本はモノだ、昔も今もこれからも「死の蔵書」
本はコピーなのに「モノ」だから、目の前の一冊は「それ」しかない。
試みに手元の一冊を開いて、コメントやサインを書き込むといい。たちまち世界で唯一の、「オリジナル」バージョンができあがる。誰かにあげることも、売ることだってできる(値段ともかく)。モノとしてあるからだ。質量を伴わない情報としての側面と、触れる重みをもった物質としての側面と、両方あわせて「本」なのだ。
電子書籍に火傷している人は、この、「モノとしての本」が分からない。どんな形をとろうとも、本なんてみんな一緒だと思っている。1990年代の話だから電子書籍はまだないが、「ペーパーバックで読んでも、初版本で読んでも、ヘミングウェイは変わらずに面白い」―――なんて出てきたセリフに、主人公は説教をする。
初版本を読むのは馬鹿だけだ。そんな本を持っていることの利点はただ一つ、読むために買った別の版がぼろぼろになり、本の体をなさなくなっても、ヘミングウェイに対して申し訳ない気持ちにならなくてすむ「死の蔵書」は、この、モノのしての本に囚われた人のドラマだ。殺人事件の犯人探しというミステリの枠で描くが、被害者も犯人も刑事も、全員が本にハマる煩悩劇として読める。ある者は起死回生を賭けてゾッキ本の山からお宝を探し、ある者は人生を棒に振って長年の夢だった古本屋を始め、またある者は遺産としての本に確執する。
「それしかない」モノに価値を見つけ、愛しつつも商売しようと足掻くさまは、浅ましかったり微笑ましかったり、ときにはおぞましかったり。偏愛は、人を人でなくす。自分の人生を一変させる蔵書に出合ったとき、それぞれ、どのように振舞うかを観察しながら読むと、なお楽し。
筋金入りの書痴でフェチな主人公は、けっしていい本屋にはなれないだろう。なぜなら、わたしがそうだから。古本屋巡りは、とうの昔にやめている(危険すぎるから)。主人公は、こんな釘を刺される―――「ドクターJ、本屋になりたいのなら、本に惚れちゃいけないぞ」。
おまけに、主人公に託した著者の偏見(!?)が鋭くて、刺さる人もいるかもしれない。「キングやクーンツのファンは、実はあまり本が好きではない。じっくり選んでいるのを見たことがない」とか、「公立図書館は三文小説を何十冊も買った挙句、予算が無いと泣き言をいう」なんて、かなり刺激的だ。
キング「ミザリー」をファウルズの「コレクター」にあてつけるのはくすぐり上手だし、 トマス・ハリスは「羊たちの沈黙」よりも「ブラック・サンデー」に目ェ着けているところが玄人じみてる。いかにもマーク・トウェインが言いそうな警句を、マーク・トウェインを引き合いに出すここなんて、毒が効き過ぎて黒く笑えた。
われわれが生きているこの時代では、スティーヴン・キングの初版本にマーク・トウェインの初版本と同じ値段がつき、しかもその十倍は売れる。なぜなのか、説明してもらいたいものだ。私にはわからない。おそらく現代の人間は知性よりも金を多く持っているのだろう。ハードボイルドから入って、クイーンばりの伏線を張り巡らせ、謎が明かされるファイナルストライクの感覚はクリスティのそれ。噛むごとに味が変わる展開が楽しいし、本の薀蓄がこれでもかと詰め込まれているから、惹句の「本好きにはたまらないミステリ」は正しい。
本好きの本好きによる本好きのためのミステリ。
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