打ちのめされるようなすごい本「笹まくら」
過去が襲ってくるという感覚を、知っているか。
昔の失敗や、封印していたトラウマが、いきなり、何の前触れもなく、気がついたら頭いっぱいを占めている、あの感覚だ。あッという間も、逃れようもなく組み敷かれ、後悔の念とともに呆然と眺めているしかできない。
きっかけは、ちっぽけだ。些細な出来事だったり、たあいのない会話の言葉尻だったり。だが、ひとたびトラウマが鎌首をもたげると、蛙のごとく動けない。そして自分は、「あのときは、どうしようもなかった。ああするしかなかった」と、ひたすら、言い訳をする(己が壊れないためにね)。
これを二十年間やった男の話。だが安心するがいい、これは読者の過去やトラウマに絶対ひっかからない、徴兵忌避した男の話だから。戦争中、全国を転々と逃げ回った過去が、二十年後のしがないリーマン生活に、フラッシュバックのように差し込まれてくる。
この差し込まれ具合がスゴい。戦中と戦後の跳躍が、一行空きなどの隔てなく、シームレスにつながる。戦後の日常生活からいきなり戦中の逃亡生活に変わっている。ジェイムズ・ジョイスの「意識の流れ」手法を巧みに使っており、行きつ戻りつがスリリングな読書になる。わたしの生活とも人生ともまるで違うにもかかわらず、うっかりすると「もっていかれる」読書になる。
だが、徴兵忌避は罪なのか、「過ち」なのだろうか? もちろん戦時中は犯罪だったが、戦後は掌を返したように扱われる。英雄視するやからも出てくる。「抱いて!」という女も出てくる。本人はヒーロー気取りでやったわけではないのに。
そして、相手の言動を絶えず再評価しようとする───「自分の徴兵忌避の過去を知っているか」「徴兵忌避について賛成か反対か」───という判断基準で。この、「自分がどう見られているか」を常にチェックする態度は脅迫観念じみており、疑心暗鬼を二十年続けてきた中に、一種の狂気を見てとることができる。
一方で、「ズルしやがって」「うまいことやりやがって」という後ろ指さされ感がイヤらしい。断じて「ズル」のつもりではなかった。名分なき戦争への反対、「自分が戦うにふさわしいものか」という問題を思い詰めた上での行動であって、反国家意識からではなかった。
むしろ、いつ捕まるか分からない、不安と恐怖のなかの絶望的な逃走だった───のだが、本当なのだろうか? 二十年も経過すると、かつての「決意」の記憶も薄らぐ。プリンシパルを結論づけたわけでもなく、ただ勢いに乗じた若さゆえのことだったこと───それに気づかないよう、自分の意識を上手に回避させてゆく。この「見ないように」する姿勢もイヤらしい。
これ、「信用できない話り手」の技法を組み合わせると、ものすごく面白く読める。徴兵忌避という過去を言い訳に現在の行動基準・評価軸があるものの、そもそもそんなことをしでかした原因に目を背けつつ、結果の「徴兵忌避」だけに汲汲とする姿勢は、まさに戦争について日本人がとり続けている態度をずばり指しているようだ。
つまり、「戦争でしでかしたことについて、どう見られているか」ばかり気にして、そもそもそんな戦争に至った原因を見ないようにしている、という姿勢のことだ。主人公の負い目は、日本人の後ろめたさとオーバーラップする。主人公の名前は、二つある。偽名「杉浦」と、本名「浜田」だ。戦中と戦後、二人の主人公の連続性と、名前を使い分けることで過去を隔離しようとする断続性が、戦中と戦後の日本人のメタファーであるとするなら、これほど強烈な皮肉はない。
戦前と戦後が重なりあう。過去と現在が立体的に絡み合い、読者をより合わさった意識の世界に連れて行く。日本は、昭和二十年八月十五日を契機に、全く別の新しい社会に生まれ変わったわけではない───そういう思いが伝わってくる。
本書は、米原真理「打ちのめされるようなすごい本」で、打ちのめされるようなすごい本としてオススメされていたもの。たしかにそのとおり、技法としても面白さとしても傑作なり。
過去が襲ってくる、思い出に呪われる感覚に鳥肌を立てろ。ただね、トラウマとなった逃亡生活なのに、振り返ると、あれほど輝かしく、自由で、のびのびとした瞬間はなかった、と見えてしまう。セックスであれ、食べ物であれ、戦中のほうが生々しく、いかにも生きているように描かれている。
「人生がGAMEOVERになっても続くなんて、誰も教えてくれなかった」という至言がある(tumblrで拾った)。このセリフをぶつけたくなる、鮮やかなラストに打ちのめされろ。

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