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『垂直の記憶』はスゴ本

垂直の記憶

 今年読んだ一番。

ギャチュン・カンの代償はあまりにも大きく、一時は落ち込みそうになった。しかし、ギャチュン・カンを選んだことを誤りだと思ったことはないし、アタックしたことに対しても悔やんではいない。むしろギャチュン・カンに挑戦してよかったと思っているくらいだ。あれほどの厳しい状況に追い込まれても、びっくりするくらい冷静に判断を下し、自分の能力を最大限に発揮し、行動できたことに喜びさえ感じている。今まで積み上げてきたことに間違いはなかったのだ。

 著者は日本を代表するクライマー、山野井泰史。氷と岩の山行を日記のように綴る。「ギャチュン・カンの代償」とは手足の指を十本、凍傷で失ったこと。登頂後、嵐と雪崩に遭遇し、妻・妙子とともに脱出を試みて奇跡的に生還した―――代償になる。

 すさまじい登攀への思いと生きる意思に、そのまま撃たれる。「生きている」という強烈な感情が伝わってくる。もちろん、著者のように限界まで肉体を酷使して、生死の境を切り抜けたわけじゃない。それでも、生そのものを握りしめる著者の喜びが伝わる。自分の身体を、動作を、あらためて体得するような読書になる。

 書き手は、これっぽっちもドラマティックに書いていないのに、読んでるわたしが、勝手に勇気をもらっている。巨大な壁があって、それを乗り越える記録に、ここまで己が命を感じるとは。

 淡々とした語り口で、過酷な事実を積み重ねる。平凡な形容詞だが、なるべく正確に記そうとする。しかし、書かれていることは平凡から遠い。冬季、単独初登、無酸素、新ルート開拓といった世界記録が並ぶ。別に記録のためではないらしいが、自分を試すをギリギリまで追求した結果だ。そしてギャチュン・カンで直面する状況は、絶望的だ。沢木耕太郎『凍』では超人的に見えた彼も、その内面では充満する恐怖と向き合っていたことがよく分かる。

 描写の折りに、独白が交じる。「ぎりぎりの登攀をしているとき、『生きている』自分を感じられる」や、「山で死んでもよい人間もいる。そのうちの一人が、多分、僕だ」と言い切る。そこには力みも誇張もない。自分を試すにも限度がある。恬淡とした凄絶ぶりに、狂気じみたものを感じつつ、心底うらやましい。本当に好きなものをやれているのだから。

 翻ってわたしはどうだ? 日々平穏に過ごし、時にはわずかな跳躍で満足している。それがやりたいことなのか? 『生きている』自分を感じられることなのか? 自問してゆくうち、本を持つ手が焼けてくる。彼が向かい合った、美しく強大な『壁』はあるのだろうか。

 かつてどこかに沈めた感情が湧いてくる一冊。

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コメント

フィクションのハラハラドキドキのサスペンスものと違って、ノンフィクションの生死ぎりぎりを描いているものは、多少冗長な部分があっても、読み終わるとほとんどの作品で深い感動を味わえますね。
山岳ノンフィクションでは、「空へ」J・クラカワーや、「山頂に立つ」「われ生還す」C・ウィリス編で、カタルシスを味わっています。
同じ生還でも少し違う面では、「生存者」P・P・リードは、悲痛なほど救いが無さ過ぎて読後漂白された気分になりました。
紹介されたこの一冊も、読みたい本リストに入れさせて頂きます。

投稿: oyajidon | 2012.11.18 19:16

>>oyajidonさん

コメントあざっす!『空へ』『生存者』は積山から引っ張り出してるところです。あと、『八千メートルの上と下』も。これを機に山の本も混ぜ交ぜしながら読もうかと。
山の本は、たっぷり読みたいのがあるので、嬉しい限り。


投稿: Dain | 2012.11.18 20:22

山野井氏のことは、夫妻が再びクライミングにチャレンジするというNHKの番組で知り、この本を手に取りました。愛読書のサン=テグジュペリの「夜間飛行」にも通じるものを感じながら、あっという間に読み終わり、呆然となったのを覚えています。

投稿: | 2012.11.19 14:26

>>名無しさん@2012.11.19 14:26

『夜間飛行』!確かに同じ匂いがします。あれは任務に対する厳しさとストイックさですが、一緒ですね。


投稿: Dain | 2012.11.20 06:47

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