完璧な酔い、剥き出しの知覚 : 中上健次「奇蹟」
ひさしぶりに、したたかに読った。この体感は非互換、中上健次ならでは。
読むとは酔うこと、読みごこちは、酔いごこち。しかも、水の如き流行りの文芸ではなく、いつまでも微醺の日々が続く、中毒性の高い文学だ。いつまでも酔っていられる、その世界を引きずって生きている感覚。さながら作中の魂が半分わが身にのめりこんでいるかのようなn日酔い。
極道タイチの短く烈しい生涯が紡がれる「物語」として読み始めるが、これが曲者。語り手はこの世に居ないか、意識を喪失しているから。老いたアル中の混濁した意識が作り上げた「語り」にしては、神じみて微に入り細を穿ちすぎている(あぁ、でもラストに至るに菩薩じみてくるから"神視点"は合ってると言えるなぁ)。
タイチの闘いの性は、わたしの肌を粟立て、同時に淫蕩の血をかき立てる。潮騒に鼓動がシンクロするように、語りのうねりはわたしの感能をざわつかせる。輝ける生の盛りに迎える凄惨な死は、(予告されているにもかかわらず)、忘れられない一瞬となった。金色の小鳥に囲まれて、香気をふりまきながら滴る血とともに転落してゆく黄金の刹那は、あまりにも美しい。見てもないのに見て"居た"ような眩暈を味わう。
これは小説でしか描けないし、小説でしか受け取れない。映画や舞台などの別フォーマットへは、プロットだけなら移せるが、まるで別物になろう。とりわけ、酔うように読む、物語に呑まれるしかない読書体験は、比べる作品が限られてくる。フォークナーの意識の流れ=地の文とか、ポリフォニックなドストとか、ウルフのつぶやきに満ちた世界をひきあいに出したくなる。
語りに語りを被せてくる口当たりは、決して優しくないし、酔い覚めは必ずしもスッキリしない。読書は、やはり毒書なのかもしれない。おすすめいただいた佐藤さん、ありがとうございます。
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コメント
『隣の家の少女』
に匹敵するのではないかと思われる小説
『ロマン』/ウラジーミル・ソローキン
をオススメしたいです。
投稿: | 2012.06.08 00:01
>>名無しさん@2012.06.08 00:01
ありがとうございます!「ロマン」は、幾度も借りては読み切れずに返している作品です。
ソローキン「愛」が凄まじい破壊力を持っていることは知っているので、それ以上だと予想しています。
投稿: Dain | 2012.06.08 06:44