完璧な悪夢「野性の蜜」
取り返しのつかない不幸がもう、すでに起こってしまっていて、自分はそれを目撃するだけという、とどめの一撃だけが待っているだけで、しかもそのことを、周りも、作者も、自分自身も分かっていて、それでも待つことしかできなくて、ページをめくりたくない、話を進めたくない嫌悪に背を焼かれながら、じりじりと読む。
そういう、厭な、短篇集。
傑作は「羽まくら」、わずか数頁ながら、ここまで引きずり込むのも珍しい。読み始めたとき、これはイヤな話だ、しかも読んだ記憶があるぞ、あまりの後味悪さに「読んだ」という記憶を封印したんだっけという思いが脳裏をよぎったが、あれよあれよと読みきってしまい、予想どおり、想像どおり、おぞましい読後感に苛まれる。
それは、墜落する悪夢そのもの。
眠ってるとき、墜落する夢(というか感覚)にビクッと目覚めることがある。落下しつつ、「もうすぐ墜落する」という予感が迫ってきて、堕ちることから逃れられないのが分かっているのに、何もできない、体が動かない。表題作「野性の蜜」の男は墜落するわけではないが、この「運命に向かってまっしぐらに突っ込んでゆく」ことが分かったとき、こうする。
この最後の恐怖から逃れるために、まだ残っていた力を振り絞って叫んだ。大人の声ではなく、怯えた子どもだけが立てることのできる本当の悲鳴だった。
だいじょうぶ、この悲鳴は、はっきりと聞こえた(わたし自身の声だった)。さらに嫌悪指数No.1の「頸を切られた雌鳥」の、この静寂もはっきりと聞こえる(わたしは心臓を止めた)。
いつも不安に苛まれていたマッツィーニの心には、その静寂はあまりに不吉に思われたので、彼の背筋は恐ろしい予感に凍りついた。
そう、キローガの短篇は致死率が極めて高い。誰かしらが事故で死んだり、誰かに殺されたりする。ラテンアメリカ文学において、死や死者は近しいものとして扱われている作品を沢山読んできた。なかでもキローガは、宿命論的な態度で死を扱おうとする。
人はいつ、どんな形で死を迎えるか分からない。どんな意外な形であろうとも、それは前もって定められており、免れることはできない―――そういう観念がベースにある。死は日常から近づいたり離れたりしているが、大波が防波堤を乗り越えるように、やってくるものなのだ。
だんだん近づいてくる死を内面から精密に描いた傑作が、トルストイ「イワン・イリイチの死」なら、思いがけない死を外面から徹底的に描いた傑作は、キローガ「死んだ男」だ。その男の死ぬ間際が、クローズアップ、バードビュー、自省の声、あらゆる角度から、その死が免れようのない事実であること、その死の免れようのなさを男が心底理解しているということが、細かく嫌というほど伝わってくる。
キローガの短篇は、時間制御が利いており、濃度が極めて高い。なにかとんでもないことが起こっており、視点や角度を変えて描写しているにもかかわらず、時間はほとんど経過していない。これは、読むスピードと、作中時間を合わせることを意図した書き口だ。先を知りたい読者はそれだけ焦らされることになり、息を詰めてページを繰る。するとカメラがとつぜんパンして、結末はあっさりと記される。読み手はとり残された思いで呆然と後味の悪さを噛み締める。
この時間制御を意識した描き方や、映像の肉化、因縁の転生といったモチーフは、ボルヘスを思い出す。さぞかし仲良しと思いきや、解説によると真逆らしい。「キローガを読むメリットは無い」と言い切り、キローガをもてはやすのは「ウルグアイの迷信」とまで呼ぶ。ボルヘスが他の作家をこれほど酷評するのは珍しいそうな(同属嫌悪? カサーレスは?)。
粘度が高く、死の予感に満ちているので、一夜一編読むのが吉。ただし、その夜はきっと悪夢になる。しかも、どろり濃厚なやつ。そうそう、キローガといえば、「完璧な短篇を書くための十戒」。この短篇集もきちんと守られているぞ。
完璧な悪夢を、どうぞ。

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