「100のモノが語る世界の歴史」はスゴ本
食器から兵器まで、モノを通じた人類史。
大英博物館の所蔵品から100点選び、時系列に並べ、世界を網羅する。人類が経験してきたことを可能な限り多方面からとりあげ、単に豊かだった社会だけでなく、人類全体について普遍的に語る試みだ。元はBBCの番組の一環で始まったプロジェクトだが、A History of the World で100のブツを見ることができる。
物に歴史を語らせることは、博物館の目的にも合致するが、その理由がすばらしい。文字を持っていたのは世界のごく一部でしかないから、偏りなく歴史を語ろうとするなら、文献だけでは不可能だ。したがって、モノで語られる歴史は、「文字を持たなかった人々に声を取りもどさせる」というのだ。文字をもつ社会ともたない社会のあいだの接触を考えるとき、一次的な文献は必然的に歪曲されており、一方の側の記録でしかないから。
その良い例が「ハワイの羽根の兜」だ。1700-1800年頃のもので、ジェームズ・クックに『贈られた』と言われている。貴重な羽根をふんだんに使った兜は、莫大な労力と富の証であり、王もしくはそれに相当する身分のためのモノであることは容易に想像できる。それを滞在一ヶ月の異邦人に『贈る』というのはおかしい。鮮やかなピンク色は、奪われたことを告発しているかのよう。
本書では、「ヨーロッパ人が世界各地の人々と接触するなかで起きたような致命的な誤解を、ありありと象徴している」と説明するが、征服者のペンより奪われたモノの高貴さが語っている。これは、戦利品であると。
あるいは、「アカンの太鼓」(1750年)が象徴的だ。アメリカ、ヴァージニア州で『発見』された太鼓で、長い間アメリカ先住民の「インディアンの太鼓」だと考えられていた。ところが、150年後の科学的調査により、西アフリカ産であることが判明する。この太鼓は、地球規模の強制移住の"モノ語り"なのだ。
奴隷となったアフリカ人はアメリカ大陸へ輸送された。太鼓そのものはアフリカからヴァージニアへと運ばれ、その生涯の最終段階でロンドンに送られた。画期的なことに、太鼓と同様、奴隷の子孫たちもいまではイギリスにやってきているのだ。征服者のペンによると、奴隷は人ではなくモノのように扱われていた。したがって、この太鼓は奴隷ともに運ばれたかもしれないが、所有者はその支配層だったに違いない。これがインディアンの太鼓ではなく、奴隷が所有していた太鼓であったなら、ロンドンに運ばれるどこかの線で消えてしまっただろう。「滅び去る=貴重品」と判断されたからこそ生き残り、さらに奴隷貿易の証拠として扱われた。歴史から見ると、「アカンの太鼓」は、異文化からの戦利品なのだ。
そう、展示品が貴重であればあるほど、嬉々として見せびらかす態度が、あまりにも無邪気に見える。地球の各地から集められた、日用品、芸術品、遺物は、要するに略奪品である。日の沈まぬ大英帝国が世界を「発見」し「開拓」していく中で、奪い、盗み、剥奪していったモノなのだ。
もちろん友好の品として入手したものもあるだろう。行く先もなく寄贈されたものや、博物館自身が買い取った遺物もあるに違いない。だが、血塗られた手でゲットした「お宝」と混ぜられてしまい、どれがどれか、分からなくなっている。征服され、滅ぼされた立場からすると、盗品、略奪品の泥棒市こそが、大英博物館なのではないか―――そんな疑問がわきあがる。
しかし、事情はどうやら、違うらしい。
たとえば、モヘンジョダロの有名な腰帯がある。インダス文明を伝える貴重な遺物なのだが、真ん中で二つに切断されている。なぜなら、インドとパキスタンに分割されたから。腰帯に限らず、陶器やビーズといった出土品が二つの国家で分けられる。歴史的な遺物は、このように逸散していくのかと見ているようで心が痛む。イギリスが植民地支配していれば少なくともバラバラにならなかっただろう(その代わりゴッソリ持って行かれるが)。
地球規模でさまざまな文化や文明のモノを眺めることができるのは、大英帝国(と仲間たち)の略奪や貿易のおかげ。善悪の判断を措けば、これは人類の宝が集められ、守られていたことになる。さらに、本書はそこから生まれたのだ。
本書のおかげで、紀元前1550年頃のエジプトの試験対策本が、今の就職試験「一般常識」と同レベルであることを知った。紀元前5000年の縄文壷の文様が変態的なまでに洗練されており、細かいところに気を配る日本人の「変わってなさ」を思い知った。紀元前440年のケンタウロスのレリーフのおかげで、「怪物(=ペルシャ帝国)」という敵を作り出すことによって、都市国家の結束を高めたことを知った(その代価として、戦争を始める素晴らしい"口実"になっていたことも)。
もっと普遍的な事実を支えている、具体的なモノとも出会えた。それは、各時代の「お金」だ。どの時代であれ、帝国の支配者たちは、同じ難題に直面する。異なる民族、異なる宗教、異なる文化をいかに統治すればよいか? ――― これらを束ねる媒体は、「お金」なのだ。
アレクサンドロス大王の顔が刻まれた硬貨(紀元前305)、世界最初の紙幣である明の紙幣(1375-1425年)、スペインが南米から搾り取った銀で作った世界最初のグローバルマネー「ピース・オブ・エイト」(1573-1597年)、そしてプラスチックマネーたるクレジットカードまである。交換媒体として発明されたが、支配者のイメージを広めたり、反権力の象徴となったり、支配の道具として悪用されたり、様々な役割を担ってきたことが分かる。
他にも、「食」や「セックス」、あるいは「戦争」に関するモノが興味深い。いずれも人類にとって必要なモノが発明され、使われ、遺されてきたからだ。あらゆるモノが時系列に並べられているためバラバラになっているが、それぞれのテーマを縦串として貫いたら、面白い人類史として読み直せるだろう。
ただ一つ、不満がある。最後の、100番目のモノとして取上げられたのは、「ソーラーパネルとライト」。持続可能なエネルギーとして採用されたのだが、わたしなら、「サッカーボール」だな。もし人類の歴史をモノで語るのであれば、連綿と続く「争いの歴史」を象徴し、その代替物として地球規模で普遍性を持ち、かつ現代的なものといったら「サッカーボール」ではなかろうか。
わたしの妄想はさておき、「自分ならこれを挙げる」「わたしならこのモノからこう読み解く」という視線で読むと、いくらでも楽しめる。知識として受け取るのではなく、自分の想像力を駆使するトリガーとしての「モノ」の歴史なのだ。
三巻本だが、現代に近い3巻から逆に辿って読んだほうがいい。人類の「変わってなさ」が、びっくりするほど伝わるから。
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