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怒りながら戦きながら読め「犬の力」

 メキシコ麻薬戦争が酷いことは、ニュースとして知ってた。

 麻薬カルテル同士の縄張り争いだけでなく、メキシコ政府と麻薬カルテルとの間で起こっている武力紛争で、失われる人命の数だけでなく、「殺され方」もエスカレートしている。四肢を切断して橋からぶら下げ曝したり、見せしめのためにチェーンソーで文字どおり"破壊"する映像もある。"当局の腐敗"といった陳腐な説明を受け付けない。革命組織によって管理された、政府と麻薬カルテルとの永年の暗黙の了解が根っこにある。「金か命か」といったドラマ的二択ではない。裁判官や検察のオフィスまで浸透しており、自分だけでなく家族親族の命まで懸かっているから。

犬の力上犬の力下

 これを超一級のエンタメとして小説にしたのが、「犬の力」だ。過去30年間のメキシコと合衆国に跨る麻薬犯罪を精確になぞり、もっと大規模な政治権力の陰謀を張り巡らせ、実際に起きた革命、反革命、暗殺、暴動、紛争を錬りこんでいる。イラン・コントラの陰謀史に陥らせないのは、キャラクターの「怒り」だ。

 麻薬捜査官、麻薬カルテルの後継者、高級娼婦、殺し屋たち…どいつもこいつも怒りまくっている。義憤か、怨恨か、欲望か、嫉妬か、理由はともあれ彼/彼女らは己が怒りをエネルギーに突き進む。その軌跡は、からみ合い、よじれ合い、ぶつかり合い、上下巻を一気に疾走する、ドッグレースのように。呼吸を忘れる怒涛の展開に、ページターナーな読書になるぞ。

 それぞれの怒りは、読み手のハートを直接揺さぶる。主人公と一緒に怒るのもよし、(自らの良心の命ずる)拒絶反応に痺れるもよし、凄惨な場面を安全な場所から眺めることに感謝するのもよし。ドンデン返しのくり返しに、共感が反感、反発が同感にどんどん変わるので、自分の立ち居地が揺れるぞ。正義の味方だった奴が私怨に狂ったように衝き動かされ、ワルの元締めのはずが人間味あふれる態度を貫こうとする。善玉悪玉で色づけしようとすると、間違いなく弾き飛ばされるのでご注意を。

 良い意味でも悪い意味でも、わたしの思い込みを裏切ってくれるのは、主役である麻薬捜査官の変節だ。職務に忠実であろうとすればするほど、"インサイダー"として捜査対象にも深く潜入する必要がある。ときには敵方と"手を組む"必要も出てくる。巨悪のために小事に目をつぶるといっても、その巨悪を上回る悪を、しかも自分の背中に見いだしてしまったら―――彼の苦悩が、怒りが、手に取るようだ。この怒りが胆力に注入されるとき、「犬の力」と呼ぶのだろう。

 旧約聖書の詩編22章20節から、本書のトビラに、こう引用されている。

   わたしの魂を剣から、
   わたしの愛を犬の力から、
   解き放ってください。

 苦難と敵意にさいなまれる民がその窮地からの解放を神に願うくだりで、剣も、犬の力も、民を苦しめ、衆をいたぶる悪の象徴という意味で使われている。訳者はこの「犬の力」を、悪に立ち向かう武器としての悪、すなわち怒りとして定義する。だが、わたしには悪に立ち向かう捜査官も、悪を背負って立つ麻薬王も、同じ犬の力に支配されているように見える。紆余曲折・騙し騙されを経て両者は真っ向激突するが、寄って立つ所が違うだけで、驚くほど同じ匂い・同じ衝動を秘めている(ホンネを吐露するシーンで、全く同じ幸せを願うところなんて、ものすごい皮肉だと思うぞ)。

 さらに、麻薬戦争を激化させている原因を経済学的に解く件なんて、皮肉以外の何ものでもない。莫大な税金をかけて、合衆国が麻薬取締りに血道をあげればあげるほど、麻薬カルテルは好きなだけ稼ぐことができるというのだ。

今の状態なら、麻薬の移送には何百万ドルもかかるので、いきおい価格は天井知らずになる。簡単に手に入るはずの品物を、アメリカの捜査官たちが貴重な商品に変えてくれているわけだ。きびしい取り締まりがなければ、コカインやマリファナはオレンジと同じようなもので、おれは密輸で何十億ドル稼ぐどころか、どこかの畑で賃仕事の摘み取り作業でもしていることだろう。
 政界と麻薬業界との癒着構造や、警官の汚職ネットワークを「バーガーキング」のフランチャイズ方式になぞらえたり、麻薬と武器のバーター取引を、「ポートフォリオ」として評価することで、この麻薬戦争をメタな目で見ることができる。これは、れっきとしたビジネスなのだ。

 カドカワは「面白ければ、なんでもあり」。エンターティメントだけを追求する、節操のなさは大好きだ。その節操のなさは、本書で十全に発揮されている。冒頭に、読者を試すかのような、酸鼻を極めるシーンが並んでいる。これが大丈夫なら、後は一気に読むべし。

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