« おいしさを、おすそわけ『私の好きな料理の本』 | トップページ | 『影武者徳川家康』はスゴ本 »

この本がスゴい!2012

 人生は短く、読む本は多い。せめてスゴい本と出会えるよう、それを読んでる「あなた」を探す―――このブログの究極目的だ。ともすると似た本ばかり淫するわたしに、「それがスゴいならコレは?」とオススメしてくれる「あなた」は、とても貴重な存在だ。

 ネットで呟いたり、オフ会で発表したり、集団でブックハントに勤しんだり。バーチャル・リアルを問わず、そんな「あなた」同士の交流の場で、加速度的にスゴい本に会ってきた。中でもここ一年で読んできたものから、選りすぐりを並べてみた。

 実は、ここは既読本のご紹介の場なので、氷山一角だ。だから、一番アツいfacebook「スゴ本オフ」を覗いてみてほしい。読まずに死ねるか級がざくざくあるデ。

 昨年までの探索結果は、以下の通り。

 この本がスゴい!2011
 この本がスゴい!2010
 この本がスゴい!2009
 この本がスゴい!2008
 この本がスゴい!2007
 この本がスゴい!2006
 この本がスゴい!2005
 この本がスゴい!2004

 以下は今年の収獲だ。感謝を込めて。

【フィクション】

 『笹まくら』 丸谷 才一 (新潮文庫)

 故・米原万里が、唯一、「打ちのめされるような凄い本」として掲げた一冊。ジョイス『ユリシーズ』を自家薬籠にした著者が、意識の流れを徹底的に追う構造と緻密さを、たった400ページで完成させている。

 過去が襲ってくるという感覚をトレースできる。昔の失敗や、封印していたトラウマが、いきなり、何の前触れもなく、気がついたら頭いっぱいを占めている、あの感覚だ。あッという間も、逃れようもなく組み敷かれ、後悔の念とともに呆然と眺めているしかできない。

 きっかけは、ちっぽけだ。些細な出来事だったり、たあいのない会話の言葉尻だったり。だが、ひとたび過去が鎌首をもたげると、蛙のごとく動けない。そして自分は、ひたすら言い訳をする(己が壊れないために)。嫌な過去を思い出しそうだが、大丈夫。読者のトラウマにひっかからない、徴兵忌避した男の話だから。戦争中、全国を転々と逃げ回った過去が、二十年後のしがないリーマン生活に、フラッシュバックのように差し込まれてくる。

 この差し込まれ具合がスゴい。戦中と戦後の跳躍が、一行空きなどの隔てなく、シームレスにつながる。戦後の日常生活からいきなり戦中の逃亡生活に変わっている。「意識の流れ」手法を巧みに使っており、行きつ戻りつがスリリングな読書になる。わたしの生活とも人生ともまるで違うにもかかわらず、うっかりすると「もっていかれる」読書になる。文筆家が読んだら、確実に打ちのめされる読書になる。

 『新編 バベルの図書館』 ホルヘ・ルイス・ボルヘス編 (国書刊行会)

 ボルヘスが編んだ傑作短篇集、どいつもこいつも、すばらしい。本書はボルヘスの短篇『バベルの図書館』からタイトルを拝借している。ボルヘスが描いた方は、架空の図書館だ。六角形の閲覧室が上下に際限なく続き、古今東西過去未来、世の全ての本が収められているという。ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』に出てくる文書館がイメージの助けとなるだろう。

 そして本書『バベルの図書館』は、全30巻の叢書シリーズで出ていた。もうン十年も前のことだ。ボルヘス好みの、幻想と悲哀の入り混じった寓話で、今ではマニア垂涎の的となっている。これを6巻に再構成したのが、新編『バベルの図書館』だ。分厚く、箱入りの「よりぬきバベルの図書館」は、ちょっとした百科事典のように見える。

 今回はアメリカ編。ホーソーン、ポー、ロンドン、ジェイムズ、メルヴィル…嬉しいことに、ほとんど未読の作品ばかり。噂だけ、タイトルだけは知ってはいたが手を出していなかったことを悔やみつつ、頭まで漬かる。

 際限なく先送りに引き延ばす仕組みが、カフカを思い出させるホーソーン。テラーとホラーを重ねながら徐々に高めてゆくポー。無邪気とさえいえる書き方で、残酷な運命を暴いてみせるロンドン。もったいぶった書き口で、秘密と揶揄を織り込んだジェイムズ。狂気の伝染してゆく信じがたい状況をリアルに描くメルヴィル。どいつもこいつも、外れなし。

 『薔薇の名前』 ウンベルト・エーコ (東京創元社)

 推理小説の皮を被った衒学大迷宮。中世の修道院の連続殺人事件の話という入口から、知の宝庫(だけど大迷宮)へ誘われる、これぞスゴ本。二十年前と一緒だった、知恵熱で寝込んだ。というのも、ただ物語を追うだけでなく、自分の既読を強制して引き出させられる体験が強烈だったから。

 「読む」というのは目の前の一冊に対する単独の行為ではない。台詞や描写やモチーフ通じて、関連する本や自分の記憶を掘り出しては照射しながら、くんずほぐれつ再構成する、一種の格闘なのだ。ひっくり返すと、あらゆる本にはネタ元がある。「読む」とは、ネタ元を探しては裏切られながら、『再発見』する行為なのだ。

 ヨハネの黙示録の引用に始まり、ヴィトゲンシュタインの論理哲学考の模倣で終わる本書は、縦横無尽の借用、置換、暗示、物真似で綴られており、科学・文学・哲学の壮大なパッチワークを見ているようだ。

 だいたい、探偵役が「バスカヴィルのウィリアム」なんてホームズ全開だし、助手役がアドソ(≒ワトソン)というところからイカしてる。これまでの読書経験を全開放して、この衒学モンタージュを解きほぐす。知る読書というより、識られる読書、自分のアタマを探られる体験になる(驚くなかれ、ネタバレだけで何冊も出ているぞ)。

 現実と虚構の紛糾劇に持ってかれる。でっちあげられた虚構のうちに、明確な境界を設定しないでおくというやり方こそが、真実味を増す冴えたやり方なんだと思い出させてくれる。本書は、スゴ本オフ「早川書房 X 東京創元社」で猛プッシュした作品、ゆっくり、どっぷりハマってほしい。

 『イリアス』 ホメロス (岩波文庫)

 死ぬまでに読みたい、世界最古の物語り。紀元前750年頃に成立した、口伝で歌われた叙事詩だが、読みやすい散文調なっている。虚飾を廃した骨太な描写、淡々と語られる悲劇と栄光は、簡素な分、まっすぐ心の臓に届く。

 そして心震えた分、形容詞で肉付けしたくなる。エピソードとして切り出し、換骨奪胎・アレンジして語りたくなる。舞台や映画だけでなく、SFやオマージュの"元ネタ"として有名なのは、「私ならこうする」誘惑に満ち満ちているから。翻案や改作で自己増殖を促す物語、即ちこれは伝染(うつ)る物語りなのだ

 ストーリーは、この上もなくシンプルだ。トロイア戦争十年目の戦闘が延々続く。ただしこの戦争、ゼウスをはじめ神々が介入してくるからややこしい。どの神が誰に肩入れして、どんな風に助力したか、微に入り細を穿つ。飛来する矢に息を吹きかけ落としたり、槍をホーミングさせて急所に中てるのは序の口。ひどいのになると人間に化けて前言撤回させたり、脳に直接語りかける。

 なんでそんな人間臭いことするんだろう、不審な目で読み進めるうちに気づく。神による手出し口出しは、物語を飾る部分なんだ。つまり、今なら修飾語やレトリックに相当する部分を、神がとって代わるのだ。陳腐化する修飾様式は、物語を古びさせる。これを擬人化(擬神化?)することで、文体の桎梏から解き放っている。形容詞は腐りやすいと言われるが、「イリアス」は、神の御技に置き換えることで生き延びたのだ。

 同時に、代理戦争の異なる側面にも気づく。神をダシに戦う理由にしていることも見逃せない。ヘレネー奪還のためという名分は、口実に過ぎぬ。政治衝突や経済的な摩擦が真因で、戦をおこす大義として、「神意」が伝説化されたのではないか―――そう考えると俄然面白くなる。改変する欲望に身をまかせ、ひたすら浸るべし。

 『白鯨』 メルヴィル (岩波文庫)

 サマセット・モームが選ぶ世界十大小説の一つ、この傑作を読んでから死ね。スゴい小説としてだけでなく、物議を醸す火薬をたっぷり孕んだアカデミック・ゴシップでもある。名著とかグレート・ブックとか呼ばれる奴を、「いま」に引きつけて読むと、何倍も美味しくなる。

 これはラーメンでいうなら「全部入り」だ。執念と薀蓄が詰まったどんぶりに顔つっこんでむさぼり喰らう読書になる。鯨の生態から始まり、消化器官や神経系の詳細な説明や骨相学的見解を逐一述べる一方で、苛酷な捕鯨の現場を簡素かつ的確かつ生き生きとリポートする。見つけ、追いつめ、しとめる場面は"狩り"そのもの、血が騒ぐ。

 捕鯨というより、闘鯨、そして屠鯨の場面に、手に汗ずっと握りっぱなし。150年と大海原を隔てているのに、読み手の闘争本能が燃え上がる。ずいぶん昔に失われた狩猟魂に、いきなり火が点けられる。おもわず拳をつき上げ「うぉぉっ」と叫びたくなる自分を押し留める。

 とはいえ、本体の構造は複雑妙味で衒学的。詩、論文、小説、伝説、口伝、物語、手記、神話、報告書そして聖書からの抜粋のみならず、地の文も一人称から独白そして三人称、神視点から戯曲方式まで取り入れ、あまつさえ物語内物語、物語外物語まで盛りだくさん。おかげで、捕鯨の叙事詩的な壮大さと崇高なイメージが、モザイク状になった歴史のなかで立体的に浮かび上がってくる。

 物語はしょっちゅう中断し、足踏みし、プロットが中途で変わったり、異質な挿話がはさまったり、つぎはぎ細工な「知的ごった煮」と呼ばれるにふさわしい。だが、そこから立ち上がってくる鯨の、マッコウ鯨の巨大さと獰猛さと美しさに、文字どおり目を見張るだろう。心して飛び込め、この世界に。

 これから読む方への参考に。『白鯨』は様々な出版社から出ているが、岩波文庫を推す。理由は下巻解説、つぎはぎ構成をとっぱらって、物語だけを楽しみたい人は、「『白鯨』モザイクの図」を参照するといい、全135章が77章と、ほぼ半分になるから(ただし寄り道の楽しみも半減するぞ)。

 『アンナ・カレーニナ』 トルストイ (光文社古典新訳文庫)

 読むだけで結婚が捗るぞ。そして、オスカー・ワイルドの寸鉄「女とは愛すべき存在であって、理解するためにあるものではない」が刺さってくるぞ。人生を滅ぼした女から何を学ぶか、問題意識を保ちながら読むべし。

 結論から言う。論理的に分かろうとした時点で負け、相手の感情に寄り添えるならば、まだソフトランディングの余地はある。

 しかし、夫と不倫相手は、そこが分かっていなかった。体裁を繕うことに全力を費やしたり、売り言葉に買い言葉で応じたり。優越感ゲームや記憶の改変、詭弁術の駆け引きは目を覆いたくなるが、それはわたしの結婚でもくり返されてきたことの醜い拡大図なのだ。

 投げつけあう「あなたの言っていることが分からない」の応酬は、「どうせ分かってるくせになぜそういう態度をとるの?」の裏返しだ。大いに身に覚えがあるわたしには、不倫相手の利己的な愛の吐露が身に染みる。

「じゃあ言ってくれ、きみが穏やかな気持ちでいるためには、ぼくはどうしたらいいんだ? きみが幸せでいてくれるためなら、ぼくは何だってする覚悟だから」

 では、アンナが欲するものは何か。献身的な態度か、巨額な資産か、贅沢な生活か、甘美なひとときか、その全てを受け入れながらも、そのいずれでもないという。独白の形で彼女は表明する。

「わたしが欲しいのは愛だ。でも愛はない。だとしたら、全部おしまい」自分が言った言葉を彼女はくりかえした「だったら終わらせなくちゃ」

 物語は一気に不吉な様相になる。だが、彼女が欲したのは、愛そのものではなく、「愛されているわたし」だった。ただ、自分、自分、自分。「愛されているという感じ」を感じたいのだ。

 その愛し方は、「ひたすら尽くす」か「すべてを赦す」、男それぞれになる。二人の男は、「わたしと○○と、どっちが大事?」の正解を知らないのだろう。答えは、「そんなことを言わせて、ごめん」と謝って、抱きしめる or 土下座する or 涙を流すだ(ここテストに出るよ)。

 『あさきゆめみし』 大和和紀 (講談社漫画文庫)

 スゴ本オフ「女と男」のイチオシ。かつ、読まずに死ねるか級。"源氏"は受験勉強で断片しか読んでないのと、どこかの引用でしか知らなかった。だからコミックとはいえ「通し」で読むのはこれが初。

 幾重にも深読みできることは知っていたが、百聞一読、本作へのわたしの勝手なイメージが潰えるのが小気味いい。プレイボーイの女漁り、きらびやかな殿上話、マザコン、ロリコンのみならず、ツンデレ、ヤンデレ、萌え成分満載の、枯れた、不倫の、裏切りの遍歴譚───という思い込みは、全て正しく全て誤り。

 一言で語るなら、これは子どもには勿体ない(ましてや受験生の年頃なら絶対ワカラン悔恨譚)。エエトシこいたおっさん・おばさんが読んで、もう絶対に手に入らない、若かりし暴れん坊の自分の心を懐かしむ話なんだ。

 もちろん、ドラマティックな盛りはある。生霊となり死霊となって憑き殺そうとする女の「想い」はすさまじく、並のホラーの何倍も恐ろしい場面もある。ずっと片想いを貫き通そうとしたら念願かなって、コミカルな恋のさや当てに広がる展開もある。愛とは人を、鬼にも邪にも変えてしまう空恐ろしさを自らにあてはめることもできる。

 さすが1000年間のベストセラー、現在にいたる様々な作品と照応した読みができる。わたしの偏見も入ってた「ロリコン」の観点から振り返ると、両方を深く掘れる。両作品に共通する、覗き見たょぅι"ょを誘拐して養女にして、幼女のまま手籠めにするなんてなんといううらやま盗ッ人猛々しいことか。だが、同じロリコンでも、本家本元のナボコフのとは真逆の価値観に立てて、非常に面白い。

 なぜなら、幼女誘拐→養女育成→手籠め蹂躙のプロセスは同一ながら、紫の上は少女から大人へ成長していくことが求められ、ドロレスは永遠の美少女・ニンフェットのままであることを強いられる。

 だが、人はうつろう。特に女は。それを前提としてつきあうことと、変わった相手をむりやり受け入れようとすることは、まるで違う。かつて劣情を注いだ"ロリータ"を見いだそうと残滓を漁る男と、ママの面影を漁るあまり近親相姦危険域を彷徨する男は似て非なる。人は変わる。己もそうなのだ。女に狂う感覚をオーバーラップさせるべし

 『STEINS;GATE』 ニトロプラス (PSP)

 涙腺弱いんよ、エエトシこいたオッサンなのに。痛勤電車でプレイしたのが失敗だった。もうね、後半ぼろぼろなんよ、涙が止まらない。バカじゃないですか、オッサンが朝から泣いてるんよ、PSP握り締めて、満員電車で。周囲はさぞかしキモかったことだろう。

 前半コメディ、後半シリアス、終盤ドラマティック、急展開するラストに吸い込まれるように読む。すべての伏線が収束する快感に、感情を焼き尽くされる。どんなに足掻いても運命からは逃れられない"あきらめ"に似た感覚を原体験させられる。犯した過ちを「なかったこと」にしてはいけない、「意味なんてない」ことなんて無いんだと叫びたくなる。「失敗も含めて今の自分がある」―――陳腐なセリフが、妙にリアルに後を引く。

 現代科学をベースとしたSF「想定科学」の設定にしっかりとバインドされたストーリーは中毒性がある。PSPでプレイするノベルゲームなので、読む・聴く・感じるを一体化した読書になる。主人公の絶叫はわたしの咆哮であり、彼の慟哭はわたしの心にそのまま流れ込む。ハマりゲーだね。

 基本は文章を追うだけだから、「本」というメディアでもできる。だがこれは、ケータイが鍵となる。メールする/しない、電話に出る/出ない、といった諸々の選択ができ、そのタイミングによってストーリーが変化する。このダイナミズムがいい。最初は偶然、次第に必然、そして運命に抵抗するために、試行錯誤をくり返す。

 いかなる結果になろうとも、それを引き受けるのは自分だ。不本意なら、変えてやればいい。人は誤りを犯す、だから観測が誤りであったという世界を再構築してやればいい。世界が思い通りにならないのなら、世界を観測する自分を騙してやればいいのだ。

 『魔法少女育成計画』 遠藤浅蜊 (このライトノベルがすごい!文庫)

 魔法少女になりたい全ての人、必読

 どうしたらプリキュアになれるか?ずっとわたしを悩ませて続けてきた。ずば抜けた身体能力を持ち、格闘戦に長け、必殺の癒し砲を放つ伝説の戦士。ご町内の困った人を助け、ご近所の平和を守る、魔法少女に、俺はなる!決心してから幾年月たったことか。

 だがプリキュアになって何をするのか?魔法少女になることで、いや、その契約をすることが、いったいわたしの生活が、運命が、どう変わってゆくのか?

 答えは本書にある。殺し合う魔法少女16人のどこかに、わたしがいる。試したいのだ、己が力を。超人的な力を手にしたら、やってみたくなるのが人情。プリキュアだと変身するのは敵が現れてから。では、皇帝ピエーロもおらず、苦労カード集めもなく、せいぜいご近所の平和を守る程度だったとしたら? 平和な世では、魔法少女の力を発揮する相手は、魔法少女しか、ぶっちゃけありえない。

 これを実現したのが本書。音を操ったり、無生物に変身できたり、はたまた心の声が聞こえるといった、JOJO的能力を授けられた魔法少女たちが、生き残りを賭けて殺し合う。カンタンにまとめると、まどか☆マギカの面子をムリヤリ増やしてバトルロワイヤルにしたのがこれ。

 「いかにしていたいけな少女達を殺すか」に心を砕いた著者は、無慈悲に、苛烈に、残虐に、少女たちの命を砕いてゆく。「このライトノベルがすごい」と銘打っているが、ライトノベルのコードを逸脱しているのではないか? と思えてくる。わたしは大好物だが、吐き気がこみあげてくる人もいるかと思うので、表紙のかわいらしさに騙されないように。

 『ザ・ウーマン』 ジャック・ケッチャム (扶桑社ミステリー)

 愛するとは食うこと、愛されるとは食われること

 食うことで、相手と一体化する。食われることで、相手の一部になる。できないから珍宝満好でガマンするしかない。没入するのを眺めていると、ああ、食われているなぁ、愛されているなぁと実感する。そこに好悪の感情はない。好きとか嫌いとかではなく、「食いたい」「食われたい」欲望なのだ。欲望の発揮にフレームワークを用意したのは文明の罪だが、枷がないときりがない。性交でさえフォーマットがあるのだからね現代は。キスは味見でセックスは食事―――の隠喩だ。

 そういう根源的な欲望にゴツンと当たって、在ることを気づかせるのがケッチャム。昔、「ジャック・ケッチャムが好きだ」なんてヤツは頭がイカれてると書いたが、今も変わらず読みたくなる。渇いた喉に飲みたくなる。

 血みどろ食人すぷらったーだからではない。もし、あなたが残虐スキーなら、閲覧注意の友成純一『獣儀式』、読むハードコア・スプラッタの『野獣館』、あるいは古典だけど破壊力抜群のサド『ソドムの百二十日』(≠『ソドム百二十日』)をオススメする。あなたを「こわす」読書になることを請合う。

 ケッチャムは読み手を共犯者にする。純粋な目撃者になれる。見ているだけで何もできない。ただ、見ている対象と一体化する。こちらを見られずに、向こうだけを自由に“見る”ことは、一種の特権だ。すべての読者は、この特権を持っている。読書は視姦だ。これを知っているケッチャムは、「こうでしょ、こうでしょ」と笑いかけながら、読みどおりの展開に転がしてゆく(書きながら絶対笑ったはずだ、と確信もてる場面がある)。

 そして、見ているこっちを見つめ返してくる、アドレナリンとドーパミンに塗れながら、カミソリ噛み締める気分になれ。そこには怒りとか嫌悪とかいう感情ではなく、食う・食われるという状態が上書きされる。感情移入じゃなくって、本能が上書きされる。文明で飼いならされた思考の贅肉やら“しきたり”というフレームワークが削ぎ落とされて、ヒリヒリする欲望(とりわけ食欲)にゴツンとぶち当たれ。今年最悪の読書を、お約束する。

【ノンフィクション】

 『ピュリツァー賞 受賞写真 全記録』 ハル・ビュエル (ナショナル・ジオグラフィック)

 凡百の言葉よりも選一の写真が雄弁だ。そんな最優秀を集大成

 米国で最も権威あるピュリツァー賞、その受賞写真を年代順に眺める。ベトナム戦争、冷戦、アフリカでの紛争、イラクやアフガニスタンと戦争報道が多いのは、米国の国際的関心とフォトジャーナリズムの潮流が同期していたから。地震や噴火、津波などの災害モノもあり、安全な場所から歴史の現場を垣間見ることができる。

 ただし、内側・地方紙の報道写真も挟み込むように受賞している。井戸に落ちた乳児が救出される瞬間を捉えた一枚とか、大柄な赤ん坊を産み終えた直後の母親の笑顔とかに出会うとホッとする。パレードの交通整理をしている警官が、小さな子どもと目線を合わせている微笑ましいショットなんて、見てるこっちの頬がゆるむ。

 共通しているのは、一枚で全てを物語っているところ。出来事の背景や状況の説明、カメラマンのプロフィールから撮影情報まで記載されている。だが、そうしたキャプション抜きで、"起きていること"がダイレクトに伝わってくる。撮り手のメッセージ性は見えにくいが、ひたむきな"伝えたい"は熱いほど感じる。

 見るたび考えさせられた一枚にも再会する。「ハゲワシと少女」だ。スーダンの飢餓を訴えたもので、1993年3月のニューヨーク・タイムズに掲載されると同時に、称賛とバッシングにさらされた一枚だ。飢えた少女がうずくまっている背後で、その死を待ち構えているハゲワシが写っている。

 強烈な批判は報道のエゴイズムに向けられる。「"よい写真"を撮ることを優先し、なぜ少女を助けなかったのか」という問いが突きつけられる(後日、撮影者は自らの命を絶った)。少女の傍らに母親がいたとか、カメラマンは救護センターの場所を少女教えたといった情報を聞いたが、"よい写真"は揺らがない。キャプション抜きで成り立っているから。何を入れて何を外すかは撮影者の意思による。写ったものが全てだと思い込むのは無邪気すぎる。だが、写ったものは"伝えたいもの"なのだ。

 『地球のごはん』 ピーター・メンツェル (TOTO出版)

 食べることは生きること。

 世界30カ国80人の「ふだんの食事」を紹介しているが、ユニークな点は、本人と一緒に「その人の一日分の食事」を並べているところ。朝食から寝酒、間食や飲み水も一切合切「見える」ようになっている。

 おかげで表紙のイリノイ州の農家(4100)から名古屋市の力士(3500)、上海雑伎団の曲芸師(1700)やナミビアのトラック運転手(8400)が、何を、どんな形で口にしているか、一目で分かる。カッコ内の数字は「その人の一日分」のカロリー(kcal)だ。身長体重年齢も併記されており、「この人こんなに食べるのか」とか、「この食品、こんなにカロリーあるんだ」など、想像力がかき立てられる。

 例えば、高カロリーの傾向は、「職業」や「場所」に出てくる。激しい肉体労働だと高カロリーになりがちだが、高地や寒冷地の人々も高カロリーの食事をする。チベットの僧やエクアドルの主婦が驚くほど高いカロリーを摂取しているのは、高地ほど吸収しにくい(or心肺に負荷が掛かるので必要)のかと考えてしまう。

 さらに本書を面白くしているところは、「カロリー順」に並んでいる点だ。最初はケニアのマサイ族(800)、最後はイギリスの主婦(12300)で、前者はあまりの少なさに、後者はあまりの多さに愕然とする。世界の両端を見る思いがする。

 カロリーの高低は、所得の高低と一致しないことも気づく。つまり、低所得者の摂るカロリーは、必ずしも低いわけではないのだ。むしろ逆で、所得が低い人のほうが、高カロリーの食事をしている例を見る。

 本書で分かるのは、「普通」とは境遇や職業、ライフスタイルにもよるということ。それが最も見えるのは、全ての国、文化、職業、生き方に共通している、「食べる」という行為なのだ。

 『疫病と世界史』 ウィリアム・マクニール (中公文庫)

 感染症から世界史を説きなおしたスゴ本。

 目に見えるものから過去を再現するのはたやすい。事実、書簡や道具から過去を再構成することが歴史家の仕事だった。が、この一冊でひっくり返った。「目に見えなかったが確かに存在していたもの」こそが、人類史を条件付けていたことが、この一冊で明らかになった。

 結論はこうだ―――人類の出現以前から存在した感染症は、人類と同じだけ生き続けるに違いない。人類の歴史の基本的なパラメーターであり、決定要因であり続ける

 本書は、宿主である人と病原菌の間の移り変わる均衡に生じた顕著な出来事を探っていく。帝国や文明の勃興・衰亡レベルで影響を与えていた微生物の侵入経路を暴き、手記の間にこぼれ落ちそうなトリビアルも、疾病の観点からピックアップする。それぞれのエピソードが劇的につながっており、ページを繰る手が止まらない。人類史とは疫病史、ヒトが病気を飼いならす歴史なのだと改めて認識させてくれる。

 ただし、著者が冒頭で告白するとおり、本書で敢えてした断定や示唆の多くは、試案・仮説の域を出ない。その病気が何であるかを、書かれたものから同定するのは困難だ。しかも、宗教的プロパガンダにより、なんでもかんでも疫病を「黒死病」という名に丸めることで、特定をより困難にしている。古い文書から、人に危害を加える微生物や寄生生物が何であったかを探り出すことは、ほとんど望み薄だから。

 著者は、この難問に「移動手段の発達」と「疫病の地域性」というツールを使う。当時の移動手段(徒歩、馬、帆船)でどれくらいの人数がどこまで到達できるか、というアプローチをとる。例えば、帆船時代は、海があまりにも広すぎたがため、ペスト菌が拡散するより前に宿主を殺してしまっていた。汽船の出現が船脚と容量を増すことにより、感染が長時間循環できるようになり、海は突然、かつてないほど通過しやすい場所になったという。

 さらに、病気の地域性が、文化や制度を条件付けていたことまで踏み込む。カースト制度が発生した原因は、いわば疫学的疎隔意識とでもいうべきものがあったのではないかと考察する。これは、天然痘など文明に伴う病気が好例となる。小児病として感染し免疫のあるアーリア人の侵入者が、インド東南部の高温多湿ではびこっている風土病への耐性を獲得していた土着の「森の種族」と出会ったときを想像する。そこに生じた、互いに相手を避けようとする態度が一般化したのだという論考は、検証しようのないものの、なるほどと思わせる。

 『100のモノが語る世界の歴史』 ニール・マクレガー (筑摩選書)

 食器から兵器まで、モノを通じた人類史。大英博物館の所蔵品から100点選び、時系列に並べ、世界を網羅する。人類が経験してきたことを可能な限り多方面からとりあげ、単に豊かだった社会だけでなく、人類全体について普遍的に語る試み。

 物に歴史を語らせることは、博物館の目的にも合致する。文字を持っていたのは世界のごく一部でしかないから、偏りなく歴史を語ろうとするなら、文献だけでは不可能だ。したがって、モノで語られる歴史は、「文字を持たなかった人々に声を取りもどさせる」というのだ。文字をもつ社会ともたない社会のあいだの接触を考えるとき、一次的な文献は必然的に歪曲されており、一方の側の記録でしかないから。

 本書では、「ヨーロッパ人が世界各地の人々と接触するなかで起きたような致命的な誤解を、ありありと象徴している」と説明するが、征服者のペンより奪われたモノの高貴さが語っている。これは、戦利品であると。

 そう、展示品が貴重であればあるほど、嬉々として見せびらかす態度が、あまりにも無邪気に見える。地球の各地から集められた、日用品、芸術品、遺物は、要するに略奪品である。日の沈まぬ大英帝国が世界を「発見」し「開拓」していく中で、奪い、盗み、剥奪していったモノなのだ。

 もちろん友好の品として入手したものもあるだろう。行く先もなく寄贈されたものや、博物館自身が買い取った遺物もあるに違いない。だが、血塗られた手でゲットした「お宝」と混ぜられてしまい、どれがどれか、分からなくなっている。征服され、滅ぼされた立場からすると、盗品、略奪品の泥棒市こそが、大英博物館なのではないか―――そんな疑問がわきあがる。

 しかし、事情はどうやら、違うらしい。貴重な遺物や出土品が、二つの国家で物理的に分割され、逸散する歴史も語られる。イギリスが植民地支配していれば少なくともバラバラにならなかっただろう(その代わりゴッソリ持って行かれるが)。

 さまざまな文化や文明のモノを眺めることができるのは、大英帝国(と仲間たち)の略奪や貿易のおかげ。善悪の判断を措けば、これは人類の宝が集められ、守られていたことになる。本書はそこから生まれたのだ。

 『昭和史』 中村隆英 (東洋経済新報社)

 日本の現代史の決定版。過去を見ると未来が見える。本質的に変わっていない日本がある。むしろ、変わらない本質が得られる。波乱と躍動に満ちた昭和は、ドラマよりもドラマチックで、おもしろい。

 やたら変化が叫ばれている。ニッポンの上っ面はめまぐるしく、スローガンとキャッチコピーはどんどん入れ替えられる。だが、本質はこれっぽっちも変わっていない。昭和と平成を比べると、同じ問題に同じ応対をしている。その学習能力のなさは、悲しいぐらい変わっていない。

 たとえば、国会を包囲するようなデモも、選挙には何の影響も与えない。かなりの人が「あれは何だったのか?」と不思議に思うに違いない。反原発デモではない、安保闘争だ。20万人のデモ隊が連日国会を取り巻き、全国では560万人に及ぶストライキ運動が起きるような猛烈な大衆闘争だ。いま流行の民主化革命を凌ぐ盛り上がりだったが、問題はあの騒ぎではない。その直後の内閣総辞職・総選挙の結果だ。投票率は変わらず、自民惨敗どころか、逆に大幅に議席を伸ばしている。信じられるか、この間5ヶ月だぜ。

 ここに、熱しやすく冷めやすい典型を見ることができる。投票で意思表示しましょうというルールに則る限り、あの騒ぎは選挙によって否定されたといえる。歴史はくり返す、次は喜劇だぞ。

 文化・思想面でも変わらない。キーワード「民主主義」を「グローバルスタンダード」に置き換えても見事に通じるので笑える。知識人のスタイルは不変、固有名詞が変わるだけ。理想化された欧米社会と比較して、日本に抜きがたい後進性を見いだす。でもってオチは、伝統の殻を背負った構造にもとづく宿命論に行き着く。なんでも日本の特殊な後進性に結びつけて、悲観的に考える、1940-50年代に風靡した講座派の発想なんだって。

 経済を中心に、政治・思想・文化から多面的に描いており、読み手の抱いているテーマによって、いかようにもヒントが得られる。経済的な断面から昭和を分析することもできるし、社会風俗のような時代の空気の側面から眺めることも可能だ。どう昭和を読むかによって、成果が変化する。

 大臣の下半身スキャンダルも、カネと政治のしがらみも、国策捜査の検察ファッショも、噂だけでトイレットペーパーを買い占める婆たちも、売上税・消費税・福祉税も、明日マスコミが騒ぎ立てることは全部昭和に書いてある。同じ過ちをくり返しているからバカだと罵るのではない(そしたらマスコミと同じだ)。そこから教訓を引き出し、未来に適用するのだ。価値ある教訓は過去にある、未来は昭和に書いてある。

 『八月の砲声』 バーバラ・タックマン (ちくま文庫)

 「なぜ」戦争が起きるのか?ピューリッツァーを受賞した本書を読むと、この設問が誤っていることに気づく。どんな国も戦争を起こすようなバカなまねはしたくない。「なぜ戦争が起きるのか」……この問いからは、戦争が起きる理由をたどれない。正しくは、「どのように」戦争に至ったのか、だ。

 なぜなら、戦争の理由を追求すると、イデオロギーになるから。「なぜ」をつきつめると、「悪いやつ」を探すことになる。人に限らず、悪の帝国や党派だったり、組織的収奪や不均衡といった現象もそうだ。むろんそれは、原因の一つかもしれない。しかし、そこに説明を求めると、主義主張がからんでくる(対戦国で「原因」は180度反転する)。何を信じるかによって、原因が取捨選択され、勝者の主義によって原因が決められる。そして、その「なぜ」は次の戦う相手となる。

 いっぽう、戦争のプロセスに着目すると、事実の話になる。宗教上の軋轢や、貿易摩擦、異文化の緊張がどのように高まっていったか、どんな交渉が、どう決裂したかは、事実の話だ。もちろん事実のどの側面を拡大し、どこを過小評価するかは、主義主張の圧力にさらされるかもしれない。だが、それは事実を吟味する俎上に(いったんは)乗せられる。

 本書は、「どのように」第一次世界大戦が始まったか、開戦前後の1ヶ月間の政治と軍事の全体像を検証・分析する。経済的に依存しあった大国が、どんな誤算と過信に基づいて、「実行不可能な戦争」に突入していったのかが、克明に記されている。

 「サラエボで皇太子が殺されたから」「三国同盟・三国協商」といった後付けの知識で説明するのなら、単なる暗記科目になる。後知恵だから当人たちの「誤算」が愚かしく見えるかもしれない。だが、当時リアルタイムで決断を下したとき、状況は今ほど見えていなかった。乏しい判断材料、緊迫する展開、伝わらない情報の中で、どのように戦争に向かったかは、どうしても知る必要がある。戦争を避けるためには、戦争を知らなければならないのだから。

 『ロボット兵士の戦争』 P・W・シンガー (NHK出版)

 現実はSFよりもSFだ。しかも、SFよりも「お約束」な展開が恐ろしい。

 革新のスピードが速すぎて、考えるのをやめ、「なりゆきを見守っている」のが、現状だ。SF好きには堪らないだろう。なんせ、ロボット兵を作り出すアイディアを、SFから拝借しているどころか、SFでもやらないベタな地雷を正確に踏んでいるのだから。

 軍事ロボットの現場はスゴい。C-RAMシステムは自律的な機関砲を使って、人間では遅すぎて反応できないミサイルやロケット弾を撃ち落す。命中率100%のSWORDSは、砂、雪の中を進み、水深30メートルまで潜り、バッテリーで7年間スリープ状態で潜伏し、目覚めて敵を撃ち倒す。5メートルの波浪でもUSV(無人水上艇)なら活動できる。クリック一つで離着陸するグローバル・ホークは、GPSで飛行ルートを確認しながら、完全自動で任務を遂行する。UCAV(無人戦闘機)にとって人間のパイロットはむしろ邪魔だ。あまりに高速で旋回・加速できるため、Gによって失神してしまうから。

 そう、人は防衛システムの最も弱い環(weakest-link)だ。無人システムはこの限界を回避できる。人の感情は制限されたり抑圧されるのではなく、完全に排除される。敵は人間ではなく、画面上の光点とみなすようになる。エヴァンゲリオンの「目標をセンターに入れてスイッチ」を思い出すね。

 無人システムは「戦闘の非人格化」を加速する。爆撃機のパイロットは標的の上空にいるのではなく、1万キロ以上離れたところにいる。ゲーセンの筐体に似た制御装置に座って、午前はアフガニスタン、午後はイラクを攻撃した後、PTAの会に出席するお父さんもいる。

 いまや戦争体験そのものが変わってしまった。「テレビゲームみたい」な戦争はyoutubeで拡散し、「巻き込まれていない人間にとっては、見るスポーツ、戦争ポルノ」となっている。明確な前線はなく、戦闘は敵味方の区別がつきにくい状況で行われる。遠くから指揮され、通信システムの不備が民間人に死と破壊をもたらす。戦争から人間性を奪うことによって、世界から見れば、われわれ(アメリカ)こそ「ターミネーター」のように見えてしまうかもしれないと警告する。

 じゃぁどうすればよいか?本書に「解答」は無い。現状を詳らかにして、あとはオマエが判断しろと放置する。SF読みなら行き当たる疑問、「アシモフのロボット三原則は?」はスルーどころかナンセンスとして放置される。知らない方がよかった現実と、知っていた方がマシな未来を識るべし。

 『戦争の経済学』 ポール・ポースト (バジリコ)

 「戦争は割に合わない、儲けはドルだが、損は人命で数えるから」というセリフがある。だが、戦争を「プロジェクト」として捉えたら、どのように"数える"ことができるか。

 この問いに、本書は二つの読み方で応えている。一つは戦争に焦点をあて、これについて考える枠組みとして、経済理論を適用した読み。もう一つは、ミクロ・マクロ経済入門を説明するために、戦争をダシにした本として。どちらの側面からでも、「面白く」といったら不謹慎だから「興味深く」学ぶことができる。

 経済学の教科書のトピックを"戦争"にあてはめると、突如イキイキとしてくる。例えば、ゲームツリーを用いて、テロリズムの選択モデルを分析するくだりは、(そのインセンティブの多寡はともかく)非常にありえそうだ。もちろん「自爆テロに合理性はあるか?」と、そもそも論に走ることもできるが、宗教観や異文化理解に流れるだろう。だが、もし自爆テロの合理性を考えるならば、どう説明できるかというアプローチに、経済学は役に立つ。

 「戦争=絶対悪」として捉える限り、本書を読むのは難しいかもしれない。だが、同じ場所で議論するためのツールとして、経済学を使うことはできる。人命や国土の荒廃といったセンシティブな要素は、付け加えるパラメータを何にするか、どの程度の価値と見なすかという形でまな板に乗せるのだ。

 巻末に、訳者・山形浩生氏が「プロジェクトとしての戦争」として、「日清戦争」の収支や、「自衛隊のイラク派兵」の便益を計算している。もちろん"進出権"だの"プレゼンス"は損得勘定にそぐわないかもしれないが、それでも、「元をとる」のは大変なことがよく分かる。

 では、経済の観点で「よい戦争」というものがあるだろうか?実はある。そこでは、確かに経済的に有益となる条件が存在する。条件がそろったからといって開戦するヤツはいないだろうが、巨大な公共投資としての戦争は成り立つのだ

 『世俗の思想家たち』 ロバート・ハイルブローナー (ちくま学芸文庫)

 経済学の目的は、人の営みの本質をヴィジョンとして描くことが分かる。そして、経済学は科学でないことが腑に落ちる。

 スミス、マルクス、ケインズ、シュンペーター、経済学説史上の巨人たちの言動がときに生々しく、ときにユーモラスに語られる。彼らは皆、学説や主義の発明者というよりは、目の前の現実社会に影響を受けながらも、「なぜそうなっているのか」を得心しようと奮闘したのだ。

 彼らの出自も栄達もさまざまだ。裕福な教授もいれば、極貧の文筆家としての人生を送った者もいる。共通していることは、彼らの描くヴィジョンは、それぞれの個人的な経験に裏打ちされているところ。絶対的なプリンシパルがあって、そこから証明や体系を拡張したものでないオリジナリティが、経済学を世俗の思想にしている。資本主義の崩壊を予言する情熱の下地に、マルクスの神経衰弱を見たり、一般理論の説得力の裏側に、ケインズの陽気さを透かすことができる。彼らの言説に、彼ら個人の、ひいては当時の世の中の裏付けが存在する。

 それぞれの経済学を支えるのは、「何を信じるか」に過ぎない。相対する人の生い立ちや社会的情況に依存するのだ。ペシミストが見た社会は崩壊の危機に瀕しているし、(経済的に限らず)様々な意味で楽に・楽しく生きてきた人にとっては別の見方ができる。主張は動機に裏打ちされることを、歴史を通じて証明してくれる。

 自らの信念に因り、モデルの説得力を高める、これが(その人にとっての)経済学の目的だ。では何のために?現在を理解し、より良い未来のためできる手立てを選ぶためだ。だから経済学者の舌は重い。そのわりに軽く回転する連中が多いのは面白くもあり、恐ろしくもなる。

 『音楽の科学』 フィリップ・ボール (日経サイエンス社)

 スゴ本オフ「音楽」でオススメした。音楽とは何か? 音楽を「音楽」だと認識できるのは、なぜか? 音楽を「美しい」と感じたり、心を動かされるのは、なぜか?

 音楽好きなら、誰でも一度は思ったことを、徹底的に調べ上げる。そして、究極の問いかけ、「音楽は普遍的なものか」に対して真正面から答えている―――答えは「No」なのだが、そこまでのプロセスがすごい。

 音楽の定義から、楽曲と使う音の恣意性、「良い」メロディの考察、音楽のゲシュタルト原理、協和・不協和音、リズムと旋律、音色と楽器―――ほぼ全方位的に展開される。さらに、音楽を聴くときの脳の活性状態についての研究成果と、音楽に「ジャンル」がある理由、「音楽=言語」の音楽論など、膨大な知見が得られる。「響きの科楽」は物理学から斬り込んでいるのとは対照的に、「音楽の科学」は認知科学から解こうとする。たくさんの楽譜が引用されており、調査の確からしさを支えている。楽譜が読めなくても心配無用、ここ [Music Instinct]にて全ての音源が公開されている。

 人は音楽をどのように聴いているかに着目しているのが良い。芸術や文化論で補完しつつ、メインは認知科学だ。すなわち、「脳は音楽をどのように聴いているか」に力点を置くと、脳が意外とアナログな(文字どおり適当な)処理をしていることが分かる。

 たとえば、脳は、情報量を自動的に減らす能力が備わっているという。音程がわずかに違うだけの音は「同じ」と判断してしまうのだ。おかげで、少しくらい調律が狂っていても、音楽を楽しむことができる。もし調律の狂った音がすべて別の音と認識されれば、音楽はとてつもなく複雑に感じられ、処理能力の限界を超えるから。

 音楽がわたしたちの耳にどう聞こえるかは、聞こえた音そのものだけによって決まるのではない。その人がこれまでどんな音楽を聴いてきたのか、つまりどういう音楽が聞こえると予測するかによっても聞こえ方は変わってくるというのだ。

【ベスト】

 『シャンタラム』 グレゴリー・デイヴィッド・ロバーツ (新潮文庫)

 この徹夜小説を読め、面白さは保証する。未読なら、おめでとう ! 予備知識ゼロの状態で読め(命令形)。文庫の裏表紙の「あらすじ」も見るなよ。あと、上中下巻すべて確保してから読め。さもないと、深夜、続きが知りたいのに手元にないという禁断症状にのたうつから。

 どれくらい面白いかというと、ケン・フォレット『大聖堂』、中島らも『ガダラの豚』、古川日出男『アラビアの夜の種族』といえば分かるだろうか。要するに、「これより面白いのがあったら教えて欲しい」という傑作だ。安心していい、完全に身を任せて、物語に呑み込まれてしまえ。

 蛇足を恐れず言うなら、これは赦(ゆる)しの物語。赦すとは、自身の怒りや憎しみを手放すこと。そこに至るまで、何度も間違え、怒りに身を染める。「人は正しい理由から、まちがったことをする」という本質は、世界一面白い『モンテ・クリスト伯』と同じ。手に汗握る彼(リン・シャンタラム)の運命は、そのままエドモン・ダンテスの苦悩につながる。

 『垂直の記憶』 山野井泰史 (ヤマケイ文庫)

 昔どこかに沈めた感情が湧いてくる。

 著者は日本を代表するクライマー、山野井泰史。氷と岩の山行を日記のように綴る。「ギャチュン・カンの代償」とは手足の指を十本、凍傷で失ったこと。登頂後、嵐と雪崩に遭遇し、妻・妙子とともに脱出を試みて奇跡的に生還した―――代償になる。

 すさまじい登攀への思いと生きる意思に、そのまま撃たれる。「生きている」という強烈な感情が伝わってくる。もちろんわたしは、限界まで肉体を酷使して、生死の境を切り抜けたわけじゃない。それでも、生そのものを握りしめる著者の喜びが伝わる。淡々とした語り口で、過酷な事実を積み重ねる。

 描写の折りに、独白が交じる。「ぎりぎりの登攀をしているとき、『生きている』自分を感じられる」や、「山で死んでもよい人間もいる。そのうちの一人が、多分、僕だ」と言い切る。そこには力みも誇張もない。恬淡とした凄絶ぶりに、狂気じみたものを感じつつ、心底うらやましい。本当に好きなものをやれているのだから。

 翻ってわたしはどうだ? 日々平穏に過ごし、時にはわずかな跳躍で満足している。それがやりたいことなのか? 『生きている』自分を感じられることなのか? 自問してゆくうち、本を持つ手が焼けてくる。彼が向かい合った、美しく強大な『壁』はあるのか。

 『戦争の世界史』 ウィリアム・H・マクニール (中公文庫)

 ギルガメシュ王の戦いから大陸弾道ミサイルまで、軍事技術の通史。人類が「どのように」戦争をしてきたかを展開し、「なぜ」戦争をするのかの究極要因に至る。非常に野心的な構想に立っている。軍事技術が人間社会の全体に及ぼした影響を論じ、戦争という角度から世界史を書き直そうとする。

 最初は大規模な略奪行為だったものから、略奪と税金のトレードオフが働き、組織的暴力が商業化する。戦争という技芸(art of war)を駆使する専門技術者が王侯と請負契約関係を結ぶ。常時補給を必要とする野戦軍を、その経済作用から「移動する都市」と喝破したのはスゴい。略奪品は市場交換を促進し、軍事・商業複合体が商業化された戦争を推し進める。

 民間から集めた税金で軍事専門家を雇って戦ってもらい、その支出が有効需要として経済を刺激する。増加した税収でさらに軍事力が高度化し……このフィードバックループこそが、ヨーロッパを優位に立たせた。

 さらに、イギリス産業革命は軍事・産業複合体が支配する産業化された戦争を生み出し、旋盤技術がライフル小銃の大量生産が可能とし、大砲や戦艦の製造技術が産業化されることによって、全世界を顧客とする近代兵器製造ビジネスが誕生する。

 本書の視線で西欧史を眺めると、社会そのものが、長い時間をかけて、戦争というシステムにロックインされてきたのが分かる。もちろん、戦争は欧米の専売特許ではないが、フランス革命とイギリス産業革命をトリガーに、全世界を巻き込みながら戦争と産業というシステムを二人三脚で輸出する過程こそが西欧史なのだ。このダイナミズムに圧倒されるべし。

 あちこちに散見されるイノベーションのジレンマは、古くて新しい問題だ。歴史を俯瞰しているのに、極めて現代的な課題にぶち当たる。マクニールは何度も読む。そのたび異なる視点で現代を「過去問」として取り組むだろう。

【スゴ本2013】

 振り返ると、今年は「歴史」に焦点が当たっていたようだ。不確実性がさらに増しているいま、よりよい選択のために過去から学ぼうとしているのだろうか。来年もこの傾向が続くだろう(ハルバースタム『ベスト&ブライテスト』が未読だ)。

 また、今年から「経済学」と向かい合うようになった(先日クルーグマン『マクロ経済学』を読了し、ミクロに取り掛かったところ)。ネット弁慶の詭弁術に騙されない自衛策なのだが、これがなかなか面白い。同じ狂気の淵に身を乗り出しすぎないよう、自戒しながら学ぼう。

 それから、「死ぬまでに読みたい本」を優先しないと。ブログやってると、「読みやすい本」「書きやすい本」に目が行く。早き易きに流れ、「カモリーマン相手に軽薄ビジネス書を勧める」とか、「楽にレビューできる新刊ばかり選ぶ」ことのないよう、気をつけないと。

 人生は短く、読む本は多い。

このエントリーをはてなブックマークに追加

|

« おいしさを、おすそわけ『私の好きな料理の本』 | トップページ | 『影武者徳川家康』はスゴ本 »

コメント

>人生は短く、読む本は多い。
最後の文章を拝読して、反射的に作家を思い出しました。アニー・ディラード。
読んだ作品は今のところ例外なく名作でして、なんとかして死ぬまでに他の作品も読み切ろうと思っております。

松岡正剛が以前千夜千冊で紹介していました。

投稿: sarumino | 2012.11.28 23:44

dainさん 今晩は。 いつもブログを楽しみに拝見させていただいております。

笹まくら 紹介文に

プルースト『失われた時を求めて』を自家薬籠にした著者が、意識の流れを徹底的に追う構造と緻密さ
とありますが、

ジョイス『ユリシーズ』を自家薬籠にした著者がではないでしょうか。

丸谷さんと言えば『ユリシーズ』の翻訳者、意識の流れと言えば『ユリシーズ』です。『失われた時・・・』には意識の流れの手法は使われていないと認識しているのですが・・・

間違っていたらごめんなさい。無視して下さい。

投稿: たかし | 2012.11.29 00:22

コメント失礼致します.

Steins;Gate, 面白いですよね. ゲームを楽しまれたのでしたら, 小説

『STEINS;GATE─シュタインズゲート─ 円環連鎖のウロボロス』 海羽 超史郎 (富士見ドラゴン・ブック)

もおすすめ致します.
原作とはわずかに異なる「世界線」を辿る様子が
メタ2周目という感じで引きこまれます.

投稿: | 2012.11.29 03:37

こんにちは。タックスマンではなくタックマンですよ。
私は原文で読みました。

投稿: | 2012.11.29 07:43

『新編 バベルの図書館』が東京創元社になっていますが、正しくは国書刊行会です。念の為お知らせ致します。

投稿: aquirax | 2012.11.29 14:26

>>sarumino さん

アニー・ディラードですか!教えていただき、ありがとうございます。嬉しいことに、一冊たりとも読んでいない(はず)です。『本を書く』『ティンカー・クリークのほとりで』の感想を見る限り、若い頃に読むと効きそうな本ですね。まずは『ティンカー』から手を出してみようかと。


>> たかしさん

ご指摘ありがとうございます!わたしが誤っていました。元の記事を改めて読み直したところ、確かにジョイス『ユリシーズ』に言及していたのに、まとめを書くときに力いっぱい間違えてしまいました。


>>名無しさん@2012.11.29 03:37

おお!小説版シュタゲですか。ご紹介ありがとうございます。傑作小説の映画化と同様に、ノベライズは脳内世界が壊されそうでちと怖いです。が、「メタ2週目」という惹句が気になります。チェックしてみますね。


>>名無しさん@2012.11.29 07:43

ご指摘ありがとうございます。いつも彼女の名前を書くとき、ビートルズの"taxman"が脳内を流れてしまうのですorz


>>aquirax さん、ramuramu さん(via:twitter)

ご指摘ありがとうございます、確かに『バベルの図書館』は東京創元社じゃなくて国書刊行会でした。なんで間違えたんだろう……

投稿: Dain | 2012.11.29 23:55

アシア・ジェバール『愛、ファンタジア』、ポール・セロー『ダーク・スター・サファリ』がおもしろかったです。読めるのなら読んでみて下さい。

投稿: もと | 2012.12.30 14:17

>>もとさん

オススメありがとうございます。
ポール・セローは懐かしく、アシア・ジェバールは初めて知りました。教えていただき、感謝です、手にとってチェックしてみますね。

投稿: Dain | 2012.12.30 18:29

八重の桜の応援歌詞「思い出の城、思い出の桜」が「現代文DE舞姫」愛の四つ葉社、阿部紙工の付録に!
日本古典文学革命の本を応援しましょう!!
現代文DE舞姫
現代文DE古文
現代文DE漢文
荒野の月
図書館のすぐれちゃん
などなど
この本はすごい!

投稿: 会津太郎丸 | 2013.01.14 08:32

>>会津太郎丸さん

オススメありがとうございます、チェックしてみますね。故きを温めて新しく解くのは、どの時代でも使える常套です。最近だったら、現代アレンジ徒然草と初音ミクの般若心経が好きです。

徒然草
http://www.tsurezuregusa.com/index.php?title=%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8

般若心経
http://dic.nicovideo.jp/v/sm11998050


投稿: Dain | 2013.01.14 10:26

はてなブックマークからきました^^

とても参考になりました^^

ありがとうございます^^

投稿: ユッキー | 2013.04.30 04:55

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: この本がスゴい!2012:

» 土下座寝する姿が可愛い [ソブラどっどこむ]
落ち着くのだろう、今日もまたそのスタイルで寝ている。 [続きを読む]

受信: 2012.11.29 14:24

« おいしさを、おすそわけ『私の好きな料理の本』 | トップページ | 『影武者徳川家康』はスゴ本 »