狂わないための料理「わが百味真髄」
「料理に打ち込むのは、あれで発狂を防いでいるようなもの」坂口安吾は檀一雄をこう評するが、本人は否定する。この言葉はわたしに当てはまる。料理のおかげで狂わないでいる。
むろん、レシピ本と首っぴきの素人料理は承知のこと。しかし、買出しから下ごしらえ、調理と盛り付けをしているあいだ、“目の前の料理”に没頭できる。料理だけでなく、順に食卓に上るよう計らい、同時に、調理器具を洗いながら片付ける。すると、あれほどしつこかった気鬱が、綺麗さっぱり消えている。料理をしてなかったら、この鬱に押しつぶされていただろう。
グルメ・エッセイは多々あれど、「自分で」作ってみようと背中を押されるのは檀一雄だ。「ちょい足し」や「ズボラ飯」などインスタント料理も多々あれど、「愛する人に」食べてもらおうという気になるのは檀一雄だ。「檀流クッキング」然り、本書もそう。自分で作って、みんなに食べてもらいたいものばかり。
ただし、文字ばかりだし量もテキトーだ。塩はいかほどと訊かれたら、好きなように投げ込みたまえ、と言い切るのが檀流クッキング。加減は自分で確かめよというメッセージだろう。
これから寒くなってくるから、クラムチャウダーを作ってみよう。ニューヨークの停車場地下室風だそうな。こういうの作るとき、必殺・圧力鍋を使ってしまうが、檀流でやってみよう。
- アサリを二皿きばって買ってくる
- ジャガイモ少々をサイコロ状に刻み、五分ばかり塩湯で煮ておく。玉葱一個・セロリー一本・ベーコンの二、三枚を小さく刻んでおく
- 鍋にコップ二、三杯の水を入れて沸騰させ、アサリをほうり込んでフタをしめる。アサリが口を開いたら火を消して、そのままさます
- フライパンにバターを入れて、ベーコンと玉葱を弱い火で静かにいためる。ニンニク少々といっしょにいためたほうがおいしいかも
- 玉葱が半透明の色になったら、いい加減のメリケン粉を加えて、ちょっといためる
- メリケン粉と、ベーコンと、玉葱がヨレヨレに錬り合わさっている中に、アサリの煮汁の上澄みを入れてお団子をつくらないようにていねいにまぜる
- 弱い火でよくまぜながら牛乳二本ばかり加え、ほどよいトロトロ加減だと思うところまで、牛乳や貝の煮汁で薄める(ここで塩加減)
- 貝からはずしたアサリを小さく刻む
- さっきつくりあげたトロトロとしたスープに火を入れ、セロリー、ジャガイモをほうり込み、再び煮立ってきた頃、アサリ貝を加えたら、できあがり
- 塩加減が薄かったら塩を足し、トロ味が過ぎると思ったら牛乳を足し、なめらかさが足りないと思ったらバターを足す
あるいは、手羽先。揚げるしか能のないわたしに、「酒のサカナ」というアプローチを見せる。炊いて、炒めて、煮詰める、手羽先の中華風だそうな(同時にラーメンスープもできちゃう)。
こうして見ていくと、一人ではなく二人、二人ではなく家族に食べてもらうためのレシピであることに気づく。自嘲気味に「母が家出したため、子どもの頃から料理せざるを得なかった」と語るが、嫁さんをもらって、外食も自由にできるくらい稼げるようになっても、馳走して厨房に立つ。なぜか。
もちろん自分も食べるためだが、「おいしいものを、誰かに食べてもらいたい」動機が底にあることに気づく。これは檀氏の息子が書いたあとがきで分かる。文字どおり、走り回って食材を集め、饗応する。人を喜ばせるのが好きなんだ。
自分が狂い始めているときは、たいてい、自分のことしか考えていない。誰かのことを思うための方法としての料理は、使えるなり。
おいしいものを作って、誰かと一緒に食べるために。
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