自分の首を絞めることになる。平成16年をピークに認知件数が減少していることに対し、説明がつけられないからだ。警察官は増員しているため、「掘り起こし」のマンパワーが減少しているわけではない。また、平成16年に警察の方針が大きく変わってもいない。にもかかわらず、認知件数が減少している。これは、別の理由で説明するか、最初の主張を見直す必要がでてくる。ここ本書で語られていないため、わたしの宿題やね。

 統計を使ったマスコミの常套手段が開陳される。都合の良い底値を基準にしたり、グラフの縦横の倍率を変えて印象を変えるテクニック、誘導的な見出し文で相関関係と因果関係を取り違えさせる、あいまいな定義や思いつきレベルの牽強付会など。こうした手管で、マスコミは突出した犯罪をクローズアップし、煽られた民衆が「奴らを高く吊るせ!」と大合唱する。シュプレヒコールに安易に乗らないために、予習しておこう。

 統計情報の収集方法から、加工方法、さらに恣意的な方向へ導くためのテクニックまで、犯罪統計の調査を通じて統計リテラシーを実践的に高めることができる。著者の主張はCiNiiの「日本の治安悪化神話はいかに作られたか」が非常にまとまっているが、本書はその舞台裏、どのようにその論文の資料を作ったかが分かる。

 無邪気に統計学を持ち上げる前に読んでおきたい。


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暗い予想図『2052』

2052 先行き不透明なのは、どの時代も同じ。せめては指針のよすがとして本を読む。

 子どものころは、核戦争の未来だった。『ザ・デイ・アフター』の熱戦後、『渚にて』のような静かな終わり方になると思ってた。あるいはレイチェル・カーソン『沈黙の春』が予見する、汚染しつくされた住めない未来。さもなくば、まだ生々しかったオイルショックに想を得た堺屋太一『油断』は、予想というよりシナリオとして読んだ。

 ところが、なんとか生きている。ノストラダムスや惑星直列、マヤ暦の終末も生き延びた。食糧難、環境汚染、資源枯渇は、幾度も警告されながら現在に至る。だからといって何の保証もないが、なんとかなるかも……という半分願望、半分期待を込めて読んだのが『2052』。

 結論から述べると、暗い未来になる。著者に言わせると、未来は良くなるか悪くなるか、というのが問題ではなく、「どれぐらい悪くなりうるのか」が問題になる。経済、環境、エネルギー、政治など多岐にわたる世界のキーパーソンの観測を踏まえ、それぞれの整合性をとりつつ、2052年までを見据えた上で、「不愉快な未来」を述べている。

 世界は愚かにも、今後十数年間に発生する気候変動に備え、資金と人的資源を事前に投入することはできないという。明確に「やらない」と宣言するのではなく、先延ばしにするのだ。理由は単純で、世界を動かしている民主主義と資本主義が短期志向だからだという。

 環境悪化が進み、住めない場所を放棄した人々は都市に集まる。都市化は今でも進んでいるが、近未来の富裕層は、“都市へ逃避”するのだ。都市は防壁化を施し、地方の小集団は自力で異常気象や生態系の変化を真正面から受け止めることになる。富んだ国と貧しい国という構図ではなく、城砦化した都市とそれ以外という世界になる。『マッドマックス・サンダードーム』や『進撃の巨人』を思い出すね。

 公平さをめぐる世代間の対立は、激化するらしい。先進国では、国に莫大な借金を負わせ、赤字が確実な年金制度を構築した世代が引退しようとしている。次世代が喜んでこの重荷を背負い、借金と年金を支払うかというと、答えはノーだ。暴力的なやりかたで引き継がれる(または破棄される)場合もあれば、別のシステムに乗り換えることで、無視されることになるという。

 頭にクるのは、この著者自身だ。北欧の裕福なエリートで、自分の豊かさは環境破壊や世代搾取の上に成り立っていることを自覚した上で、「あとはよろしく」「俺は警告したから」的に述べる。原生林の探訪やサンゴ礁のシュノーケリングといった、自分が享受してきた上流階級の娯楽は、一般人の興味を惹かないから保護されないだろうと嘆き、「この40年間に私たちがさんざん楽しんだ結果である大量のCO2とともに、彼らは生きていかなければならない」と残念がる。ふざけるな、と本を殴りつける。

 しかし、言っていることに磁力がある。日本の今が、世界の明日の目安になるという。この20年間、経済が減速しているにもかかわらず、消費は上昇している。投資率が下がったからだが、人口は横ばい状態なので、1人あたりの消費は33%も増加した。これは高成長と呼べるが、成長率の低いGDPが、さらに成長率の低い人口によって分配された結果だという。経済的に停滞しているにもかかわらず、日本人が裕福なカラクリはここにあるのだと。

 同じことが、未来の世界経済にも適用される。人口は先進国では2015年、全体では2040年をピークに減り始める。2052年に向かってGDPの成長速度が半減するが、人口減によって可処分所得が増えはじめる。それに伴いエネルギーの消費スピードも緩やかになり、環境破壊のピッチもゆっくりになる(が、阻止臨界点を越えたため、もう戻れない)。世界の生産力は2052年にほぼピークを迎え、21世紀末向かって衰退していくのを「グロークライン」と呼んでいる。

 地球温暖化、世代間の闘争、貧困と格差―――では、どうすればよいか?まず、アメリカを始めとした民主主義・資本主義の国家はダメだという。大多数の愚民と一部の知識層の総和的な民主主義ではなく、エリートに集権させ、衆愚にはそれなりの権利を分け与える寡頭政治が求められる。所得が再分配されにくい自由市場経済は、失業と不平等が総生産力の成長を遅らせる一方で、北欧の社会民主主義(むしろ社会主義とみなす人が多い)経済が優勢になるという。眉に唾をつけはじめる。

 このあたりから、著者の予想と願望と自慢が入り混じる。物質主義は衰退するから「心の豊かさ」を求めよとか、経済的成功が全てではなくGDPに代わる幸福度を測る指標が必要だとか。民主主義に時間が掛かりすぎるのは知ってる。だが、著者が支持する中国の政治体制が最良とは、とても思えないのだが。チャーチル御大の言を俟たなくても、民主主義は最悪かもしれないが、いかなる政治制度よりもマシだぜ。

 ほうぼうで出てくる「私たち」レトリックも危うい。今後40年間で生まれてくる世代と対比した、いま生きている「私たち」という意味と、富裕国のエリートの勝逃げ世代の「私たち」を交ぜて使っているから。前者は環境破壊を止められない愚かな地球人として用いられ、後者はそうなる前を懐かしみ、警告をする賢者として使われる。

 テクノロジーをガン無視しているのも気になる。本書は、21世紀のマルサスだともてはやされるが、人口の限界を規定する食糧生産の限界は、ハーバーボッシュ法による化学肥料で軽々とクリアした。もちろんマルサスが人口論を書いた時代では、水と窒素と電気から肥料ができるなんて想像もつかなかった。

 同様に、今の課題を解決するためのテクノロジーは、今は見えていない。シェールガス、オーランチキトリウム、iPS細胞など、これからの技術は未来を測るパラメータから外されている。「見えていない」ことを責めているのではない。誰だって未来の技術は海千山千だから。けれど、「見ようとしない」のは想像力の欠如だ。

五〇〇億ドルでできること いやいや、これ数字による予想だから、想像を入れる余地はないのよ、というツッコミも分かる。それなら、数字による提言「コペンハーゲン・コンセンサス」はどうだろう。これは、人類にとって「待ったなし」と表現される問題―――地球環境、水資源や食糧の枯渇、飢餓と貧困、感染症の拡大―――に対して、一流の経済学者たちが作った、「費用対効果」からみた優先順位表だ。

 結果は人類を救うためのトリアージ「五〇〇億ドルでできること」を見ていただくとして、地球温暖化対策が最下位に位置付けられ、一ドルも配分されなかったことは意義深い。費用が毎年1パーセントかかるのに対し、便益が費用を上回るのは2100年ごろ。効果が非常に長期にわたるため、費用便益分析では現在価値が低くなると判断されたわけだ。著者はこれに大いに反発するだろうが、これは、限られた資源をどこに投入するかという問題だろう。

 膨大な分析に唸ったり、行間のエリート気質にピクついたり、いろいろ忙しい。首肯したり反発したり、この暗い予想図はいい叩き台になる。鵜呑まずに読むべし。

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出版不況の解法として読む『本の声を聴け』

本の声を聴け 「本棚を編集する」という仕事を見ていると、いま出版業界が直面している問題を解くヒントが見える。それは次の二点に集約できる。

  • 年百冊読む一人よりも、年一冊読む百人の“パイを増やす”
  • そのために、最大公約数の書棚に人を集めるよりも、人が集まる場に応じた棚をあつらえる
 自転車操業な台所事情と、どの書店でも似たような書棚になっていることは、同じ根っこにある。年々膨れ上がる出版点数の実体は、前の本の赤字を後の本で埋める「自転車操業」が作り出した現象だ。結果、売場に並んでいる時間は相対的に短くなり、少しでも「動きが悪い」=「売れない」と判断された本は、取って代わられる。

 この返本のサイクルが早すぎるため、棚づくりまで手が回らず、取次からパターン配本されたものを「並べるだけ」の場所になっているのが、今の書店だ。出版点数が多い割に、似たような本ばかり並び、棚の魅力が失せている原因は、ここにある。本屋の棚から、出版・流通業界の構造問題を垣間見ることができる。

 『本の声を聴け』は、これを逆回しにしたルポルタージュ。「本棚を編集する」というビジネスモデルを確立した、幅允孝さんの仕事は、そのまま出版不況の打開策のヒントになる。

 まず、依頼主の聞き取りから、「読んでもらう人」をイメージする。年齢や正確やライフスタイル、行動のクセ、仕事、一日のスケジュールをプロファイリングして、その人物が関心を持ちそうなこと、大切にしていることにつながってくる本を選び出す。

 ただし、そこで「いかにもソレっぽさ」を狙わないところが、「幅らしさ」になる。何百冊というセレクトと本の並びのつながりを通じて、相対的に「アトモスフィアとして伝えたい」という。たとえば、就活コーナー定番の『エントリーシートの書き方』の横に谷崎潤一郎の『文章読本』を置いてみるとか。わたしなら、ダイエット本の隣に『ヘルター・スケルター』、断捨離コーナーに『堕落部屋』を並べよう。

 興味深いことに、依頼ごとに、まったく違う本棚をつくるわけではないらしい。どんな店や、どんな場所でも、ベーシックとなる本があり、それを「キーブック」と呼んでいる。キーブックをどれにするか、それに何をくっつけるかで棚が変化する。くっつける方向は「セグメント」によって決まるという。キーブックにコピーライティングを施し、それに沿った本を選ぶのだ。これにより、同じ本でも違った見方やメッセージを示すことができる。

 ここからはセンスと経験の勝負になる。「雑食感」や「落差のデザイン」と評されるが、高尚なものの横に、ベタな本を置くというやり方だ。東山魁夷の『北欧紀行 古き町にて』とムーミンを並べたり、アートブックの横に『あしたのジョー』を添えたり、いい意味で俗っぽい。知らない本の隣に、誰もが知ってるアイコンをうまく混ぜる。

 こういう、ブックディレクティングという役割は師弟関係を通じてうまく伝えられないだろうかと考えてしまう。幅さんに限らず、松岡正剛さんや、内沼晋太郎さんの元で育っている(であろう)キュレーターが楽しみなり。大型書店の企画棚だと複数のスタッフ間で経験やノウハウの流通はあるだろうが、さらに展開できないだろうか。「場に応じた書棚を作る」仕組みづくりのヒントはここにある。

 「本を選ぶ」というビジネスモデルでは、一千冊の本棚を作る場合、一千冊のそれぞれの本の価格の総和と、プラス選書をするためのギャランティーになる。また、一度本棚を作れば終わりということではない。定期的にメンテナンスを行う必要がある。立ち上げのイニシャルと、メンテナンスのランニングの料金は別々で契約する。メンテナンスは、時事や季節柄で変わってゆく。この、本の流動化も「その場所」「その時」「そのテーマ」に沿って取捨選択されるため、ビジネスになるのだ。

 ただ並べるのではなく、書棚を編集する。これは、松丸本舗で足棒になるほど見てきたものだ。「キーブック」という概念といい、本のコピーライティングといい、書棚の編集といい、上手に取り込んでいる。

 本書では、松丸棚と幅棚の比較もされている。松岡の棚は真っ向勝負の「本格派」とすれば、幅のそれは、ポップで、遊び感覚に溢れた「遊学派」だという。前者が「硬」に対して後者が「軟」というが、本当?ディレクターの個性が棚に出ていることと、書棚の場所やスペースの都合による差異だと見る。むしろ幅にあるという「知を遊ぶ」を本気でやったのが、松丸本舗だし、幅棚のど真ん中はちゃんと勝負球だぜ。上2つが松丸本舗の「遊」、下2つがブルックリンパーラーの「勝負球」の例なり。

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 おそらくこれは、書店の“中の人”からは見えない。なぜなら、書店は、「本を求める人」がやってくるから。来る人を相手にするだけで手一杯の商売だから、その本が「裸の」状態であるところは想像を絶するに違いない。逆なんだ、書店に来ない人に本を届けるのが、解へのアプローチになる。幅さんはそれをやった。リハビリ病院の棚を手がけたときの、この台詞が的を射ている。

その時思ったんです。ここは、ふつうの書店の小売りの現場とは違うんだと。本屋には、本というもの、本についての知識の文脈が分かっている人たちが来ます。でもここはそうじゃない。容赦のない場所なんです。
 そしてこれは、依頼主の言。わたし自身が陥りがちな罠を、見事に言い当てている。
極端な話、本好きの人たちが好きな本だけが固まっていると、年間に本は数冊読むけれど、それほど本は好きではないという人は振り向かない。でも私は、店を本好きだけの閉じた空間にしたくなかったんですね。
 熱心に書店に足を運ぶ人だけを相手にすればいいのではない。本が人のいるところへ出かけるのだ。年間百冊買う十人を相手にするだけでなく、年に一冊買う千人を探す。パイを、母数を拡張するのだ。ふだん本を読まない人に、本を手にしてもらうヒントは、ここにある。これも、リハビリ病院についての幅さんの言。
大事なのは、手が動くことより、動いた手で何をつかむのかなんです。足が動くことより、その足でどこへ行くのか。リハビリのためのリハビリではない。(中略)書き手や差し出す側の意図を軽々と飛び越えて。そして同時に感じたのは、こんなこと、本屋にいた時には気がつかなかったということです。
 その読者が必要とする(≠欲する)本を届ける。それを編集するのがディレクターの仕事だ。それも、宅配によるものやネット配信だけでなく、人が集まる場所、病院や空港、サロンや祭場に書棚ごと持って行く。ブックトークや読書会の場所を、書店の外へ押しやる。先日開催された東京国際文芸フェスティバルや、集合本棚といった、本と人との出会い場を増やし、続けるのが解になる。コミケの会場でラノベを売る棚があってもいい。そこに集う人はみんな持ってるって?ホント?そこから調べてもいいし、組み合わせの本を添えるのもありだろう→『ソードアート・オンライン』と『クラインの壺』

 そこで求められるのが、本を選ぶ仕掛け。Amazon的な集合知を引っぱる方法をチャート化したり、棚構成を教えあう「場」を設けたり。「書棚を育てる人」を育てる仕組みを作ることが、アプローチの一歩目になる。このアプローチに対し、本書には面白いヒントがある。本との距離感が大切で、「本を好き過ぎてはいけない」というのだ。

逆説めくが、本を読まないほうが、その本を客観的に見ることができる。反対に、ものすごく本が好きな人、本に思いいれのある人の方が、いっしょに本を並べてほしいと言われると、戸惑うのではないか。
 本が嫌いではダメだが、本を好きすぎると近すぎる。好きな本をいったんつき離し、客観的に見る。自分以外の誰かが、これを読んだらどんな風に思ってくれるだろうという想像力。その本に入り込みすぎる自分をいったん置いて、他人の「読み」を承認する心の余白の部分を持てというのだ。

 このアプローチを阻むのは「売上げは?」というツッコミ。本書では、TUTAYA TOKYO ROPPONGI の成果が紹介されている。「当初目標130パーセントの売上げ。客単価は他店の三~四倍」とあるが、現在は厳しかろう。売上至上主義なら、ジリ減する読者を相手に、社長室から吼えてればいい。だが、逃げ切るつもりの爺世代ならともかく、次の、まさにいま朝読している人、朝読していた人を顧客にするのなら、読書人口の底上げを図る。売上げを伸ばす前に、読者を増やす。アニメのノベライズや、攻略本のベストセラー化は、売上にハッキリ表れるようになったのは近年のこと。「売上げは?」という逆風にずいぶん曝されただろうが、ちゃんと育っている。

 「本を選ぶ」というビジネスモデルがあるということは、種を撒く場所、育つ場所がちゃんとある証左。「最近の若者は本を読まない」のは都市伝説。本が手にされるのは、Amazonとコンビニと書店だけ、という反証が本書だ。本は、人が集まるところで出会い、手渡される───解法はそこにある。

 幅允孝の仕事は、そのまま出版不況の解法になる。書を持って街に出よ。

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おたく乙女の『堕落部屋』

堕落部屋 「女の子の部屋」に慣れていない人々に。覗見嗜好の満足度は高いが、かなり濃厚なので中毒にご注意を。

 初めて彼女の部屋に入れてもらった日を思い出した。そもそも「女の子の部屋」というものに馴染みがなかったので、フェミニンな小物やインテリアにほわんとしたものだ。だが、充実したスーファミのソフトに好感を持ち、特に『クロノ・トリガー』と『タクティクス・オウガ』を見つけたとき、この娘と結婚しようと密かに決意したものである。

 そんなわたしが思わず求婚したくなる、マニアック女子の部屋がずらりとある。マンガ、アニメ、ゲーム、アイドル、鉄道、映画、フィギュア、抱き枕、薄い本が散乱する・積み上がる、50人のおたく女子(一部男子)の私室とポートレイトが公開されている。彼女らの生々しいライフスタイルがぎゅんぎゅん出ており、乱れた生活とか、散らかった部屋というより、趣味に荒れた感じが微妙にエロスできゅんきゅんすることを請け合う。

 わたしが注目するのは、なんといっても本棚。女の子の本棚を眺めることほど、愉しいことはない、趣味嗜好が透け見えるからね。『ベルセルク』と『寄生獣』のあいだに『ご近所物語』が仲良く挟まっていたり、『奇面組』シリーズや『大日本天狗党』の扱いにむせる。『ジョジョ』率と『よつばと!』率の高さに驚きつつも納得し、部屋とバイオハザードと私状態の東大女子に萌える。

 透け見えるといったカワイイレベルではなく、趣味全開の部屋に圧倒される。歴代プリキュア変身アイテム(箱入り)を積み上げたタワーや、ミリオタ娘の電動ガンBOYsコレクションなんて、すげぇ惹かれる。シルバニアファミリーのハウスが集結してコンドミニアムを形成しているのを見ると、むしろ「シルバニア一家」と呼びたくなる(マフィアである)。

着倒れ方丈記 消費社会を体現している彼女らの生態を見ていると、『着倒れ方丈記』を思い出す。これは庶民がブランドにハマると何が起きるか?を一枚で示した写真群だ。家一軒ぶんのジャン・ポール・ゴルチエや、風呂なしアパート清貧生活にある50万円のエルメスの鞄、無職生活4ヶ月目とアレキサンダー・マックィーンなど、洒落にならない微笑ましさが浮かんでくる。しかし、写りこんでいる皆さん、ホント幸せそうな顔をしていらっしゃる。「消費社会の犠牲者」とレッテルを貼るのは簡単だが、これほどハッピーな犠牲者もなかろう。

 翻って本書に垣間見る彼女たちの極端な偏好趣味、止まらない蒐集癖を感じ、絶妙なバランスで積み上がり、際限なく畳みかけてくるヲタ・ウォールやジャンプタワーを眺めているうちに、これほど好きを貫いている人はいないような気がしてくる。これは、堕落というより堕楽だ。彼女らこそ、消費社会のサバイバーなんだ。

 一種の通過儀礼なのか、それとも生きる目標そのものなのか、自分の部屋と付き合わせながら読むといいかも。

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「できない」を証明する知的興奮『不可能、不確定、不完全』

不可能、不確定、不完全 「できない」を納得してもらうのは難しい。

 なぜなら、あらゆる解決策を吟味して潰していかねばならないから。いっぽう「できる」ことを証明するのは簡単だ、解法を一つだけ示せばいいのだから。

 たとえば、上司に「できません」と伝えると「できない理由を言え(俺が論破してやる)」と返される。無茶でも「できます」と言うほうが楽である(ただし、納期・コスト・品質そして健康が犠牲になる)。最近では小ずるく言い方を変え、「現実的ではありません」と理由を説明するようになった(これで説明責任が相手に移動する)。ビジネス上のたいていの問題は、カネか時間かで解決するが、常識的な時間内に解決するのは難しい。

 ところが、世の中に、いくらカネと時間を注ぎ込んでも解決できない問題がある。荒唐無稽なファンタジーという意味で「できない」というのではなく、数学的な帰結として「できなさ」が証明されている問題である。『不可能、不確定、不完全』は、この人類の知る能力の限界を示す問題がメインテーマだ。

  • ハイゼンベルクの不確定性原理 : 物体の位置と速度を同時に知ることはできない
  • ゲーデルの不完全性定理 : 数学上の真理を決めるための論理に不備がある
  • アローの不可能性定理 : 民意を完全に反映する投票方式は存在しない
 最初は、「修理に出した車がなぜ納期に戻ってこないか」や、「最小のコストで訪問先を巡回するサラリーマン」といった身近な話題が挙げられる。納期やコストは切実なので期待して読むのだが、衝撃的な(笑撃的?)結論「常識的な時間内では解けない」という結論に至る。仕事上のクリンチと、いわゆるP≠NP予想が図らずもシンクロしてて思わず笑ってしまう。

 三大作図問題、五次方程式の解の公式、平行線公準、不完全性定理といった数学の「できない」問題を辿りながら、数学と物理学を行き来する。ニュートンの力学と微積分学、マックスウェルの電磁気理論とベクトル解析、そしてアインシュタインの一般相対性理論と微分幾何学……物理学の発展は数学の発展と手に手を取ってきたことがよく分かる。

 さらに、光の粒子と波動の二重性、確率統計、カオス、エントロピーを取り上げ、民主主義に欠かせない選挙の仕組みに数学がどう絡んでいるか、どんな限界があるかを解説したあと、今後の数学と物理学を展望する。

 特に目を引いたのは「不可能性定理」、いわば選挙の数学だ。どんな投票方式を採用しても、どこかで民意の反映に歪みや格差が生じる。大騒ぎするだけの少数派が物静かな多数派を圧倒するか、不合理なまでに死票を生じるか、当て馬の有無によって多数派の意向が反映されなくなる。アローは、次の条件を全て満たす投票様式は存在しないことを証明する。まさに、あちらを立てればこちらが立たずで、問題を解決するために編み出したアルゴリズムが、また別の問題を生じさせる。一票の格差は、常に発生するのだ。

  1. 独裁的な力をもつ投票者が存在しない
  2. すべての投票者が候補者Aを候補者Bより選好するなら、全体でも候補者Aが候補者Bより選考される投票方式でなくてはならない。
  3. 敗者の死によって選挙結果が変わってはならない
 もっとも有力な解決方法は、独裁者の存在を認めること。だがもはや民主主義ではなかろう。愚者も賢者も大衆も混ざった国にとって、民主主義とは過ぎた方式なのかも。チャーチルだっけ?民主主義は最悪だ、あらゆる政治体制のなかでマシなだけって言ってたの。

 さまざまな「できない」が、カテゴライズされてゆく(その歴史が数学の歴史なのかもしれぬ)。

 最古なのは、特定の枠組みのなかでは解決できない問題。立方体倍積問題や五次方程式の一般解で、ただ解けないというのではなく、所与の手段では解くことができない問題。これは非ユークリッド幾何学を使ったり、ベキ根以外の解法で特定の数を表現することで解決してゆく。

 充分な情報が得られないせいで解けない問題が数学と物理学の間にある。単に情報が存在しないか(量子力学的な現象)、充分に正確な情報が入手できないか(ランダム現象カオス現象)、あるいは情報が多すぎて効率的に分析することができない(多項式時間で手に負えない問題)が分類される。このあたりは人間である限り解けないことが直感できる。

 同様に、先に挙げた投票方式や議席配分方式の探究は、「ないものねだり」のカテゴリーなのかもしれぬ。システムに恣意的に介入しようとする人がいる限り、完全に公平なシステムは作り得ないという、民主主義の限界を垣間見る。その制約下で「がんばる」のがナマの人間なのかもしれぬ。

 絶妙な比喩とスパイシーなジョークを織り交ぜた書き口が良い。確率波の乱れを喩えるのに、『スターウォーズ』のフォースの乱れを持ち出し、質量とエネルギーの関係を示したアインシュタインのE=mc^2を、外貨の為替レートに喩える。もちろん選挙のパラドックスでは、米大統領選の微妙な疑惑について遠慮なく触れてくる。

 おかしいぞ、とツッコミ入れたい所もある。アインシュタインの相対性理論は、原爆や原発といった一般市民にとって馴染みの薄いものに応用されているだけで、普通の人には御利益がないと言い切る。著者はカーナビを使わないのだろうか。それともGPSシステムの相対論的補正は一般的でないのだろうか。

 ただし、強力なヒントもある。どうしようもなく完全かつ全面的に行き詰まった場合、数学には最後の頼みの綱が一つある。それは、新たな記号を設け、運用は近似解を探すことだ。例えば、結局のところ、πを小数点以下何億兆桁も知る必要はない。たいていの問題では、四桁まで分かれば充分。巡回セールスマン問題に多項式時間で解ける解法がなくても、やはりセールスマンは巡回を続けるだろう。正解から数パーセント以内の範囲まで到達できる多項式時間アルゴリズムを見つけられれば、コストは大幅に節約できる。「十分に良い」とは、十分以上に良い場合もあり、これはリアルも一緒。「できない」を納得させるのは、上司と顧客まででOKなのだ(互いの時間は限られているのだから)。

 同様に、完璧ではないにせよ十分に良いやりかたを政治や経済に対し、「合理的に」反映させるようになるのが理想型かもしれぬ。ただ問題なのは、その道を選択するという決定を下すのに、やっぱり民主主義的な方法を採るのだろうな、というところ。そしておそらく、いや間違いなく、決定できないだろうな……と予想がつくところ。プラトン『国家』でソクラテスは最高の政治とは、少数の賢人に導かれた形態だと喝破したが、民主的にはたどり着けない。ここらが民主主義の限界なのか。

 「できない」を納得してもらうのは、やっぱり難しい。抽象から生々しいところまで、人類の知の限界を面白がれる一冊。

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どくいり、きけん短篇集『厭な物語』

 良薬とは適量の毒のこと。物語も一緒だが、分量を守ること。

厭な物語 スカッと爽やか、こころ暖まる話は無用。わたしくらいヘンクツな読者になると、よりエグい刺激を求め、より激しく元気を奪う作品を探す。かくして、「最悪の読後感」「最高に胸クソ悪くなる」劇薬小説(もしくはノンフィクション)を読み漁る。

 登場人物とシンクロするあまり精神的に追い詰められたり、現実と読書の区別がつかなくなり、思わず後ろを振り向いては喜ぶ。感情を打ちのめし、心をざらつかせ、立っていられなくなる読書だ。血や内臓と共に避けがたい運命の残虐さを見せつけられると、日常のありがたみが湧いてくる。現実逃避で始めたはずが、現実回帰の読書になるパラドクス。

 そんなわたしに『厭な物語』は大好物の域に入る。血みどろ臓物スプラッタで生理的にイヤぁな気分にさせてくれたり、何の罪もない人が酷い目に遭う理不尽さで感情を逆なでしてくれたり、読んだことを後悔させてくれる作品がいっぱい。

 いちばん嬉しいのは、フラナリー・オコナー『善人はなかなかいない』が読めたこと。構成、伏線、キャラ造形が上手く、きちんと人生を描いて、それを奪ってゆく唐突さに震える。ラスト近辺からじわじわクる苦味は、読み終わってもなくならない。思い出し嫌悪感が読後ずっと続く、夢見悪い傑作。

 既知の作家の未知の作品が、良い意味で気味悪い。リチャード・マシスンの最高傑作が、本書のおかげで塗り替えられた。マシスンといえば、『アイ・アム・レジェンド』や『激突!』あたりが映画化で有名どころだが、本書に収録されている『赤』を読むまでは、彼の最高は『蒸発』だと思っていた。わずか4頁の『赤』が意味するところにたどり着いた瞬間、最高に(いや最低か)厭な気分になるだろう。(後で指摘されたのだが、リチャード・マシスンの息子らしい。教えてくれた方多謝!)

 フランツ・カフカ『判決』は、読み手の価値観をぐらつかせてくれる。ただ一晩で書き上げられたといわれる小品だが、見事に『審判』に呼応している。両者には、物語の連続性もテーマの一貫性もないが、主役の狂気を肯定するか否定するかによって、まるで違う読み方ができるところは瓜二つなのだ。モノローグが正気だと信じるなら、ラストで理不尽な後味の悪さを噛み締めるだろうし、反面、そこに狂気を見るなら、現実の境目が揺らぎはじめ、船酔いのような嘔吐感が続くだろう。

 これは編者の勝利といえる。同じテーマでわたしが選ぶなら、もっと猛毒なやつになる(タイトルも『劇薬短篇』とかになる)。読み手は警戒しいしい、手にして、のたうちまわるだろう。だが本書は「厭な」物語なのだ。すぐにガツンと来ることなく、遅効性の毒のように後を引く。だから本書をクリアした方は、以下のわたしのオススメに手を出して、後悔してほしい、「読まなければよかった」と。

 毒性順に並べてみた、下にいくほど厭度が“濃く”なる。日本の作家が多いのは、日本の小説家の本質だ。こういう、神経に障るような奴は日本の小説のお家芸だと思うが如何。

  1. 山川方夫『夏の葬列』
  2. 皆川博子『水底の祭り』
  3. コルタサル『続いている公園』
  4. 田山花袋『少女病』
  5. キローガ『羽根まくら』
  6. 吉村昭『少女架刑』
  7. 平山夢明『独白するユニバーサル横メルカトル』
  8. エーヴェルス『トマト・ソース』
  9. 筒井康隆『問題外科』
  10. 車谷長吉『忌中』
  11. 野坂昭如『骨餓身峠死人葛』
  12. サド『ジェローム神父』
  13. 友成純一『狂鬼降臨』
11の物語 いきなりステップアップ(ダウンか?)が厳しい方には、『11の物語』をオススメ。読み手を不安にさせる、読書とは毒書であることを思い出させてくれる。『厭な物語』に収録されている『すっぽん』のハイスミス節が全開しているぞ。わたしのレビュー嫌ぁぁな話ばっかり『11の物語』を参考にどうぞ。

 短篇の縛りを外すと、ケッチャム『隣の家の少女』や、マンディアルグ『城の中のイギリス人』、さらにはサド『ソドムの百二十日』といった悶絶級の傑作が出てくる。刺激を求める人以外は、くれぐれも、読んではいけません。

 良い本で、良い人生を。悪い本で、人生のありがたみを。

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なつかしい未来『月は無慈悲な夜の女王』

月は無慈悲な夜の女王 とうとう読んでしまった、SFの最高傑作として名高い『月は無慈悲な夜の女王』。大事にとっといた一品を食べてしまった、充実感と喪失感で胸一杯なところ。

 地球からの搾取に苦しむ月世界人が、地球を相手に独立宣言をするストーリーラインに、テクノロジー、ハードサイエンス、ヒューマンドラマから、政治・経済・文化をてんこ盛りにしてくれる。

 不思議なことに、未読のはずなのに既読感が激しい。どこを切っても「なつかしい」が出てくるのだ。

 たとえば、“自我”を持つコンピュータ。自ら学び、自己生成プログラムを走らせる。人とコミュニケートし、自分を守るためにプロテクトをかけるあたり、『2001年宇宙の旅』のHAL9000や『わたしは真悟』を思い出す。そのコンピュータがきっかけで、普通の主人公が革命に関わってゆく様は、典型的な巻き込まれ型+召喚ヒーローもの。『マックス・ヘッドルーム』や『ジョウント』(スティーヴン・キングね)、ATMみたいな電子投票システム、永久機関や社会保障の話題のオチに出てくる"There ain't no such thing as a free lunch(無料のランチなどない)"、等価交換の法則、googleブックス、独立戦争や旧約聖書まで、教養とTIPSとジョークのごった煮状態となっている。

 でも、デジャヴじゃないんだ、これが本家なんだ。その仲間や子孫、オマージュやパロディを通じて、この作品と既に出会っているんだ。40年以上も前に書かれた未来の物語なのに、驚くほど今の話になっている。極めつけ政治ネタ、「自由」とやらを手に入れた権力者が最初にしたがるのは、税金や禁令になる。

おれが気に入らないのは、常にそういう禁止に賛成するやつがいるということだ。きっと。他の連中が喜んでしたがることをとがめたがるのは、人間の心の中に驚くほど深く喰いこんでいるってことなのだろう。規則、法律───常に他人に対するものなのだ。
 月へ出ようが宇宙へ行こうが、人の愚かしさは変わらない。「政治とは人類が逃れることのできない病気なのかも」という愚痴は、SFの名を借りた寸鉄になる(わたしなら「政治」を「税金」にするね)。月世界人に対する「空気税」という概念は斬新だと思ったが、18世紀フランスにもう考えられてたのには笑った。人類は、これっぽっちも変わっていない。

 未来なのに懐かしい、昔のなのに新しいSF。

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ビブリオバトル+みんなでブックハンティング(3/23)

 オススメ本をプレゼンして、「いちばん読みたい」を決めるビブリオバトル。本そのものとの出会いも嬉しいけれど、それ以上に、本を媒介して読み手に出会えるのがメリット。3/23(土)に新宿タカシマヤの紀伊國屋でやるので、出場しまする。

 せっかくの出撃なので、グループ・ブックハンティングしよう。ツイートしながら店内を巡回しているわたしを捕まえて、一緒に棚をめぐるのです。お互い、スゴ本をオススメあいましょう。赤いウェストバックを斜めに掛けたオッサンがいたら、わたし。お気軽に声を掛けてくださいませ。

 3/23(土)
 紀伊國屋書店新宿南店

 14:00~ 店内巡行、いっしょにグループハンティングしましょう
  ・ワクワクをつなぐ本棚
  ・ソーシャルデザインの本棚
   を襲撃し、1F(コミック)4F(文庫)を行き来します

 16:00~ ビブリオバトル第3ゲームに参戦

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これが「親子」のスゴい本

 好きな本を持ち寄って、まったりアツく語り合うオフ会「スゴ本オフ」、今回は「親子」がテーマなり

 小説、ノンフィクション、エッセイ、コミックのみならず音楽、映画、CD-ROM、パンフレットが集まったぞ。熱気ムンムン実況ツイートは「猛毒本からホッコリまでスゴ本オフ『親子のスゴ本』まとめ」をどうぞ。ここではラインナップとわたしの「!」、そして口では言えなかったダークサイドを記してみよう。

 王道から変化球や魔球、出てきてはじめて「おお!確かにコレは親子だ」という本がザクザク。暖かいからイビツまで、さまざまな親子の形態が見られる。そして並べると分かる、いわゆる「スタンダードな」親子なんて存在しないことと、どこかしら歪んでいたり尖っていたりするもの。夫婦や友人より古くて強力な人間関係。

 まずは見てくれ、この宝の山とラインナップ。

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    ■個人的で普遍的な、親子愛

  • 『岳物語』椎名誠(集英社文庫)
  • 『天国までの百マイル』浅田次郎(朝日文庫)
  • 『ボブ・グリーンの父親日記』ボブ・グリーン(中公文庫)
  • 『なずな』堀江敏幸(集英社)
  • 『いのち五分五分』山野井孝有(山と渓谷社)
  • 『鮨』岡本かの子(ちくま日本文学全集)
  • 『宇宙船とカヌー』ケネス・ブラウワー(ちくま文庫)
  • 『蜜柑の花まで』幸田文(ちくま日本文学全集)
  • 『幸田露伴』幸田露伴(ちくま日本文学全集)
  • 『禅とオートバイ修理技術』ロバート・M/パーシグ(ハヤカワ文庫)
  • 『初秋』ロバート・B. パーカー(ハヤカワミステリ文庫)
  • 『ゴッド・ファーザー』マリオ・プーヅォ(ハヤカワ文庫)
  • 『寺内貫太郎一家』向田邦子(新潮文庫)
  • 『ビジネスマンの父から息子への30通の手紙』キングスレイ・ウォード(新潮文庫)
  • 『錦繍』宮本輝(新潮文庫)
  • 『ディア ノーバディ』バーリード・ハティー(新潮文庫)
  • 『僕は勉強ができない』山田詠美(新潮文庫)
  • 『スズキさんの休息と遍歴』矢作俊彦(新潮社)
  • 『家郷の訓』 宮本常一(岩波文庫)
  • 『クローディアの秘密』 E.L.カニグズバーグ(岩波少年文庫)
  • 『人間の証明』森村誠一(角川文庫)
  • 『10代の子をもつ親が知っておきたいこと』水島広子(紀伊國屋書店)
  • 『ビラヴド』トニ・モリスン(ハヤカワepi文庫)
  • 『世界で一番優しい機械』榊一郎(EXノベルズ)
  • 『冴子の母娘草』氷室冴子(集英社文庫)
  • 『ミーナの行進』小川洋子(中公文庫)
  • 『泣ける2ちゃんねる』泣ける2ちゃんねる管理人(コアマガジン)
  • 『お前の1960年代を、死ぬ前にしゃべっとけ』加納明弘×加納建太(ポット出版)
  • 『少女神 第9号』フランチェスカ・リア・ブロック(理論社)
  • 『魚釣り、三輪車、でんぐり返し 子供たちがおしえてくれたこと』マーク・ペアレント(主婦の友社)
  • 『武士道シックスティーン』誉田哲也(文春文庫)
  • 『ペコロスの母に会いに行く』岡野雄一(西日本新聞社)

    ■絵本からジュヴナイル

  • 『さいごの恐竜ティラン I'll stay with you』村山由佳(集英社)
  • 『ハルーンとお話の海』サルマン ラシュディ(国書刊行会)
  • 『ビビを見た!』大海赫(ブッキング)
  • 『ラヴー・ユー・フォーエバー』ロバート・マンチ(岩崎書店)
  • 『バーバパパ』アネット・チゾン、タラス・テイラー(講談社)
  • 『大きな森の小さな家』ローラ・インガルス・ワイルダー(福音館)
  • 『ぼくにげちゃうよ』マーガレット・ワイズ・ブラウン(ほるぷ出版)
  • 『ロッタちゃんのひっこし』アストリッド・リンドグレーン(偕成社)
  • 『豚の死なない日』ロバート・ニュートン・ペック(白水Uブックス)
  • 『まんがで学習 エチケット事典』光永 久夫、内山安二(あかね書房)
  • 『おまえうまそうだな』宮西達也(ポプラ社)

    ■コミック、映画、写真、ゲーム

  • 『鋼の錬金術師』荒川弘(ガンガンコミックス)
  • 『エスパー魔美』藤子・F・不二雄(小学館)
  • 『うさぎドロップ』宇仁田ゆみ(feelコミックス)
  • 『百舌谷さん逆上する』篠房六郎(講談社)
  • 『ファンタスマゴリア』たむらしげる(架空社)
  • 『ショコラの魔法』(ちゃおコミックス)
  • 『大人の写真。子供の写真。』新倉万造、中田燦(エイ文庫)
  • 『ライフ・イズ・ビューティフル』ロベルト・ベニーニ監督(DVD)
  • 『Fallout3』Bethesda制作(Xbox360)
  • 『オレンジと太陽』ジム・ローチ監督(原作『からのゆりかご―大英帝国の迷い子たち―』マーガレット・ハンフリーズ著)
  • 『i am sam』(アイ・アム・サムのサントラCD)

    ■親という呪い

  • 『毒になる親』スーザン・フォワード(講談社プラスアルファ文庫)
  • 『シズコさん』佐野洋子(新潮文庫)
  • 『愛すべき娘たち』よしながふみ(Jets comics)
  • 『ドレの旧約聖書』(宝島社)
  • 『キャリー』スティーヴン・キング(新潮文庫)
  • 『母が重くてたまらない 墓守娘の嘆き』信田さよ子(春秋社)
  • 『母がしんどい』田房永子(新人物往来社)
  • 『ファミリー・シークレト』柳美里(講談社文庫)
  • 『愛を乞うひと』下田治美(角川文庫)
  • 『僕はパパを殺すことに決めた 奈良エリート少年自宅放火事件の真実』草薙厚子(講談社)
  • 『セールスマンの死』アーサー・ミラー(ハヤカワ演劇文庫)
  • 『ごっこ』小路啓之(ジャンプコミックス)
  • 『源氏物語』

■親子という視点が新しい

鋼の錬金術師1 人間の証明 禅とオートバイ修理技術

 最初は、紹介されて「!」となった親子から。ダークファンタジーの傑作としてあまりにも有名な『鋼の錬金術師』(荒川弘)を、親子の物語という観点から読む発想に驚き、そして納得する。主人公の父との関係性がストーリーの駆動力となっているのだが、周囲のキャラの親子に目が行く。ホラあれだ、娘を“練り混ぜて”しまった話。芥川龍之介『地獄変』が通底にあるんだろうな……暗澹とさせられる。片親、偽親、造られた親、創られた子など、本作を親子から解くと非常に興味深い再読ができる。

 そして森村誠一『人間の証明』、昔読んだはずなのに、これが親子の物語であることは、言われてはじめて気づかされた。「母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね?」西条八十の詩集を残して、ニューヨークから来た男が、エレベーターでナイフを胸に死ぬところから始まる物語。捜査模様と人間模様を重ね合わせ、ずっと押し隠されてきた過去が暴かれるカタルシスは圧巻なり。ストーリーはまるで違えども、読中・読後感覚は、東野圭吾の『白夜行』が似てる。

 『禅とオートバイ修理技術』(ロバート・M.パーシグ)もそう。かつて大学講師で、今は失われた記憶を求める父と、心を閉ざしてしまった息子とが、バイクで大陸横断する。旅の過程で過去の自分に追いつき、親子関係を再構築する。旅に重ね合わされる思想体系の思い起こしが稠密すぎて吐き気をもよおしたことを覚えている。随分前にやたらデカいソフトカバーで読んだ記憶があるが、ハヤカワで文庫化されているのが嬉しい。再読必至の上下巻。

■スタンダードな(?)親子像

岳物語 10代の子をもつ親が知っておきたいこと いのち五分五分

 次は親子というテーマで素直に紹介された作品を。椎名誠『岳物語』は、激しく納得、これ出てきたときも「あっ」と言った。間違いなく父と息子の物語なり。山好きの親から名付けられた、シーナ家の長男・岳をめぐる私小説。プロレス、釣り、そしてカヌーと父息子ともどもハマっていく過程が面白い。これ読んだときのわたしは、「子」の立場だったが、父になって改めて読み直すのもいい。amazon評の「父から息子へのラブレター」は言い得て妙、すべてのお父さんと息子へ贈りたい一冊。父親やるのに疲れたら、もう一度手にしてみよう。

 ケネス・ブラウワー『宇宙船とカヌー』は、“両極端は一致する”を地で行く親子だ。読んだはずなのに、ここで出てくるまで思い出せなかった。父は、巨大宇宙船を造ることを夢見る物理学者、息子は巨大カヌーを作ることを夢見るエコロジスト。フリーマン・ダイソンとその息子、相容れない二人の生き様を重ねつつ描いたこの評伝は、確かに親子のお話だ。確かラストで夜の海にカヌーを漕ぎ出すシーンがあるのだが、星あかりと潮目を浮かぶ情景が、宇宙を行く船のように描かれていた。星に恋をした父親と、地球に恋をした息子が見事に重なっていた。残念ながら絶版のようだが、嬉しいことに復刊の噂を聞く。正座して待つ。

 『10代の子をもつ親が知っておきたいこと』(水島広子)は、わたしのブログでも紹介した手引き書。親の不完全さはよく分かっている著者が謙虚に書いており、ありがちな「親の不安を煽って売ろうとする育児書」とは一線を画している。 思春期のポイントは2つ、「自尊心」「コミュニケーション力」を育てること。「自尊心」とは、そのままの自分の存在を肯定する気持ちのこと。「コミュニケーション力」は気持ちを分かりやすく伝えることで、他者とのつながりを深めたり、求めるものを得る能力のこと。本書は、次の一句を実践的に(具体的に)示したものだね。

  神よ願わくは我に与えたまえ
  変えられるものを変える勇気を
  変えられないことを受け入れる忍耐を
  そして、その二つを見分ける知恵を

 『いのち五分五分』(山野井孝有)は、本の存在自体が異色で、かつ普遍的な愛情を感じる。2012年No.1スゴ本の『垂直の記憶』(山野井泰史)に関連して紹介された。日本を代表するクライマー・山野井泰史の父が、『いのち五分五分』の著者なのだ。普通、山で死んだ人を追悼する思いで作られる本を、生きている息子が先か、高齢となった自分が先かという思いで綴っている。これは読もう。

■泣ける親子

天国までの百マイル ライフ・イズ・ビューティフル おまえうまそうだな

 反則気味な一冊は、浅田次郎『天国までの百マイル』、泣ける、分かっていても泣ける話。老いた母が心臓の病に倒れ、くすぶっていた息子が、母のために100マイル走る、それだけの話。だけど読むときにハンカチよりもタオルを用意した方がいい話。浅田次郎はいつも反則なんだよなーと思いながら、やっぱり泣いてしまう。

 わたし自身が反則だなーと思いつつも外せなかったのが、映画『ライフ・イズ・ビューティフル』(ロベルト・ベニーニ監督)。これもタオルを用意して見るもの。ナチスの収容所という狂った現実に押しつぶされないために、ささやかな嘘をつく父と息子の物語。ひたすら笑顔でひたむきに生き抜き、妻と息子を救おうとする父にグッとくるだろう。その嘘がどうなるのか、家族の運命がどうなるのか、全てがたどりつくラストは、実は涙でよく見えなかった。

 ツイートで気づいたのが、『おまえうまそうだな』(宮西達也)。たしかにこれも「親子」なり。腹を空かせた恐竜が、あかちゃん恐竜を見つけてとびかかろうとすると……お父さんにまちがえられた大きな恐竜と、“息子”の愛情の物語。同作者の『あなたをずっとずっとあいしてる』そして、『おとうさんはウルトラマン』(みやにしたつや)も親子の泣ける(といっても、読み聞かせながらわたしだけ泣いた)絵本やね。

■親という呪い、あるいは毒親

母がしんどい 毒になる親 キャリー

 親やるようになって思い知らされたのは、“親とは呪いである”ということ。遺伝とはDNAの塩基配列情報だけではなく、癖や気質といったメタファーとしての類型化も指していること。仮に病んでいる人がここにいるなら、その親を見る方が回復のヒントが得られるように思えてくる本がザクザクとある。

 『母がしんどい』(田房永子)なんて象徴的。「親と一緒が苦しい。でも決別するのに罪悪感がある」───そんな思いを抱いている人がいかに多いかを実感させる反響なり。いわゆる毒親との戦いを記録したコミックエッセイで、病んだ子どもに病んだ親ありということがよく分かる。読むのが苦しく、ラストで分かる毒親の真の姿があまりにもズバリで、身に詰まされる一冊。

 そして毒親の親玉が、『毒になる親』(スーザン・フォワード)。人の歪みや狂気が「親」という複製機で増幅されると、子どもはその歪みや狂気を一生背負うことになる。自分に価値を見出すことができない、切迫感、罪悪感、フラストレーション、自己破壊的な衝動、そして日常的な怒りに駆られる人がいる。それは、(全てとはいわないが)親が望んだ「わたし」を強いられた結果だというのが本書だ。そうした呪いと向き合い、決別する方法が記されている。

 twitter経由で耳にしたのがスィーブン・キングの処女作『キャリー』。テレキネシスを持つ少女キャリーが、母親からの虐待と級友のイジメによって精神不安定に陥り、怒りを大爆発させ街を大惨事に陥らせる話。これ映画のラストの血と炎が強烈すぎて、全ての記憶を上書きしているが、もとはといえば狂信的なクリスチャンである母親の圧力が背景にあったのかも(墓のシーンとか)。37年ぶりに再映画化されるらしいので、“母娘”にも目配りしながら見ると面白いかも。

 『キャリー』を“母娘”の観点で見るならば、“母息子”視点からヒッチコック『サイコ』を、ショーン・S・カニンガム『13日の金曜日』を、とホラー・サスペンス映画が続々出てきそう。歪んだ犯罪の原因としての親子は、物語としての座りがいい。

■スゴ本オフで言えなかった「親」

ごっこ うさぎドロップ エヴァンゲリオン

 子ども同伴の場だったので、あンまり尖ったりエグいのは出せなかった。だが、真正のわたしはダークサイドなのですぞ。なので、言い足りなかった作品をいくつかご紹介。

 まず『ごっこ』(小路啓之)。ロリコンニートがイタズラ目的で拉致した少女との“親子ごっこ"遊びの話。デフォルメされた絵柄に騙されるなかれ、軽く見てると抉られるので気をつけて。『源氏物語』の紫の上のように、『うさぎドロップ』のダイキチとりんのように、育てた娘を姦するなんて、禁断かつ究極の愛なのかも。セックスできる娘としての紫の上がいるように、セックスできる母としての綾波レイがいる。『エヴァンゲリオン』を親子の話として見るならば、ゲンドウ-シンジの組み合わせよりも、レイ-シンジのほうが、あるいはリツコ-ナオコのほうが濃く楽しめそう。

 禁断かつ究極のタブーをさらに深めると、食べることで得られる、女との一体感、エクスタシーになる。『湘南人肉医』(大石圭)はカニバル趣味の整形外科医の話。「食べるため」に赤ん坊を誘拐し、育てる。成長した彼女を待ち受けたものは───これは、ダークサイドに墜ちきって突き抜けた『きつねのおきゃくさま』(あまん きみこ)といっていい。読まないことをオススメする。

 ラストは暗黒面に支配されてしまったが、「親子」という視点は、人の暖かいところも冷ややかなところもさらけ出してくれる。そのおかげで人類が生きてこられた、もっとも緊密かつ呪わしい関係なのだから。わたしの紹介は「親とは呪いである」の通り。あわせてチェックしてほしい。

 最後に。ご参加いただいた方、ご協力いただいた方、ありがとうございます。そして、次回も着々と準備をすすめてまりますので、お楽しみ。

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