ゲームで子育て『Fallout 3』
「ゲーム脳の恐怖」は時代遅れ、今「ネトゲ脳」がナウい()
確かに、課金アイテムに延々貢ぐのは“恐怖”そのもの。だから、わが家のボーダーは、パッケージとネトゲの間に引いている。ゲームにせよ本(やマンガやアニメ)にせよ、物語は魂を持っていくからね。現実に還れるところで楽しむのが吉。
ただし、「ゲームは選んで遊べ」というスタンス。
受験も就活も、一発勝負を強いる社会はハードル高すぎ。現実を記号化し、再挑戦を促すゲームは、どんどん遊んでほしい。子どもは試行錯誤をくりかえすことで、挫折と成功の両方の味をしめることができる。ゲーム脳とは、チャレンジ精神のことなのだ。
しかし、問題が出てきた。子どもがやりたいゲームと、親がやらせたいものに、ずれが生じてきたのだ。俺的にはシミュレーションなど「戦略を組み立てる」方へもって行きたい。が、リクエストを聞くと、『龍が如く』のゾンビ版とか、『Skyilm』とかぬかす。オープンワールドで好きにやりたいらしい。
あまつさえ、「父さん、これやっていい?」持ってきたのは『ラブプラス』。厳重に隠しておいたのに何故!?一瞬、息子の相手する寧々さんを想像する。とーちゃんの寧々さんを息子がプレイするってのはwwwちょっww 息子に風俗を教える親父ってこんな気分なのだろうか。でもダメ、この寧々さんは俺のもの(たとえ一年放置してようとも)。
仕方ないので『Fallout3』をする。近未来の核戦争後、『北斗の拳』みたいなオープンワールドで、行方不明の父を探す話。さいとう・たかを『サバイバル』みたいだなー、と呑気に始める(が、まるで違ってた)。いわゆる、「なんでもあり」なので、悪いやつらを殲滅してもいいし、無抵抗の老人から身ぐるみ剥いでもOK。プレイヤーは、善人にも悪人にもなれる。
いつもは冷ややかな嫁さんが、珍しく興味を示してくる。ついに、自らコントローラーを手にするようになる(アイマス以来の久しぶり)。面白いことに、プレイスタイルがまるで違う。崩壊した世界で黙々と空き缶を拾って売って、小金を貯める嫁さん。水を求める人には惜しみなく分け与え、悪い連中(強い)はヘッドショット!カルマ上昇させまくり。
いっぽうわたしは、ヒャッハーと奇声をあげながら犬(弱い)をなぶり殺し。アリンコごときに~と突入して火あぶりになったり、同じくヒャッハーと叫ぶ悪い奴(弱い)に追いかけられたり。ワイルドな生き死にを晒している。おかげでわが家の合言葉は、「タロン社だ!」(悪い奴の挨拶)になった。
このゲームでは、善悪は選択した「結果」だ。悪いことすると、悪い仲間が寄ってくるし、善行を続けると、悪い奴から目の敵にされる。「善」とか「悪」といったパラメーターは、自分の中に存在しない。行動がカルマを蓄積する。これはリアルも一緒、「いい奴」や「悪い奴」が最初からあるのではなく、良い行い、悪い行いがあるだけ。かなり古いが、「良いも悪いもリモコン次第」ってやつ。
「良いこと」も「悪いこと」も、ゲームで体験すればいい。リアルとは異なり、ゲームはダイレクトに結果を返してくれる(ここはメリットだ)。人生のどこで気づくか分からないけれど、善悪は、選べる。そして、いつだって選べるのだ。

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