写真のうさん臭さを知る「たのしい写真」
写真を見るのは好きだが、用心して眺めるようにしている。
というのも、その言葉とは裏腹に、必ずしも真実を写したものでないことを知っているから。わたしの目に映るまで、そこには意図や編集、暴言吐くなら「演出」が混ざりこんでいるから。被写体の選定から構図、露出からトリミングまで、撮り手やメディアのスポンサーの"ねらい"が必ず入る。
あからさまな企図から隠された思惑まで、意識するしないに関わらず、必ずある。「自然な」写真などないのだ。メッセージ性の強い歴史のプロパガンダやフォトショのチカラに幾度だまされたことか。
この辺の、写真についての「もやもや」「うさん臭さ」を腑に落としこんでくれたのが、「たのしい写真」。ホンマタカシが写真の本質に斬りこむ。曰く、「Photograph≠写真」なのだと。「写真」とは明治時代の訳語なのだが、元の言葉よりも、強い意味を持ってしまっているという。
Photo = 光
graph = 描く(あるいは、画)
だから、普通に訳せば「光画」ぐらいが適当なのに、「真を写す」とはすごく強い言葉を用いている。"真実はいつも一つ"というお題目に引きずられると、写真の持つ編集や加工の意図を殺すことになる。もちろん写真は現実をとらえたものだが、同時に誰かに意図的に選び撮られた(取られた・採られた)ものになる。真実はいつも一つなら、"選ぶ"こととは矛盾するからね。
現実であると同時にいくらでも加工可能であるという、この二重性が写真の特徴です。いや、もっとはっきり言えば、「どうとでもなり得る」という多重性こそが、写真の本質なのです。著者は、ヴァルター・ベンヤミンのいう「本物にたどりつかない芸術」を引いて、そこが写真の一番おもしろいところだという。写真という訳語自体が矛盾を孕んでいるあいまいなもの、住所不明なメディアが、写真の魅力なのだと。
その写真のあいまいさや多重性を、「ワークショップ」という形で示してくれる。ここが一番アタマが開かされるところ。固定観念というか、「写真とはこういうもの」という枠に揺さぶりをかけ、ついには壊してしまう。写真を何度も「発見」させられる体験をする。
たとえば、写真を「疑う」ワークショップ。もともと疑いの目で写真に接していたわたしにとって、目ウロコのアプローチがこれだ。
「最初からウソを取り込んだ写真を撮ってみよう」つまりこうだ、「写真は真実だけではない」ことを意識するため、写真でウソをつくのだ。作例として、老若男女が寄り添った1枚がある。家族の集合写真みたいだが、全員赤の他人なのだと。おじいさんぽい人も、お姉さんぽい人も、お母さんぽい人の膝の上の赤ちゃんも含め、全員他人。また、「誰が撮ったかわからないスナップを見つけてきて編集して、自分の作品として発表する」という例も出てくる。「写真家=撮影者」という常識(?)を砕いてくれる。
あるいは、写真の「一回性」を実感させるワークショップ。お題はこうだ。
「あなたの好きな写真集の中から1枚の写真を選んで、それがどのように成立しているかを言葉で説明し、次いでその1枚と同じ構造の写真を撮影してください」錬金術の基本「理解、分解、再構築」を思い出すが、そう上手くいかない。たとえば、荒木経惟の作品の場所を特定し、徹底的に研究して、同じアングル、同じ時間帯、同じ天候下を狙って撮った一枚がある。比べて載せているのでわたしにも瞭然だ―――まるで、いや、ぜんぜん違う。構図や露光も(たぶん)カンペキに真似たはずなのに、面白いほど違っている。
荒木さんがあの雨の夜に撮影した写真は、あの時、あの場所でしか撮ることができなかったものなのです。それが写真にとっての真実=リアルなのです。写真にとっての真実=リアルとは、光画のコピーではないことは分かった。では、写真の「一回性」は再構築不可? と短絡するのかというと、そうではない。ポイントは、「どのように成立しているか言葉で説明」というところ。自分の言葉に置き換えることで、その写真をどう理解しているかいったん抽象化し、それを元に「自分の一枚」を撮る。上手くいった作品があるので、ぜひご自身の目で確かめてほしい。お手本とは違う被写体、場所だが、同じ構造の写真だということは即分かる。
見る専ばかりで距離を措いていたカメラに、思わず手が伸びる。撮るのにも見るのにも、自由になる一冊。

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