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『レトリック感覚』と『レトリック認識』はスゴ本


 名著中の名著、ことばをあつかう全ての人に。

 使い慣れた道具の構造が分かり、より効果的に扱えるようになる。これまでヒューリスティックに馴れていた手段が、一つ一つ狙い撃ちできるようになる。こいつ片手に、そこらのラノベを魔改造したり、漱石や維新を読み直したら、さぞかし楽しかろう。

 レトリックというと、言葉をねじる修飾法とか、議論に勝つ説得術といった印象がある。もちろんその通り。アリストテレスによって弁論術・詩学として集大成され、ヨーロッパで精錬された修辞学は、言語に説得効果と美的効果を与える技術体系だ。

 だが、「技巧や形式に走る」といって、棄ててしまったのが現代なのだと弾劾する。ものには本名があるから、妙に飾らないで、本名で呼ぶのがいい……そんな俗物的な言語写実主義の教訓が、私たちの楽天的すぎた科学主義=合理主義=実用主義と混ぜこぜになって、言語感覚を狂わせたのだという。

 できあいの言語をじゅうぶん便利なコミュニケーションの道具と信じ、形式にこだわらず、気取らず、思ったことを正直に書けば、素直に伝わると無邪気に思い込んでしまっていた―――結果はどうだ?(学校の作文を思い出せ)。

 たとえば、体のどこかに名状しがたい「痛み」や「もどかしさ」を感じているときのように、心の奥底に密かな思いを抱くときがある。それは容易に言葉にならない(だから、「言葉に、できない」という)。にもかかわらず、ことばにしてみなければ自分でも納得できるものにはならない。「焼けるように」とか「ズキンズキン」は、確かにありきたりだが、言葉にすると距離感がつかめる。

 「思ったこと」をいくら言い表そうとしても、その外皮を削るどころか、近似の誤差すら縮まらない。ことばは外的な制約にすぎず、「思ったこと」専用にあつらえたものでないから。さらに、専用にあつらえた完全オリジナルであるなら、それはコミュニケートの道具として使えない。誰も知らないだろうからね。

 そういうとき、ふと、ほとんど偶然のように適切な言い方を思いつき、ほっとすることがある。これこそ自分だけのことばだ、と感じるだろう。しかしそれは、自分の「思い」に合わせてこしらえたものではない。私以前に、無数の他者たちが用いてきた、数え切れない用語の蓄積を担ったレトリックなのだ。

 確かに目次には、難しげな用語が並んでいる。直喩、隠喩、換喩、誇張、列叙、対比、逆説……とあるが、なに、用例だけ着目すればよい。このとき注目しておくと面白くなるのは、「伝えたいこと」と「ことば」の距離。

 例えば、「白雪姫」の白さにピントを当てたときと、「白いものが舞っている」井上靖の文例まで、概念のズーム・レンズが微妙に作動しているのに気づくとき、表現者の内部に動く微妙な認識への欲求を感じることができる。「DNA」や「ホワイトハウス」といった言葉の使われ方ひとつで、実は人間の認識そのものに、深く換喩が組み込まれていることに気づく。

 また、列叙法の文例は、触れているこっちまで感覚が伝染してくる。「列叙法」なんて耳慣れないが、要するに、だらだらと述べるやりかただ。幸田露伴『平将門』なんて、悪文に近い名文というか、名文に近似した悪文というか、紙一重の感覚で、乱雑な世界を乱れ気味なことばの外形によって模写している。tumblrで身元不明の(俺的)名文の出所が分かったのも収獲。これだ。

おおぜいの花魁のきげんをとるんですから、大変なもんでございまして、あんまりやさしくするてえと、当人が図にのぼせちゃう。といって、小言をいやあ、ふくれちゃうし、なぐりゃ泣くし、殺しゃ化けて出る。どうも困るそうですなあ、女というものは……
 おんなの、ねちっこさ、のりやすさ、あさはかさ、そしてはかなさを畳み掛けるように語ったのは、志ん生『お直し』。

 本書がスゴいのは、レトリックの説得効果と美的効果を解きなおしたからだけではない。三つ目の視点、創造的認識のメカニズムを探り当てたところにある。

レトリックのすすめ 文彩、いわゆる「ことばのあや」を操る事例なら、「レトリックのすすめ」をオススメする。文彩とは、通常の表現に偏差を与えることで、コードを逸脱することだと述べる。規範からの外れ具合が目を惹き印象を強めるというのだ。そして、「逸脱の動き」という断面から山ほど文例を集めてくる。

 だが、『レトリック感覚』その続編『レトリック認識』では、言葉の「動き」よりも「焦点」に力点が置かれる。言葉と対象そのものとの距離いかんにかかわらず、両方にピントが当たっているのを感じるとき、言語認識の能力が、意味の膨張や縮尺に自在に(無意識に)適応していることに、改めて気づかされる。普通なら想像のおよばない両者に焦点が同時に合い、比喩の上で両者の認識が創造され、上書きされるのだ。

 例えば、川端康成が「美しい蛭のような唇」という直喩を用いるとき、両者が似ているのだという見方が読み手に要求される。ぬめる質感とか放射線状のシワを想起し、(色はともかく)直喩によって両方の類似性にピントが合わさる。芸者の唇と吸血動物をいっしょくたにする感性に舌を巻くと同時に、(前後の場景とあいまって)想起させられてしまう自分の感性にヒヤリとする。表現者の意図は、「思ったこと」を伝えるのではなく、「伝えたいこと」を感じさせるのだということが、肌感覚で分かってくる。

 もちろん、すべてのことばは既製品にすぎない。だが、カスタマイズは無限に創造できることに気づかされる二冊。

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ゲームで子育て『Fallout 3』

 「ゲーム脳の恐怖」は時代遅れ、今「ネトゲ脳」がナウい()

fallout3 確かに、課金アイテムに延々貢ぐのは“恐怖”そのもの。だから、わが家のボーダーは、パッケージとネトゲの間に引いている。ゲームにせよ本(やマンガやアニメ)にせよ、物語は魂を持っていくからね。現実に還れるところで楽しむのが吉。

 ただし、「ゲームは選んで遊べ」というスタンス。

 受験も就活も、一発勝負を強いる社会はハードル高すぎ。現実を記号化し、再挑戦を促すゲームは、どんどん遊んでほしい。子どもは試行錯誤をくりかえすことで、挫折と成功の両方の味をしめることができる。ゲーム脳とは、チャレンジ精神のことなのだ。

 しかし、問題が出てきた。子どもがやりたいゲームと、親がやらせたいものに、ずれが生じてきたのだ。俺的にはシミュレーションなど「戦略を組み立てる」方へもって行きたい。が、リクエストを聞くと、『龍が如く』のゾンビ版とか、『Skyilm』とかぬかす。オープンワールドで好きにやりたいらしい。

 あまつさえ、「父さん、これやっていい?」持ってきたのは『ラブプラス』。厳重に隠しておいたのに何故!?一瞬、息子の相手する寧々さんを想像する。とーちゃんの寧々さんを息子がプレイするってのはwwwちょっww 息子に風俗を教える親父ってこんな気分なのだろうか。でもダメ、この寧々さんは俺のもの(たとえ一年放置してようとも)。

 仕方ないので『Fallout3』をする。近未来の核戦争後、『北斗の拳』みたいなオープンワールドで、行方不明の父を探す話。さいとう・たかを『サバイバル』みたいだなー、と呑気に始める(が、まるで違ってた)。いわゆる、「なんでもあり」なので、悪いやつらを殲滅してもいいし、無抵抗の老人から身ぐるみ剥いでもOK。プレイヤーは、善人にも悪人にもなれる。

 いつもは冷ややかな嫁さんが、珍しく興味を示してくる。ついに、自らコントローラーを手にするようになる(アイマス以来の久しぶり)。面白いことに、プレイスタイルがまるで違う。崩壊した世界で黙々と空き缶を拾って売って、小金を貯める嫁さん。水を求める人には惜しみなく分け与え、悪い連中(強い)はヘッドショット!カルマ上昇させまくり。

 いっぽうわたしは、ヒャッハーと奇声をあげながら犬(弱い)をなぶり殺し。アリンコごときに~と突入して火あぶりになったり、同じくヒャッハーと叫ぶ悪い奴(弱い)に追いかけられたり。ワイルドな生き死にを晒している。おかげでわが家の合言葉は、「タロン社だ!」(悪い奴の挨拶)になった。

 このゲームでは、善悪は選択した「結果」だ。悪いことすると、悪い仲間が寄ってくるし、善行を続けると、悪い奴から目の敵にされる。「善」とか「悪」といったパラメーターは、自分の中に存在しない。行動がカルマを蓄積する。これはリアルも一緒、「いい奴」や「悪い奴」が最初からあるのではなく、良い行い、悪い行いがあるだけ。かなり古いが、「良いも悪いもリモコン次第」ってやつ。

 「良いこと」も「悪いこと」も、ゲームで体験すればいい。リアルとは異なり、ゲームはダイレクトに結果を返してくれる(ここはメリットだ)。人生のどこで気づくか分からないけれど、善悪は、選べる。そして、いつだって選べるのだ。

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本と人をつなげる『松丸本舗主義』

松丸本舗主義 本と人をつなげる仕組み―――松丸本舗主義を一言で述べるなら、これだ。

 松岡正剛(セイゴォ)氏は、本を絡う「ブックウェア」とか、「棚読」「共読」といった造語を用いて衒学してくるが、これは師一流のコピーだ。本質は「本と人とを近づける」であり、その仕掛けは本書にて惜しみなく開陳されている。

 セイゴォとスタッフの、知と汗を注ぎ込んで作られた、奇蹟の実験空間「松丸本舗」。残念ながら本年9月に閉店となったが、ここでわたしが体感してきた、あらゆる知的興奮のネタがびっしり詰まっている。

 たとえば、即座に使えるものとして「読者モデル」がある。読書は一人でするものだが、料理のように、旅行のように、その体験は共有できる。それを見える化するため、誰がどんな本を読んでいるかを公開する。普通と違うのは、ひいきをプッシュするだけでなく、ワーストも見せるところ。腐しも程度によるが、「それが好きなら、これを読め」ぐらい言い切る。

 これを発展させる。新聞書評の新刊本コーナーは普通だが、同テーマの既刊本を並列させる。本は一冊で存在せず、過去の知とのつながりの上に成り立っている。それを見えるよう並べてみせるのだ。読者モデルとなる人(本の目利き、メディアのレビューアー)が、「なぜその一冊を読んでいる/読んだのか」まで踏み込んでゆくのだ。

 この読者モデルに、客を巻き込んでもいい。来店者の読書相談に、Q&Aコーナーといったチャネルを設ける。いま客が何を読み、なぜ読んでいるかを尋ね、フィードバックする。松丸の「Dr.セイゴオの処方箋」という企画だ。問診表に読書傾向を書いて投函すると、後日“本の処方箋”が出るという仕掛け(問診例は本書に載っている)。

 余談だが、易者に扮したセイゴォ氏が「本の人生相談」する場もあった。マングウェルとラヴクラフトが好きで、劇薬小説のオススメあります?と聞いたら、車谷長吉『赤目四十八瀧心中未遂』とジョージ・マクドナルド『リリス』が出てきた。後から考えると、凄い(素晴らしい)組み合わせなり。

 しかし、全ての書店員が必ずしも経験豊富というわけではない。逆に客から教わったり、オススメされたりもアリだ。「本屋だから何でも知っている」というスタンスを捨て、提供元と読み手が接近する。読み手のプライドをくすぐりつつ、もらった「お題」はチームで応答する。読書体験の共有化、すなわちインタラクティブな「共読」は、このように応用できる。

松岡正剛の書棚 縦横無尽に並べられた関係性を元に、本棚を読むことも可能だ。松丸本舗の写真集『松岡正剛の書棚』を見れば、ある瞬間の松丸本舗を再現することができる。だがそれは、瞬間にすぎぬ。時代や社会が流れるように、本棚の中身も動いてゆく。あるいは、著者別や十進分類法は、「分類」であって「編集」ではなく、探すにはいいが遊ぶには向かない。

 ではどうすれば、棚読できる「遊べる棚」になるか?ヴィレバンみたく小道具に頼らずとも、本書の創意工夫をマネればいい。

 たとえば、「あの年この本」はどうだろう。日本が終戦を迎えた1945年から2050年まで、歴史を証言する本から未来を予測する本まで、時系列に並べた異色の企画だ。あるいは、小説家を「その作品を出したときの年齢順」に並べたものはどうだろう。本の“並び”が歴史になることに震えたし、既読本を時間軸で位置づけしなおす試みは新鮮だった。

 「色」で捉えるのはいかが?紅葉の季節がはじまると、色づいた表紙の本たちを並べた(レジ近辺は、黄色だらけになった)。旬を味わう棚として、春はピンク、夏は青、クリスマスは赤と緑に染まった。哲学も数学も絵本も、表紙の色によってジャンルを易々と越境した“色本”は、否が応でも目を惹く。知らない本を知らせる、斬新なトリガーとなるだろう。

 知を刺激するキーワードは、そこから想起される本のリンクを次々と生み出す。一人では限定されるが、チームだと無尽蔵だ。楽しい企画会議にしてくれる言葉が、本書に満ち溢れている。例を挙げると……

  ・男が女をみがき、女は女をみがく
  ・あの夏の三冊
  ・ニッカウヰスキーとのほろ酔い気分の本
  ・擬態するエロス
  ・本のおみくじ

 それぞれの「お題」でピンときた本は、人により違う。あたりまえだ、でも、それが面白い。互いの頭に浮かんだ本をぶつけあい、混ぜ合わせる。関係性がタテにも横にもつながりあい、からみ合う。この連鎖の悦びをセイゴォ氏一人に占められては、もったいない。モノとしての本は、こんなに面白くなるデ。

 ここでは、『松丸本舗主義』のアイディアのほんの一部を紹介した。カッコよく「九条の旋法」と銘打っているが、これは楽譜みたいなもの。どう奏でるかは、あなた次第。

  1. 「本棚を読む」という方針を貫く
  2. 「本」と「人」と「場」を近づける
  3. 「本のある空間」を革新する
  4. 「本を贈り合う文化」を発芽させる
  5. 「読者モデル」をスタートさせる
  6. 「ブックウェア」を創唱する
  7. 「本と読書とコミュニケーションの方法」を重ねる
  8. 「共読の可能性」を提示する
  9. 「ハイブリッド・リーディング」の先端を開く
 わたしは、スゴ本オフでこの旋律を奏でている。書く人、編む人、売る人、そして読む人―――本に関わるあらゆる人に益する一冊。

 そうそう、セイゴォ師は豪徳寺で面白いことを始めるらしい。ここでスゴ本オフできたらなーと胸を膨らませながら、偵察してこよう。

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スゴ本オフ「食とエロ」レポート

 結論「本好きはエロも好き、そして無類の食いしんぼう」

 40名が8時間、オススメ本を持ちよって、マタ~リ熱く語りあう。京都からSkypeで参加したり、著者の人がリアルやtwitterでプレゼンしたり、楽しすぎるスゴ本オフでしたな。毎回毎回、「過去最高のデキ」とボジョレーみたいなことを言っているが、今度も同じこと言う、「食とエロは最高なり」ってね。迫真のtwitterレポートは、スゴ本オフ「食とエロ」の会まとめをどうぞ(ズバピタさん、ありがとうございます)。

 まずは見てくれ、大漁大猟。

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 もう一つの結論は、「食べる女はエロい」。うん知ってた。唇は舌は口腔は、ラビアのトリスのヴァギナの代替だし、潤み呑み上気し吐息つく仕草は、そのまま行為を彷彿させる。食べる様子はいたす様子、これに知らないでいる女性陣がいることに驚く。食事は色事に通じる。

たべるダケ そういうオトコ心を射抜くような本に眼が行く。食べてるシーンがもの凄くえっちい『花のズボラ飯』は、完全にイッちゃってる顔してる。美女の食事風景をひたすら接写する『たべるダケ』は、食べる女フェチのバイブル。食べる共感覚をセックスの前戯になぞらえる村上龍『料理小説集』は、バブリーな香りとともに、食と色の関係を再認識させられる。

 人は、おいしい食事で元気になり、いいセックスでフレッシュになる。オンナの食と性がモチーフの『食べる女』は、あたりまえのことを生々しく伝えてくれる。うどんがスイッチとなりムラっとくる『うどんの女』は、パブロフのうどんやね。吉本ばなな『キッチン』の食事は明らかに性行為の代わりだし、ぐるっとまわって表裏一体となる『東京いい店やれる店』は直裁そのもの。食欲は色欲に一致する。

日本縦断フーゾクの旅 アダルトライターの安田理央さんのプレゼンで、かなり重要な気づきがもらえる。北海道から九州まで、全国の風俗店を体当たり取材したルポ『日本縦断フーゾクの旅』は、半分くらいは食い物の写真になっている。ラーメンと裸の写真が交互に出てくる感じで、要するに、その土地の「うまいもの(食と色)」を食べ歩く旅でもあるのだ。

 エロ雑誌のおかげで「賢者タイム」が訪れた後、お腹が空いてこないか?色欲の次は食欲だ(睡眠欲かもw)。巻末の四コマの代わりに、ネット注文できるB級グルメとか、携帯でケータリングできる番号を載せたらどうだろう?スペース単価あたりの回収率が高そうだぞ。エロマンガやエロサイトは、ひたすらエロスを追求するだけでなく、もう一つの欲望「食」を満たす導線を用意したら、意外にヒットするかも(逆も然り)。上手に隠しているけれど、よしながふみ『きのう何食べた?』は、両方の欲をモチーフにしているし。

HIPS わたしがプレゼンしたのは、「食と色と死」をテーマに選んだもの。食と色から、おしりだらけの写真集『HIPS』を紹介する。ほんのり、むっちり、ぷるんぷるん、味わい深い美尻たちは、かぐわしい果実そのもの。桃やトリモモを想起させ、色欲と食欲の両方を刺激する。食と色、どちらも味わい、嘗め、“食べちゃう”ものだから。

 さらに、色と死。セックスの後の眠りのことを、フランス語で小さな死(petite mort)という。性と死が驚くほど近しいことは、諏訪敦の画集『どうせなにもみえない』で分かる。裸の女が頭骨を舐めている様は、食と色と死が隣接している光景だ。

 そして食と色と死を等価に貫く作品に至る。ケッチャム『ザ・ウーマン』マンディアルグ『城の中のイギリス人』、そしてサド『ジェローム神父』だ。幸か不幸か、“ノーマル”な作品は皆無。「キスは味見」だし、「エロスは黒い神」なのだ。そこでは、カニバルは最高のエロスに位置づけられる。人によると食欲なくしてしまいそうな描写や挿絵が並んでいるが、わたしにとって、これほど食・色・死を伝えてくれるものはない。

ザ・ウーマン城の中のイギリス人ジェローム神父

 わたしの変態妄想をヨソに、再読したくなるようなツボに入る本が集まってくる。添い寝屋の元祖ともいえる川端康成『眠れる美女』や、香りを操る奇人を描いたジュースキント『香水』は、最初はエロス、最後は食で締める。長らく課題図書である『世界屠畜紀行』、『聖☆高校生』、そして『正しい恋愛のススメ』はこれを機に、「次読むリスト」の上位に移そう。

 以下、本好き、エロ好き、食いしんぼうが選んだ、「食とエロ」のリストなり。会場やtwitterで紹介されたり言及された本を、適当に並べてみた。

    文学からのアプローチ

  • 『SEX』石田衣良(講談社)
  • 『眠れぬ真珠』石田衣良(講談社)
  • 『眠れる美女』川端康成(新潮文庫)
  • 『わが悲しき娼婦たちの思い出』 G・ガルシア=マルケス(新潮社)
  • 『存在の耐えられない軽さ』ミラン・クンデラ(集英社文庫)
  • 『情事の終わり』グレアム・グリーン(新潮文庫)
  • 『ロマネ・コンティ一九三五年』開高健(文春文庫)
  • 『夏の闇』開高健(新潮文庫)
  • 『食べる話』松田哲夫編(あすなろ書房)
  • 『食べる女』筒井ともみ(新潮文庫)
  • 『物食う女 イメージの文学史』武田百合子監修(北宋社)
  • 『思い出トランプ』向田邦子(新潮文庫)
  • 『父の詫び状』向田邦子(文藝春秋)
  • 『向田邦子の手料理』向田和子(講談社のお料理BOOK)
  • 『テニスボーイの憂鬱』村上龍(集英社文庫)
  • 『料理小説集』村上龍(講談社文庫)
  • 『キッチン』吉本ばなな(角川文庫)
  • 『ベッドタイムアイズ』山田詠美(河出文庫)
  • 『レッスン』五木寛之(新潮文庫)
  • 『白暗淵』古井由吉(講談社)
  • 『美食倶楽部』谷崎潤一郎(ちくま文庫)
  • 『飲食男女』久世光彦(文春文庫)
  • 『美少年』団鬼六(新潮社)
  • 『四畳半色の濡衣』野坂昭如(文春文庫)
  • 『布団』田山花袋(新潮文庫)
  • 『ふがいない僕は空を見た』窪美澄(新潮社)
  • 『どうしようもない恋の唄』草凪優(祥伝社文庫)
  • 『赤い薔薇ソースの伝説』ラウラ・エスキヴェル(世界文化社)
  • 『女たちへのいたみうた 金子光晴詩集』高橋源一郎編(集英社文庫)
  • 『柳生武芸帳』五味康祐(文春文庫)
  • 『剣客商売』池波正太郎(新潮文庫)
  • 『花の下にて春死なむ』北森鴻(講談社文庫)
  • 『桜宵』北森鴻(講談社文庫)
  • 『螢坂』北森鴻(講談社文庫)
  • 『酒仙』南條竹則(新潮文庫)
  • 『あっちゃんあがつく―たべものあいうえお』さいとう しのぶ(フレーベル館)
  • 『日常を袋詰めにして、海に捨てた罪』間武(コシ-ナ文庫)

    食べるマンガ、エロいマンガ

  • 『聖☆高校生』小池田マヤ(ヤングキングコミックス)
  • 『正しい恋愛のススメ』一条ゆかり(集英社)
  • 『きのう何食べた?』よしながふみ(講談社)
  • 『人間仮免中』卯月妙子(イースト・プレス)
  • 『HELLSING』平野耕太(少年画報社)
  • 『高杉さん家のおべんとう』柳原望(メディアファクトリー)
  • 『花のズボラ飯』水沢悦子(秋田書店)
  • 『たべるダケ』高田サンコ(ビッグコミックス)
  • 『うどんの女』えすとえむ(祥伝社)
  • 『空の食欲魔人』川原泉(白泉社)
  • 『ふたりエッチ』克・亜樹(白泉社)
  • 『ケーキを買いに』河内遙(太田出版)
  • 『失恋ショコラティエ』水城 せとな(小学館)
  • 『カリフォルニア物語』吉田秋生(小学館文庫)
  • 『あたしのこと憶えてる?』内田春菊(新潮文庫)
  • 『野武士のグルメ』久住昌之(普遊舎)

    変態さんいらっしゃい

  • 『ダイナー』 平山夢明(ポプラ社)
  • 『ザ・ウーマン』ジャック・ケッチャム(扶桑社ミステリ)
  • 『城の中のイギリス人』マンディアルグ(白水社)
  • 『HIPS 球体抄』伴田良輔(P‐Vine BOOKs)
  • 『ジェローム神父』マルキ・ド・サド/澁澤龍彦訳/会田誠絵(平凡社)
  • 『変ゼミ』TARGO(講談社)
  • 『食人族旅行記』マルキ・ド・サド/澁澤龍彦譚(河出文庫)
  • 『たったひとつの、ねがい。』入間人間(メディアワークス文庫)
  • 『メガネっ娘凌辱大戦』松平龍樹(マドンナメイト文庫)
  • 『日本縦断フーゾクの旅』安田理央(二見書房)
  • 『イメクラ』都築響一(アスペクトライトボックス)
  • 『アダルトビデオ革命史』藤木TDC(幻冬舎新書)
  • 『昭和の「性生活報告」アーカイブ』SUNロマン文庫
  • 『性生活報告』サン出版
  • 『女体の品格』末廣圭(徳間文庫)

    食、色、そしてミステリ

  • 『料理人』 ハリー・クレッシング(ハヤカワミステリ)
  • 『香水――ある人殺しの物語』パトリック・ジュースキント(文春文庫)
  • 『パンプルムース氏のおすすめ料理』マイケル・ボンド(創元推理文庫)
  • 『数学的にありえない』アダム・ファウアー(文藝春秋)
  • 『ねじまき少女』パオロ・バチガルピ(ハヤカワ文庫SF)
  • 映画『蘇る金狼』村川透、松田優作、風吹ジュン(Blu-ray)
  • 映画『陽炎座』鈴木清順、松田優作、大楠道代(DVD)
  • 『さらば、愛しき鉤爪』エリック・ガルシア(ヴィレッジブックス)
  • 『キッチン・コンフィデンシャル』アンソニー・ボーデイン(新潮文庫)

    ノンフィクションは、生々しすぎる

  • 『東京いい店やれる店』ホイチョイ・プロダクションズ(小学館)
  • 『新東京いい店やれる店』ホイチョイ・プロダクションズ(小学館)
  • 『三つ星レストランの作り方』石川拓治(小学館)
  • 『調理場という名の戦場』斉須政雄(幻冬舎)
  • 『ヒトはなぜヒトを食べたか』マーヴィン・ハリス(ハヤカワ文庫)
  • 『世界屠畜紀行』内澤旬子(角川文庫)
  • 『面白南極料理人』西村淳(新潮文庫)
  • 『南極料理人』沖田修一監督(DVD)
  • 『ごはんにしよう-映画「南極料理人」のレシピ』飯島奈美(文化出版局)
  • 『地球怪食紀行――「鋼の胃袋」世界を飛ぶ』小泉武夫(知恵の森文庫)
  • 『好「食」一代男』檀太郎(小学館文庫)
  • 『魯山人味道』北大路魯山人(中公文庫)
  • 『食卓の情景』池波正太郎(新潮文庫)
  • 『男の作法』池波正太郎(新潮文庫)
  • 『贋食物誌』吉行淳之介(新潮文庫)
  • 『料理歳時記』辰巳浜子(中公文庫)
  • 『ことばの食卓』武田百合子(筑摩書房)
  • 『わたしの献立日記』沢村貞子(新潮文庫)
  • 『「食」の自叙伝』文藝春秋編(文藝春秋)
  • 『チーズ図鑑』文藝春秋編(文芸春秋)
  • 『おいしさの科学 味を良くする科学』河野友美(旭屋出版)
  • 『今日の料理のヒミツ』後藤繁榮(平凡社)
  • 『問いつめられたパパとママの本』伊丹十三(新潮文庫)
  • 『ワーキングカップル事情』安井かずみ、加藤和彦(新潮文庫)
  • 『ティープリーズ』堀江敏樹(南船北馬舎)
  • 『ブラジルのホモ・ルーデンス サッカー批評原論』今福龍太(月曜社)
  • 『ばらの騎士』リヒャルト・シュトラウス(DVD)
  • 雑誌『ブルータス 688号/美味求真』(マガジンハウス)
  • 雑誌『東京グラフィティ 096号/エロスを感じる名作シネマ&ブック』(グラフィティマガジンズ)

 次回は1月、テーマは「ラノベ」だ。その次は「親子」でいきまする。告知・募集はfacebookのスゴ本オフが早くて速いので、チェックしてくださいませ(ブログはトロいので、記事をアップする頃には募集枠が埋まってしまうのよ)。

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ボルヘスの世界文学全集『新編 バベルの図書館 第2巻』

バベルの図書館2 巨匠の編んだ世界文学全集。

 どれもメジャー作家なのだが、比較的マイナーな作品が多いのは、テーマが幻想文学だからだろうか。通して読むと、ボルヘスの「趣味」が透け見えて楽しい。

 それは、「嘘は一つ」であること。まるで異なる世界をファンタジックに紡ぎだすのではなく、ロンドン郊外だったり、フランスの戦場といった現実の場所で起きる、ささやかで深くて後を引く奇譚が描かれる。

 なぜ、幻想物語に耽るのかというと、登場人物を通してわたしの生きざまが、速やかに描かれるから。どうしてそんな言動をしたのか?普通の小説だと登場人物と同じくらいの時間(≒枚数)を要する。だが、ただ一つだけ「嘘」が入ることで、一気に彼・彼女が分かりやすくなる。

 さらに、自分ならどうする?きっと考える。「その人」をシミュレートする。荒唐無稽だから考えるだけ無駄という人は、次の意味が分からないだろう。「小説が書かれ、読まれるのは、人生がただ一度きりであることへの抗議である」(via: tumblr 、たぶん北村薫)。自分だったら、やらないだろう……そう断じた後に気づく。これはわたしの○○の寓話であることを。この寓意に至る仕掛けが、現実に刺さった幻想なのだ。

 たとえば、ワイルド『アーサー・サヴィル卿の犯罪』なんて傑作だ。高名な手相師に、「あなたは殺人を犯す」と予言されたサヴィル卿がとった行動は、わたしなら決してしない。ところがサヴィル卿の奮闘を追っていうち、その動機は、毎日わたしを追い詰めている強迫観念そのものであることに気づく。さらにラストのサゲ後に振り返ると、そこまで一行も書かれていないある事実に気づいてゾッとする。「思考は現実化する」のダブルミーニングかつ、片方はブラックバージョンであることが分かる。

 懐かしい嘘(トリック)もある。チェスタトンのブラウン神父シリーズだ。既に別の小説で踏襲され、脚色され、アレンジされたものばかりで、探偵小説のデザインパターンに見える。だが、トリックを埋め込むベースとなる物語が多様かつ深いので、発掘のヨロコビもでてくる。いわゆる探偵モノって文芸というより物語芸だよなと常々思っていたのを、ボルヘスはずばりこう言いあてる。

ポーの発明になる探偵小説というジャンルは、それがあらゆる文学ジャンルのうちで最も人工的なものであり、最も遊びに似たものであるからには、いずれ消滅する時期がやってくると予想される。そもそもチェスタトンは書いていた、小説は顔面の戯れであり、探偵小説は仮面の戯れである―――と。
 仮面である限りパターンに陥るのは免れないわけで、密室トリックだったり替玉・凶器の犯行手芸はいずれ尽きる。亜流コピーで知ってしまうよりも、チェスタトンで初体験を済ませるほうがよいのかも知れぬ。そんな意味で、秀逸なトリックは異性との体感に似ている。要するに、暴かれる/暴く快感なのだ。

ウェルズ
 白壁の緑の扉
 プラットナー先生綺譚
 亡きエルヴシャム氏の物語
 水晶の卵
 魔法屋

ワイルド
 アーサー・サヴィル卿の犯罪
 カンタヴィルの幽霊
 幸せの王子
 ナイチンゲールと薔薇
 わがままな大男

サキ
 無口になったアン夫人
 お話の上手な男
 納戸部屋
 ゲイブリエル‐アーネスト
 トーバモリー
 名画の額ぶち
 非安静療法
 やすらぎの里モーズル・バートン
 ウズラの餌
 あけたままの窓
 スレドニ・ヴァシュター
 邪魔立てするもの

チェスタトン
 三人の黙示録の騎士
 奇妙な足音
 イズレイル・ガウの名誉
 アポロンの眼
 イルシュ博士の決闘

キプリング
 祈願の御堂
 サーヒブの戦争
 塹壕のマドンナ
 アラーの目
 園丁

 ボルヘスが集めたから怪奇幻想、とは必ずしもならない。寓話と諧謔、そして懐かしさに満ちた世界文学全集。第3巻もイギリス編らしいが、先に4巻のフランス編から出るらしい。

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『影武者徳川家康』はスゴ本

 二人の怪物に蕩かされる。モチーフである家康と、著者である隆慶一郎だ。

影武者徳川家康上影武者徳川家康中影武者徳川家康下

 痛勤ラッシュの現実逃避タイムが、これほど楽しみだったことはない。六百頁、全三巻とあるが、読み干すのがもったいなく、惜しむように(でもページを繰る手ももどかしく)どっぷり漬かる。沢山の方からの「読めゼッタイ」というプッシュは真実なり、感謝・感謝。

 映画やドラマで、よくあるでしょ?ラストのどんでん返し。最後の土壇場になって、そこに至るもろもろの謎を解き、伏線を回収し、かつ、世界を一変させてしまうやつ。善玉だと思ってたら実は張本人だったというファイナルストライク。隆慶一郎がすごいのは、これを一行目からやったこと。

 つまりこうだ。徳川家康がどんな人物で、何を成したかは、史実として「確定」している。これを、冒頭でひっくり返して、ひっくり返した「史観」でもって、もろもろの謎を解き、伏線を回収し、かつ世界を一変させてしまったから。

 答えはタイトルにある。家康は関ヶ原で殺され、残りの「家康」を影武者が成り代わる。

 ありえない。影武者が主の仕事ができるわけがない。だいたい姿は似ているかもしれないが、風貌は?記憶していることは?家族や家臣の目を誤魔化すことなんてできやしない。突拍子もないなーと進めるうちに……オイちょっと待て!えぇっ!うわっと叫ぶ読書になる。

 最初は替玉バレの脅威をかわしていくのをヒヤヒヤしながら見守って、次第に見えてくる影武者(二郎三郎という)の真の姿に戦慄し、怒涛のごとく襲い掛かる陰謀と暗躍の応酬に振り回される。

 問題は、それら一つ一つが、史実として裏打ちされていること。「家康は関ヶ原で死んだ」という爆弾を破裂させたあと、表では通史どおり。その一点を除けば、家康がどんな生涯を送ったか、どんな事件が起きたかは、知っての通りに進行する。

 だが、その裏で進行する心理戦と権謀術数は凄まじい。影武者を殺して征夷大将軍ならんとする秀忠の執念には、読んでるこっちが息苦しい。孤立無援から、仲間を集め、駆け引きを綱渡り、相手を出し抜く。そこにはしたたかで強靭で、かつ智略に富んだ、戦国生き残りの男がいる。この痛快さと逆転劇に魂を蕩かされる。

 荒唐無稽かというと、違う。著者によると、「徳川家康」という怪物の、最後で最大の変貌が、関ヶ原にある。わが子に対して冷淡だったのに、ある時期より以降、生まれた子どもを溺愛するようになる。これまで性技に熟した年増を好んでいたくせに、娘より若い女を好むようになる。齢をとると嗜好は変わるというが、極端すぎる。文字どおり、「人が変わってしまう」のだ。

 さらに、関ヶ原を境に、謎の部分が増えてくる。なぜ征夷大将軍に就任を三年も引き伸ばしたのか。その位を、たった二年で秀忠に譲っているのはなぜか。駿府を大改造し、西のみならず東に対しても難攻不落の地にしたのはなぜか。最大の謎は、最後の敵たる豊臣家と終始和解に努めたのは、なぜか―――著者はその解を、影武者家康の暗闘に求める。

 隆慶一郎は云う、「家康に惹かれるのは悪女に惚れるのに似ている」。人生の振幅があまりにも大きすぎる。善かと思えば悪であり、徹底した現実家かと思えば、途方もない夢を見る夢追人である。どの姿をとっても、妖しく、人の心をそそってやまない。どこに本物の姿があるのか、どれが本音なのか、掴みたくもなろうというものではないか、とも告白する。

 数百年経過してなお、未だに尻尾をつかませない怪物。著者は、膨大な資料を読み込み、この「史実」に徹底的に向かい合う。正史とさえれる徳川実紀ですら、家康を神格化するための虚構があると指摘する。本当の家康をあぶりだそうとする著者の疑義があちこちに挟まれ、立証され、暴かれる。この謎解き家康のプロセスに蕩かされる。

 止め時が難しいので、放っておくと徹夜小説になる。シビれる歴史時代小説ランキングにて、「不眠本中の不眠本」の評は正しい。明日の予定のない夜に、全三巻そろえてから、どっぷり浸れ、がっつりハマれ。

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