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アグリカルチャーとアグリビジネスの間「食の終焉」

 「食」から斬ったグローバリゼーションの本質。

 食にまつわる、生産、加工、流通、消費の巨大なサプライチェーンを「食システム」と捉え、綿密な取材に基づき、それぞれの最前線で何が起きているか、互いにどう作用し、どこに向かっているかを分析する。激しく納得させられる一方で、厳しく反論したくなる、刺激的な一冊。

 500頁超のボリュームと、農学、経済学、生物学、人類史、環境工学、遺伝子工学、マネジメントと分野を跨がるアプローチにたじろぐが、どの切口も「目的」が鮮やかで、スリリングだ。というのも、これは犯人探しミステリのように読めるから。

 十億人が饑餓で苦しむいっぽう、十億人が肥満に悩んでいるのはなぜか?とても安全とはいえないものが食品流通に入りこむのはなぜか?生産者から搾り取られた利益はどこに"消えて"いるのか?そもそも、なぜこんなに食製品が安いのか?

 槍玉になるのは、食品総合商社、世界的な食品メーカー、メガ・スーパーマーケット、ファーストフード・チェーン、遺伝子組み換え作物を開発する多国籍バイオ化学メーカー、そして政府。誰のせいで、こんな食システムになったのか?"真犯人"が明かされるとき、驚きと納得で、怒り戦くことだろう。

 犯人をどうするかはさておき、問題の本質は経済としての「食」と生物学的な「食」の価値のズレにあるという。食システムは他の経済部門と同様に進化してきたとはいえ、食そのものは経済現象ではない。食システムを動かす経済的動機と、人の体の生物学的限界との関係が断絶したことが、様々な歪みを生み出しているというのだ。

 この結論に至るまでの道のりで、なかなか楽しい告発に出会えた。例えば、アメリカの市場主義は上っ面だけで、自由主義とは、「アメリカが自由にしていい」施策のあたり。債権をちらつかせ強引に市場開放させ、自国でだぶついた穀物を売りつける。代わりにモノカルチャーのバナナ共和国に仕立て上げるやり口だ。

 日本にもとばっちりがあったね。「アメリカ=自由市場、日本=保護政策」産業のコメ、半導体を買ってもらってるんだから、カリフォルニア米を買うべし、という某経済新聞のキャンペーンを思い出す。

 「誰が中国を養うのか」の件が最高だ。「農業大国」アメリカは名目上の話で、安価な穀物価格は、莫大な補助金なしではありえないという。過剰生産と価格低下のサイクルは中国へ向かう。中国はアメリカからの穀物輸入量を増やし、アメリカに還流する鶏肉を生産するという仕掛け。2016年までにアメリカは世界最大の食肉輸入国になるという。

 かつて世界を養っていることを誇った国が、今度は世界に養われる側に回ったのだという結論は、「誰が中国を養うのか」という見出しと逆説的で可笑しい。

 しかし、だ。ツッコミどころもある。興味深く食システムを抉り出すいっぽうで、完全に抜け落ちている面があるのだ。著者がどんな食生活を送っているかが透けて見えて、これまた可笑しい。

 それは、著者が提案する「解決策」に出ている。抽象的には、「自分自身の食管理を、自分自身の手に取り戻すこと」で、具体的には「魚を食え」という。牛肉、豚肉、鶏肉の代わりに、タンパク質は海から入手せよと提案する。著者が普段なに食べているか、よく分かる「提案」だ。

 確かに、ケロッグのシリアルで朝食、マクドナルドでランチ、TVディナーで晩飯の毎日で、「レンジでチン」を"自炊"と称するようなら分かる。だが、わたしたちの「食」はもっと多様だ。鶏肉、豚肉、牛肉だけ食べてるわけじゃない。

 例えば、「地球のごはん」。「食は文化」が、よく見える。世界30カ国80人の「ふだんの食事」を紹介しているが、ユニークな点は、本人と一緒に「その人の一日分の食事」を並べているところ。朝食から寝酒、間食や飲み水も一切合切「見える」ようになっている。

 もちろん「製品」としての食もあるが、「グローバル経済に支配されている」は言い過ぎだろう。その人の生き様同様、選択の余地はある。何を食べるのか、わたしたちは選ぶことができるのだ。

銀むつクライシス あるいは、「銀むつクライシス」。カネを生む魚がどのようにマーケティングされ、乱獲され、壊滅していくのを「銀むつ(マゼランアイナメ)」から追ったルポルタージュ。乱獲の現状を抉る一方で、代替魚がいかに豊富かをも示している。

 化学肥料でドーピングされた土壌が流出するところまでは「食の終焉」で示されているが、その栄養素がどこへ行くかは語られていない。ここからわたしの仮説になるが、ハーバー・ボッシュ法により大量生産・消費されるようになった合成肥料は、100年かけて流出し、海を肥沃にしているのではないか。栄養過多の海は、かつて"赤潮"と呼ばれる環境問題だったが、そうした栄養は深海へ沈んでいる(もしくは沈下中)なのではないか。

 絶滅が懸念されている一方、豊漁による価格崩壊も聞く。海洋生物が増殖している・大型化している統計情報は得られていないが、かつてないほど海は豊穣となっていると考える。「食の終焉」の著者とは異なるアプローチだが、食の未来は海にあるという結論は一致する。日経サイエンスの「世界の人口を養う“窒素”の光と影」に当たってみよう。

 食システムの真犯人を追うのもよし、真犯人の「その後」を想像するのもいい。調査のボリュームに圧倒されつつ、著者の「穴」を探すのも楽しい。スリリングで、刺激的で、ツッコミたくなる一冊。

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ゲームで子育て「モンハン3rd」

 ゲームばっかりしてると、「ゲーム脳」になるそうな。現実と虚構の区別がつかず、妄想にしがみつくようになる。恣意的な解釈から結論をでっちあげ、「ゲーム脳の恐怖」なんて煽るようになるらしい。「ゲーム脳の恐怖」脳やね。

 冗談さておき、子育てにゲームを積極的に取り入れてきた。ポケモン、ピクミン、塊魂、ウイイレ、ゼルダ…と様々なゲームを通じて、現実のシミュレートをやらせてきた。ゲームとは、抽象化された現実を遊ぶインターフェースなのだから。

 あきらめない限り、ゲームなら何度でも挑戦できる。むしろ、失敗を許さない空気が支配する現実の方が厳しい。一回こっきり真剣勝負のリアルにひるむ前に、ゲームでいっぱい転んでおけ、と伝えたい。ゲーム脳とはチャレンジ精神のことなのだ。

 ゲームと子どもの関係については、「ゲームと犯罪と子どもたち」に詳しく書いてある。わたしの知る限り、唯一まともな調査なり。ゲームを悪者にしたい連中が、最も読みたくないことが書いてある。

 今までは、「親が与える」ゲームだったが、初めて子どもから「これがやりたい」と言い出す―――MHP3rd、「モンスターハンターポータブル3rd」だ。友達に感化されたのがきっかけらしいが、それでも嬉しい。

 で、一緒にやってみると…これが難しい、というか腹立たしい。基本は、装備を整え→モンスターを狩り→報酬とアイテムを得る。強いモンスターを倒すには、強力な武器防具が必要で、材料となるアイテムを集めねばならぬ。だが、その材料は強いモンスターを倒さないと出てこない仕掛けになっているのだ。弱いモンスターで根気よく経験値を稼ぐといった方法が使えない。このループはストレスフルなり。

 貧弱ゥな装備、遅いアクション、ミッション失敗をくり返しながら、踊るクルペッコに翻弄されながら、イライラしながらやっていると、突然ファンファーレ! カタルシスがドーパミンに変わる瞬間がご褒美だ。

 だが、嬉しさというよりも、むしろイライラがなくなってホッとする感覚だ。「やった! クリアした」というよりも、「やっと終わったか…」という感じ。重荷がなくなった喜びも束の間、次の敵へ。もっと強い武器を求めることは、もっと強いモンスターと対決することになる。そしてまた、イライラのループへ。tumblrで拾った仏教の本質そっくりだ。

仏教では、実はこの世界には「楽」(快楽)は存在していなくて 「苦」が減ったときに、ふと身体が軽くなり、それが「楽」だと錯覚する、とある。 つまり、快楽を求めると、苦も同時に引き寄せてしまい 求める人は、常に苦に悩まされる結果となる。

あるいは、「禁煙セラピー」のニコチンの罠にも似ている。

愛煙家がタバコを吸うと楽になる(と主張する)のは、「ニコチンが足りなくて苦しい」状態が減ったから。ニコチン依存の解消を「楽」だと錯覚しているのだ。だから、吸えば吸うほど、「ニコチンが足りなくて苦しい」状態を呼び寄せることになる。

 ああ知ってる、このイライラは依存かも。この抑圧→開放感は中毒性あるし、欲しい装備を求めるのは煩悩そのものだからね。

 ところが、なのだ。息子と一緒に狩りに出ると、まるで違ってくる。ハンティングが、ぐんと楽になる。モンスターからすると「的」が増えることになり、相対的に自分が狙われる回数が減ってくる。息子は大剣で一撃を狙い、わたしは弓で援護+ピンポイントで攻める。重いけど強い、遠隔だけど柔らかい、それぞれの一長一短を上手く組み合わせる。互いに声を掛け合いながら、モンスターを探し、追い詰め、仕掛ける。文字どおり、モンスターを「狩る」のだ。

 これは面白い。会社の昼休み、若い連中が黙々とPSPやってるのは、これだったんだなーと思うと愉快だ。なるほど、ソロじゃなくデュオプレイ、狩りは集団が楽しい。日曜の午後、息子と黙々とやっていて、気づいたことを独りごつ。「これ、完全なイジメゲーだよな。みんなでよってたかって、一匹のケモノを狩るなんて」。すると息子はこう返す、「でも、レベルが上がると、超大型になったり、一匹じゃなくなったりするよ。上位になると、雑魚が強くなるんだって! 狩るものは狩られるんだよ」

 「たかがゲーム」なのに深ぇ。ともかく全クリ目指すか、このストレス煩悩ゲーム。


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「薔薇の名前」はスゴ本

 推理小説の皮を被った衒学迷宮。

 中世の修道院の連続殺人事件の話という入口から、知の宝庫(だけど大迷宮)へ誘われる、これぞスゴ本。

 二十年前と一緒だった、知恵熱で寝込んだ。というのも、ただ物語を追うだけでなく、自分の既読を強制して引き出させられる体験が強烈だったから。

 「読む」というのは目の前の一冊に対する単独の行為ではない。台詞や描写やモチーフ通じて、関連する本や自分の記憶を掘り出しては照射しながら、くんずほぐれつ再構成する、一種の格闘なのだ。ひっくり返すと、あらゆる本にはネタ元がある。「読む」とは、ネタ元を探しては裏切られながら、『再発見』する行為なのだ。

 ヨハネの黙示録の引用に始まり、ヴィトゲンシュタインの論理哲学考の模倣で終わる本書は、縦横無尽の借用、置換、暗示、物真似で綴られており、科学・文学・哲学の壮大なパッチワークを見ているようだ。

 だいたい、探偵役が「バスカヴィルのウィリアム」なんてホームズ全開だし、助手役がアドソ(≒ワトソン)というところからイカしてる。これまでの読書経験を全開放して、この衒学モンタージュを解きほぐす。知る読書というより、識られる読書、自分のアタマを探られる体験になる。思いつくままに書くと、こうなる(驚くなかれ、ネタバレだけで何冊も出ているぞ)。

  • ボルヘスの「バベルの図書館」
  • Google Scholarの「巨人の肩」(on the Shoulder of Giants)
  • 「文学少女」と死にたがりの道化
  • ソロモンの雅歌
  • 名探偵コナン「毒と幻のデザイン」
  • ヨハネによる福音書
  • ホイジンガ「中世の秋」
  • スタニスワフ・レム「完全な真空」
  • 千夜一夜物語
  • プラトン「国家」
  • アリストテレス「詩学」
  • アレクサンドリアの大図書館
 もちろん著者であるウンベルト・エーコが、Google Scholarや「名探偵コナン」、「文学少女」を読んでいるワケない。だが、ネタ元(ニュートンや千夜一夜物語)からつながっている。本は、単独では存在せず、互いに参照・引用・借用・模倣しているのだ。

 現実と虚構の紛糾劇に、完全に持ってかれる。でっちあげられた虚構のうちに、明確な境界を設定しないでおくというやり方こそが、真実味を増す冴えたやり方なんだと思い出させてくれる。何だっけ、本の中に本を隠す、このメタフィクショナルな仕掛けは?

 そう、これだ。ボルヘス「八岐の園」のプロローグのこれ。

数分で語り尽くせる着想を五百ページに渡って展開するのは労のみ多くて功少ない狂気の沙汰である。よりましな方法は、それらの書物がすでに存在すると見せかけて、要約や注釈を差しだすことだ

 この見せかけられた書物が何であるか、なぜ「それ」であるかという謎こそが、エーコからの挑戦だ。なぜなら、本書を読み終えた今、確信をもって「それ」を読んだつもりになれるから。「薔薇の名前」は、「それ」の強烈な注釈なのだから。

 ハマるなら、ゆっくり、どっぷりハマってほしい。

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松丸本舗でブックハンティング

 9月で閉店する松丸本舗へ狩りに行ってきた。ジャンルを跨がった、好奇心を発動させる棚作りが素晴らしい。例えばこれ。

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 ふつうの書店が売り物屋なら、松丸は選びもの屋になる。一種のセレクトショップであり、Book Shop Editor という本の目利きによってスクリーニングされてるからね。たとえば、この短編集の棚がイイ。チェーホフを中心に順に左右に読んでいきたい。

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 しかも集団で狩りをする。グループ・ブックハンティングだ。松丸本舗という限られたスペースを6時間かけて巡回する中で、沢山の本好きと集団で狩りをする。赤いウエストバックのわたしを見つけていただき、声を掛けていただければハンター仲間だ。後は「あれがいい」とか「これ知ってる?」という話になる。狩りの成果(の一部)はコレだ。強引にオススメしたり、奪い合いになったりと面白し。

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 それぞれの得意分野・好きなジャンルが違ってて、話の飛び先が予測不能で面白い。水木しげる「猫楠」から南方熊楠つながりで岩田準一の男色話になったり、ファーブル昆虫記からスピルリナの栽培に跳躍する。

 ただし、探しのものには向いていない。選ばれた本が一見ランダム、実は巧妙なグルーピングの元に配置されているため、あるテーマや書籍、著者から一本釣りをしようとすると偉い苦労する。

 たとえば「ローマの風俗をグラフィカルに描いた本」というお題がきた。海外ドラマの「ROME(ローマ)」にハマり、松丸オフでご一緒するのだが、なかなかお目当てに行き当たらない。歴史/西洋ならあの辺という辺りはつくのだが、「これ」という当たりに至らない。

 あるいは、リザ・テツナー「黒い兄弟」が徹夜児童文学らしいとか、米原万里「オリガ・モリソヴナの反語法」で徹夜したぜ、という噂をハンター仲間から聞く。要チェックや!と探すと見つからない。

 あきらめてフラフラ浮気しだすと見つかる。あそこは「迷う」ところであって、「探す」ものではないのかもしれぬ。

 結局6時間さまよった収穫。入れ替わり立ち替わりで10名のハンターたちと狩りができた。ご参加いただいた方、ありがとうございます。打ち上げの飲み会も楽しかったなり。ダンドリが半端だったので、次回改善しまする。

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 ファンに朗報。松丸本舗の軌跡というか奇蹟が一冊に圧縮されて、もうすぐ出ますぞ→「松丸本舗主義 奇蹟の本屋、3年間の挑戦」。ここを遊び場にした拙文も載っている(はず)なので、ご興味ある方はどうぞ。

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「100のモノが語る世界の歴史」はスゴ本

 食器から兵器まで、モノを通じた人類史。

 大英博物館の所蔵品から100点選び、時系列に並べ、世界を網羅する。人類が経験してきたことを可能な限り多方面からとりあげ、単に豊かだった社会だけでなく、人類全体について普遍的に語る試みだ。元はBBCの番組の一環で始まったプロジェクトだが、A History of the World で100のブツを見ることができる。

 物に歴史を語らせることは、博物館の目的にも合致するが、その理由がすばらしい。文字を持っていたのは世界のごく一部でしかないから、偏りなく歴史を語ろうとするなら、文献だけでは不可能だ。したがって、モノで語られる歴史は、「文字を持たなかった人々に声を取りもどさせる」というのだ。文字をもつ社会ともたない社会のあいだの接触を考えるとき、一次的な文献は必然的に歪曲されており、一方の側の記録でしかないから。

 その良い例が「ハワイの羽根の兜」だ。1700-1800年頃のもので、ジェームズ・クックに『贈られた』と言われている。貴重な羽根をふんだんに使った兜は、莫大な労力と富の証であり、王もしくはそれに相当する身分のためのモノであることは容易に想像できる。それを滞在一ヶ月の異邦人に『贈る』というのはおかしい。鮮やかなピンク色は、奪われたことを告発しているかのよう。

 本書では、「ヨーロッパ人が世界各地の人々と接触するなかで起きたような致命的な誤解を、ありありと象徴している」と説明するが、征服者のペンより奪われたモノの高貴さが語っている。これは、戦利品であると。

 あるいは、「アカンの太鼓」(1750年)が象徴的だ。アメリカ、ヴァージニア州で『発見』された太鼓で、長い間アメリカ先住民の「インディアンの太鼓」だと考えられていた。ところが、150年後の科学的調査により、西アフリカ産であることが判明する。この太鼓は、地球規模の強制移住の"モノ語り"なのだ。

奴隷となったアフリカ人はアメリカ大陸へ輸送された。太鼓そのものはアフリカからヴァージニアへと運ばれ、その生涯の最終段階でロンドンに送られた。画期的なことに、太鼓と同様、奴隷の子孫たちもいまではイギリスにやってきているのだ。
 征服者のペンによると、奴隷は人ではなくモノのように扱われていた。したがって、この太鼓は奴隷ともに運ばれたかもしれないが、所有者はその支配層だったに違いない。これがインディアンの太鼓ではなく、奴隷が所有していた太鼓であったなら、ロンドンに運ばれるどこかの線で消えてしまっただろう。「滅び去る=貴重品」と判断されたからこそ生き残り、さらに奴隷貿易の証拠として扱われた。歴史から見ると、「アカンの太鼓」は、異文化からの戦利品なのだ。

 そう、展示品が貴重であればあるほど、嬉々として見せびらかす態度が、あまりにも無邪気に見える。地球の各地から集められた、日用品、芸術品、遺物は、要するに略奪品である。日の沈まぬ大英帝国が世界を「発見」し「開拓」していく中で、奪い、盗み、剥奪していったモノなのだ。

 もちろん友好の品として入手したものもあるだろう。行く先もなく寄贈されたものや、博物館自身が買い取った遺物もあるに違いない。だが、血塗られた手でゲットした「お宝」と混ぜられてしまい、どれがどれか、分からなくなっている。征服され、滅ぼされた立場からすると、盗品、略奪品の泥棒市こそが、大英博物館なのではないか―――そんな疑問がわきあがる。

 しかし、事情はどうやら、違うらしい。

 たとえば、モヘンジョダロの有名な腰帯がある。インダス文明を伝える貴重な遺物なのだが、真ん中で二つに切断されている。なぜなら、インドとパキスタンに分割されたから。腰帯に限らず、陶器やビーズといった出土品が二つの国家で分けられる。歴史的な遺物は、このように逸散していくのかと見ているようで心が痛む。イギリスが植民地支配していれば少なくともバラバラにならなかっただろう(その代わりゴッソリ持って行かれるが)。

 地球規模でさまざまな文化や文明のモノを眺めることができるのは、大英帝国(と仲間たち)の略奪や貿易のおかげ。善悪の判断を措けば、これは人類の宝が集められ、守られていたことになる。さらに、本書はそこから生まれたのだ。

 本書のおかげで、紀元前1550年頃のエジプトの試験対策本が、今の就職試験「一般常識」と同レベルであることを知った。紀元前5000年の縄文壷の文様が変態的なまでに洗練されており、細かいところに気を配る日本人の「変わってなさ」を思い知った。紀元前440年のケンタウロスのレリーフのおかげで、「怪物(=ペルシャ帝国)」という敵を作り出すことによって、都市国家の結束を高めたことを知った(その代価として、戦争を始める素晴らしい"口実"になっていたことも)。

 もっと普遍的な事実を支えている、具体的なモノとも出会えた。それは、各時代の「お金」だ。どの時代であれ、帝国の支配者たちは、同じ難題に直面する。異なる民族、異なる宗教、異なる文化をいかに統治すればよいか? ――― これらを束ねる媒体は、「お金」なのだ。

 アレクサンドロス大王の顔が刻まれた硬貨(紀元前305)、世界最初の紙幣である明の紙幣(1375-1425年)、スペインが南米から搾り取った銀で作った世界最初のグローバルマネー「ピース・オブ・エイト」(1573-1597年)、そしてプラスチックマネーたるクレジットカードまである。交換媒体として発明されたが、支配者のイメージを広めたり、反権力の象徴となったり、支配の道具として悪用されたり、様々な役割を担ってきたことが分かる。

 他にも、「食」や「セックス」、あるいは「戦争」に関するモノが興味深い。いずれも人類にとって必要なモノが発明され、使われ、遺されてきたからだ。あらゆるモノが時系列に並べられているためバラバラになっているが、それぞれのテーマを縦串として貫いたら、面白い人類史として読み直せるだろう。

 ただ一つ、不満がある。最後の、100番目のモノとして取上げられたのは、「ソーラーパネルとライト」。持続可能なエネルギーとして採用されたのだが、わたしなら、「サッカーボール」だな。もし人類の歴史をモノで語るのであれば、連綿と続く「争いの歴史」を象徴し、その代替物として地球規模で普遍性を持ち、かつ現代的なものといったら「サッカーボール」ではなかろうか。

 わたしの妄想はさておき、「自分ならこれを挙げる」「わたしならこのモノからこう読み解く」という視線で読むと、いくらでも楽しめる。知識として受け取るのではなく、自分の想像力を駆使するトリガーとしての「モノ」の歴史なのだ。

 三巻本だが、現代に近い3巻から逆に辿って読んだほうがいい。人類の「変わってなさ」が、びっくりするほど伝わるから。

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このミステリが今年の一位「湿地」

 ミステリひさしぶり。なので良いのを読みたい。ガラスの鍵賞を2年連続受賞、CWAゴールドダガー賞を受賞した作者は、この期待に応えてくれる。設定、人物、書き口が「あとひく上手さ」なので、読み始めたら止まらない。一気に読める週末にどうぞ(雨の夜だと、なお良し)。

 というのも、作中ずっと雨が降っているのだ。冷たく、薄暗い風雨にまみれて捜査は進み、頓挫し、跳ねる。アルコール中毒の医者、麻薬中毒の娘、セックス中毒の男、仕事中毒の主人公、よそよそしくて冷ややかで、「アイスランドとはこういう場所なのか」と思い込みそうになる、ちょうどそのとき―――雨があがる。

 封じ込められていた過去が覆されるそのとき、思わず「うおっ」と声が漏れる。この展開は半ば分かっていたものの、歯を喰いしばり、本を持つ手に知らず力がこもる。「胸が張り裂けそうになる」というよりも、胸にのしかかってくるのだ。ずっと見えなかった内面が一気に迫ってくる。雨があがって犯罪が解決して心が晴れるわけもないが、一抹の慰めが有難い。

 意外で必然でおぞましいこの犯罪は、「アイスランド特有」という形容が付いているが、未来のわたしたちをも指している。単なる犯罪小説だけでなく、未来の社会派としても、読み解ける。年末恒例の、『このミステリがナントカ』リストのどこに本作を位置付けるかで、格付けが行える。

 一気に読めてズシンとくる、今年一番のミステリがこれ。

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完璧な悪夢「野性の蜜」

 取り返しのつかない不幸がもう、すでに起こってしまっていて、自分はそれを目撃するだけという、とどめの一撃だけが待っているだけで、しかもそのことを、周りも、作者も、自分自身も分かっていて、それでも待つことしかできなくて、ページをめくりたくない、話を進めたくない嫌悪に背を焼かれながら、じりじりと読む。

 そういう、厭な、短篇集。

 傑作は「羽まくら」、わずか数頁ながら、ここまで引きずり込むのも珍しい。読み始めたとき、これはイヤな話だ、しかも読んだ記憶があるぞ、あまりの後味悪さに「読んだ」という記憶を封印したんだっけという思いが脳裏をよぎったが、あれよあれよと読みきってしまい、予想どおり、想像どおり、おぞましい読後感に苛まれる。

 それは、墜落する悪夢そのもの。

 眠ってるとき、墜落する夢(というか感覚)にビクッと目覚めることがある。落下しつつ、「もうすぐ墜落する」という予感が迫ってきて、堕ちることから逃れられないのが分かっているのに、何もできない、体が動かない。表題作「野性の蜜」の男は墜落するわけではないが、この「運命に向かってまっしぐらに突っ込んでゆく」ことが分かったとき、こうする。

この最後の恐怖から逃れるために、まだ残っていた力を振り絞って叫んだ。大人の声ではなく、怯えた子どもだけが立てることのできる本当の悲鳴だった。

 だいじょうぶ、この悲鳴は、はっきりと聞こえた(わたし自身の声だった)。さらに嫌悪指数No.1の「頸を切られた雌鳥」の、この静寂もはっきりと聞こえる(わたしは心臓を止めた)。

いつも不安に苛まれていたマッツィーニの心には、その静寂はあまりに不吉に思われたので、彼の背筋は恐ろしい予感に凍りついた。

 そう、キローガの短篇は致死率が極めて高い。誰かしらが事故で死んだり、誰かに殺されたりする。ラテンアメリカ文学において、死や死者は近しいものとして扱われている作品を沢山読んできた。なかでもキローガは、宿命論的な態度で死を扱おうとする。

 人はいつ、どんな形で死を迎えるか分からない。どんな意外な形であろうとも、それは前もって定められており、免れることはできない―――そういう観念がベースにある。死は日常から近づいたり離れたりしているが、大波が防波堤を乗り越えるように、やってくるものなのだ。

 だんだん近づいてくる死を内面から精密に描いた傑作が、トルストイ「イワン・イリイチの死」なら、思いがけない死を外面から徹底的に描いた傑作は、キローガ「死んだ男」だ。その男の死ぬ間際が、クローズアップ、バードビュー、自省の声、あらゆる角度から、その死が免れようのない事実であること、その死の免れようのなさを男が心底理解しているということが、細かく嫌というほど伝わってくる。

 キローガの短篇は、時間制御が利いており、濃度が極めて高い。なにかとんでもないことが起こっており、視点や角度を変えて描写しているにもかかわらず、時間はほとんど経過していない。これは、読むスピードと、作中時間を合わせることを意図した書き口だ。先を知りたい読者はそれだけ焦らされることになり、息を詰めてページを繰る。するとカメラがとつぜんパンして、結末はあっさりと記される。読み手はとり残された思いで呆然と後味の悪さを噛み締める。

 この時間制御を意識した描き方や、映像の肉化、因縁の転生といったモチーフは、ボルヘスを思い出す。さぞかし仲良しと思いきや、解説によると真逆らしい。「キローガを読むメリットは無い」と言い切り、キローガをもてはやすのは「ウルグアイの迷信」とまで呼ぶ。ボルヘスが他の作家をこれほど酷評するのは珍しいそうな(同属嫌悪? カサーレスは?)。

 粘度が高く、死の予感に満ちているので、一夜一編読むのが吉。ただし、その夜はきっと悪夢になる。しかも、どろり濃厚なやつ。そうそう、キローガといえば、「完璧な短篇を書くための十戒」。この短篇集もきちんと守られているぞ。

 完璧な悪夢を、どうぞ。


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「悪意の情報」を見破る方法

 ニセ科学、デタラメ統計に振り回されないための入門書。

 「嘘は三種類ある。嘘、真っ赤な嘘、そして統計だ」という冗句があるが、これをもじったタイトルが秀逸だ"Lies, Damned Lies, and Science"。これは、嘘つきサイエンスの告発本でもある。

 科学や技術について考えるのに役立つ視点を提供するとともに、問題の本質をはっきり鮮明にとらえることを目的としている。「本書は世界を見るための新しいレンズなのだ」と勇ましく言い切る。たしかに同意するが、ネットに出回るデマ学説や詭弁に慣れ親しんだ人には喰い足りないかも。

 「マイナスイオン」や「コラーゲン」の胡散臭さを、そのメカニズムから説明し、遺伝子組換食品を「フランケンフード」と呼ぶ底意地を指摘する。「地球温暖化」や「ダイオキシン」といった、評価が『多様化』した事例を解説する姿勢が良い。単純に白黒つけられないものには、「ここまでは分かっている」とソース付きで説明するのだ。

 著者の姿勢は、「悪意の情報」を流す人々へのカウンターだ。技術、環境、経済、健康など多様な側面があるにもかかわらず、そのごく一部だけを見せるような選択を施す人がいる。ものごとを白か黒かに単純に色分けしてしまう見方を広める人がいる。

 中でもマスメディアが特に顕著だ、利害関係者である立場を隠しながら、「より演出した報道をする」から「報道しない」まで好き勝手に選んでいる。著者は、「全ての情報が届いているわけではない」と釘を刺す。

 「科学者」という肩書きを悪用する人もいる。査読のプロセスを経ずに、いきなりメディアに売り込もうとするのは、ほぼクロだそうな。信頼できるデータにもとづく興味深い発見であるならば、主要な科学誌に載らないはずがないから。さらに、そこにはデータの取得手順が詳細に記されており、別チームによる追試が可能となっているはずだから。だから、いきなり重大発表から始める科学者には、眉に唾をたっぷりつけてから向かわないと。

 例えば、ポンスとフライシュマンの常温核融合や、ファン・ウ・ソクのES細胞騒動は、今となっては苦笑話だ。だが、発表当初にメディアがどう反応したか、自分はどう判断したかを刻んでおかないと、同じ轍を踏むだろう。

 情報が歪曲されて世間に広まっている例として、アトキンス・ダイエット(低炭水化物ダイエット)を挙げている。アブフレックスと同じ深夜帯にやっているCMだから推して知るべしだろうと思ってたが、著者は違う。調べた上で、指摘する。

 つまりこうだ。肉はたくさん食べてよいが、それ以外を減らすダイエットだと信じる人が多いが、それは正確ではない。このダイエット法は、一般に考えられているより複雑で、食品のグリセミック指数(その食品がどのくらい血糖値を上げるのかを示す指標)を考慮して、口にするものを取捨選択するものだ。だから、多くの人が認識しているほどシンプルなプロセスではない―――なるほど、情報は「伝言ゲーム」で捻じ曲げられるんだね。

 立場によって、科学の情報にもバイアスがかかることを如実に示す例として「DHMO」が出てきたのには笑った。地球環境に広く存在する無色無臭の化学物質の危険性を訴える「DHMOに反対しよう」は、あまりにも有名だ(このブログを読む方なら危険性をご承知のはずだろうが為念)。フードファディズム「パンは危険食品」と合わせ、このテの意識の乖離を測るのに、最強のネタだね。DHMOは、次の「新型危機」を見きわめる予防薬となるだろう。

 罠として使われる「平均値」(≠最頻値)のカラクリから、過度の一般化、プラシーボ効果、選択バイアス、確証バイアス、アンカリンクなど、科学を悪用する詐欺師のネタバラシを次々と開陳してくれる。これらは、「全部知ってた」か「全然知らん」の二択になりそうだから怖い。わたしがハマりがちなのは確証バイアス、「わたしが聞きたがっている」主張を信じようとする傾向があるので気をつけないと。

 本書の末尾に、知恵20か条というまとめがある。どれも常識的なものだ。これ読んで「あたりまえじゃん」という方は、本書を読まなくてもいい。だけど、その「あたりまえ」ができているかどうか心配なら、手にとって欲しい。新たな知見に出会えるかもしれない。以下に引用する(太字はわたしへの戒め、わたしがよく陥る穴だから)。

  1. まとも批判と単なるバッシングには明確な違いがある
  2. 意見が対立している、あるいは、科学的合意がなされている、といった主張はいずれも鵜呑みにしない
  3. 科学が自分の真価を認めようとしないという自称「革命家」には要注意
  4. バイアスはどこにでもある
  5. 一次情報に立ち戻って、利害関係者たちがそれぞれどのような見方をしているか調べる
  6. 2つの選択肢のいずれかを選ぶしかないように見えても、ホントはそうでないことが多い(単純化の罠)
  7. リスクとメリットが示されていても、それで全てとは限らない
  8. イノベーションの応用例の一つ一つに、それぞれ独自のリスクとメリットがある
  9. 大きな視野に立つと、選択肢を客観的に評価できる(過去、地域など、適切な比較対象をもて)
  10. 当初案の欠点を指摘しただけで、代案が最善だという証明にはならない
  11. 交絡因子は、原因を見きわめるのを難しくする(相関関係は因果関係ではない)
  12. 盲検化試験は、バイアスの影響を排除するのに有用
  13. 複数のタイプのデータを組み合わせると、因果関係を立証しやすくなる
  14. ある状況下で得られた研究結果は、他の状況に当てはまらないことが多い
  15. データの収集方法によって、統計数字が歪められることがある
  16. 統計数字を額面どおりに受け取るなかれ
  17. 研究結果が真っ二つに分かれている場合、真実はたいてい中間のどこかにある
  18. 費用便益分析は、もっとも体系的な意識決定方法である
  19. 自分の思考プロセスの弱点を熟知していれば、あなたを操作しようとする相手の策略にはまらずにすむ
  20. 1つの問題を掘り下げていくと、いくつもの理解レベルが、層をなしているのが明らかになる

 これ読んでて、わたしも冗句を思いついたぞ。「数字は嘘をつかない、嘘つきが数字を使うのだ」という有名なやつを改変して、これなんてどう。

 「科学は嘘をつかない、嘘つきが科学を使う」

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ソクラテスは死ね、豚は転がれ―――プラトン「国家」

 死刑判決を受け、毒杯をあおったのは当然だ。

 質問には質問で返す。詭弁術を駆使し、言葉尻をとらえて後出しジャンケンする。「無知の知」とは、「知らないということを知っている」よりも、「僕は無知だから教えて」と先にジャンケン出させるための方便だ。論敵を排し、取り巻きを並べたら、後はずっと俺のターン。

 騙されるな、ソクラテスは、とんでもない食わせものだ。太ったソクラテスよりも、痩せたブタのほうがマシだ、ブタは食えるが、ソクラテスは食えない奴だから。

 比喩でもって説明した後、その比喩が事実であるという前提で論を重ねる。反論もそう、極端な例外を持ってきて事足れりとみなし、一点突破全否定オッケーとするのは酷すぎる。さらに多重レトリックが汚い。AをBに、BをCに言い換えて、最後のCにだけ噛み付くオオカミの強弁だ。「詭弁のガイドライン」を参照し、どれを用いているか確認しながら読むと、良い(?)勉強になるだろう。

 修飾語と関係代名詞が多用される文章は、会話体とはいえ見通しが悪い。 So What? や Why So? と自問しながら読まないと、トートロジーの罠に陥る。気をつけないと言い包められるぞ。でもこれ、言い換えると、議論に勝つしゃべり方の教材にも使える。詭弁は「詭弁だ!」と見抜かれない限り、強力なツールだからね。

 論敵のあしらい方は、憎らしいほど上手い。後出しジャンケンを封じようとする批判者が現れる。まず自分から明確な答えを言いなさい、抽象的なのはダメというのだ。ソクラテスはこう返す―――そんな批判ができるなら、君自身が「明確な答え」を知ってるんだよね、私は知らないから聞いているだけなんだと。空とぼけながら教えを垂れてくれとすり寄ることで、相手の自尊心をくすぐる。「らめえぇぇ」とページを繰ると、結果はご想像の通り。

 奴は、狡猾な挑発者なのだ。あてつけて煽って出てきた答えを捕まえて、その言葉でもってやりこめる術数は、言葉の合気道を見ているよう。見事だがフェアじゃない、うっかり信じると痛い子になる。

 さらに、タイトルに騙されてはいけない、本書のテーマは「正義」だ。「正義とは何か」について議論するための方法として、国家論をぶちあげる。理想的な国家像を脳内で構築し、そこに拡大された正義を見ようとする試みが、「国家」なのだ。

 むしろこれは、一人称のソクラテスに語らせる著者・プラトンのたくらみになる。後世の知識人を魅了する「理想国家」をうちたてて、あなたはそこの中心人物なんですよ、と焚きつける。二千年を越えて本書が伝えられたのは、それぞれの時代の知の担い手の虚栄心をくすぐったからであり、その魅力(魔力?)は今も通用する。

 本書では、独裁僭主や民主制、寡頭制といった政治形態を縦横に語り、哲学者(知を愛するもの)が治める哲人政治が最高の国家だと断言する。だが現実では哲学者は役立たずとされ、優遇されない。これは、現実の国家が理想からほど遠いことの証左であり、あなた(=読み手や聴き手)が優遇されないことの逆説的な証拠になる。知識人たる自負はあるが、重用されない境遇を嘆く者にとっては、えらい慰めになるだろう。

 どの時代にも通用する、「理想国家」なんてものはない。その時代や文化によって、もっと極端に言えば、主張する派閥やイデオロギーにとって、「あるべき国家の姿」は存在する。だが、それぞれの「あるべき国家の姿」を、「理想国家」という抽象的な存在でくくり、それぞれの知識人の脳内で補完した「国家」像を餌に生き延びてきた―――これが、ソクラテス/プラトンの罠なのだ。

 そしてラスト、ソクラテスは告白する。さんざん理想国家を語った後、下巻p.335で暴露する。

この地上には、そのような国家はどこにも存在しない。だがしかし、それは理想的な範型として、天上にささげられて存在するだろう。それを見ようと望むもの、そしてそれを見ながら自分自身の内に国家を建設しようと望む者のために。しかしながら、その国家が現にどこかにあるかどうか、あるいは将来存在するかどうかということは、どちらでもよいことなのだ。
 開高健の「哲学とは、理性で書かれた詩である」を思い出す。あれは詩であり、論理と思ってはいけないんだそうな。感性および理性の周波数が一致したとき、それはみごとなボキャブラリーの殿堂になり、宮殿になり、大伽藍になるが、いったんその感性から外れてしまうと、いっさいは屁理屈のかたまりにすぎなくなる―――そう言ったのは、実はここを指しているのではないか。

 あの有名なイデアに関する洞窟の比喩も然り。洞窟に住む縛められた人々が見ているのは「実体」の「影」であるが、それを実体だと思い込んでいるにすぎぬというアレだ。イデアの喩えとしては見事だが、真実がこのとおりであるかどうかについては、「神だけが知りたもうことだろう」(下巻p.112)と口を濁す。なんと、ちゃんと読んだら本人が認めているじゃないか、ホントかどうか知らないって。

 なんだ、わたしはこのトシになるまで、こんな不確かな武器を振り回していたのか。死ぬまでに読めてよかった、あらためてこの哲人に言えるから。

 「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」

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この音楽の本がスゴい!

 結論→音楽は沼、底なし。

 沼の周りで遊んだり、ちょっと片足いれたりはできる。だが、ひとたび足を踏み入れたなら、抜けられない所がある。入口は広くて楽しいが、奥は狂気じみた世界がある。

01

 好きな本を持ってきて、まったり熱くオススメあう―――趣旨なのだが、今回のテーマ「音楽」は、最も生々しいオフ会となった。というのも、みなさんの実人生に寄り添ってきた本やCD、DVDが出てきたから。生活の全てが音楽だというつもりはないが、人生の一部は音楽と一体化していることが(わたしに限らず)実感できた。音楽の「つながり」って、本よりも強い。

 そしてテーマが音楽なだけに、大量のCD/DVDが集まってくる。ここでもいくつか紹介しているが、ほんの一部だということをお断りしておく。そして、持ってきた音源を再生し、そのBGMにちなんだプレゼンが新鮮だった。PIZZICATO FIVE や Marvin Gaye そして LED ZEPPELIN は、もう一度聴きなおしてみようかと思うほど懐かしくて新しい。

02

03

 人により、音楽への接し方や距離感が違うのが面白い。持ってくる本も、音楽をテーマにした物語や、科学的なアプローチ、自分が演ってる楽器とシンクロした自伝やノンフィクションなど様々。ハマりすぎて本職になると、それはそれでスゴい道になる。いわゆる「聴く専」の人よりも、突き放した冷静さとのめりこむ情熱との、両方を兼ね備えているようだ。

 「音楽が、この世に在ってよかった」という日が語られる、3月11日だ。研究室で閉じ込められて、気分が滅入って仕方がない夜、ラボ仲間でPCにある音楽を流しているとき、「ああ、音楽がこの世の中にあってよかったな」と実感したという(最も心に響いたのは、大橋トリオ)。

 その流れで指揮者・ダニエル・ハーディングの話になる。あの夜、マーラーの交響曲第5番を演奏した話だ。すみだトリフォニーホールには30人ほどの聴衆しか集まらなかったのに、それでも演奏会を開いたそうだ。「あそこで聴けて生きていられる。生きていられるから聴ける」というメッセージは、マーラーの第5番を聴くと思い出しそう。

04

05

 歌詞はどのように生まれてくるのか、プロの作曲家はクライアントのリクエストに応えて音を organize するんだといった、商業音楽にまつわるネタ話が面白い。朗読とアカペラの親和性が見える「昨日殺した一万匹のライオン」や、音のゲシュタルト崩壊を"聞かせて"くれる「音のイリュージョン」といった、未知の側面も興味深い。ツイートも忘れて聴き耽る。

 南青山にすげぇ場所があるらしい[ARISTOCRAT]。ン千万のスピーカーがあって、音源持ち込んで視聴できるそうな。音楽が丸見え(丸聞こえ)になる。つまり、オーケストラ録りだとホールの空間が、スタジオだとその「狭さ」が分かってしまうらしい。スゴ音オフをそこでしたら面白いだろうなぁ。

 ラインナップは次の通り。


    ■CD/DVD(ほんの一部)

  • Let's Get It on/Marvin Gaye
  • CHARLIE HADEN&PAT METHENY
  • LED ZEPPELIN DVD
  • Waltz For Debby/Bill Evans
  • YOU MAKE ME REAL/BRANDT BRAUER FRICK
  • 「ちょびっツ」のオリジナルサウンドトラック
  • 橋本一子
  • KingCrimson
  • YES
  • THE INTERNATIONAL PLAYBOY&PLAYGIRL RECORD/PIZZICATO FIVE
  • Cocco
  • ビリー・テイラー、ウィリー・ザ・ライオン・スミス
  • 「押し倒したい」角松敏生
  • 「ピーターとおおかみ」小澤征爾


    ■科学的アプローチ
  • 「音楽の科学」フィリップ・ボール(河出書房新社)
  • 「響きの科楽」ジョン・パウエル(早川書房)
  • 「絶対音感」最相葉月(小学館)
  • 「音楽嗜好症(ミュージコフィリア)―――脳神経科医と音楽に憑かれた人々」オリヴァー・サックス(早川書房)
  • 「音のイリュージョン―――知覚を生み出す脳の戦略」柏野牧夫(岩波書店)
  • 「ピアニストの脳を科学する」古屋晋一(春秋社)
  • 「憂鬱と官能を教えた学校―――バークリー・メソッドによって俯瞰される20世紀商業音楽史 調律、調性および旋律・和声」菊地成孔(河出文庫)
  • 「歌謡曲の構造」小泉文夫(平凡社ライブラリー)
  • 「音楽の基礎」芥川也寸志(岩波新書)
  • 「楽譜の風景」岩城宏之(岩波新書)
  • 「センダックの絵本論」モーリス・センダック(岩波書店)


    ■音楽を物語る
  • 「虚空遍歴」山本周五郎(新潮文庫)
  • 「音楽」三島由紀夫(新潮文庫)
  • 「海の上のピアニスト」アレッサンドロ・バリッコ(白水社)
  • 「素数の音楽」マーカス・デュ・ソートイ(新潮クレスト・ブックス)
  • 「ソングライン」ブルース・チャトウィン(英治出版)
  • 「宇宙船とカヌー」ケネス・ブラウワー(ちくま文庫)
  • 「サタワル島へ、星の歌」ケネス・ブラウワー(めるくまーる)
  • 「ピアノを弾く身体」岡田暁生(春秋社)
  • 「聴き飽きない人々」(菊地成孔)
  • 「アメリカン・コミュニティ」渡辺靖(新潮社)
  • 「歌うねずみウルフ」ディック・キング=スミス(偕成社)
  • 「ラギとライオン」(「子ども世界の民話」所収)
  • 「ピアノノート」チャールズ・ローゼン(みすず書房)
  • 「Get back, SUB !」北沢夏音(本の雑誌)


    ■インタビュー、対談、そして伝説へ
  • 「ジャズ1930年代」レックス・スチュワート(草思社)
  • 「楕円とガイコツ―――『小室哲哉の自意識』×『坂本龍一の無意識』」山下邦彦(太田出版)
  • 「ショスタコーヴィチの証言」ソロモン・ヴォルコフ(中公文庫)
  • 「上原ひろみサマーレインの彼方」神舘和典(幻冬舎文庫)
  • 「音楽」小澤征爾、武満徹(新潮社)
  • 「バンド臨終図鑑」速水健朗(河出書房新社)
  • 「音楽とことば あの人はどうやって歌詞をかいているのか」青木優(ブルース・インターアクションズ)
  • ジャック・イーベールのフランスの作曲家の便覧(原書)
  • 「BANJOS 津村コレクション」津村昭(講談社)
  • 「ザ・リアル・フランク・ザッパ・ブック」フランク・ザッパ(白夜書房)
  • 「だけど、誰がディジーのトランペットをひん曲げたんだ?―ジャズ・エピソード傑作選」ブリュノ・コストゥマル(うから)
  • 「ミンガリング・マイクの妄想レコードの世界」ドリ・ハダー(ブルース・インターアクションズ)
  • 「ブルース飲むバカ歌うバカ」吾妻光良(ブルースインターアクションズ)


    ■雑誌やコミック
  • 「クーリエ・ジャポン8月号クラシック特集」
  • 「ストレンジ・デイズ」/キング・クリムゾン特集
  • 「TARITARI」鍵空とみやき(ガンガンコミックスJOKER)
  • 「のだめカンタービレ」二ノ宮知子(講談社)
  • 「ベイビーステップ」勝木光(講談社)

 わたしは、「音楽の科学」「響きの科楽」をオススメしながら、「音楽を聴くとなぜ気持ちが良いのか」、「音楽に普遍性はあるのか」について語ったぞ。

06

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 次回予定は3つ、ご興味ある方は以下からどうぞ。

9/15松丸本舗へ狩りに行け

10/14「オペラの館がお待ちかね」はぶっちゃけオペラってどうよ?なひとにピッタリな入門書

10/28は「早川書房✕東京創元社」の2社シバリのスゴ本オフ


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