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「アンナ・カレーニナ」読むと結婚が捗るぞ

 人生を滅ぼした女から、何を学ぶか。

 「女とは愛すべき存在であって、理解するためにあるものではない」といったのはオスカー・ワイルド。これは、夫婦喧嘩という名のサンドバック状態になってるとき、かならず頭をよぎる。

 結論から言う。論理的に分かろうとした時点で負け、相手の感情に寄り添えるならば、まだソフトランディングの余地はある。

 しかし、夫と不倫相手は、そこが分かっていなかった。体裁を繕うことに全力を費やしたり、売り言葉に買い言葉で応じたり。優越感ゲームや記憶の改変、詭弁術の駆け引きは目を覆いたくなるが、それはわたしの結婚でもくり返されてきたことの醜い拡大図なのだ。

 投げつけあう「あなたの言っていることが分からない」の応酬は、「どうせ分かってるくせになぜそういう態度をとるの?」の裏返しだ。大いに身に覚えがあるわたしには、ヴロンスキー(不倫相手)の利己的な愛の吐露が身に染みる。

「じゃあ言ってくれ、きみが穏やかな気持ちでいるためには、ぼくはどうしたらいいんだ? きみが幸せでいてくれるためなら、ぼくは何だってする覚悟だから」

 彼女のイライラはどこから来るのか。離婚が決まらない宙ぶらりんの不安感や、上流階級サロンからの侮辱、息子と引き離された悲しみ、そうしたもろもろが中途半端なまま「いままでどおり」を演じようとする乖離が見て取れる。

 イライラに明確な原因があって、取り除くなり緩和すれば解決する―――わけない。きっかけは些細な意識齟齬だったり、僅かな行き違いだが、それはトリガーに過ぎぬ。お互いそこは了承してるからいきなり過去の嫌味辛みの応酬となる。「分かろう」とするのは歩み寄りよりもむしろ、「分かってやろう」という上から目線に取られる。「わたしが欲しいものを知っているくせに」。

 では、アンナが欲するものは何か。献身的な態度か、巨額な資産か、贅沢な生活か、甘美なひとときか、その全てを受け入れながらも、そのいずれでもないという。独白の形で彼女は表明する。

「わたしが欲しいのは愛だ。でも愛はない。だとしたら、全部おしまい」自分が言った言葉を彼女はくりかえした「だったら終わらせなくちゃ」

 物語は一気に不吉な様相になる。だが、彼女が欲したのは、愛そのものではなく、「愛されているわたし」だった。男の目や手や顔やしぐさに愛を見いだすのではなく、男の言葉から愛を受け取るのではなく、ただいひたすら、自分、自分、自分。「愛されているという感じ」を感じたいのだ。

 残念ながら、この判定者は女自身。なのでこの戦いは100パーセント男の負けになる。これが判らぬ男は、女を泣かすか、女から逃げ出すまで無益な消耗戦を続けなければならない。言葉を尽くして、なだめてすかして、思いあまって、しかも何度もくり返して、たどり着くのだ―――この女が分からぬという結論に。だが、この結論そのものが間違っている。女を理解しようとするその態度が、「女を理解する」という設問自体が、誤っているのだ。女は、理解するためにあるのではなく、ただひたすら、愛するためにある。

 その愛し方は、ひたすら尽くす(ヴロンスキー・不倫相手)、すべてを赦す(カレーニン・夫)と男それぞれ。おそらく二人とも、「わたしと○○と、どっちが大事?」という定番の質問の答えを知らないのだろう。正解は、「そんなことを言わせて、ごめん」と言いながら、(TPOに合わせて)抱きしめる or 土下座する or 涙を流すだ(テストに出るので覚えておくように)。

 しかし、これがなかなか厄介だ。プライドというやつが邪魔をする。そして、このプライドというやつが面白い。本書には、リヨーヴィンという、まさにプライドが服を着ているような奴が登場する。そして、彼の生活や事業、結婚観や内省が、微笑ましくて愉快になる。

 実は、「アンナ・カレーニナ」というタイトルなのに、このリヨーヴィンが物語の半分を占める。二人の人生はときに交差するけれど、これは一種のダブル・プロットになる。「不倫の果てに鉄道自殺する不幸な女の話」に絡まるように、「紆余曲折の末、幸せな結婚生活を送る男の話」が続く。ウラジミール・ナボコフは、このリヨーヴィンのパートを評価せず、夾雑物あつかいしている。だが、その秘密は、この物語の一行目に隠されているのではないか。あまりにも有名なこれだ。

幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、
不幸な家族はそれぞれの不幸の形がある。
 非常に興味深いことに、この一行目を読み始めたときは、わたしもこれに同意だったが、読み進むにつれ懐疑的となり、最後に至っては、逆ではないかと考えるようになる。すなわち、何に幸せを見いだすかは人によるが、不幸の形はただ一つ、「不信」という姿をとる。人間不信になったり、不信心だったり、明日が信じられなくなったとき、それを人は不幸と呼ぶのではないか。

 本書は19世紀の貴族社会における恋愛をモチーフとしながら、結婚や家族のおける価値観の問題、モラル、教育、宗教、さらには農業や政治や戦争の問題など、さまざまなテーマを縦横に書き込んだ総合小説となる。

 アンナの濃厚な自己愛の跡を辿っても面白いし、リヨーヴィンのプライドが七転八倒する様を笑ってもいい。トルストイの一見リアリスティックな世界は、同時に象徴、隠喩、寓意にみちた連関の迷路になっている。破滅への兆候を拾っていくとエンタメとして読めるし、恋愛小説として読むと完全にラノベになる。わたしはここから、「結婚」という断面で斬ってみたが、未婚のわたしに読ませたい、先達ならではの知恵(地雷?)が詰まっていた。これは好きに読めばいいだろう、総合小説の懐の深さやね。

 結婚前のわたしに読ませたかったスゴ本。結婚後のわたしは、涙ナシには読めないスゴ本。

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リアル懐古主義「四丁目の夕日」

 昔を美化して懐かしむのは勝手だ。脳内妄想タレ流し与太は馬鹿の特権だから。だが、「だから今はダメだ」の偽証拠にしたり、嘘目標にするのは、馬鹿を通り越して犯罪だ。レトリックに騙されないために、「四丁目の夕日」を思いだそう。

 「走る凶器」という言葉を思いだそう。ピーク時は年間一万六千人が交通事故で命を失い、交通戦争という名にふさわしい時代だった。車の残骸とアスファルトの黒い染みの写真が社会面を飾っていた。「登下校の集団に突っ込む」「轢いたことに気づかず走行」「反対車線に飛び出し正面衝突」は、今だと華々しく全国ニュースになるが、当時は日常茶飯事だったことを思いだそう。

 「四大公害病」、覚えているよね。あの頃は、土も水も空気も汚染されていた。どれも悪質で悲惨な「公的犯罪」だったが、当初は「ただちに影響はない」と切り捨てられていた。鮮明に覚えているのは、泡立つ多摩川のヘドロと畸形魚。今と比べると、同じ惑星とは思えない。

 「通り魔」を思いだそう。包丁や金槌で、主婦や子どもを狙う「まじめでおとなしい人」を思いだそう。住宅街の路面に点々と滴る跡を舐めるような映像を飽きるほど見た。今のように、同じ事件をくり返し流すのではなく、違う殺人事件が連続して起きていた。ニュースが別の通り魔を呼び寄せていたのだ。「カッとなって人を刺す」が動機の常だった。

 「昔は良かった」補正を外し、目を背けていたセキララ実態を無理矢理ガン見させるのは、「四丁目の夕日」だ。工場労働者の悲惨な現実と絶望の未来は、読めば読むほど辛くなる。絵に描いたような不幸だが、これがあたりまえの現実だった。読むことは───正直オススメできない劇薬級だから。人によるとトラウマンガ(トラウマ+マンガ)になるかもしれぬ。

 昔は酷かった、と言いたいわけではない。懐古主義に騙されるな、と言いたいのだ。昔だって良かったところはある、今より税金安かったからね。

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いじめ対策のリソースは、担任へ「3月のライオン」

 「3月のライオン」に、いじめ対策のヒントがある。

 中学生のヒロインが、いじめられていた子を助けようとする。その子は心を病んで学校を去り、矛先は彼女へ。エスカレートするいじめと、巻き添えを恐れて見守るだけのクラスメイト。彼女はクラス担任に助けを求めるが―――「どうしてあなたは協調性がないの!?」と逆に叱責されてしまう。

 元気いっぱいだった彼女の笑顔が減ってゆき、存在感さえ薄らいでゆく。なんとかしようとする主人公。彼のあがきの熱意やもがきの空回り感に、わたしも一緒になって隔靴掻痒するのだが、それは別の話。ここでは、次の2つについて書く。

 1. いじめに対処した学年主任(とチーム)
 2. いじめを見てみぬふりをしたクラス担任

 ある「事件」が起きて、いじめが表ざたになる。それまで黙殺してきた担任の教師に代わり、学年主任が介入する。対処が素晴らしいのは、「チームで対応」しているところ。加害グループのメンバーそれぞれに一人、教師をつけて、個別に面談する。加害グループのいない教室で、百戦錬磨の学年主任が、あらためてクラスに問いかける。先生の赤本「入門 いじめ対策」でも述べたとおり、教師の本気を見せつける。

 印象的なのは、「いじめの証拠」について。「ウチの子がいじめたというなら、その証拠を見せてみろ」と詰め寄る母親に、学年主任は、そんなものはないという。「いじめられた」という生徒が一人でもいるなら、それだけで証拠たりうるというのだ。「その生徒がウソをついたなら?」と畳み掛ける母親に、「ウソをついていたという証拠はどこにある?」と開き直る。ああ言えば上祐、詭弁重要。

 この「いじめ」は、どうやって明るみに出たか? 残念ながらヒロインたち奮闘ではない。健気で一途で純粋で、河原のシーンなんて思い出すだけでもう涙ボロボロになるが、その声が学校を動かしたわけではない。「いじめを見てみぬふりをしたクラス担任」が倒れるのだ、心労で。

 ここでは、クラス担任の立場になる。

 授業に顧問、進路相談からいじめの相談まで、なんでも背負い込まされすぎ。クラスの問題は担任が対処「すべき」に振り回され、モンペとPTAの板ばさみになる。やってられない。

 生徒の中学生活は3年で終わるが、先生はずっとだ。毎年まいとし、顔ぶれは違っていても、いじめ・荒れる問題は同じ。最初は真摯に対処してても、毎年まいとし、同じ「中学3年生」が同じ問題をひきおこす。やってられない。

 ただでさえクソ忙しい受験の時期に、問題を持ち込むな。悪い知らせをもたらす人を咎める気持ちになる。「どうしてあなたは協調性がないの!?」という叱責は、先生の悲鳴でもある―――「お願いだから、先生に問題を押し付けないで」。おそらく、いっぱいいっぱいだったのだろう。「いじめを認める=管理能力のなさ」と考え、問題を抱え込み、周囲の教師へ相談も助けも求めず、生徒にレッテルを貼ってやりすごそうとしたのかもしれない。

 いじめの処方箋は様々だ。被害者・加害者に向けたメッセージやアドバイスや脅し文句も多々ある。だが、「3月のライオン」を読む限り、中学生・高校生にはこの問題は難しすぎる。現場に最も近い大人、すなわちクラス担任が倒れる前に、もっとリソースを割り当てるべきだったのだ。

 注意を要するのは、「担任の先生に責任を負わす」のではない。担任の先生が担っている「いじめ対策」を他で肩代わりできるよう、リソースを割当てることが現実的だ。

 たとえば、被害者のためにスクールカウンセラーがいるように、いじめの対策に悩む教師のための助言者(チーム)ができないだろうか。いじめ110番の窓口は、被害者や傍観者を想定している。この、先生向けができないだろうか。先生の赤本「入門 いじめ対策」で紹介されているプロセスやツールをクラス担任から引き継ぐ形で実行してくれるチームが作れないだろうか。いずれも人のリソースが必要になる。

 いずれ、いじめ対策として予算が計上されるだろう。それは解決できない被害者・加害者・傍観者のために割り当てるよりむしろ、クラス担任にリソース集中するほうが現実的だと考える。

 世の先生方は、まずは「3月のライオン」を手にしてみはいかが?

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 未読の方に断っておくが、これ熱血将棋マンガですぞ。努力と根性と友情が盤上で燃え上がる少年マンガといっていい。ただしラブ要素は、少女マンガのコードに縛られている(ように見える)代わりに、妙齢の女性陣の健啖ぶりに目を輝かせるべし、あれは、セックスの代わりなんだから。

 そう、不思議なことに、セックスを感じさせない。わたしが高校時代つったら、頭ン中は常にセックスのことで詰まっていて、下半身は常にタンパク質が詰まっていた。ところが主人公の17歳は、すげータンパクなの。女の子と接近遭遇シーンになっても、セックスを感じられない。草食系なのは女にだけで、将棋には唯我独尊ライオン系なのに。

 いっぽう、食べるシーンは非常に濃厚かつ現実的に描いている。甘味処、おせち料理、温玉カレー、巨大おにぎり、もんじゃ焼き…ほんと旨そうに描き、じつに美味しそうに食べる。はちきれるほどに食べて食べて、うっとりと目を細める貌を見て、これは性行為の代わりなのだと勝手に決めている。

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寺山修司の「ポケットに名言を」

 「ことば」にたいする姿勢が、変わった。印刷されたものを不変とみなし、ありがたがってたのは昔話。いつから変わったか?

 ワープロが普及してキーボードがあたりまえになってから。ネットに向かってことばを紡ぐようになったから。本は変わらないが読み手は変化することに気づいてから。しかも時代に解釈しなおされることが分かったから。

 そのうえ、寺山修司の「名言などは、シャツでも着るように、軽く着こなしては脱ぎ捨ててゆく」は効いた。言葉で殴り倒されて、ぐさりと胸を一突きされて、その傷手に塗られた薬のように効いた。

 要するに、ことばが古びるのではなく、わたしが変わる。合う/合わないを着て確かめればいい。箴言とか金言のレッテルは措いといて、まず遣ってみよう。

勤勉な馬鹿ほどはた迷惑なものはない
ホルスト・ガイヤー「人生論」
 どの時代でも「勤勉な馬鹿」はいたが、この時代だけ特異なことに、テレビやネットで拡大されてよく見える。かつてモブに埋もれていたのが、バカ発見器や集バカ装置で続々と目にする。衆愚化ではなく、集愚化やね。もちろん、わたしもその一人。画期的なバカ避けができるまで、踊りつづける、おもしろいからね。例外はtumblr、勤勉な馬鹿を隔離する装置だ。「馬鹿には見えない服」があったように、「馬鹿にしか見えないインターネット」こそtumblrなのだ。

 ところどころ、どこかで目にし耳にした作家や作品がちらほら。だが、そんなセリフがあったことすら覚えていない。寺山修司は、わたしが気にも留めなかった一文を、あざやかに切り取ってみせる。目のつけどころが修司でしょ。

女を良くいう人は、女を充分に知らない者であり、
女を悪くいう人は、女をまったく知らない者である。

ルブラン「怪盗アルセーヌ・ルパン」
「僕の思念、僕の思想、そんなものはありえないんだ。言葉によって表現されたものは、もうすでに、厳密には僕のものじゃない。僕はその瞬間に、他人とその思想を共有しているんだからね」
三島由紀夫「旅の墓碑銘」
 若い自分に読んで聴かせてやりたい言葉がいっぱい。本書は、まさにわたしが若いときに編まれた名言集なので、出会わなかったことがもったいない。(どうせ耳は貸さないだろうが)「まあ読んでおけ、これは若いうちに読まないと損する本だぞ」なんて脅してでも読ませたい。ハタチのわたしに読ませたい「うらおもて人生録」と一緒やね。頭ガツン級はこれだ、童貞、リア充、既婚未婚に限らず、これだ。
女というものは愛されるためにあるものであって、
理解されるためにあるものではない。

オスカー・ワイルド「語録」
「女というのは分からない」という悩みそのものが誤りだったことに気づくのは、人生のなるべく早めのほうが苦しまずにすむ。本書ではページは離れているものの、ブルース・リーの次のセリフを並べたい。
Don't think., FEEL!
Bruce Lee
 わたしが着てきた「シャツ」と比較するのも愉しい。ジュール・ルナアルの次のセリフなんて、明石家さんまが18歳のとき、師匠に言われた話を思い出す。
幸福とは幸福をさがすことである
ジュール・ルナアル
 明石家さんまの逸話はこれ。弟子稼業で掃除していたさんまに、師匠は「それ、楽しいか?」と尋ねたという。もちろん楽しいわけないから、さんまは「いいえ」と答える。すると師匠は、「掃除はどうしたら楽しいか考えろ」というのだ。ここでさんまは気づくのだ、「楽しくなることを考えてることは楽しい」ってね。ひょっとすると、この師匠、ルナアルの幸福論(またはこの名言集)を読んでいたのかもしれない―――そう考えると、もっと愉しい。

 本書の型破りなところは、引用元に歌謡曲や映画まで入ってくるところ。呪文呪語の類だったり、引用可能な他人の経験だったり、思想の軌跡を一切無視して、一句だけとり出して、ガムでも噛むように「名言」を噛みしめろという。その反復の中で、意味は無化され、社会と死との呪縛から解放されるような一時的な陶酔を味わえという。

 おあつらえの名言がある。脳内リピート再生される度にドーパミンがあふれ出る。噛みしめすぎて、行動律になりつつある。この一句を、本書のラストに書き入れたい。

欲望は言葉にしなくちゃ、ほら、(うー!) 消えちゃうでしょう?(にゃー!)
ニャル子さん

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食べることは生きること「地球のごはん」

 「食は文化」が、よく見える。

 あるいは、ブリア=サヴァランの警句「ふだん何を食べているのか言ってごらんなさい、そうすれば、あなたがどんな人だか言ってみせましょう」をグローバルにスライスした断面が見える。

 世界30カ国80人の「ふだんの食事」を紹介しているが、ユニークな点は、本人と一緒に「その人の一日分の食事」を並べているところ。朝食から寝酒、間食や飲み水も一切合切「見える」ようになっている。

 おかげで表紙のイリノイ州の農家(4100)から名古屋市の力士(3500)、上海雑伎団の曲芸師(1700)やナミビアのトラック運転手(8400)が、何を、どんな形で口にしているか、一目で分かる。カッコ内の数字は「その人の一日分」のカロリー(kcal)だ。身長体重年齢も併記されており、「この体格でこんなに摂るのか」とか、「ちっぽけなパッケージなのに、こんなにカロリーあるんだ…」など、想像力が刺激される。

 例えば、高カロリーの傾向は、「職業」や「場所」に出てくる。激しい肉体労働だと高カロリーになりがちだが、高地や寒冷地の人々も高カロリーの食事をする。チベットの僧やエクアドルの主婦が驚くほど高いカロリーを摂取しているのは、高地ほど吸収しにくい(or心肺に負荷が掛かるので必要)のかと考えてしまう。

 また、量的にわずかなのに高カロリーな食事の共通点を見つけることができる。それは、パッケージングされた工業製品だというところ。長距離トラックの運転手やアメリカ陸軍は仕事柄、全ての食事が「製品」ということになる。見た目とカロリーがちぐはぐで混乱するだろうが、職業として理に適っている。

 さらに本書を面白くしているところは、「カロリー順」に並んでいる点だ。最初はケニアのマサイ族(800)、最後はイギリスの主婦(12300)で、前者はあまりの少なさに、後者はあまりの多さに愕然とする。「普通の人の普通の食事」って何だろうと思えてくる。世界の両端を見る思いがする。

 時折、著者の意図が透ける。わざとか知らずか、途上国の食に困る人と、先進国のダイエットに励む人が並んでしまう。象徴的なのは、ヨルダン川を隔てた西と東だ。パレスチナの運転手(3000)とエルサレムのユダヤ教の指導者(3100)が綺麗に隣り合う。どちらもパンと卵と乳製品、そしてボトル飲料を同じカロリーだけ摂る。どちらも同じ40代、家族想いで甘いものに目がない。

 カロリーの高低は、所得の高低と一致しないことも気づく。つまり、低所得者の摂るカロリーは、必ずしも低いわけではないのだ。むしろ逆で、所得が低い人のほうが、高カロリーの食事をしている例を多々見る。ネット越しの聞きかじりで知ってはいたが、具体的な「製品としての食」を目にすると説得力が増す。

 同じ著者の「地球家族」は、普通の家庭の家の中にあるもの全部出して撮ったもの、「地球の食卓」は一般的な一週間分の食材と食事風景が描かれている。共通して見えるのは、「普通」や「一般的」とは国によるということ。そして本書で分かるのは、「普通」とは境遇や職業、ライフスタイルにもよるということ。それが最も見えるのは、全ての国、文化、職業、生き方に共通している、「食べる」という行為なのだ。

 「食べることは生きること」が見えるスゴ本。

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先生の赤本「入門 いじめ対策」

 一席ぶつのもいいが、具体的に動く。

 子どもが通う学校で、「ウチは大丈夫か?」と呼びかけやアンケートが実施されているそうな。大仰すぎると水面下に潜るぞーとは思うが、やらないより○。わが家では、寝しなに子どもに語ったり、夫婦でしみじみ話したり、参考書で「予習」してる。天下国家やゆとり教育の荒廃を嘆いても無駄、具体的に動いている。そこで見つけた、先生にとっての赤本を紹介しよう。

 小・中・高のいじめ事例から自殺予防までを扱った一冊。「入門」と銘打つ150p.足らずの本だが、中身はかなり充実しており、関連書籍の紹介は膨大といっていい。入門というより、むしろエッセンス本だな。類書より優れているのはII章、「いじめの緊急対応」になる。今のいま、いじめの対応について悩んでいる先生方は、II章から読むべし。

 とはいっても、特別な手法があるわけではない。「見守り」「個別指導」「保護者の面談」などは、容易に想像できる。違うのは、「必ずチームで対応せよ」と念押しするところ。他の教師、主任教師、指導員とチームで対応しなさいとある。「いじめの緊急対応」では、学校をあげて片時も本人から目を離さないように体制を組めという。教師が組織をあげて本気で取り組んでいる姿が無言の圧力になるんだって。

 また、被害者との面談での「べからず」集は、文字どおり反面教師として役立つ。言ってはいけない一言はこれだ。

  • 「気にするな」
  • 「それはいじめではない」
  • 「あなたにも責任がある」
  • 「もっと強くなろう」
  • 「○○さん(いじめの相手)にも、いいところがある」
  • 「みんなの迷惑も考えろ」
 面談は静かなところで時間をとって、絶えず「あなたは悪くない」メッセージを送れとある。最後には、勇気をもって話してくれたことを称賛し、「あなたを守る」姿勢を必ず伝えろという。また、「孤立させないための席替え」や「クラスで話し合っても限界がある」など、ノウハウ的に役立ちそうなものを類書から選んでくれている。これは、先生にとって心強いマニュアルになるだろう。

 III章の予防策は、具体的で分かりやすい。いじめは、もちろん無くすべきものだ。しかし、「いじめは、あってはならない」前提で見るのと、「いじめは普通にある」目で見るのと、自ずと結果は違ってくる。ホラあれだ、「バクはあってはならない」を強調しすぎると、バクが報告されなくなるのと同じで、「いじめはあってはならない」を強調しすぎると、いじめが報告されなくなる。

 だから、職員のアンテナ感度を上げろという。具体的にはここを見ろという。

  • 全校集会のとき、ある子どもの周りの空間が大きいと感じる
  • 休み時間にうろうろしている
  • 授業中、ある子が発言しても周囲の反応がない/冷ややか
  • 給食の配膳時、ある子の盛り付けの食品を食べない
  • 作品や写真へのいたずら
  • ある子のものが頻繁になくなる
  • 衣服の汚れ
  • 保健室のへの頻回来室
 そして、得られた情報をどう扱うかも具体的だ。情報交換をシステム化しろという。つまり、職員会議や職員打ち合わせの時間の最後に、児童生徒に関する情報交換の時間を設定するのだ。5分でもいい、気になることを自由に話す時間をもうけることで、インシデントを共有するのだ。

 たとえば、こんな感じ―――「□さんが、丁寧にに玄関掃除をしていた。しかし、他の子が掃除に協力的でないのが気になった」「○学年の△さんは、ときどき、独りで理科室の水槽を眺めている」など、なんでもない「けど気になる」ことを伝え合う。この辺は、スタンダップミーティングと同じノリやね。

 さらに、アンケートは定期的にやれという。特に、「学級の雰囲気と自己肯定感を把握する質問」は使えそう。これは、「雰囲気」と「自己肯定感」を点数で出してもらい、散布図にプロットしていくもの(googleったら、群馬県総合教育センターの[これ]が出てきた)。犯人探し・被害者探しというよりも、居心地の悪さを感じている人がいないか、学級のまとまりに差が生じていないかをあぶりだすツールのようだ。PDF概要版を確かめてほしい。

 本書の後半は怒涛の事例集となっている。「クラス全員から帰れコールで自殺を決意した中2女子」とか、「彼女をNTRれるという陰湿ないじめにあった高2男子」、さらには被害者が実は加害者で「あいつを『いじめっ子』にしてやる」など、かなりキツい話がある。学校側の対応も描かれているが、奏功した例もあれば、逆効果だった事例、感知できなかった話もある。過去問としてシミュレーションしてほしい。

 ただし、現場にとって、ただでさえ激務なのに、さらに負担増になることは確かだ。文部科学省が旗を振る「いじめ対策」は、パンフレットかチェックリストか、相談窓口の設置程度だ。本気でなんとかする気なら、予算をアサインするだろう。「いじめ対策」補助金や、「いじめ保険」といったビジネスチャンスとからめれば、メンタリングマネジメントはアウトソースできるのでは―――と妄想する。

 妄想さておき、具体的に動ける一冊。

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スゴ本オフ8月のお知らせ

 面白い本に出会う確かなやり方は、それを読んだ人に教えてもらうこと。

 自分の「面白い」を伝えて、「それならコレはいかが?」を互いにオススメしあうのがスゴ本オフ。お話会、ブックトーク、ワークショップ、本屋オフなど、様々な形で、「面白い本との出会い」を共有しましょう。

 スゴ本オフは、「すごい読書家が集まる会」ではありませぬ。勘違いする方がいらっしゃるが、そんな人おりませぬ。代わりに、「この本が好きで好きでたまらない」人が、それぞれ「この本」を持ってくるのです。あなたは、集まった「この本」のプレゼンを直接見聞きし、手にすることで、「わたしが知らないスゴ本」に出会うのです。スゴ本オフは、案内人つきの本の狩場だと思ってくださいませ。

■「子どもと一緒にドキドキを味わう」お話会

「ドキドキする本」を親子で味わう会。怖いのでなく、ドキドキするお話を、読み聞かせのプロに語っていただきます。最初は、「子ども向けの怖い本」で企画を進めていたところ、ハンパじゃなく怖いのが集まりそうだったので、「ドキドキする本」に変更。申込は、facebookか、またはtwitterからどうぞ。
参加費500円(ジュース、おやつ代)
日時と場所 8/4 13:00~15:00 千代田区麹町

facebookで申込
twitterで申込[やすゆきさん]

■スゴ本オフ「ホラー」

オトナ限定ガチホラー、ひたすら怖い本・映画・ゲームについて語りませう。メディアは「本」に限らず、DVDやゲームもあり。オススメの紹介をして、最後に交換会をします。「交換したくない」のであれば、メディアを見せて紹介だけでもOK。申込は、facebookか、またはtwitterからどうぞ。
参加費2000円(お酒、軽食代)
日時と場所 8/4 17:00~22:00 千代田区麹町
facebookで申込
twitterで申込[やすゆきさん]

■本屋オフ「松丸本舗」

スゴい書店・松丸本舗を、いっしょに探索しませう。ウロウロしているわたしを捕まえて、「これがスゴ本!」とオススメしてくださいませ。返り討ちに遭うかもしれませんが、オススメ合戦しましょう。目印は、赤いウエストバックしてるオッサン。「こんな本が読みたい」という相談にも乗りますぞ。
参加費無料、申込不要、途中参加・途中退出OK
日時と場所 8/7 12:00~17:00 松丸本舗

■スゴ音ワークショップ「最新の音楽事情を体験する」

やすゆきさん企画の、音楽著作権の勉強会の第2弾として「音楽を作る側の最新事情」を知るためのワークショップ。KORGの人に最新のシンセを持ってきてもらったり、PCで作曲する人に作曲の方法を見せてもらったり、ギター弾きさんに二胡弾いてもらったり。申込は、facebookか、またはtwitterからどうぞ。
参加費1000円、飲食はチケット制
日時と場所 8/25 13:00~19:00 千代田区麹町
facebookで申込(残りわずか)
twitterで申込[やすゆきさん]

■スゴ本オフ「音楽」

「音楽」をテーマにブックトークしませう。ネタは「本」に限らず、音楽そのものもあり。オススメのCDやDVDの紹介もOK。最後に交換会をしますが、「交換したくない」のであれば、見せるだけもOK。申込は、facebookか、またはtwitterからどうぞ。
参加費2000円
日時と場所 8/26 15:00~21:00 千代田区麹町
facebookで申込
twitterで申込[やすゆきさん]

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ボルヘス好き必読「ゾラン・ジフコヴィッチの不思議な物語」

ゾラン・ジフコヴィッチの不思議な物語 さらりと読んで後悔、極上のケーキを一口で食べてしまった。

 なので、これを読む方はよく味わってほしい。【ボルヘス級】といえば分かってもらえるだろうか。3つの短篇を編んだ、とても薄い、極上の奇譚集だ。読むのがもったいないくらい。

 簡潔な文体で異様な世界を描く作風は、ボルヘスやコルタサルを期待すればいい。だが、本書の異様さはこの現実と完全に一致しているところ。ボルヘスの白昼夢をリアルでなぞると、この物語りになる。

 そうこれは「物語り」なのだ。最も面白い物語りとは、うちあけ話。最初の「ティーショップ」では、聴き手の女の子と一緒に、物語に呑み込まれて裏返される"あの感じ"を堪能すべし。そこでは聴き手が語り手となり、語り手が聴衆と化す。物語りは感染し、連環する。

 ラストで彼女がとった行動に、一瞬「?」となるが、直後に鳥肌が走る。独りで読んでいるのに、周囲の空気が自分に集まってきて、世界に観られている感覚にぞっとする。これは、雨の午後、ティーショップでお茶しながら読むと効果大。

 次の「火事」は、幻想と現実の端境がすごい。ストーリーは言わないが、コルタサルの現実を見失う毒書と同じ眩暈を感じる。ありがちな、どちらかが「現実」で、もう片方が「夢」といった解釈にできない。燃えあがる鮮烈なイメージと大音響が、主人公だけでなく、読み手のわたしに向かってくる。読書が体験になる。

 最後の「換気口」は、可能世界が収束してゆく様子が「見える」。多世界解釈は仮説だから「見える」なんてありえない。だが、ありえないと言うのは、こちら側の主張。あちら側を見せつつも、こちら側から伝えようとするならば、それは単なる偶然や運命といった回りくどい言葉でしか表せない―――このもどかしさも含め、世界は選び取られているという衝撃が、時間差で襲ってくる。

 読後感は、ありえない、奇妙な味わいだが、でも確かに自分は口にしたのだというもの。「開いた窓の前で立ち止まるな」という警句があるが、本書はその窓に相当する。その向こうとこちらは、まぎれもなく、つながっているのだから。

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いじめについて子どもに話したこと

 「よい」といったら語弊があるが、機会なので、いじめについて子どもと話す。

 赤ん坊のときから「寝かしつけ」はわたしの仕事だが、小学生になっても一緒に寝たがる。寝物語もエスカレートして、絵本からゾロリ全読、オリジナルストーリーの強要など、拷問じみてくる。最近はエロを抜いた「Kanon」や、「ルーク・スカイウォーカー物語」(中身はエピソード4)で胡麻化している。昨晩は「いじめ」になった。

 すでに実行してきたことは、「わが子がイジメられてるらしいと思った親が最初にしたこと」に書いた。伝えたいメッセージは「みんな仲良くはウソ」「逃げろ」になる。

 今回は具体的に思い出しながら語った。「葬式ごっこ」や「マット死事件」を挙げて、いじめがどのようにエスカレートしていくかを聞かせる。よく「いじめはあってはならない」と言われるだけで、それが具体的にどのように始まって、どう進行するかについて、話したことがないことに気づく。

 最初は、靴や文房具を隠されるところから。そして、服を汚され、蹴られ、ロッカーに閉じ込められる。金銭を要求され、「盗ってこい」と命じられ、サンドバック代わりにされ、ヤキ(死語)を入れられ───悪意のはけ口として人外として扱われるのは、思い出すのも嫌なものだ。

 声が震えていたのだろう、子どもはしんとしている。「寝たの?」と聞くと、間髪いれず「それで?」と返してくる。過去はわたしに毒なので、「自殺の練習」につなげる。

「名探偵コナン」って、ちょっと死にすぎるけど、いいところもあるよ。あれ、必ず"犯人"がいるでしょ、そして必ず"犯人"がつきとめられる。いじめは、それで死ぬ人が出ても、"犯人はいませんでした"というのがあるんだ。

と、マットにぐるぐる巻きにされて窒息死した少年の話をする。子どもたちは「信じられない」を連発する。親のクレジットカードを盗ってこさせられ、勝手に使われ、親には問い詰められ板挟みになった子の話をする。

「いじめは、あってはならない」を間違えないで。「普通、いじめは無い」という意味じゃないよ。いじめは、普通にある。誰かと衝突したり、「嫌だ」と思うことは自然なことだ。教室だけじゃなく、大人の世界にだってある。だから、我慢しなくていい、「嫌」から逃げればいい(ただし勉強はちゃんとやれ)。学校は、命かけてまで行くところじゃないからね。

 気づいたら、二人ともスースー寝息を立てていた。どこまで聞いていたか分からないが、まぁいいか。


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疲れた大人に、よく刺さる「心にトゲ刺す200の花束」

心にトゲ刺す200の花束 いくつになってもペシミスト。若い頃はカッコつけのためだったが、年とるほど、現実みるほど、悲観主義がちょうどいい。失望せぬため期待しない。ポジティブシンキング糞食らえ、ありゃ、たま~に食べたい辛口カレー。自分マインドコントロールが「必要」なときに食えばいい。

楽観主義者とは、人生経験の浅いもののことだ。
ドン・マークウィス

 そういう痛いオッサンに、グッサリ刺さるスーパードライな箴言集。もちろん、ビアスや筒井やマーフィーの、辛辣辞典は読んできた。だがこの一冊は、一番薄いにもかかわらず―――いや薄いからこそ―――触られたくない奥底にまでもぐりこむ。そして、ちょっと遅れて、背を焼くようなヒリヒリとした笑いが襲ってくる、自己嘲笑の発作に身悶えする。これ嘲笑(わら)える人は自分の人生もひっくるめて笑い飛ばせる。

どうして自分で自分を苦しめたりするの?
どうせ人生が苦しめてくれるのに。
ローラ・ウォーカー

 別ver.を思い出す。アインシュタインの有名なやつで、ポジティブ教徒が好きなこれ→「どうして自分を責めるんですか? 他人がちゃんと必要な時に責めてくれるんだから、 いいじゃないですか」。もともと人生は苦なんだから、「苦」そのものを受けれとめろ。「苦」をあれこれ心配することも苦だから―――という考え。ブッダの「二の矢を受けず」を庶民がアレンジするとこうなる。

取り越し苦労なんてしなさんな。
もうすぐ本物の苦労が
あんたのところへやってくるから。
ベッツィ・ラパポート

 本書のいいとこは、箴言が別の箴言を呼ぶところ。磁石が自然に引き合うように、似た寸鉄が並べられ、わたしの記憶も抉り出す。聖ベルナールのこれなんて、典型かも→「生まれるのは苦痛/生きるのは困難/死ぬのは面倒である」。だが、開高健が「オーパ」でアレンジしたこっちが好きだ。どっちがオリジナルかはおいといて、読み人知らずの改変がまた楽しい。

生まれるのは、偶然
生きるのは、苦痛
死ぬのは、厄介

 警句のヒットといえば「マーフィー」だが、もちろんある。これだ。

うまくいかない可能性のあることは、きっとうまくいかない
マーフィーの法則(元はジョージ・ニコルソン)

 しかし、これは次の警句を引き寄せている。並べると、本書がどれだけペシミスティックか、よく分かるだろう。

マーフィーは楽観主義者だ。
作者多数

 ありがちな寸言が、より深いところに刺さる寸鉄を呼ぶ。このオスカー・ワイルドも沢山の箴言を吐いたが、この二つを並列させるところに、本書のセンスというかスキルというか、「あきらめ」じみたものを感じる。

大衆はすばらしく寛容だ。
彼らは天才以外のあらゆるものを許す。
オスカー・ワイルド
天才とバカの違いは、
天才には限界があるという点である。
作者不詳

 「男と女」についての箴言も数多いが、女の肩をもつほうが目立つのは、編者が女性だからだろうか。勘ぐりたくなるが、ロシュフコーの女への風当たりへのカウンターなのかも。

多くの男に会えば会うほど、
わたしは、犬が好きになる。
マダム・ド・スタール
女が本当に男を変えられるのは、
男が赤ん坊のときだけよ。
ナタリー・ウッド
男はトイレみたいなもの―――
使用中かキタナイかのどっちかだ。
作者多数

 「結婚」をテーマにしたのが沢山あるのもむべなるかな。皆さん、一言伝えたい苦労なり惨事なりを背負いこんだことがあったからだろうなーと考えると可笑しい。そのセリフにたどり着くために流された涙、飛び交った言葉を想像するとぞっとしないが。

恋愛は理想であり、結婚は現実だ。
このふたつを混同すると、
かならず、痛い目に、遭う。
ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ
貧しい人は金持ちになりたいと重い、
金持ちは幸せになりたいと思う。
独身者は結婚したいと思い、
結婚した者は死にたいと思う。
詠み人知らず
結婚してもしなくても、あなたはかならず後悔する
ポール・ブラウン

 これに、tumblrで拾ったお気に入りを加えよう。

尊敬される夫は、早死にした夫。
via:tumblr

 これだけ悲観のオンパレードを見てくると、こっちもゲンナリする。サラリーマン川柳の目線で、綾小路きみまろの毒を混ぜて尖らせたものばかりだから。慰めてんだか気の毒がられてんだか分からなくなるね。

ひょっとしたら、人生は全ての人に向いているわけじゃないのかもしれない。
ラリー・ブラウン
わたしたちは生き方を学ぶ前に死んでしまう。
スティーヴン・ウィンステン
元気をだして。
最悪の事態はまだこれからやってくるんだから。
フィランダー・ジョンソン

 よい寸鉄で、よい人生を。


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他人と比較するバカ親にならないために

比べるのは、「昨日のわが子」。これを忘れないために。

「Appleになれない日本のメーカーはダメ」とか、「北欧並の社会保障がない日本はクソ」といった主張を耳にするたび、苦笑しながら自戒する。同じ愚を犯していないだろうかと自問する。近所で/クラスで/学年で、一番デキる子と比べ、「○○ちゃんを見習って…」と子どもを責める馬鹿親にならないために。

  転職の自由はアメリカと比較され、
  仕事を休む自由はドイツと比較される。

  社会保障の充実はスウェーデンと比較され、
  バカンスの充実(と長さ)はフランスと比較される。

  国内総生産は中国と比較され、
  国民総幸福はブータンと比較される。

  イイとこと見たらアラも目立つ。
  にもかかわらず、己が主張をオっ立てて、
  「○○と比べて日本はダメだ」を連呼する。

日本のスーパーのトマトは、「桃太郎」と「プチトマト」しかないという。イタリアは何十種類もトマトがある。だから日本の食は貧しいと嘆く話がある。もう分かるね、どこが可笑しいか。

  「○○ちゃんを見習って算数を勉強なさい!」
  「スイミングスクールは△△ちゃんを目標に!」
  「□□さんボランティアで表彰されたんだって!」

なんてワメくバカ親といっしょ。他人と比較して、子どものダメ出しを正当化する。否定により優位に立とうとする。この態度、詭弁術としては正しいが、見習って欲しくない。子どもは、親の言うことなんて聞かないが、親の真似は恐ろしいほど上手い。うっかりすると、真似される。

というか、その会社の社員の扱いのクソ具合を知ってるか? その国の強盗の発生率を知ってるか? 日本を叩くためにiPhoneと北欧の社会保障「だけ」持ち出す人は、そんな馬鹿親に育てられたんだと考えることにしようそうしよう。

いっぽうホッとしてもいる。そんな馬鹿親に育てられたにもかかわらず、「○○と比べてダメな自分」に気づいてないから。もし気づいてしまったら、恥ずかしさのあまり自壊しかねないから。

大事なことなので、もう一度。比べるのは、「昨日のわが子」。

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