持ってかれるラノベ『2』
最高の一冊を知ってしまったら、知る前の世界には戻れない。『2』は、野崎まど最高の、集大成となる作品らしい。偶然、書店で「呼ばれた」とはいえ、エラいものを引き当ててしまった。
パッとしない役者の卵が、映画俳優に抜擢される序盤で気づくべきだった。この作家は、魅力的な設定やキャラを作り上げた後、ちゃぶ台返しすることで、さらにメタな設定やキャラに仕立て直す書きっぷりなんだってね。
非常に個性的で、ピンでも主役を張れるキャラが、惜しげも無く蕩尽されるのを勿体ないと思ったのだが、彼・彼女らは『2』に至る小説群のメインキャラクターだったんだね。それだけ本作がいかにブッ飛んだものであったか分かる。いきなり「最高」を読んじゃって勿体ない気分だが、スピンアウトキャラを堪能する、西尾維新の戯言シリーズ的な読みをしても面白いかも。
映画の「魔」をとらえた徹夜小説なら、『フリッカー、あるいは映画の魔』がスゴい。ある映画監督に取り憑かれるあまり、彼の究極映像を追い求める話なだが、そのまま悪夢の遍歴となる。実際の映画史と虚構がないまぜとなり、主人公の悪夢を強制的に観させられるような体験ができる。映像美のディテールが凄まじく、この監督の映画を観てぇ……悪魔に魂を売ることになっても……と吼えながら、ラストの“究極の映像”に身もだえするだろう。
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『2』の映画もそう。この映画がどんな内容で、何のために撮られ、誰が観ることになり、その結果、何がもたらされるのか───「最高」を知ってしまったら、知る前の世界には戻れない。ラストに身もだえするがいい。
あまりにノーヒントなので、『2』を読んだ後、今でも囚われている観念をご紹介しよう。『2』のキモを、中身に触れずに述べているところだから。
「"面白い"とは何でしょう」
「"美しい"とは何でしょう」
頭の中で言葉を反芻する。面白いとは何なのか、世界の誰も理解していない。美しいとは何なのか、本当の意味で解っている人間はいない。
「そんなに難しいことではないのです」
「"面白い"も"美しい"も本質的には同じものです」
「"楽しい"も"嬉しい"も"辛い"も"悲しい"も、全ては同じ現象を別方向から観測して、細かく分類しているだけです。それらの本質は全く同じものです」
「それは、感動」
「感動、感情の動き。人の心が動くこと。それが本質です。面白いとは、美しいとは、感動の方向を表現するだけの言葉に過ぎません。美しさを追求する芸術も、面白さを追及する娯楽も、最終的な目的は全て同じです。人を感動させること。人の心を動かすこと」
何をアタリマエな……そう思うでしょ、わたしも思う。美的であれ理的であれ、人の心を動かすテクニックは、『レトリック感覚』で学ぶことができる。アリストテレスによって弁論術・詩学として集大成され、二千年かけて精錬された修辞学は、言語に説得効果と美的効果を与える技術体系だ。暗喩も倒置も押韻も、言葉の焦点をずらしたり拡張することで、聴き手の心を揺らがせる。これは、そのまま"面白い"や"美しい"につながる、恐ろしいほどの共通点を持っている。
では、人の心動かすものは何か?これを詰めると『2』になる。注意したいのは、主題は「面白いとはなにか」という深いものである反面、展開の軽さはラノベ的なこと。リアルからどこまで浮遊できるか、それは読み手ののめり込み具合に懸かっている。
ぜひ、持ってかれて欲しい。

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