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純情淫乱ラブコメディ『君は淫らな僕の女王』

 「お酒を飲むと人が変わる」は、実は正しくない。お酒というものは、人の自制心を取り除いて、その人の本当にしたいことを拡大して見せてくれるものだ。

 だから、泣き上戸は本当は泣きたいのであり、大トラは暴れたい衝動をガマンしているのだ、酒が入るまで。「酒が人を駄目にするのではない、元々駄目なことを気づかせるだけ」とはよく言ったもので、自己を再確認するツールとしてのアルコールは、かなり有効だ。じゃぁ酔うと艶っぽく怒りっぽくなる嫁さんは!? ツンデレ仕様の真相はご想像に任すとして、相当ストレス溜まっているんだな……肩の一つも揉みたくなる。

君は淫らな僕の女王 では、「お酒」でガス抜きできない女子高生が、自制心を失ったらどうなるか、しかも名門私立高校に通う、家柄も容姿も成績も完璧お嬢様が、自分の心の奥底に隠している「本当にしたいこと」を全開にしたらどうなるか、というのが本作。

 ちゃんと語り手が「巻き込まれながらカウンター気味に攻める」ところがいい。話者は、幼馴染の冴えない男子。彼女と同じ高校に行くため、必死に勉強し、特待生枠で見事合格→同じクラスまでたどりつくまではいいが、そこまで。あくまで冷たい彼女はあからさまに避け、幼馴染という過去すら忌み嫌っているように見えるのだが……そこはそれ、ファンタジーの出番ですよ。

 わたしくらいオッサンになると、高校生はファンタジーになる。ラノベであれアニメであれ、思い出したくない遠い日を上書きするための方便として有用なんよ。だが、本作のファンタジー設定はブッ飛んでいた。この、たった一つのフィクションを除いて、後は極めてまっとうな純情変態ラブコメディに仕上がっている。

 特筆すべきは放尿。史上最高の傑作放尿マンガといえば、ぢたま某『聖なる行水』であることは論を待たないが、『君は淫らな僕の女王』のソレも充分匹敵―――処により凌駕するほどのインパクトを持つ。刮目して瞳に焼き付けるべし。ホラあれだ、「もヤだぁ」とツンデられながら、そっと中心に触れるとぐしょぐしょだったときの驚きと倒錯したヨロコビがエミュレートできる。期待していいよ。

 エロス一辺倒に陥らないのがいい。上手な伏線まわしで一途な思いが明かされたり、ほろりとさせる事情が差し込まれたり、なかなか読ませてくれる。思わず知らず応援したくなる相手が、最初は男子で次は彼女に移って行くのがいい。あんなことやこんなことを、鉄壁の自制心で守らざるを得ない、ストレス溜まりまくりの半生が可哀想&ギャップに萌える。

 ええ話や~ラストは一緒になって心を揺らせ。リミッターカットしてもっとフリーダムになれよ、と自分にエールを掛けたくなる(もったいないから飲むが)。さて、もう一杯飲もう。

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親とは呪いである

 親やるようになって十年たった。

 振り回されつつ導こうとする親業(親行か?)、いずれも上手くいってる気がしない。子どもは親の言うことは絶対に聞かないが、親のマネだけは恐ろしく上手だ。せいぜい、己が背中を煤けさせないように気をつけるのみ。

 それでも面白いのは、親とはつくづく業(ごう)なものに気づいたこと。親とは一種の呪いなり。遺伝情報のコピーは、遺伝子のみならず、獲得形質を子どもに渡す。それは、思考や習慣、癖といった名前で呼ばれ、人生や社会や異性に対する姿勢なども相似(あるいは反面教師)の形で伝染(うつ)される。

 そういう、親の呪い、親の業(ごう)について選んでみた。お気づきの方もいらっしゃるだろうが、これは、スゴ本オフ「親子」で紹介した作品がメインになる。しゃべるのはヘタっぴなので、ここで文章化しておこうかと。

 まず、親の嘘について。親が子どもに嘘をつくのは、現実がとんでもなく歪んでいるから。狂った世界に染めさせないため、大きなものから小さなものまで、親は子どもに嘘をつく。「夜ふかしするとお化けが出るよ」から、「努力すれば合格できる」まで、大なり小なり親が積み上げてきたものは、やがて子ども自身が乗り越える壁となる。

ライフ・イズ・ビューティフル 映画『ライフ・イズ・ビューティフル』の後半は、ナチスの収容所が舞台だ。前半までの陽気なラブコメとは一転して、現実は狂っている。そこへ収容された若い夫婦と、その息子。極限状態に押しつぶされそうな状況で、父は息子に、ある嘘をつく。そしてその嘘を守り通そうと奮闘するのだ。前半のコメディは伏線となり、ひたすら笑顔でユーモアを振りまき、家族を救おうとする父にグッとくるだろう。その嘘がどうなるのか、家族の運命がどうなるのか、全てがたどりつくラストは、実は涙でよく見えなかった。

fallout3 XBOXのゲーム『fallout 3』は核戦争後の荒廃したワシントンD.C.が舞台だ。人々はシェルターで生きのびはするが、放射能で汚染された外から完全に遮断されている。主人公はシェルターで生まれ、育ち、19歳になったとき、突然、父が失踪する。父を探すため、主人公は外に出る。放射能で変異したミュータントや凶暴なグールが徘徊する地を旅するうちに、主人公は、父の「嘘」に気づく。なぜ父は自分を置いて出て行ったのか、自分を騙したのはなぜか、そして父が何をしようとしているのか、全ての謎が明かされるとき、父と自分の運命が決するとき、やっぱり泣ける。だが(これがスゴいところなのだが)、冒険は終わらないのだ。壊れた世界を伝染(うつ)さないための嘘。

愛すべき娘たち よしながふみ『愛すべき娘たち』、これは母が娘につく嘘の話が隠されている。読み始めてもそれは「嘘」だとは分からないようになっており、短編を重ねる構成で々と話者が代わっていく中で、通底音のように流れている。母、母の母、娘、娘の友人のようにオムニバスが広がってゆき、女性が抱える葛藤や不安が淡々切々と描かれる。「母というものは要するに一人の不完全な女の事なんだ」この言葉に出会えただけでも価値がある。母の嘘は、娘を歪ませないための方便だったとしても、それは(女である)母が自分自身についた嘘なのかもしれぬ。

毒になる親 完璧な人間など存在しないように、完璧な親などいない。だが、人の歪みや狂気が「親」という複製機で増幅されると、子どもはその歪みや狂気を一生背負うことになる。『毒になる親』では、大人になっても苛まれる人々が紹介されている。自分に価値を見出すことができない、切迫感、罪悪感、フラストレーション、自己破壊的な衝動、そして日常的な怒りに駆られる人がいる。それは、親が望んだ「わたし」を強いられた結果だというのが本書だ。そうした呪いと向き合い、決別する方法が(やや過激ながら)具体的に記されている。誰にでもオススメできる本ではないが、どうしようもない問題や感情を抱えて苦しんでいる人には、親の嘘から自由になる助けになるだろう。twitterでオススメされた『母がしんどい』をスゴ本オフでゲットしてきたので、あわせて読みたい。

ドレの旧訳聖書 『毒になる親』で、体罰を正当化するために悪用された本として『聖書』が挙げられている。子どもを「指導」している、あるいは「しつけ」ている。子どもを強くするための試練や、儀式であると称し、体罰を正当化しているというのだ。ヨブ記がまさにそうだろう、神の裁きと『義人の苦難』というテーマだ。神の意志は惑星のごとく、人の感情とは別の軌道を運行しているもの。だからとやかく言うではない、というのは分かるが、神だからこそ。親が代行するのはおこがましい限り。"the Father"(父なる神)と"father"は、違うのだ。

初秋 ダークサイドに墜ちたご紹介だったので、最後は厳しくも暖かい傑作『初秋』を。私立探偵スペンサーシリーズで、両親から放置され、ネグレクトされた少年を鍛える話だ。スペンサー流のトレーニングがいい。「おまえには何もない。何にも関心がない。だからおれはお前の体を鍛える。一番始めやすいことだから」。厳しくてあたたかい、という言葉がピッタリだ。これは二色の読み方ができて、かつて少年だった自分という視線と、いま親である立場というそれぞれを交互に置き換えると、なお胸に迫ってくる。本当の父親でないスペンサーが、本当の父親以上に、「大人になること」を叩き込む。「いいか、自分がコントロールできない事柄についてくよくよ考えたって、なんの益にもならないんだ」このセリフは、スペンサーが自分自身に言い聞かせているようにも見える。年をとるのは簡単だが、大人になるのは難しい。

 親になることよりも、親をするのはもっと難しい。このトシになって実感するのだが、子どもを持つようになって十年以上経って分かるのだが、全ての親子の確執の元凶は、親自身が自分の人生でハマっている陥穽と同様に、コントロールできないものをコントロールしようとするところにあるのではないか。過去と他者はコントロールできないが、今と自分はコントロールできる。せいぜい子どもにマネされるよう、己が背中を律して生きるべ。

 わたしがご紹介する親の業(ごう)の本はここまで。スゴ本オフでは、これを凌駕する凄いのが集まった。別のエントリにてご紹介するので、しばしお待ちを。

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人生を台なしにされる『毒になる親』

毒になる親 親とは呪いだ。

 遺伝情報のみならず、思考や習慣、振る舞いや癖といった名前の「わたし」を渡しているから。プラスもあるが、ネガティブな奴もある。「わが子の不幸を望む親はいない」はキレイゴト。自覚の有無にかかわらず、歪んだ自分をダイレクトにうつされる。この場合、「伝染(うつ)される」が正しい。本書は、この負の連鎖に苦しむ人と、それを断ち切る処方が書いてある。正直、読むのが苦しかった(子どもである過去の自分と、親である今の自分を試されるようで)。

 自分に価値を見出すことができない人がいる。どんなに努力しても不十分であるという切迫感、罪悪感、フラストレーション、自己破壊的な衝動、そして日常的な怒りに駆られる人がいる。自分の人生ではなく、誰か他人の、親の望んだ「わたし」を強いられた結果だという。

 ところが、自分の身に起きている問題や悩みと「親」との因果関係に気づいている人はほとんどいないらしい。著者はこれを「心理的な盲点」と呼び、自分の人生を左右している問題の最も大きな要因が親であると考えることに抵抗を感じるという。「自分の問題は自分の責任だ」と抱え込んでしまうのだ。そうして心を病み、相談を求めるようになる(著者は精神科医)。

 著者は断言する。

「自分の問題を他人のせいにしてはならない」という主張はもちろん正しい。だが、それをそのまま幼い子どもに当てはめることはできない。自分を守るすべを知らない子どもだった時に大人からされたことに対して、あなたに責任はないのである。

 幼い子に対して親がしたことに関する限り、すべての責任は親が負わなければならない。社会のせいにしたり、子どもの友人関係に押しつけたりすることは可能だし、そういう親は沢山いる。だが、わたしがそうなりうるかを考えると、違うと言える(言いたい)。「子どもがおかしい」と言われるが、本来タブラ・ラサの存在がおかしくなるのは、成長の過程にある。そこに最も大きく、いちばん強く関わっているのは家であり、親である。

 本書では、かなり厳しい「親の呪い」が紹介されている。虐待やネグレクト、言葉の暴力など、ネガティブな行動を執拗に継続し、子どもの人生を支配する親がいる(例外は性的虐待で、一回でも最悪のダメージを及ぼす)。そんな、子どもにとって害をなす親を、著者は「毒になる親(Toxic Parents)」と定義している。

 子どもを「しつけ」るために、暴力を正当化する親。支配欲を満足させるために、わが子で性欲を満足させる親。「お母さんが病気で死んだのはお前のせいだ」と追いつめる親。「可哀想な親」を(無自覚に)演じることで、子どもに罪悪感を植え付け、コントロールする親。共通文句は「あなたのためだから」。

 もちろん、親も人だ。だから完全な親なんて存在しない。誰でも欠点はあるし、アルコールや借金などの問題で頭を抱えていることもあるだろう。親の親が鞭を惜しまなかった例もある。

 しかし、だからといって子どもをスケープゴートにしていい理由にはならぬ。「お前の気持ちなんか重要ではないんだ、私は自分のことで頭がいっぱいなんだから」という強いメッセージを発し続け、子どもが「透明人間」になったように感じていいわけがない。「まともな一家」の仮面を守るために、性的虐待から目をそらし、はかり知れない苦しみとともに生きることを強いていいわけがない。

 著者は、そうした「毒になる親」との対決を迫る。親に植え付けられた罪悪感を捨てよ、と促す。自分の中でことあるごとに出てくるネガティブな思考は、本当に自分の考えなのか、あるいは親に刷り込まれた呪縛なのか、振り返れという。そして、怒りとともに吐き出す方法が紹介されている。手紙や直接会って、あるいは墓前にて、親のデトックスをするのだ。

 親の応酬もイメージトレーニングできる。事実の否定、問題のなすりつけ/すりかえ/ごまかし、妨害行動、(配偶者などとの)三角関係が紹介されている。対決により、親子関係が“変わってしまう”だろう。共依存に陥っている人は恐れるかもしれない。だが、それこそ望むもので、「親の感情から自由になる」ことが本書の目的なのだ。

 最もガツンと来るのが九章、「毒になる親」を許す必要はないという件だ。ひどい思いをさせられた人は「怒り」という感情を外に出す必要がある。子どものときに望んでいた愛情を親から与えられなかった人は「深い悲しみ」という感情をはき出す必要がある。自分にされたことを矮小化しないで、と釘を刺す。「許して忘れなさい」と言う人がいるが、それは「そんなことは何も起きなかったというフリをし続けなさい」と言っているのと同じ。

 怒りや悲しみは、「許す」ではなく「赦す」。自分の感情を殺して罪を許しても、事実を否定しているだけ(むしろ、そんな親こそ躍起になって事実を否定するだろう)。その怒りや悲しみを抱えていると、自分が滅ぼされてしまう。だから、その感情を「手放す」のだ。著者は「吐き出す」「爆発させる」ことを勧めるが、洗い流す、漱ぐという意味で「赦す」ことになるだろう。

 今の(親としての)自分が、どこまでできている/できていないかを問われているようで、厳しい読書だった。その一方で、昔の(子どもとしての)自分が、どこまで影響を引きずっているか問われているようで、悩ましい読書だった。さらに、そういうわたし自身の「毒」も感じながら、身のすくむような読書だった。

 誰にでもオススメできる本ではないが、どうしようもない問題や感情を抱えて苦しんでいる人には、大きなヒントとなる。

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『2666』はスゴ本

 すごい経験をした、「面白い」を突き抜けている。

 一番大切なものは、隠されている。それが何か、読めばわかるのだが、読み終わっても消えてくれない。「余韻が残る」といった可愛らしいものではなく、ずっと頭から離れないのだ、呪いのように。

 モチーフを描いて、背景ともに詳細を語る。その後、モチーフだけ消し去ってしまう。なくなった空間に、視線と伏線がなだれ込む。モチーフのあった場所は消失点となり、その周囲には注釈や言伝が散りばめられる。ボルヘスの『伝奇集』のイントロを思い出す。

長大な作品を物するのは、数分間で語り尽くせる着想を五百ページにわたって展開するのは、労のみ多くて功少ない狂気の沙汰である。よりましな方法は、それらの書物がすでに存在すると見せかけて、要約や注釈を差し出すことだ。

 ボルヘスは提案する、代わりに架空の書物への注釈を付けろと。だが、ロベルト・ボラーニョは、そうしない。八百ページ超、二段組の、ほとんど鈍器のような作品にするのだ。本来は以下の五冊になる作品群が、編者の意向により一つにまとめられている。ボラーニョの遺志とは異なるようだが、非常に助かった。

 1. 批評家たちの部
 2. アマルフィターノの部
 3. フェイトの部
 4. 犯罪の部
 5. アルチンボルディの部

 というのも、それぞれの「部」は、独立しているようでいて、互いに連環し、張り巡らされた伏線が循環しているから。進めるたびに幾度も振り返り、確かめ、かつて通ったところを驚愕しながら読み返し、既視感に苛まれながら再び消失点のピントを合わせる。あたかも巨大な広角レンズで撮ったかのように、被写界深度が奥まで行き届いている。

 いちばん大切なことは、いつまでも書かれないまま、どこまでも読み手を惹いてゆく。この物語を読み解くヒントは、ある画家のエピソードにある。才能により名声を得るが、最後の作品を描いた後、筆を持つほうの手を切り落として、作品の中心に貼り付ける。手を失ったことにより、もう描けないが、その手によって作品は完成するのだ。モチーフは消されたものの、不在そのものが主題なのかも。

 最初は不在の作家を追う話なのが、語り継がれるうちに、行方不明の女の話に、さらに常識はずれの猟奇殺人にまで至る。一見したところ、エピソードのつながりが低いのに、「書かれないこと」を囲むように配置されていることに気づいた瞬間、俄然存在感を帯びてくる。相互参照性が押し出される。ゆるい構成だと多寡みてたら、実は包囲されていた感覚が押し寄せてくる。

 読み手を導くテクニックがまたスゴい。ガルシア・マルケス十八番の、一炊の夢に一族の口伝を遡上させたり、ドストエフスキーそこのけのポリフォーニックな語りを重ねたり、ピンチョンを彷彿とさせるエピソードの入れ子構造を実現させたり、現代に至る小説の成果を存分に味わうことができる。大きな物語から小さなエピソードまで、思い出す作家は多々あれど、似ている作品はなに一つないまま、最後に驚くべき全体像が浮かび上がる。こんなこと、初めての体験だ。

 本から離れると、写真や絵画のように読めるが、本を開いて近づくほど映画的になる。複数のシークエンスをカットして並べた構成は、手練の技そのもの。本や手紙、メールの小道具と、それを読む人、さらにその発信者といった異なる被写体を、オーバーラップさせながらカットバックする進行は映画の技法だ。さらに、緊迫した事件を発生している速度と同じスピードで描写するシーンと、淡々としたインタビューの書き起こしと、簡素なレポートの並べ方が、いやらしいほど絶妙なり。

 なによりも、盛り上がりを盛り上げない態度が潔い。山場をセンセーショナルにしないし、描写密度を上げたりしない。コーヒーを淹れるシーンも、陵辱されて殺害された娘の遺体の描写も、(読み手はびっくり仰天する)謎の種明かしも、著者は同じ濃度で描く。異様で執拗な誘拐殺人(未解決)も、発作的な殺傷事件(すぐ解決)も、同じ質量で書く。モチーフの喪失に気づけば、そこへのアプローチそのものが盛り上がりになるんだといわんばかりだ。

 消失点の向こう側にあるものは、サンタテレサの誘拐殺人事件。ティーンから学生、人妻、売春婦といった若い女が行方不明となり、猟奇的に殺され、遺棄され、発見される様が淡々と、延々と羅列される。これは、シウダー・フアレスで実際に起きた(起きている?)事件を基にしている。小説も現実も、犯人と目される者は捕まり、刑務所へ送られる。

 だが問題はここから、その後も犠牲者は出続けるのだ。模倣犯説や撹乱説が取りざたされるが、殺され・棄てられる女性は増え続け、その数は200人とも300人とも言われている。小説では、怨恨や嫉妬による「ふつうの」殺人も混ざるように並べてあるため、読み手は、「ふつうの」殺人事件と、ソドムの犠牲者の区別がつかなる仕掛けになっている。

 ボラーニョは、この事件そのものを描こうとしたのではない。確かに、犯罪の外観や、肉薄する人や犠牲者の半生も書いたが、その中心――― whydoneit whodoneit ―――は、あなたの目で確かめてほしい。ほのめかしやミスリードにより、あなたはある予想を抱くだろう(おそらくそれは、わたしと同じだ)。だが、それを手繰っていった先は、消失点の向こう側に消えている。この事件を取り巻く人々の連環を書き重ねることで、巨大な喪失を、空白を示そうとしたのかもしれぬ。そこに何を見出すかは、もちろんわたしの勝手なのだが、読む度に変わっていそうで、面白い。外環が緻密で豊饒なほど、中心の真空が磁力を持つ。

 豊饒なる喪失を堪能すべし。

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やっぱり恋が好き『堀さんと宮村くん』

 火傷しても幻滅しても、いくつになっても恋が好き。

 嫁さんにゃ軽くいなされるだけだから、せめてラブコメで補給する。「人を好きになる」というのは、わたしにとっての生きるチカラそのものであり、「その人を好きでいつづける」というのは、そのチカラを費やす能動的な行為(好意?)やね。

 「好き」と言えば簡単なのに、そこをあえて回避させ、それでも惹きあうシチュを捻って捏ねってドラマティックに演出する。ケータイやメールが行き届き、(わたしの時代よりも)障壁が少なくなった今、どういうハードルを設けるか、作家の腕の見せどころが、読者の頬のニヤケどころ。『ハルヒ』や『とらドラ!』や『化物語』好きにオススメしたいのがこれ。

 それは、『堀さんと宮村くん』

読解アヘン

 ニヤニヤが、やめられない、とまらない。かなりの中毒性を持つ。注意書きにもあるとおり、「色々な友情・恋愛の形」が楽しめる。「気になる」→「好きだ」→「離さない」という三段活用で、性格も外見も変わってゆく(というか、顕になってゆく)過程が面白い。自分を隠したい気持ちと、好きになった相手に伝えたい欲求の狭間にもみくちゃにされるがいい。

 要注意なとこもある。高校生の生活を描いた、一見たあいもない日常と思いきや、ストレートじゃなかったり、病んでたり、暗かったりする地雷つき。いわゆる日常系の、きゃっきゃうふふではないのだ。特に「※」で警告される鬱展開は読まないほうが吉(本編にさしつかえなし)。イマドキの高校生(?)のヤることヤってる感は、見なくてもいいものを見てしまったような後ろめたい気持ちになる。

 もちろんこれはノスタルジー、だけど、わたしにとっては無かった過去を懐古するファンタジー。なぜなら、“そういう話”は全然なく、あったとしても気づいたのはずっと後の祭りだったから。感度が低くてニブチンのまま学生を終える典型やね。たまこマーケットつまらんという感度では、高校たのしめないだろうな。

 ええトシこいたオッサンにとって、アニメやラノベの高校生は、ファンタジーそのもの。たとえニャル子や蟹娘が出なくとも、「高校生の日常」そのものが貴重品。

 甘しょっぱいラブコメ補給に、『堀宮』をどうぞ。リアルのドロ生しさの、コミカルなコピーとしても酔えるから。

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『ウォーキング・デッド』はスゴ本

 生きている人間こそ、最も恐ろしい。

 奴らは食うだけで満足するが、人は愉しみまで求めるから。極限状況で人がどのように“変化”するか、分かる。奴らに噛まれたほうが幸せだ、という展開にならないように祈りながら読む。

 作者は言う、「すべてのゾンビ映画の最悪の点は、エンディングにある。ぼくは、エンディングの後に何が起こるのか、常に知りたいと思っている」―――この、エンディングの後の物語が本書になる

 たいていのゾンビ映画は、ひとりの人生の断片を切り取り、監督が飽きるまで見せるだけ。だから登場人物に馴染み、彼らの冒険に付き合い、やっといい感じになりはじめた途端、クレジットが流れ出す―――これに反発したロバート・カークマンが描こうとしたのは、「その後」だ。奴らに囲まれた日常と、そこで起きる“変化”だ。

 まず、外見に現れる。こざっぱりとした主人公が無精ひげになり、のび放題になる。警官だったはずが、無法者みたいになる。同時に、人としての感情や思いやりのある台詞が、削ぎ落とされ、とげとげしくなる。最初にあったはずの生き残りの仲間意識が、恐怖と緊張感で疑心暗鬼になり、血なまぐさい事件でバラバラになる。

 “変化”は精神的な内面にも起きる。それは地中のマグマのように基盤をゆっくり確実に動かし、最悪のときに暴発をもたらす。絶え間ないプレッシャーに曝され、心が徐々に歪んでゆき、まともな頭では考えられない行動を取る。常軌を逸したどの行動も、奴らではなく、生きている人に向けられる。かなり過激なので、読むときはご注意を。

 変化はゾンビにも起きる。屍体だから代謝は無い、従って組織は腐って崩れてゆく。最初は生き生きとした(?)奴らも、蛆虫に食われたり腐ったりして歩きにくくなる。じゃぁ奴らが腐乱するまで隠れていれば勝ちじゃね?と思うでしょ(わたしも、そう思った)。だが、嫌ぁな設定を持ってくるのよ、作者は。そしてこの設定の本意は、タイトル『The Walking Dead』にも込められているのよ。

 以下、本作のテーマともいえる最重要な台詞を引用する。第2巻のクライマックスとも言える場面より。ピンと来た方は、ぜひとも手に取ってほしい。

  生き残るためには
  この世界に適応しなければならない。
  おれの頭がいささか狂ってるってか?
  そうかもな……世界の方も狂ってるんだから。

  リーダーから外れて欲しいって?
  けっこう。
  かまわん。
  プレッシャーがなくなってうれしいよ。

  だけど、このことだけは言っておく。
  安全のためには
  なんでもする。
  どんなことでも……おれはやる。

  見え透いた言い訳はよせ……
  自分をごまかすのはやめろ。
  現状を見ろよ。

  これがおれたちの生活だ。
  一時しのぎの場じゃない。
  救助を待ってるわけじゃないんだ!
  これがすべてなんだ。
  おれたちには
  これしかないんだ。

  状況を改善したければ
  この場所を良くするしかない。
  そのことを忘れるな。

  やつらのひとりの頭に
  銃弾をブチ込んだとき……
  バケモノひとりの頭に
  ハンマーを振り下ろした瞬間……
  あるいは首をチョン切ったときから
  昔のおれたちとは
  ちがう存在になったんだ!

  そういうことなんだよ。
  あんたらみんな
  自分の姿を
  わかっていない。

  おれたちは死者に取り囲まれている。
  やつらの中で
  生きていて……
  諦めた途端に
  やつらの仲間になる!

  おれたちは前借りした時間を
  生きている。おれたちが生きる一分は
  やつらから盗んだ一分なんだ!

  向こう側にいる
  やつらを見ろ。おれたちが死ねば……
  やつらの仲間になる。
  金網のこちら側にいて
  生きた屍(walking dead)から
  身の安全を守ってると思っているんだろ!

  まだわからないのか?

  おれたちが生きた屍(walking dead)なんだよ!

 脅威はゾンビではなく、あくまで人間なのだ。これまでの法や倫理が通用しなくなった世界で、人はどこまで人でいられるのか。裏返された世界における人は、あまりにも人っぽくなく、むしろそこを取り囲んでいる奴らのほうが、馴染み深い。

 ゾンビ映画を観るとき、いつもするように、極限状況に自分を置く読み方もいい。自分を追い詰めるのは難しいが、追い詰められた「誰か」に投影することができる。家族、友人、隣人はどんな行動をとり、どんな運命に辿り着くのか、想像するだに恐ろしい(そして楽しい)。わたしは誰になりうるだろう?たぶん1巻で生き残れない組、しかも主人公に撃ち殺される友人になるだろう。そしてわたしも奴らの仲間になるのだ。ゾンビそのものよりも、その恐怖に押しつぶされて自分がおかしくなる方が、より怖いのだ。

 米国で驚異的な視聴率を叩きだしたドラマの原作なのだが、俄然ドラマの方も観たくなる。映画から飛び出し、ドラマ、ラノベ、コミックまで、カルチャー全体に波及するアイコンになろうとしているゾンビ───その全体像に迫るユリイカ2月号と併せて読むと愉しい。

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教え子の女生徒が恋しいんです、情動を抑えられません『車谷長吉の人生相談:人生の救い』

 朝日新聞の人生相談をまとめたもの。ありふれた悩み事に、過激な回答が良い。たとえば、40代の高校英語教師(妻子もち)。まずまずの人生を過ごしてきたが、数年に一度、自分を見失うくらい没入する女生徒が現れるという。

今がそうなんです。相手は17歳の高校2年生で、授業中に自然に振舞おうとすればするほど、その子の顔をちらちら見てしまいます。その子には下心を見透かされているようでもあり、私を見る表情が色っぽくてびっくりしたりもします

 こんなところに馬鹿がいる、わたしも同じ狢ナリ。このセンセ、自己嫌悪に陥ったりもがいたり、なかなかの煩悩っぷり。その娘のことばかり考え、落ち着かない毎日。長いことオトコやっていると、分かる。一定のインターバルで“そういう時期”がある。

 こういう相談を持ちかけられたら、わたしはひとたまりもなく同意して、一杯おつきあいするぐらいしか能が無い。上から目線で諭すのも、頭ごなしに否定するのも、悟ったように語るのも向いていない。

 だが、流石というかなんというか、車谷長吉氏、想像のナナメ上を行く。「恐れずに、仕事も家庭も失ってみたら」と背中を押す。人の生は、この世に誕生したときから始まるのではなく、全てを失い、生が破綻してからがスタートだという。だから破綻なく一生を終える人は、せっかく人間に生まれてきながら、人生の本当の味わいを知らずに終わってしまうのだというのだ。

 そして、破綻してしまえ、職も家庭も失ってしまえ、好きになった生徒と出来てしまえと焚きつける。「そうすると、はじめて人間の生とは何かということが見え、この世の本当の姿が見えるのです」───鬼か、と思う。

 だが、彼に言わせると、人の本質は鬼だ。他の生を喰らって生きる人間に、一切の救いはないという。欲に翻弄されるなら、身を任せて燃え尽きよという。そこから本当の人生が始まるのだから、と過激だ。色や金といった些末な(失礼!)悩み事に、さらなる奈落から回答する。

 たとえば『忌中』を読むと、地獄とは何かよく分かる。(生き)地獄を見た後、自分自身の人生に戻っていけることを、心から喜べる。どんでん返しも、ささやかな喜びも救いも、全くない。読中の嫌な予感は否定も肯定もされないまま、予想通り、最悪の最期に至る。不幸な人生はどこまでいっても不幸であることを納得させる厭な本。

 そこからの回答には、一切救いはない。突き抜けた一種の爽快すら感じる。新興宗教にカネをつぎ込む妻に困惑する夫には、「騙されるのは楽になる道なのです」と説き、「女は貧乏人と結婚する気はないのです」と突き落とす。悠々自適の年金生活者が「小説を書きたい」と言い出せば、「善人には小説は書けません」と両断し、「人を恨むは蜜の味」と諭す。酸いも苦いも噛み分けた人なんだね。

 この人の「回答」に想像がつくようになる頃、ちょと特殊な質問がやってくる。「父が女性の下着を持っています」がそれだ。18歳の女子高生で、父の異常な性への関心ぶりに困惑しているという。アダルトビデオなら許せる。だが、

父は私のものでも、母のものでもない、女ものの下着をけっこうな量、持っているのです。そしてそれを毎週、週末になると、母の不在のときに洗濯しているようなのです。(中略)ふだんの父は仕事で忙しい母に代わって家事などもよくしてくれるし、やさしいので、私は父のことを尊敬もしています

 彼女は小学生のときから気づいていたという。でも、父本人はもちろん、家族の誰にも言えず、どこで、どのような目的で入手したものなのか分からないまま、父の行動を見ていると悲しくなると告白する。これは「うんうん、分かるよ」なんて口が裂けても言えねぇ……

 この答えがいいんだ。いままで「人の生は地獄です」なんて切断していたところから、実にいいことを指摘してくれるあたりまえ、といえばそうなんだけど)。気になるパパは、この回答を読むべし。

 ありふれた煩悩に一撃を食らわせる毒本。

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持ってかれるラノベ『2』

2 軽くて深くて夢中で読み干す。

 最高の一冊を知ってしまったら、知る前の世界には戻れない。『2』は、野崎まど最高の、集大成となる作品らしい。偶然、書店で「呼ばれた」とはいえ、エラいものを引き当ててしまった。

 パッとしない役者の卵が、映画俳優に抜擢される序盤で気づくべきだった。この作家は、魅力的な設定やキャラを作り上げた後、ちゃぶ台返しすることで、さらにメタな設定やキャラに仕立て直す書きっぷりなんだってね。

 非常に個性的で、ピンでも主役を張れるキャラが、惜しげも無く蕩尽されるのを勿体ないと思ったのだが、彼・彼女らは『2』に至る小説群のメインキャラクターだったんだね。それだけ本作がいかにブッ飛んだものであったか分かる。いきなり「最高」を読んじゃって勿体ない気分だが、スピンアウトキャラを堪能する、西尾維新の戯言シリーズ的な読みをしても面白いかも。

 映画の「魔」をとらえた徹夜小説なら、『フリッカー、あるいは映画の魔』がスゴい。ある映画監督に取り憑かれるあまり、彼の究極映像を追い求める話なだが、そのまま悪夢の遍歴となる。実際の映画史と虚構がないまぜとなり、主人公の悪夢を強制的に観させられるような体験ができる。映像美のディテールが凄まじく、この監督の映画を観てぇ……悪魔に魂を売ることになっても……と吼えながら、ラストの“究極の映像”に身もだえするだろう。

フリッカー、あるいは映画の魔上フリッカー、あるいは映画の魔下

 『2』の映画もそう。この映画がどんな内容で、何のために撮られ、誰が観ることになり、その結果、何がもたらされるのか───「最高」を知ってしまったら、知る前の世界には戻れない。ラストに身もだえするがいい。

 あまりにノーヒントなので、『2』を読んだ後、今でも囚われている観念をご紹介しよう。『2』のキモを、中身に触れずに述べているところだから。

「"面白い"とは何でしょう」

「"美しい"とは何でしょう」

頭の中で言葉を反芻する。面白いとは何なのか、世界の誰も理解していない。美しいとは何なのか、本当の意味で解っている人間はいない。

「そんなに難しいことではないのです」

「"面白い"も"美しい"も本質的には同じものです」

「"楽しい"も"嬉しい"も"辛い"も"悲しい"も、全ては同じ現象を別方向から観測して、細かく分類しているだけです。それらの本質は全く同じものです」

「それは、感動」

「感動、感情の動き。人の心が動くこと。それが本質です。面白いとは、美しいとは、感動の方向を表現するだけの言葉に過ぎません。美しさを追求する芸術も、面白さを追及する娯楽も、最終的な目的は全て同じです。人を感動させること。人の心を動かすこと」

レトリック感覚 何をアタリマエな……そう思うでしょ、わたしも思う。美的であれ理的であれ、人の心を動かすテクニックは、『レトリック感覚』で学ぶことができる。アリストテレスによって弁論術・詩学として集大成され、二千年かけて精錬された修辞学は、言語に説得効果と美的効果を与える技術体系だ。暗喩も倒置も押韻も、言葉の焦点をずらしたり拡張することで、聴き手の心を揺らがせる。これは、そのまま"面白い"や"美しい"につながる、恐ろしいほどの共通点を持っている。

 では、人の心動かすものは何か?これを詰めると『2』になる。注意したいのは、主題は「面白いとはなにか」という深いものである反面、展開の軽さはラノベ的なこと。リアルからどこまで浮遊できるか、それは読み手ののめり込み具合に懸かっている。

 ぜひ、持ってかれて欲しい。

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